視聴したMVの話05【explicit】(幼年期と夢)

VRゲーム『ホラーSENSE ~だるまさんがころんだ~』(PSVR版2019)などが私に幼年期を想像させた。思い出させたと書くには変形の度が過ぎている夢に浸る。記録と照合可能な記憶と称するには心許ない。MVを視聴しながら、別の情景が想起される。突飛でフェティッシュな連想からなる享受は制作者の想定するコンテンツの使用用途を逸脱する享受も生むが、「顧客が本当に必要だったもの」を開発するようにしてイメージが創られるべきか、そしてそうした仕様書に合わせた享受が最良かは議論の余地があるだろう。たとえ人間の精神の在りようがコンテンツの動作保証環境として分析されるような世界では記憶への執着を享受時の不具合の原因と見る方が妥当だとしても。

前回

Mykki Blanco『Lucky』2019

おしくらまんじゅう、プールの渦巻き。――いつのことだったか、身体の各器官が擬人化された寓話を読んだことがある。たしか「口」や「手」が自分たちと異なり働いているように思えない「胃」に立腹し、食事という動作に協力しなくなるのだが、その結果栄養不足でうまく動けなくなってしまい、それまで沈黙していた「胃」が自身の行っていた消化吸収という仕事の大切さを説きだすみたいな内容だった(「胃」はえげつない振る舞いをすると感じた)。そういった物語からの影響か、身体がままならないとき、思い通りに体を動かせないと考えるよりも各器官が争闘していると捉えがちだった。

コンタクトインプロビゼーション(いわば「おしくらまんじゅう」)を鑑賞する(あるいは体感する)とき、各器官の争闘の塊に重なって、この身体という輪郭が成ってもいる事態と、身体がひとつの群れという相貌を成す事態とを、パラレルに捉えられるよう促される気がする。『Lucky』の映像では天麩羅の「かき揚げ」めいた結合と、絵本の「スイミー」めいた流動との、ふたつの群れ方の構図が少なくとも見出しうる。ただしそれだけではない。中央のスターと周縁のモブに生と死が重なる危うい構図も見出される。

身体群をひとつの身体に擬するアナロジーは(「政体」というよりボディ・ポリティック)、各器官に見立てた上意下達めいたヒエラルキーや従うべき全体主義的指令の比喩を持ち込む点では危険だが、争闘する諸力の塊としての動きを洞察し予期することの意義を教えてくれる面では役に立つ。社会の歯車か一匹の獣か、という二者択一は誤りで、私は獣であり歯車であり培養地でありアカウントでありモノであり……、同じひとつの身体動作が、別々の意味合いを同時に発揮していると意識する。それで変えうることもある。

室内楽のうち、弦楽器や鍵盤楽器の音に、私は少し執着を覚える。ダーク・ルナシー「Dolls」や、Buka「Danse Macabre(ft. Rahim)」などにはじめて出会った時の記憶が活性化する。『クインテット』などが放映されていた頃に、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をどこかで耳にして以来、少し執着を持つようになった。もっと幼少の頃に視聴していた『ファンタジア』の記憶がもたらす情緒も、この執着の底流にあるのかもしれない。

IC3PEAK『Смерти Больше Нет』2018

アルプス一万尺、フラフープ。――ベールイ・ドームをはじめとする様々な背景の使用もあってか、IC3PEAKが自身の音楽活動を行政側(警察側)から妨害されるようになったきっかけとも見られるMV。ロシア語に疎い私は、例えばこういったブログ記事を見ながらそういした事情を眺めたりもする。

ロウブロウやポップシュルレアリスムの中に見出されるゴス感や幼年期感に対する自身の趣味を時折考える。どちらかと言えば、戸川純を聴くときよりは、ALI PROJECTを聴くときの心持に近い。私の並べ方は、例えばIC3PEAKとビリー・アイリッシュを並べるのにも似た「わかってなさ」があるかもしれない。幼年期に幻想・怪奇・ホラー的な作品に触れていた私自身の来歴が、幼年期と悪夢の近しさを自明なものに思わせている面もある。日常と幻想がごちゃごちゃになる。誰かにとっての日常が誰かにとっての幻想であったりする。巖谷國士(文)上野紀子(絵)中江嘉男(構成)『扉の国のチコ』を、私は、いつだったか、読んでいたのだった。谷山浩子の掌編「ガラストマト」や、原田宗典『0をつなぐ』を読んでいた頃のことも、安倍吉俊『リューシカ・リューシカ』を眺めていた頃のことも、それぞれに思い出す。手遊び歌や、フラフープに興じた幼年期のひと時もまた、思い出されもする。

森羅万象『無意識レクイエム(Vo. あよ)』2018

とおりゃんせ、電話ごっこ、人形遊び。――香月日輪の「地獄堂霊界通信」シリーズで童歌「通りゃんせ」が歌われる話が確かあって、だから、一度も遊んだことのないこの歌に私は馴染みを感じもする。ゲームの『夜廻と深夜廻』の雰囲気を思い出しもする。虚構のノスタルジー。偽の思い出。「架空の空」(cosMo(暴走P)『感傷マゾヒスト』)があるように、架空の夜があり、私は自分の夜を架空の夜に仮託しているのか、架空の夜に寄せて自分の夜を思い出しているのか少し曖昧になっている。アガンベン『中味のない人間』の、レディメイドとポップ・アートの話を思い出そうとしているが、思い出せない。思い出のコンテンツ化とコンテンツの思い出化の一環として私のホラー趣味を考えることは、たぶんできる。ベンヤミンを再読したい。

slowthai『feel away ft. James Blake, Mount Kimbie』2020

食事になること。――四肢に相当する部分を入刀され食べられているケーキを見るとき私は森の中で獣に食われていくのをよしとする夢を見る辻風黄平の姿(井上雄彦『バガボンド』)と諸葛亮の指示でつくられて川へ沈められていく饅頭たち(横山光輝『三国志』)のことを同時に思い出す。アニメや漫画における原形質的な身体をマテリアルに体現するものを考えようとするとき、人型の菓子は粘土でできた人形のように映りもする。

Melanie Martinez『The Bakery』2020

菓子になること。――粘土のように加工できる身体。それはスポンジケーキと「スポンジ・ボブ」を関連付けてるがごとき強引なイメージの操作かもしれないけれど、アンパンマンなどによって馴染み深くなっているとも思える連想の筋だったりする。フレキシブルさをマテリアルに体現する身体の幻。シュヴァンクマイエルの『対話の可能性』や『フード』を観た記憶を想起。同じくメラニー・マルティネスだと『Mad Hatter』で見た、溶けていく人形たち、食事の場面なども記憶に残っている。――ニャッキ、パルタ、ぶーばーがー。口を利く食材の話。昔、誰かが私に口を開けたままでいるよう指示をした。食材たちが(私の口腔内に)次々と多重遭難していくという寸劇が始まる。口の中に運ばれた具材を私は吐き戻す。――自由連想をし過ぎた。擬人化された料理の具材が口の中で次々力尽きていくというイメージから私はまだ脱せていない。20年以上前に一度起こっただけの出来事なのに。

Halozy『サイバネティクス・リズム(Vo. emaru)』2010

水たまり遊び。――雨水がガラス窓に当たり流れ落ちていく様子を私はよく眺めていた。佐野洋子『おじさんのかさ』を読んで雨のたのしみ方を読んだ気持ちになったこともあった。雨水は汚いという話にも、酸性雨の問題と共に触れていったりもしたが、今でも雨を嫌いになってはいないらしい。

マインクラフトやレゴブロックの建造物のような身体像、寄生獣や遊星からの物体Xの怪物のような身体像、それらが混ざり合って自分のなかにある。現にあるこの身体はもちろんどちらの像にも収まらないが、身体のなしうることを考えなおすときこうした像は私にとって重宝するもののようだった。

Creep-P『Exorcism ft. Cyber Diva』2016

悪魔祓い。――フリードキン映画の『エクソシスト』がオマージュ元。歴史性を欠いているかもしれないが、「心の中の天使と悪魔」とかいった寓意がそこら中にある環境は生きていたから(また「魔が差した」なる慣用表現がある環境で生きてきたから)というのもあり、悪魔憑きや悪魔祓いイメージも狐憑きや狐落としイメージと同じ程度には(同じ程度に限って)見知ったものとして自分にはある。子供の頃、悪いセリフが頭の中に浮かんだら自分で自分を殴っていた時期がある。「悪魔」イメージに感化されていた度合いはわからないが、瘴気を清めるという発想と瘴気を追い出すという発想が、己を罰するという発想と混ざり合った結果の自傷行為だったのではないかと思う。けっこうすぐに、自分を殴る姿を見咎められてやめさせられた。曲のサビの「I need an exorcism」の反復はボカロ的な音声だからこそ映えている気もする。ホラー系のインディーゲームに触れるときに近い心持になった。

suzumoku『笑う耳鳴り』2017

犬、箱。――2009年に解離性障害を発症して失踪したsuzumokuが、2017年の3度目の失踪と長期休養のお知らせの後に発表したMV。なおsuzumokuは翌2018年に引退を表明している。私はpe'zmoku『アノ風ニノッテ』などにまず出会って、そこから『蛹 -サナギ-』なども聴き始めた。

子供の頃、体高が自分の当時の背丈と変わらない犬に跳びかかられて、逃げたけれど捕まって、顔を舐められた。ほんとうに怖かったようだ。犬や猫には、理不尽な話なのだが、まだ警戒してしまうことがある。けれど友人知人の犬や猫が怖くて嫌いかと言えばそうでもないし、たぶん今なら、撫でたりもできるかもしれない。このMVの中のアニメーションで犬に襲われる人間の姿を見ながら、それを思い出していた。予測変換の使い方もうまかった。

狭い空間と自分以外誰もいない空間は落ち着く。かくれんぼが好きだった。安部公房の著作から名前を取った電波少年シリーズの「箱男」を思い出しもする。簡易トイレ付きの120cm×120cm×120cmの鉄製の箱に川元文太を閉じ込めてから箱を溶接するという企画だった。TV放送で時々見かけていた。

神聖かまってちゃん『るるちゃんの自殺配信』2020

仮面。いまYoutube上で視聴しようとすると「次のコンテンツは、一部の視聴者にとって攻撃的または不適切な内容を含んでいると YouTube コミュニティが特定したものです。/ご自身の責任において視聴してください。」と表示される(2月25日時点)。笑う顔をつかむとそれが仮面で、真顔が露わになるという、一秒ほどの場面があって、印象に残っている。ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』の文庫本の表紙に使われているアンソール「仮面の中の自画像」など、仮面(の絵)に私は執着がある。頭身や描かれようの不安定さは、ボイスチェンジャーで仮構された声の不安定さと通ずるところがあるようにも感じる。一時期『Os-宇宙人』をずっと聴いていたからMVでポップする歌詞を眺めていたらその頃のデータや情緒が想起されもした。

King Gnu『白日』2019

白。――白内障と診断される少し前の頃、どうしても文章が読めなくて疲れで目が滑っているのかと思ったら片目の視界に歪みが走っていてそれで読めなくなっているのだと気づいた瞬間があった。片目の視界が白く濁っていくなかで白内障だとわかって落ち着いたが、原因がわからなかった時期は、両目がこうなったら、もう文章は読めなくなるのだろうかと意識させられたりもした。とても即物的なのだがだから私はこの歌を聴きながらいずれ手術で取り除くことになる混濁した水晶体のことを思ったりもする。とはいえこの歌詞は「誰か」、人を念頭に置いているはずだし、「戻れないよ、昔のようには」や「真っ白に全てさよなら」などの断片を私は偏執的に取り扱いすぎかもしれない。――連想は中断。元々は、幼年期とホラーに関して書こうと思っていた。何だか違う話になっていた。

なんで幼年期とこの話が自分の中で結びつくか不明瞭だったが、思い出したことがある。小学生の頃に撮ったプリクラで、片目を怪我して、眼帯で白く四角く覆われた顔を、私はさらしていたのだった。目と白。子供時代。

[了]

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