視聴したMVの話07(幽霊とドット絵に関する短い雑感)

最近視聴したMVの記録と雑感。前回は以下。

この前、PEOPLE 1の1stアルバムの発売発表があって、MVを視てました。

PEOPLE1『ゴースト』2021

PEOPLE 1『PEOPLE』2021

最近なにやってるの、って年下のひとに訊いたらドット絵のゲームやってると返ってきて、ツクール系のRPGとかマリオのRTAとかは動画で視てたからそんなものかな、って思ってたんですけど、こういうMV観ると、いまドット絵という語に含まれる質感、こんな感じなのかもと思ったりして勉強になります。私はドット絵っていうと槇原敬之『軒下のモンスター』2011を思い出すんですが、このMVとちょうど10年違いなんですね。

『軒下のモンスター』のひとりぼっち感、望んで得たのではない孤独をそれでも偲ぶノスタルジーって私には忘れがたいもので、それを分かちあえるような表現で形にするのは、すごい技だと感じてきました。言ってみれば〈あのときは殺さざるを得なかった自分〉を想うためのレトロ的な紋切型。で、PEOPLE1『ゴースト』2021の歌詞「嫌だったことが少しずつ出来るようになる/そのたびに少しずつ透けていった」とか「書き割りみたいな 鮮やかな日々のありふれた感傷よ/さよならヘイヘイヘイ」とかを聴きながら、私はそんな風に『軒下のモンスター』を聴いていた時期を追懐していました。

もちろん『ゴースト』の幽霊感は『軒下のモンスター』のそれというよりもやくしまるえつこ『ヤミヤミ』2012のそれに、つまり失いつつあるイマジナリーフレンド(あるいは想いびとの影)のようなものを恋しく懐かしむことに近い感じがしていて、世間に合わせていたら消えてしまった自分の分身を偲ぶモードに寄っているとも思い、それゆえ、押し殺そうとしても押し殺せない己を「親を泣かせることも心に嘘をつくのも嫌なんだ いっそ妖怪にでもなって君を軒下からただ見ていたい」と世間と相容れざるをえないかもしれない者として唄いあげる『軒下のモンスター』の凄みを構成しているようなパッションと同一視するのは躊躇われますが、しかし通ずるところもあるとは思います。言ってみれば手放しがたくも語りがたいものの孤独な追懐とでも呼ぶべきモードで、つまるところ、ノスタルジーなんですが。

『軒下のモンスター』の注。この歌の核には「普通に結婚して子供を何人か授かって/それ以外は幸せとは誰も信じないようなこんな街で」というように「街」への堪えがたさが歌われているわけですが、これを保守的な家族観が幅を利かせる〈田舎町〉はイヤだった(そこをサバイブして今は〈都会〉に辿りついた)、みたいな歌だと捉えるのは一面的だと私は思っていて、大事なのはむしろ「それ以外は幸せとは誰も信じないような」だと私は理解しています。切り分けはすごく難しいのですが、思想や価値観を抑圧の箱か解放の箱かに分類するみたいな姿勢ではうまく捉えられない気持ちがあると私は思っていて、それが「親を泣かせることも心に嘘をつくのも嫌なんだ」。親は邪教の徒だから縁を切れば解決、みたいな話じゃないんですよね。これはパラノイアックかもしれませんが、「普通に結婚して子供を何人か授かって」みたいなことをいう「親」とは縁を切れと気軽に公言するひとも、そのひとなりのあるべき「普通」を奉じていて、別の「それ以外は幸せとは誰も信じないような」街の住人なんじゃないか、と私は疑ってしまいがちです。

私は〈ドット絵〉化を〈解像度を下げること〉だと理解していて、それはそのままでは生々しすぎて臭みがありすぎる情念をパッケージにするテイストなんですが(文章技法で言うと行間に余韻を込めるとか黙説法とかに近いやつで、漫画で言えばセリフもナレーションもないけど深みが出ているコマみたいなものです)、それは一面では代替肉のようだし他面ではカフェイン抜きのコーヒーみたいだと感じるんですけど、総じて不要だとは思えなくて。

それでも、例えば何らかの"アップデート"のたびに"お気に入りのアーティスト"の人名リストから然々の名前を足したり削ったりするのを繰り返していると、ふと赤の広場の写真からトロツキーなどを消していく作業に従事するひとはこんな気分だったのだろうかみたいな心持ちにもなって、そして『ゴースト』の歌が沁みてくるんですよね。

[了]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?