日本の最近のラップ音楽5つ

レギュレーション

・各ジャンルないしカテゴリごと、各5点のコンテンツを紹介
・2019ー2023の5年間のコンテンツに限定

以上のレギュレーションでボカロ曲やネット小説も合わせて4ジャンル20点ほど準備したのだが、コメントを書いているうちにラップ曲だけでやたら長くなっていたので、独立した記事にした。なので少なくとも後、3つはネタのストックがあり、定期的にこのフォーマットで記事をアップロードできたらいいなと今は思っている。


ラップ音楽(MV)

DJ CHARI & DJ SHINTARO - UZUMAKI feat. ゆるふわギャング, OZworld & Masayoshi Iimori 2023/01/29

ゆるふわギャングがMVで打ち出すビジュアルには関心を寄せてしまう。二人の動画はそういう表象のネットワークをかなり意識している気がする。
例えばサムネ画像でも確認できる、今回NENEがとっている千手観音のポーズからはおそらく、以前「地獄絵図」(2020/09/29)に客演で参加してたNIPPSや「MADRAS NIGHT PART 2」(2021/10/19)に参加してた鎮座DOPENESSのとっていた胡坐をかいて瞑想する姿(結跏趺坐?)が想起されるはずだ。
また冒頭で映る縁日の会場感のある空間も「MADRAS NIGHT PART 2」っぽいのだが、そちらの動画に出演していたにしくんが当時CBDエバンジェリストを名乗っていたのを思い出すと、今回の動画でのゆるふわギャングの二人がOKBOY&Dogwoods「ZIZIOMAGANJA」(2019/05/01)の二人を彷彿とさせるルックスにしていることにも含みがあるように感じられてくる。
とすれば「UZUMAKI」で車座になった5人の姿を見たときに自分が、山本直樹の漫画『ビリーバーズ』(単行本2000)やジェイミー・バートレットのルポ『ラディカルズ』(翻訳2019)の第6章などを連想したこともさほど突飛な事態ではなかったのかもしれない。なお『ラディカルズ』については読書会「闇の自己啓発会」で扱ったことがある(このnote記事だ)。
ゆるふわギャング関連の話ばかり書いてしまったが、これを視聴した後は、同じくOZworldが歌っているAwich, 唾奇, OZworld, CHICO CARLITO「RASEN in OKINAWA」(2023/05/11)も一緒に観たくなる。というか視聴していた。

7 - 畜生 2022/09/03

中村美律子「島田のブンブン」(1993)のイントロが曲に編み込まれている。というよりはコウメ太夫が口ずさむあのメロディがと形容するほうがわかりやすいと思う。
東京五輪の頃(2021年8月)にコウメ太夫のツイートが尖っているなと思ってnote記事を書いたことがあったのだが、その際は記事冒頭に餓鬼レンジャー「チクショー!! feat. あっこゴリラ & コウメ太夫」(2019/03/27)を掲げてみたりした。
みたいな感じでコウメのネタの変奏として視聴したくもなるのだが、それがこうコンシャスな感じかつポリティカルでカッコよい曲のうちに編み込まれている様子は、一視聴者として大変触発されるものだった。
歌詞も「人生の失敗者の説教はもういい 喫煙の場所もっと増やしてほしい 税金だけアホみたいに吸われてばっか 政治家さん一体何活動してるの」と直截にポリティカルでもあるし、「漫画みたいに物事進まない アニメみとは違うこの国は難しい」や「オタクみたいに病んでる 今は可愛いより可哀想が流行ってる」といったキラーフレーズには、題からして「畜生」とコウメのネタに寄せながらもそう歌われることも含め、批評的なキレを感じた。

D.O × Red Eye / 悪党の詩 REMIX 2022/07/03

2002年生まれのRed Eyeがラップを始めたきっかけがD.O「悪党の詩」(2012)だった、という感動秘話と合わせてひとに紹介してもらったMVだった。このREMIX以前から『悪党の詩 D.O自伝』(2019)が出版されてたり、当人を代表する曲ではあったけど、こういうREMIXが出たことで何というかひとりの人間のキャラ付けを超える意味をこの曲が明確に帯びるようになったんだななどとしみじみ思ったりする。まるで境遇が異なるはずの自分が感じ入るのも筋違いではあるが、2010年代なかばにこの曲をカラオケで歌ってたので、少しだけ思い入れがあったりする。
東谷義和が出演しているのもいろいろと考えさせられるところではある。何かこのまま世間の記憶から忘却されそうだから書いておくとNHK党から出馬して第26回参議院議員通常選挙で当選したガーシーは改憲について意見を求められた際に、個人的な意見として「憲法改正はほんまないと思ってます」「あれをしてしまったら日本が日本じゃなくなる」などと明言していたのだった。
そのような側面も覚えておく、というのは、個々人の言動、また人柄に対する加点や減点をすることに役立つというよりもむしろ、自分自身の他者への向き合い方が「お定まりのセットメニュー化」(鈴木大介『ネット右翼になった父』2023年、92頁)に陥ってはいないか、もしかすると自分もまた「価値観や思想が「定食メニュー化」している」(93頁)のではないか、との省察をする契機となる点で役立つのだ、と私は考えている。

Itaq- Morpheus 2022/05/06

「親じゃない 先生じゃない 他の誰じゃない 俺は俺の意思で選んだフェイス ただのきっかけ だけど怖くなる これで正しかったのか 神は俺を幸せにしてくださったのか 人生は自由なはずが最初から決められている プログラムでしかない 使命もった俺の存在」。この「Morpheus」の歌い出しは何かしら凄みを帯びている、と言っていいと思う。
それはItaq「Lil 宗教 Jr.」(2020/01/22)の次のような歌い出しの変奏である。「親じゃ無い 先生じゃ無い 他の誰じゃ無い 俺は俺の意思で選んだFaith ただのきっかけ 分かって貰えない事も仕方無いや だけど感じちゃってるエネルギー 第六感 この真実が無ければ俺は15で死んでいる どうぞ好きに言えば良い だけどそれでも俺は捨てない」。そしてItaqのこの曲は、いわゆる宗教2世の立場からの宗教(を信じていた親世代への)批判である、Marukido「Lil 宗教 Jr. feat. 宏洋」(2020/01/17)へのアンサーソングなのだった。宏洋が批判した宗教をItaqは信じると宣言する、という関係になっている。
Marukidoの曲はこのようなトーンだ。「とぼとぼいつも布教 バレた仲良いクラスメイト 教室でリンチ 親に助け求めイジメ相談 oh親の目は死んでる 宗教の解決法 みんなでお祈り why? why? なんでそうなる the fake religion らりらりらー」。Itaqの応答はこうだった。「Marukidoが殺されないように先に殺しとく ってのは冗談で真反対に見えて結論は一つ 信教の自由 だからI believe in it それが俺のパターン」。こう書くとItaqは護教的だ、という話になるだろう。それも誤りではない。端的に所属する宗教共同体の関係者を鼓吹し応援するような楽曲もItaqは発表している。
しかし、だからといってItaqが宗教共同体の中で居心地よく生きてきた類の人間だ、と考えるのは、誤りではないかとも思える。Itaqはこうも歌っていた。「曲を出し始めた頃 俺のあだ名は悪魔 宗教学校の敵らしいぜ 責められながら歩んできた人生」(Itaq「神に選ばれた男」2018/11/28)。幾つかの楽曲の歌詞を真に受けていく限り、Itaqは「宗教学校」でイジメを受けながらラップを始めて、周囲に「宗教学校の敵」扱いされながら歩んできたようなのだ。つまり「宗教学校」の中で孤立していたItaqは、しかし「15」歳から、ラップとともに信仰を支えにして、そこを生き抜いたように映るのだ。「定食メニュー」な枠組みのなかではうまく扱いきれず、すくいあげられもしないような、複雑なものの手ごたえがここにはあるように思う。
「15歳でレッドピルを飲んでから 1年の長さがあのときのまま 濃密な人生に多いトラウマ だけどその反面たくさんの学びドラマ」(「Morpheus」)という一節からも、また、そうした複雑な響きが聞き取られるべきなのだろう。もちろん「レッドピル」が――「マトリックス」シリーズを手がけたウォシャウスキー姉妹が望まぬ形で――いわゆるインセルやオルタナ右派のあいだで「真実に目覚める」符牒として使われてきた現実がある。しかしながらItaqが自身の男性性について歌うとき、それはしばしば自身の信ずる宗教に対するスタンスにも似た、複雑な響きを帯びることがあるのだ。
例えば『幸福』(2022/05/20)でItaqはこう歌っていた。「ふと気を抜くとあの人と比べ 手に入れたい女性 消せない男根的凶暴性 こんなのいらない こんなのいらない もし許されたら綺麗な心で恋がしてみたい」。確かに、これが望ましい男性性を述べた歌だとは言えまい。だが、反動的な開き直りには陥るまいとする葛藤がここで歌われているのも、また確かではないか。*
(なお服用すると真実の世界が見えるレッドピル、というメタファーは必ずしもインセルやオルタナ右派の専売特許ではない。例えばイギリスにおけるバディウ紹介者のひとりとしても知られるジェイソン・バーカーの監督作品『マルクス・リローデッド』(2011)のジャケットには、レッドピルを手にしたトロツキーのイラストが描かれている。そしてまた映画に登場する赤色の錠剤を、結合型エストロゲン錠(プレマリン)と関連付ける読解もあるようだ。長年、経口錠剤プレマリン0.625mgは海老茶色ないしワインレッドの色調で知られていたらしい。ただし色付きのプレマリン錠は含有量により色調が青や黄色だったりもするし、ファイザーメディカル・インフォメーションでプレマリン0.625mgを調べると白色の錠剤の画像が出てくる。またトランスジェンダー女性であり比較文学の修士号を持つ書き手のアンドレア・ロング・チューは、この記事で紹介されているように、今日、当人が経口摂取しているテヴァ社のエストラジオール2mgがアクアマリン系の錠剤だったというところから、マトリックスの別の読みかたを著作中で提示してもいる。)

しかしながら現在、音楽家というよりは生活者としてのItaqの、まさしく異性愛者の男性として女性に対してとった振る舞いに関して、非難が寄せられている。もちろん音楽と人生と信仰とを切り離しがたい仕方でItaqは生きていると思うので、曲について話す身としても、これは目を瞑って済ませうる話ではない。Itaqを知る人間が書いた、把握される限りでの経緯やその事態の映り方を書いた記事と(Itaqの咎を問うもているが、その内心の動きに焦点を当て、何がどう裏目に出たかなど論じてもいる)、Itaqとは無関係な立場の人間が書いた、把握される限りの経緯やその事態の映り方を書いた記事とを挙げる(宗教バッシングへの加担は戒めつつ、Itaqの振る舞いの咎を厳しく問うている)。私自身はと言えば、メディア越しに消息を知るだけの他人の人生に、どれくらいの思いがあるとき、どれくらい学んだ上なら、どんなふうなコメントをしてもいいものなのか、との自分のうちでの線引きが、この事柄に関してはどうもはっきり掴めずにいて、だから話を進めがたい。
話は人工妊娠中絶に関わるのだが、私自身が、胎児の私を中絶するように圧力をかけてきた祖母に私の母が抵抗したおかげで生まれてきたはずの人間なので(そう伝え聞いているので)、思うところは色々ある。が、差し当たりは、何かしらか取り返しのつかない出来事を背負うことになる人生も様々にあるだろうとしか言えず、また、そういう出来事を背負って生きる人間は、そのことへの応答として何をこの世界にもたらすのかが深く問われるのだろう、としか口にできない気がしている。
生まれること生み出すこと死ぬこと死なせることは、ほとんど贖いえない、取り返しのつきがたい出来事なのではないか、とは思っている。でもこれが第三者から賛同されるべき考え方、感じ方なのかも、わからない。そして、フィクション上でのみならずリアルな人の生死ですら軽々しくもてあそばれることがこの世界にはあり、自分さえもそちら側に立つことがこれから絶対ないなんて到底言いきれないとの懸念も、私は消し去ることができない。
ただ、これだけは。『Morpheus』『幸福』また『INITIAL I』(2021/11/30)などのリスナーであり、少なくとも一度、これらのMVに聴き入った瞬間を持つ一個人として。ラッパーとしてのItaqに対し、外野から無責任な要望を言えば、先に挙げた楽曲に通底していたように私には感じられていた、自分自身の中核にあるはずの大事なものすらも省察に晒すのを辞さない、ヒリヒリするような生の感覚、それに根差すところのよきものをいっそうつくっていき、そして、よきことをいっそうなしていってほしい。そう願っている。
結びに『INITIAL I』の歌詞を引用する。「いくつかのコミュニティの板挟み 別に裏切りたかった訳じゃない 息の詰まるような黒い塊 他に出来る人がいないはたらき 十字架のついたメリケンサック 散弾銃にアールオーマーク ベンチを温めて力尽きるくらいなら志願する汚れ役 気付けば長い年月が過ぎ とうとう誰かにとっての希望になった 俺がもう一度立ち上がることでしか助からない人も居るんだ[……]神の子を名乗り神の子と呼ばれ
仮面は壊れた 嘘吐いちゃダメ 一生費やす程に重い宿題 約束を果たします INITIAL I 逃げ道なら幾つもあったのに「はい」を押し続けてしまった
渋谷を突っ切る那須ナンバー 今にも剥がれそうな初心者マーク 天国に居ても救われはしない だから迎えに来たたとえこの街が秩序を失っていたとしても 俺らの足で進むしかないし居場所は俺らで作るしか無い 修行者は俺の事が嫌い 最後まで果たしますINITIAL I」。思えば、リスナーとしての自分が今のItaqに言いたいあれこれは、実はこんな風に過去のItaqが言葉を尽して述べていた内容である気がする。私が今回のことで一番深く思うのは、Itaqが「一生費やす程に重い宿題」をまた新たにひとつ、あるいはひとつ以上、Itaqが背負ったように外野からは映った、ということだ。リスナーである限りの私もやはりまた何かしら新たに背負った気がするので、だから、これで十分かどうかは自信がないけれど、いま自分なりに尽くせる限りの言葉を、書こうとしている。様々がよくなっていくことを本当に祈っている。

LIBRO-花道 feat.小林勝行 2019/04/16

「耳に胸にぬくもりなみなみ注いで ひらめきをつないでく旅のついで かきとめた一言一句がおもいで どこからどこへといまここに着いて」……。こんな風に始まるLIBROのフックと、小林勝行のバースからなる曲だ。
LIBROのアルバム『風光る』(2016)に所収された曲のようだが(発表当時のLIBROのインタビュー記事があった)、このMV自体はドキュメンタリ映画『寛解の連続』(2019)の公開に合わせて制作されたらしい。そのため変則的ではあるが2019年のコンテンツとして扱う。
『寛解の連続』はどんな映画だったのか。監督へのインタビュー記事ふたつと、鑑賞した人物ふたりの記事を、それぞれ挙げる。

 1.「光永惇監督が語る、ラッパー・小林勝行のドキュメンタリー『寛解の連続』 「祈りがラップになる」」『Real Sound』(株式会社blueprint)2020.02.14
 2.「映画「寛解の連続」光永惇監督に影響を与えた3冊 生きることを肯定したくなるものを作りたい」『読書好日』(朝日新聞社)2021.04.27
 3.草冠結太「元・宗教3世が観た、映画「寛解の連続」【ネタバレ注意】」『note』2022.08.13
 4.金在源「『寛解の連続』光永惇」『NOBODY』2022.08.29

小林勝行もまたItaqのように己の信ずる宗教に根差しながらラップする歌い手であり(Itaqとは別の宗教を信じているようだが)、また自身の男性性について考えながら言葉を紡いでいるように映る。LIBROによるこの曲のなかでは他の曲のような露骨さはないが、「今世」また「胸中」「着実に咲く」のような語でバースのなかに宗教心が溶かし込まれているように聞こえる。
このラップの内容は、土地土地を巡りながらライブをし、その旅のさなかにまた言葉を紡いでいく、そのようなラッパーの姿を歌ったものであり、いうなれば吟行のようなものだとも評せるかもしれない。ただし観光に行って詩情を得るというよりは、旅する己のなかから詩歌を編み上げていくようだ。
ここではラップをすることとラッパーになることとが絡み合っている。文学をすることと文学者になることとが、哲学をすることと哲学者になることが絡み合うように。アートをすることとアーティストになることや演劇をすることと演劇人になることが絡み合うように。創作をすることと作家になることは絡み合う。作家になること自体が創作の一環になったりもする。でも、そういう人々だけではなくて、数学をすることと数学者になること、科学研究をすることと科学研究者になることもまた、それに管理をすることと管理者になることや掃除をすることと掃除人になることなんかもやっぱり、同じように絡み合っているはずで、要は、生活して何かをするとは生活を通じて何者かになることであるし、そして何であれ自分が成った何者かに相応しい何かをどんな風に、いかにしてなすのかという問いが何者になったとしてもついて回るのだ、と思う。そんな風にして朝朝暮暮、私たちは銘々に私たちらしくなることをやりなおしているし、そしてそんな私たちに値するのは、私たちが取るべきなのはどんな振る舞いなのかという問いを否応なく課せられており、さらにそんな問いに気づくと気づかざると己の生き様でもって、答えを出しなおし続けている。職業だけでなく、氏育ち、国籍などに関しても事情は同様で、それに例えばなにがしかの性、例えば男性を生きるというのも、こうした観点からもまた捉えられる事柄であるように現時点の私には思われる。
要するに、こう言えるだろう。生きるとはそもそも、こんな絡み合いをなんとかしてうまくこなしていくことなのだ。しかし、いつでもどこでもわかることができるはずのそんな事実を人々に改めて思い起こさせてくれるような振る舞い、出来事というのは実のところ稀であり、それゆえに例えば、このLIBROそして小林勝行のラップのように、それをなしとげているのではないかと感じられる作品に対して、凄みなり卓越なり、美的な感動なりといった何かがあると口にする人間が、例えば自分のような者が発生するのだろう、と思ったりもする。ゆえにその作品の享受は万人にとって素晴らしい体験になるはずだ、などと言えるのかについては疑問があるというか無理があるとも思っており、というのは自分が覚えるこのタイプの感動は、それが私自身にとって馴染むし安心すると感ずる対象との出会いで起こるときも、そうでないときもあり、むしろ何でこんなものと私は出会ってしまったのだろうと口にしたくなるような悪いはずの対象との出会いで生ずるときもあるからである。それだけが理由じゃなかろうとは感じるけど、美学なるものの存在意義って、私にとっては、こういう自分で思う道義的良し悪しとはズレた仕方で圧倒や感興を覚えてしまったような事柄についても語れるというのが割と大きいのかもしれないな、なんてことを考えさせられたりもしたのだった。

(了)

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