あんこスレにおける運命論の運命1――導入:その魅力、環境、ユニークさの概説

【注意:やる夫スレ作品を初めて閲覧する際には、掲示板へのアクセスは控え、やる夫スレ作品のまとめサイトを利用するように強く推奨する。また、初めて読者参加型のやる夫スレ作品を閲覧する際に、一定の期間はROMる(自分は投稿せずに掲示板を閲覧する)ことを強く推奨する。その理由に関しては本稿の末尾で説明した。以上の旨を諒とせられたい】

以下では、やる夫スレ内のジャンル「あんこスレ」に関して論じている(連載第一回、本文8000字程度)。

1.あんこスレの魅力:臨場感、即興性、ダイス機能

私がやる夫スレを読み始めたのは数年ほど前のことです。とはいえ、その勃興期を代表すると称されている作品群、例えば「四大長編」などはすべて未読であり、読んでいる作品の数も大した量ではありません。『やる夫wiki』(https://yaruo.fandom.com/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8)というオンライン百科事典でざっくりと確認したところ、このwikiに個別記事が掲載されている全作品のうち、私が読んできた作品の数はその3%程度だがわかったことがありました(数え方にもよりますが、読了済なのは長短合わせておよそ200作くらいです)。やる夫スレ読者の方はご存知のことだと思いますが、やる夫wikiに記載されていない作品だけでも膨大な数に上ります(実際、私が幾つかのまとめサイトで読んできた作品群の名前は、wiki内の個別記事には記載がなく、作品一覧の記事にさえ登録されていないような作品も散見されました)。やる夫スレ全体を語るには私では力不足だと白状せざるを得ません。

ただ、少なくとも、やる夫wikiに記載があるうち、少なくとも84%前後の数の作品(130作程度)を私が読了してきた(2019年3月時点)ジャンルがあります。「あんこスレ」です。この場合の「あんこ」は、例えば『魔法少女まどか☆マギカ』の佐倉杏子といった、特定のキャラクターを指すものではありません。では、「あんこ」は何を指す語だったか。用語誕生の経緯は私には判然とはしません。やる夫wikiには「なお「あんこ」は「安価では無い」といった意味合いなだけで、「あんこ」という言葉そのものには特別の意味合いはない(アンカーを安価と表現するのと同じようなものである)」とあります(2019年3月時点。なお、「アンカー」とは、例えば2ちゃんねるのようなスレッドフロート型掲示板に投稿される短文、レスの番号を指定する表記「レスアンカー」のことを指す。通称は「安価」)。

ただし、一読者としては、ネット上のサブカルチャー用語である「安価」と「コンマ」(掲示板上に投稿された文章、レスに付記される時刻の、ミリ秒の表記を指す)の合成語であるかのように解する向きもあった――少なくとも、あんこスレを読み始めた当初の私がそうだった――ということを付言しておきたいと思います(また、安価とコンマがやる夫スレ創作にどのように関係してきたかは、第二回記事で解説するつもりです)。

あんこスレは、2006年から2007年頃勃興したとされるやる夫スレの中でも比較的後発のジャンルで、主に2014年以降に発達したものです。ブログ『"おもしろい"を記録する:いちメモ!』の運営者いちあきの記事では(https://www.ichiaki.com/yaruo-anko_osusume)、あんこスレの魅力を、「作者でさえ先の予想できない展開は、通常のやる夫スレに比べて臨場感があります」(「超おすすめのやる夫あんこスレ6選|熱烈歓迎とダイス監督の采配がすごい!」2017年11月6日初出、2018年8月30日改稿)と端的にまとめています。では、あんこスレというジャンルの「臨場感」は何から成り立つのか。それを手短に述べれば、(1)作者がある程度即興的に物語を制作していく点(「即興性」)、そして(2)物語の展開が分岐する際の選択を、(疑似)乱数の出力によって決める点(「ダイス機能」)、以上二点から成り立つと言えるでしょう。即興性とダイス機能により、あたかも、書き手の作為そして読み手の読解からは切り離された物語、自律している出来事、その自己生成に立ち会うかのごとき臨場感が体験できる。これこそが、あんこスレの魅力であるのです。

たんにそれなりの量を読んできた、というだけではなく、私はあんこスレというジャンルに属する作品に深く魅了されても来ました。その理由は作品の「臨場感」だけではありません。幾つかのあんこスレ作品は、私にとっては、フランス領アルジェリア出身の作家、アルベール・カミュの小説『異邦人』(原著1942年)と同じように、私の生というか実存に関わる作品でした(とはいえ、私の読んだ『異邦人』はフランス語の原著ではなく、窪田啓作による日本語訳だけですが)。しかしながら、幾つかのあんこスレが文学なり芸術なりの域に達しているといった権威付けをここでおこないたいのではありません。あんこスレは文学であり、芸術であると主張するだけでは、私が自分の好きな作品を権威付けたいだけではないかという疑いを、どうにも払拭できないように私には感じられます。

それゆえ、勇み足にはなってしまいますが、以下のように論じたいと思います。すなわち、私があんこスレ作品に感じた魅力は、その臨場感にもつながる要素、すなわち、作中人物の行動や、物語場面の展開が、幾つかの選択肢の中からランダムに選ばれていく(かのように感じられる)というこのジャンルの約束事、ひいては、スレッドフロート型掲示板で物語を制作するやる夫スレというジャンルの、そのユニークさに深く根差したものでもあるのだ、と。あんこスレ作品の中に、どのメディアに置き換えても通用するような魅力的なコンテンツが認められると主張したいのではなく、むしろ私は、あんこスレというジャンルの約束事、そしてその作品を発表する電子掲示板の仕様と切り離せないような仕方で、文学であるだとか芸術であるだとか言いたくなるような、魅力のある幾つかの作品に出会ったと言いたいのです。

次節ではこのジャンルの作品が成立する、環境を概観していきます。

2、あんこスレの環境:スレッドフロート型掲示板の仕様

あんこスレ作品を構成する約束事――それは即興的に創作されているとみなす、かつ、それはダイス機能を利用してランダムに物語を展開しているとみなす、という約束事――は、当該ジャンルの作品が発表される場、つまりインターネット上の電子掲示板の仕様を利用することなしには、ありえないものです。あんこスレをあんこスレたらしめる即興性そしてダイス機能が、当該ジャンルの作品が発表され流通され受容される環境を成立せしめる装置の仕様に、いかほど下支えされているのかを確認しておくことは、決して無駄なことではないでしょう。以下でそれを手短に確認します。

まずは即興性から。あんこスレに限らず、一般にやる夫スレにおいて感じられる即興性とは、作品を発表する媒体であるスレッドフロート型掲示板――例えば「2ちゃんねる」の利用者にはお馴染みであるような、比較的短い投稿が最終投稿時刻に基づいて上から下へと時系列順に並ぶ仕様の掲示板――の仕様を利用した修辞の産物である、と言えると思います。投稿時刻が記載された短文(「レス」)が連続するという形式は、連続投稿(「連投」)以前に作者が準備していたかもしれない種々の備え――大まかな筋や状況次第で採用する案のストック――への意識を閑却させ、一定の時間幅のあいだに、読者の眼前で物語が即興的に生成されていく、という印象を否応なく強化させます。一方では、あんこスレの即興性が読者の反応(レス)を物語に組み込む書き手のレス捌きにより生じる印象であることも確かです。――これもまたスレッドフロート型掲示板に固有の形式、作者と読者という階層が根本的に無差異である形式に由来します(これについても次回解説するつもりです)。しかし他方で、効果的なコマ割りがマンガにおいて物語内容の読みをも構成するのと近いような意味で、より基礎的な水準かもしれませんが、語りの形式が産み出す意味のようなものとして、番号と投稿時刻が記録され連鎖する各レスという表記形式がもたらすと見込まれる効果、掲示板の仕様が生産する時間感覚にも目を向けるべきでしょう。

また「ダイス機能」も、電子掲示板に実装された仕様により可能になっています。それは特定の入力で(疑似)乱数を表示する機能です。例えば、某やる夫スレ専用掲示板では、「!1d100」と入力して投稿すると、投稿された内容には1から100までの数字のうち一つが無作為に(感じられるような仕方で)出力される(例えば、「1D100:66」なら、上記の入力によって66が出力されたということになる)、といった仕様が実装されています。このような(疑似)乱数の出力は、物語が(事前に用意された選択肢の中からとはいえ)ある程度ランダムに展開させる(かのように演出をする)ための重要なポイントです。先に言及した記事にも実は、「あんこスレの特徴は作者さえも予想できない無茶苦茶なストーリーです。/しかし、ただ無茶苦茶するだけでなく作者さんが手綱を握り、上手く軌道修正されているのを見ると本当にすごいなと驚きます」(いちあき「超おすすめのやる夫あんこスレ6選」)とあります。

上記のような見解は範例的なものです。「ダイス機能」が出力する「予想できない」ランダムな展開をうまく肉付けしていく作者の卓越した技量こそが、あんこスレ作品を魅力的にしていると、しばしば寸評がなされてきました。作者は(疑似)乱数の指示に肉付けして物語を制作している、というわけです。このような認識の下で、あんこスレジャンルにおいて、「ダイス監督の采配がすごい」といった物言いが成立してもいるわけです。

ここまで、スレッドフロート型掲示板という場の仕様が果たす役割を強調してきましたが、私は、あんこスレというジャンルのユニークさを技術決定論的な観点でまとめあげたいのではありません。確かに、物語が制作され流通し受容される環境の考察、いわゆるアーキテクチャあるいはインフラストラクチャーへと焦点をあてた考察は、受容理論を深化する方面に向かうよりはむしろ、作者や読者は環境に一様な仕方で埋没しているに過ぎないと決め込むような、一種の短絡的な反映論に流れがちであるように思われます。例えば、作者の練り上げた物語を読者が読み込んでいるのではなく、誰でもいい誰かが制度やシステムに従って提供するコンテンツを受け身で読まされる読者がいるに過ぎない、などと論じることも困難ではないかもしれません。しかし、私はそのように論じたいのではありません。むしろ、私が論じたいのは、こうした環境を利用するところにこそ、作者(または読者)の介入する余地があり、そこにこそ、あんこスレに携わる人間の発揮する創造性の所在がある、ということです。

3.あんこスレのユニークさ:運命論的な主題の要請

それでは、あんこスレのユニークさ、創造性は、どのようなところに見出されるのでしょうか。やる夫wikiにはこうあります。「上手な作者によるダイス捌きは、まるで本来全くの偶然であるはずのダイスが全て伏線であったかのような見事な物語の展開を見せる」のです(2019年3月時点)。あたかも「偶然」の展開が必然的な「伏線」であったかのように見えること。魅力的なあんこスレ作品の特徴はここにあると主張できるでしょう。作品の創造性は、即興とダイスからなる偶然の展開を、事後的に必然であったことにする操作の巧みさ(ダイス捌き)によって測られるのです。

そしてこの意味で、全てのあんこスレ作品において、必然に転化するような偶然、いうなれば「運命」という主題を扱うことが、そのジャンルの約束事ゆえに要請されている、と言うことができるでしょう。先に触れたカミュの小説に寄せて述べるならば、魅力的なあんこスレとは、あたかも「「太陽のせいで」、すなわち運命の不条理によって殺人を犯すことを余儀なくされ、その結果これまた不条理な人間の裁きによって死刑を宣告された男の物語」(注1)である小説『異邦人』に登場するかの「男」、偶然というか無作為にさえ映る「行動を積み重ねてきた自らの運命を引き受け、凝視して[……]「幸福」を感じる」(注2)とも形容されるところの「男」、すなわちこの作品の主人公ムルソーの振る舞いを鮮烈に描きつつ、作者による作為をまるで感じさせることなくムルソーが動いているかのように感じさせるこの作品の筆致、つまり、その「零度のエクリチュール」(注3)を読み進める際に、読者に到来するのと同じ「臨場感」をもたらす、やる夫スレ作品であるのだ。――そう私は言いたくなります。

そして私は、こうも言いたくなります。「ダイス機能」とは、『異邦人』における「太陽」や、古代ギリシア悲劇における神託のように、不条理感ないし運命感を演出するための一種の装置である、と。ムルソーのいっそ爽やかなほどに常軌を逸した振る舞いは、「ダイス監督」の「無茶苦茶」な采配の結果を生きるあんこスレの登場人物とも似通っています。――さすがに、「運命に支配されるギリシア劇の主人公のように、なによりも太陽、そして海、偶然がムルソーを殺人へと導く」(注4)という評言はやや言い過ぎであるように映るとしても――というのも、例えば、デルフォイ神殿の巫女に下された自身にまつわる神託を回避しようとしたのに、いえむしろ、そうしたがゆえに信じがたい偶然に導かれ己が手でその神託を成就してしまう登場人物である(古代ギリシャの悲劇詩人ソフォクレスが描く)オイディプス王の顛末と比べてみるならば、『異邦人』のムルソーはかの王のように人生における「伏線」が作中で回収されているがごとき描き方をなされているわけではないように私には思われるので――確かに、こうした二人の主人公が体現する、(あたかも「ダイス」の目に支配されたかのごとき)不条理を必然として引き受ける者が辿る運命の皮肉や凄みに相応すると感じられる、自らに到来する破滅を自らの決断で引き受けなおすかのごとき意志の力、あるいは、どこまでいってもそんな意志の彼岸にある運命の力を、卓越したあんこスレ作品においても、ひとは見出すことになるはずです――ムルソーは自らの処刑を意志し、オイディプス王は自らの追放を意志しますが、二人をめぐる物語には、「無茶苦茶」な生を送るあんこスレの登場人物にも似た苦い滑稽さと、その「無茶苦茶」を生きざるをえないあんこスレの登場人物にも似た切ない凄みとが、同居しています。「偶然であるはずのダイス」が課す「作者さえも予想できない無茶苦茶なストーリー」を必然として生き抜く運命を課せられたキャラクターたちの生。――この運命という主題が、幾つかのあんこスレ作品に、『異邦人』や『オイディプス王』の面影をも偲ばせるような劇的な強度をもたらしている。――私にはそう思われるのです。

ということで、あんこスレ作品の強度、私にとっては文学や芸術とされる作品と同じものであったその魅力を、差し当たりはこう形容します。――運命論的、と。しかし、話が込み入ってくるのは、あんこスレ作品の運命論的な魅力が、人間が創造性を発揮する領分と計算機が処理能力を発揮する領分を曖昧化する――意図的に混同しさえする――ことによって、構成されているように思われる点です。実のところ、「ダイス監督」といった擬人法は、数字に意味を与えているのがあくまで人間であるという意識を後景に追いやる効果を発揮しています。(疑似)乱数の出力が「監督」の采配と解されるのは、ちょうど、焼いた骨や亀甲に走るひび割れが神意のあらわれと解されるのと同じことです。実際、二桁のゾロ目、同じ数の連続出力、登場人物の設定に関連する意義深い数、などなど、あんこスレをめぐって、もともと想定されていた約束事に留まることなく、(疑似)乱数にその場限りの、ないしはローカルな特殊な意味を次々と拡大解釈で見出していく人々の振る舞いには、易占や数秘術の発展していく様子をも髣髴とさせるところがあります。他方で、計算機による(疑似)乱数の出力は、まさしく誰も異論を挟む余地のない神意であるがごとく作用して、電子掲示板という「作者」と「読者」の垣根が不安定な場でひとびとが(共同)創作をするための補助装置としても機能しています。「ダイス監督」が決めてしまった展開に、ひとが異を唱えてもしょうがない、と。――ここには、天意と人為の判然としない、混沌として退嬰的な領域が広がっています。

思うに、運命という主題のもっともスリリングな点は、制御可能なものと不可能なものとを混同させもする、いわば易占術的解釈に含まれる妖しげな力がその下で際立つ、というところにあります。(疑似)乱数の出力を、偶然的必然あるいは必然的偶然、ともかく、運命として意味づける解釈――人為への妄執を天意の名の下に赦免する契機にもなれば、天意を僭称する人為を懐疑する契機になりもする、この易占術的解釈――をめぐる諸問題は、「物欲レーダー」や「描けば出る」といった、「ガチャ」を中核的な要素として含むソーシャルゲーム、また、「オカルト理論」がまことしやかに語られるパチンコや麻雀などにも見出されるような、射幸的快楽と物語的快楽が混合された営為の効能をめぐる問い、その知にも通じているはずです。ここで、この易占術的解釈を陰謀論の萌芽として悪魔祓いすれば一安心、というわけではないと強調しておきます。もちろん、「ダイス監督」に怒りをぶつけたり逆にその意向を忖度しようとしたりする挙措の滑稽さは、存否不明の「黒幕」と対決したり交渉したりしようとする陰謀論者の妄想の滑稽さと、さほど変わりはありません。しかし、偶然は偶然でありそこに人為の及ぶ余地などないという態度もまた、「運営」による「確率操作」など存在しないはずだ、という陰謀の否認、誰かが(あからさまに)仕掛けている(かもしれない)策略に見て見ぬふりをする類の思考停止へと容易に横滑りしかねない態度であり、ただ軽侮と嘲笑を避けるためだけにそんな否認の態度を取ろうとするのは、かなしいことだと言わざるを得ません。天災と人災を混同して生贄を捧げ、人災を天災と混同して責任を消す。そういう水準でこそ、運命論的な問題が生じます。――ひとは運命論から何を学ぶのでしょうか。運命論がついに辿り着くところ、いわば運命論の運命は、陰謀論にすぎないのでしょうか。それとも、別のもの、例えば宿命(と称される何事か)への隷従でしょうか。しかしながら、運命論の運命はただ一つなのでしょうか。そしてそもそも、それは存在するのでしょうか。

4.この連載で書きたいこと、次回で書きたいこと

この連載では、私は以下のような筋書きを採用するつもりです。――すなわち、あんこスレというジャンルの中でユニークに際立つ主題をどのように扱うかという技法と、その主題へとどのように向き合うのかという態度が、各作家の特異な魅力を構成しており、各作品の魅力は各作家の魅力と、そして各作家の魅力はこのジャンルそのものの魅力と、(少なくともある主題をめぐる限りでは)通じ合っている。そして、その主題こそ、運命である。――以上のような筋書きです。私は、あんこスレが運命を主題とするジャンルであるとみなし、この観点から諸作家の作品とその魅力、作風を論じていこうと思っています。

あんこスレにおいて、私がもっとも魅力的に感じている作家は、◆KLKp7W7AEMです。私の考えでは、◆KLKp7W7AEMの作品、「ヤルオークはトンカツの夢を見る」(2017年7月7日~同8月22日)こそが、あんこスレにおける運命という主題の可能性を汲みつくしています。いうなれば、この作品こそが、あんこスレにおける一つの「運命論の運命」を体現しています。もちろん「ヤルオークはトンカツの夢を見る」以降にも、あんこスレ作品は連綿と発表されており、それ以前から活動していた作家の魅力的な新作も増え、一時期のような激しい勢いではないとしても、新たな作家がこのジャンルへ続々と参入してもいます。ただ、それらを含めて語ろうとするのであれば、おそらく、別の事柄に焦点を当て、運命論とは別の仕方で、作品や作家やジャンルを評価する必要があることでしょう。

次回の連載では、あんこスレ誕生前夜の状況を振り返ってみたいと思います。私見ですが、あんこスレの誕生と隆盛には、それに先行するやる夫スレジャンル、安価スレの勃興と深化が密接に関わっています。そもそも、やる夫スレに限りませんが、掲示板上での創作では様々な機能が活用されてきました。安価、コンマ、また、「トリップ」(匿名掲示板で同一性を保証するために記号変換で(疑似)ランダムな文字列を生成する仕様のこと。通称は「酉」)などのことです。2010年頃から勃興したやる夫スレにおける安価スレの隆盛と拡大、その過程で生じてきた問題意識(いわゆる「スナイプ」や「ルーザー」の発生)が、あんこスレが拡大した背景にはある。――これが私の見立てです。触れている作品の絶対数が少ないので、遺漏も少なからず生じていることかとは思いますが、そんなお話が次回できればと思います。

お読みいただきありがとうございました。それでは、また。

【注意:繰り返すが、やる夫スレ作品を初めて閲覧する際には、まとめサイトを利用することを、また、読者参加型の作品を閲覧する際には、一定期間ROMることを強く推奨する。とりわけ「あんこスレ」系や「安価スレ」系のやる夫スレ掲示板を閲覧する際には、やる夫スレ閲覧用の専用プラウザの使用が推奨されていることが多く、たとえ読者として掲示板に感想を投稿する場合でも、ローカルなマナーに抵触すると、コメント削除やアクセス禁止などの措置が執行されるおそれがある。また、掲示板での創作というジャンルの特徴上、作品が投稿された同じ掲示板のスレッド内で質問や意見を発信すると、不可避に場を占めてしまい、創作の妨害に帰結してしまう。上記推奨のことを諒とせられたい】

【脚注】
(注1)三野博司「カミュにおける殺人と潔白(Le meurtre et l'innocence chez Camus)」『放送大学研究年報』第34号、2017年、128頁。
(注2)安藤麻貴「『異邦人』における「時の経過」について――現在時に生きるムルソーをめぐって」『Gallia』第50巻、2011年、222頁。
(注3)フランスの文芸批評家、ロラン・バルトの言葉。以下を参照。中川正弘「ロラン・バルト『零度のエクリチュール』の翻訳――間言語的迷走と文法の記号学」『広島大学国際センター紀要』第6号、2016年。
(注4)三野(2017)127頁。

なお、上記で引用した論文は、現時点ではいずれもweb上で公開されている。

追記:メモを追加



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?