理想って、なに? 『自由か、さもなくば幸福か?』読書会【闇の自己啓発会】

 闇の自己啓発会は2020年7月26日、Zoomにて『自由か、さもなくば幸福か?』読書会を行いました。
 課題本は、社会哲学の視点から、自由と幸福の両立は可能かという問題提起を行い、様々な社会構造を比較しながら、「どういう社会が今後想定されていくのか。そしてどれがより望ましいのか」について論じている書籍です。
 今回の読書会では、「どういう社会が理想か?」という話題から、7月の四連休中の出来事、“人格廃止”三人衆の話まで、いつものように加速していきました。その模様を紹介していきます!

(江永追記:2020年7月収録なので記事化までほぼ1年経過していました。読み返したら、自分、こんな言動だったかと驚いたりしました。記憶力弱すぎでしょうか。私事ですが、ちょうどさっき、昨日あなたと会話していましたかと昨日会話していた相手に訊ねてしまい、相手に、それは覚えていてほしかったですと言われてしまったところでした。栄養を摂り、記憶術を学ぶように心がけようと思いました。)

■参加者一覧

役所【暁】
連休中はゲームをしていた人。最近読んだ漫画は売野機子『ルポルタージュ―追悼記事―』、田村由美『ミステリと言う勿れ』。
【江永】泉
連休中は眼を動かしていた人。最近視聴した楽曲はtnwh『無重力はかえられない』、cq crew『sleep,wakeup』。
【ひで】シス
自営業に連休なし。最近読んだ本は涌井良幸『多変量解析がわかる』。
【木澤】佐登志
連休中は寝てた人。最近読んだ漫画は椎名うみ『きたない君がいちばんかわいい』。

■7月の四連休中、何をしていた?

【ひで】 皆さんは四連休、何してました?

【暁】 ひたすらゲームしてました。楽しかったのですが、ゲームのキャラクター以外とのコミュニケーションがなくて精神が荒みました。ヤンデレなキャラクターを“精神分析”して“トラウマ”から解放していました。

【ひで】 ぼくもあんまり外に出てないので同じですね。ああ、そういえばこれ見てください。結婚指輪買いました。2020年8月1日に入籍ですよ(読書会当日は2020年7月26日)。

【暁】 おめでとうございます! 江永さんや木澤さんは連休中なにをしていましたか?

【江永】 読書会をして、読書会をして、小旅行、そしてこの読書会に参加しています。末永くお幸せに。

【暁】 ハードスケジュールですね。のれん分けキャンペーン的なやつですか?

【江永】 そうですね。のれん分けキャンペーン的なやつと、あと新井白石『読史余論』などを読もうとしていました。白石のひととなりも少し調べたんですが、勉強になりました。

 白石は幼少から勉学バリバリ頑張っていたけど、白石の父親が、勤務先のトップ(藩主)がラリっているからとサボタージュしてたら干されてしまったらしく、20歳くらいからの白石の生活は不安定で、商人からの養子縁組オファーを断って別口の就職を狙ったり、ようやく就職できたのに仕えた人物が殺されたり、苦労したらしい。で、友人の縁もあって30歳手前でなんと幕府の儒官、木下順庵の弟子になる。そこからさらに5代将軍綱吉から干されがちだったらしい甲府徳川家の綱豊のところに、政治的な事情も絡んで、不相応な薄給で仕えることになる。そして、嫡男が死去した綱吉の後継として、仕え先の綱豊が6代将軍家宣になり、そこから家宣に任じられた白石の「正徳の治」が始まっていく……。

 こんな感じで、白石って苦労しつつ実力で成り上がったタイプらしいんですけど、『読史余論』を読んでたらそういう気風が反映されてる感じがして伝記的事実から得た印象を投影して文を読んでしまったからかもしれませんが)。負けたやつは実力不足、みたいな、今日でいう、いわゆる自己責任論みたいなこと言ってはしまいかという雰囲気を感じたりしました。あと、主に綱吉の時代に活躍した荻原重秀って勘定奉行(大雑把に言って財政担当でしょうか)に対して白石がめちゃくちゃキツくあたってて、三度罷免要求して重秀をクビにしたらしいんですけど、この重秀は貨幣国定論者みたいな発言をしていたと伝わっているらしくて。とすると、江戸時代のリフレ派VS緊縮ネオリベか?……などと放談してました(これだと、戯画化して捉えすぎかもしれません。荻原に関しては、村井淳志『勘定奉行 荻原重秀の生涯』2007などがあります)。

【暁】 そう聞くとなんだか大阪維新の橋下氏っぽいですね。彼も苦労して成り上がって今あんな感じですし…。

【江永】 あまりひととなりに知悉していないので、ただの僻目かもしれない印象論にはなってしまいますが、見出そうとすれば、どこかしらかに通じ合うものを見出せる気もします。例えば、以下の記事で言われているところの「自分の商品価値」を「徳」に、「力関係」を「大勢」に、「掟」を「礼」に言い換えたら、だいたい名実一致志向の儒家みたいな物言いになるかもしれない。ちょっと乱暴すぎる読み換えではありますが( https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2002/08/news001_3.html  )。

【ひで】 そりゃ貧民生まれでのし上がった人間は、そうでない他者に対して「オレは成功したんだけどお前は?」ってマウント取りがちですよね。

【暁】 橋下氏、学生との意見交換で何か言われても「じゃあ君が政治家になって変えればいいじゃないか」とか言っちゃうのを見て、ぞわぞわしました。政治家って意見集約機能を担っているはずなのに、少数意見を切り捨てていく感じがもうなんとも…。

【ひで】 映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』を見てきたんですけど、作中で民主党議員の小川淳也が行っていた「51%の人たちに選挙で選ばれた政治家が、残りの49%を背負う覚悟」が橋下徹にはないんですよね。

【暁】 僕もその映画観ました。一般の人が選挙活動を続ける難しさとか、どんなにいい政策を考えても党への貢献度がないと何にもならないとか、つらい現実を突きつけられる映画でしたね…。
 例えば山○太郎や山●太郎が票田になるとわかって流れが変わったのとか、対抗馬の意見を取り込まないと自分が落選するかもって危機感があれば少数派の政策も汲み取るかもしれないけど、自分が当選するとわかってるから少数派は無視する、というのがまかり通っているのは怖いです。

【ひで】 れいわ新選組はある意味ちゃんとリベラルのいう正義をやってるんですよね。今回のALS患者の嘱託殺人の話がありましたけど、事件に関して岩崎航がコメンタリーを出したりとか。れいわ内で命の選別が出たときも木村英子がブログで反論していたりした。

【暁】 現状の政界において、当事者が参画することがいかに大切かということを、体現されている方々だなと思いました。本当にすごいです。

【木澤】僕は連休中は基本的に寝てました。眠剤やオピオイド系の処方薬、あるいははCBD等を入れて、VtuberのASMR動画を横になりながらひたすら聴く。3時間くらい延々と耳かきしてるだけのASMRとかもあって、なんでこの人はVtuberになってまでひたすら耳かきをし続けてるんだろう、とどうでもいいことを思ったり思わなかったり。あと、これはこの読書会収録時からすると未来の話になるのですが、こういう生活スタイルからか、2020年10月から放送されるTVアニメ『魔王城でおやすみ』がめちゃくちゃ面白くてハマることになります。これを発話している今この瞬間は2020年の7月ですが、未来である2021年に入るとまたコロナが首都圏を中心に感染拡大しはじめ、二度目、三度目の緊急事態宣言が発令されることになります(2021年6月20日に解除)。人類は「労働」でも「行動」でもなく、「いかに眠るか」ということをもっと真剣に考えなければいけない時代に入りつつあるのかもしれません。

【暁】あと、この四連休は優生思想について考えざるを得なかったですね。Twitterを見ていて、「健常者」の幅が狭い上に、そうじゃない人たちを死にたくなるほど追いつめて、政治家が「安楽死を!」って言っちゃう社会なんだなと、最悪な気持ちになりました。この一連の流れがパッケージ化されててやばいです。愛にできることはもう何もない。

【ひで】 この本でいうとゲーテッドコミュニティ、ホラーハウスでいう「見捨てられる他者」ですね。
 日本でも東京犯罪マップっていうのがあるんですよね。やっぱりこれを見て棲み分けのようなことは行われているのかなと思いました。

【暁】 ちゃんと課題本の内容につなげていて偉い。まあ、何かあると犯罪被害者に落ち度があったとか言われてしまう社会なので、なるべく治安のいいところに住んで過剰なくらい防衛意識を高めるという方向に向かいがちというのはあるかもです。じゃあ本の内容に入っていきますか。

■本の内容に入ります

【ひで】 この本かなり面白くなかったですか?

【暁】 読みやすくて内容も良かったですし、木澤さんは選書センスがいいなぁという気持ちになりました。

【ひで】 以前やった『幸福な監視国家中国』とスコープが似ていましたね。

【木澤】 あの本の中でも大屋さんの本書がわりと引用されていましたね。

【ひで】 この本って議論を詳細に書いてあるんですけども、ぼくたちがフワッと話そうとするとどうしても結論部分を戦わせるだけになっちゃう感じですね

【江永】 とりあえず内容に入って頭から話を見ていきましょう。

第1章 自由と幸福の一九世紀システム

■1.近代リベラリズムと自己決定の幸福

【ひで】 他者危害原理の話ですね。個人の自由に制約を加え得るのは他者への危害が発生することを防ぐ場合に限定される。

【暁】 飲酒しまくる労働者に飲酒規制をするのは子供扱いするようなものなんだから、それをやっちゃいけない、という話でしたね。

【ひで】 正しいこと言ってんな~。その通りや!

<どこからか野太い男性の声が聞こえてくる>

【ひで】 なんですかこの声?

【江永】 私の<超自我>の声です。

【ひで】 こわ〜

【暁】 僕も荒れてた頃はよく<超自我>が叫んでいたのでわかります。

 本の話に戻します。庶民がジンを飲み過ぎてアル中になっていたという話があったので、韓国映画『お嬢さん』の原作であるサラ・ウォーターズの著作『荊の城』を思い出していました。この本は、19世紀ヴィクトリア朝時代のロンドンが舞台なんですよね。で、主人公であるスラムの少女が「赤ん坊にはジンでも舐めさせときゃ大人しくなるよ」とか言って一般人にドン引きされるシーンがあるんです。この頃のイギリスの庶民はジンで全て解決!って感じの世界観だったのかなと。あと、ここではジンが安酒として出てきますが、我々からするとジンって安酒感はないなとか思っていました。

【ひで】 それはまあ海外から入ってきたものは高くなりがちですからね。

【暁】 確かに。ユニクロも無印も海外だと高級路線ですしね。

【ひで】 で、パノプティコン。ベンサムは「パノプティコンのキーになるのは報酬と透明性やで!」って言っていましたね。ベンサムって教育システムでも子供を順位付けしようとしてて極まってますね。こういうシステムというか価値観の植え付けって、地方の中高一貫校ってやりがちなんですけど、恥ずかしく感じてしまいます(ひでシスも地方の中高一貫校出身)。勉強って人を順位づけるためにすることじゃなくないですか。こういう教育法って30歳になってもセンター試験の点数でマウント取るヤツを生みますよね。

【暁】 まあでも僕みたいに勉強以外のことで評価されなかった人間が、唯一の過去の栄光、人生の転換点にすがりついてしまうというのは、なんだかわかるような気がします。顔も性格も悪い人間は勉強くらいできなきゃ価値はない、みたいな殺伐とした価値観から自分を解き放ち、根本的な自己肯定感を育む取り組みが必要ですよね。

 僕はこのベンサムの話を見て、『魔法科高校の劣等生』じゃん!ってぶち上がっていました。同作では、優等生(一科生)と劣等生(二科生)がわかるように制服の見た目を変えるといったことが描かれているんですよね(厳密にはそういう区分けのために制服のデザインが違うわけではないし、二科生=劣等生というわけではないのだが、そういう風に登場人物たちからは扱われている感じ)。

【江永】 『魔法科高校の劣等生』は2008年からWeb小説サイト『小説家でなろう』で連載が始まり、2011年には電撃文庫から刊行が開始されて今日に至る訳ですが、なろう小説に限らずラノベでも「身分制のようなものが導入された学校」という舞台装置って鉄板ネタであったように思います。『とある魔術の禁書目録』シリーズ(2004-)とか『バカとテストと召喚獣』シリーズ(2007-2015)とか、自分の知る限り、ゼロ年代から色々あります。『IS 〈インフィニット・ストラトス〉』シリーズ(2009-)みたいに、学校内の人間関係が(作中の)国際的な権力闘争と絡み合っている設定のラノベもありました。

【ひで】 え〜そうなんですね。フィクションの学校に身分制度が導入されがちなのってなんでなんですか?

【江永】 なんでなんですかね。例えば「格付けチェック」とか「抜き打ちテスト」など、少なくとも90年代末~ゼロ年代初頭から、TV番組で能力差を待遇差と結びつけるような演出をする企画がそれなりに撮られていたようにも思いますから(もっと遡れると思いますけど)、小説などのジャンルに限定してその流行を考えてよいのか、自分にはまだ判然としていません。1990年代末からゼロ年代半ばまでのいわゆる格差論争など、「一億総中流」のような言い回しが通用しなくなり、社会の不平等が問題として語られるようになっていった流れと照応しているのかもしれません。ちなみに、和製英語の「スクールカースト」が巷間に流布したのは2007-2008年頃らしいです。

 『自由か、さもなくば幸福か?』に戻りますが、結びで、著者が「自由と幸福の結合による強制の廃絶」のためにある(十九世紀のある種の功利主義的な)教育システムを「個人を作り出す機械」とまとめてますけど、それに過ぎないと言い切ってしまうのはエグいことだと思いますが、現行の学校にもそういう面がないとはいえなさそうですよね。

■2.契約自由の近代性

【ひで】 財産を持った、自己決定能力を持つ、人格のある個人が、自由かつ平等な立場で形成した合意=契約こそが各人にとって最善のものであり、だからこそ国家の役割はそのような合意形成の場が暴力や脅迫によって乱されないように維持するところになる。っていう前提ですよね。こういう前提はぼくも使いたくなっちゃうんですが、実際のところ現実的なんでしょうか。

 家の近くにあるよく行く中華料理屋で店主が中国人で日本語がよくわからなかったのでコロナの200万円の持続化給付金の申請のお手伝いをやりました。それでこの前久しぶりに父親と会ったんですが、父親も地元でインド料理屋に対して同じことをしてたんですよね。血は争えないものだと思いました。

 で、父が持続化給付金の申請のお手伝いをしたインド料理屋なんですが、ヤバい話がありまして。どうもインド人夫妻はよくわからない日本人に「営業許可も税金の手続きも全部やってあげる」って言われて、今までずっと売上を全て渡していたみたいです。でもその日本人に確認を取ってみると、確定申告も何もしていなかった。ただ外国人を騙して金を巻き上げていただけだったんですね。どうすんねんこれ、と。結局、インド人には全部自分で申告までやるようにアドバイスしたみたいですが……。この話を聞いて、自由かつ平等な立場っていうのは幻想というか、そうじゃない状況の中で悪いことをするヤツはいっぱい居るわという感じがしました。

【暁】課題本でも、 知的障害者が累積犯として何回も捕まっちゃうって話がありましたね。それで宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』を思い出していました。同書は精神科医である著者が医療少年院で出会った知的障害・発達障害の非行少年たちについて書いたものなんですが、そもそも健常者とは想定する前提が異なるので、反省文を書かせたり認知行動療法をさせても全く意味がない状況になっている。そこを適切にケアしていかないと加害者と被害者が増え続けることになる、と問題提起しています。前提知識や思考力、置かれた環境の差などを考えると、「対等の個人」という前提を疑わないといけないですし、サポートが必要なケースを拾えないのは個人にとっても社会にとっても非常に困ることだと思いますね。

【ひで】 知的障害ボーダーの女の子が給付金もらって男に渡しちゃうというケースもよくあるそうです。

【暁】鈴木大介『最貧困女子』という本でも、知的障害の女性が売春で稼ぐという事例について書かれていました。水商売もビジュアルやコミュ力が必要なので、知的障害の女性が稼ぐのは大変だし、そもそも支援を受けようにも役所に申請する方法がわからず福祉につながれない。そして福祉に繋がっても貧しい生活しか送れないから、それなら水商売で稼いだ方がいいわ…となってしまうという構造が書かれていました。 

【ひで】 グロいですね。こういう話をしているとルポに話が近くなってきますけど。

【暁】 そうですね。やはり自分の関心として政治がこういう状況を少しでも変えていくべきでは? というのがあったので、昔はルポとか多少読んでいました気がします。今は全ての希望を失ってしまってあまり読めていませんが…。

【江永】 この本だと個人間の自由な判断に基づく契約に優越する「客観性な公平性」というのが出てきますよね。

【木澤】 ローマ時代とか、19世紀のフランス民法とかの話ですよね。

【ひで】 正当価格の半額以下で土地を購入した買い主に対して、売り主に対する不足額の支払いと土地の返却を皇帝が命令する。――日本はドイツとか現代アメリカとかの法律には組み込まれていない概念ですね。

【木澤】 ここでいう客観性ってどうやって持ってくるんでしょうか。この時代には市場はなかったですし。やっぱり権威が決めるんでしょうか。

【江永】 一応、キケロ『義務論』とかにも公正価格に関連しそうな記述はあるらしいですね。公正観念の流れとして連続性があったのか、個々に独立の発想があったとみる方が適切なのか、私は未詳ですが。

【木澤】 いずれにせよ、合理的な個人同士が契約を結ぶという発想が生まれてくるのは市場経済が形成された以後なんですよね。アダム・スミスや経済学もそうした背景のもとに出てくる。

【ひで】 そうです。個々の人間が売る側は「より高く買ってくれる人に」、買う側は「より安く売ってくれる人を」見つけようとすることによって、市場がナッシュ均衡になって、社会全体の厚生が向上する、というのがアダム・スミス以降の経済学の考えなので。

 そういえばぼくの友達が騙されて3400万円でマンションワンルームを2つを買ったんですよね。「毎月プラスが出るよ」って言われてたけど、よく見てみたら固定資産税も都市計画税も入ってない。大規模修繕の費用も勿論入っていない。ちゃんと計算をすると毎年足が出る。ただ単純に騙されていたんです。

【木澤】 それっていわゆる市場の失敗ですよね。

【ひで】 そうですね。売る側と買う側の情報の不均衡。中古車市場、レモン市場と同じです。

【木澤】 近年になると「合理的な個人同士の契約」という前提自体が(現実世界に即していない)ある種のフィクションでしかないのではないか、という批判も出てくる。たとえば認知心理学者のダニエル・カーネマンなどが近代的/合理的なホモ・エコノミクスという概念=フィクションを解体しはじめるようになる。

【ひで】 その批判の仕方というのは、プロスペクト理論的な――行動経済学的なやつですか?

【木澤】 そうですね。人間の意思決定は必ずしも合理的ではなく、そこには諸々の情動的な認知バイアスが常に忍び込んでいる。たとえばカーネマンは著書『ファスト&スロー』の中で、合理的経済主体モデルで想定されている選好の論理的一貫性などは幻想にすぎないと喝破しています。カーネマンの二重過程理論によれば、脳内には情報処理や認識を司る二つの思考モードが存在しており、それぞれシステム1とシステム2と名付けられています(もっとも、これはあくまでも比喩的な表現で、これらが脳内の特定部位に局在している、といった主張とは異なります)。システム1は自動的かつ無意識的に作動し、主に直感や感情を担っている。これに対してシステム2は、複雑な計算など頭を使わなければできない知的作業を担い、意識的に努力しないと起動しない。システム2は、システム1による自動的な決定や判断をチェックし、それが誤っているとみなせば適時修正を加える役割も担っています。しかし、システム2によるコントロールは完璧ではなく、往々にしてシステム1はシステム2の監視をすり抜けることが多々ある。カーネマンによれば、諸々の認知的錯覚やバイアスは、このシステム2の能力不足に原因の一端があるといいます。カーネマンが『ファスト&スロー』の中で紹介している心理実験を例にとってみると、たとえば医師に対して「術後一ヶ月の生存率は90%です」と「術後一ヶ月の死亡率は10%です」という肺がん治療法の生存率と死亡率に関する二つのデータを見せ、どちらを選ぶか、という実験があります。二つの文章が論理的に等価なのは明らかなのですが、前者を選んだ被験者が圧倒的に多かった。システム1は感情的なフレーズに自動的に反応してしまうので、死は悪いことで生きることは良いことだ、と判断してしまう(生存率90%は素晴らしいことだが、死亡率10%はおぞましいことだ、と)。このように、論理的には同じことを言っているのに表現や書式が異なるだけで(カーネマンはこのことを「フレーミング」が異なると表現しています)、選好が逆転したりバイアスがかかってしまう現象が発生する。一方で、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンなどは、このような「フレーミング効果」を念頭に置いた上で(というか逆手に取って?)、市民が自分たちの長期的利益に資する意思決定ができるよう、選択アーキテクチャによって市民を「ナッジ」することを認めています。ナッジとは、そっと押すとか誘導する、といった意味合いで、たとえば臓器提供や年金制度への加入をデフォルトの選択肢にしておくことなどがナッジの一例として挙げられます。サンスティーンらによる以上のような立場はリバタリアン・パターナリズムと呼ばれていて、これなども19世紀的な「個人」=合理的経済主体を前提としない、換言すればそのような「個人」の崩壊を前提とした立場と言えるでしょう。

【暁】 ここの部分を読んで自分は、フランス系の正当価格的な発想が弱い日本では森友学園事件が起こってしまうのか…と思ってしまいました。

【ひで】 いや国家は個人じゃないですから……!

【暁】 そうでした。それ以前の問題でしたね…。

■3.参政権―自己決定への自由、4.権利としての戦争、5.一九世紀システムの完成―自己決定する「個人」

【暁】 軍隊に入れば身分の関係なく相手を引っぱたけるという話を見て、赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を思い出しました。

【木澤】 僕はこの箇所を読んで、フレドリック・ジェイムソンの『アメリカのユートピア―― 二重権力と国民皆兵制』を思い出しましたね。

【江永】 赤木の議論は、ほんとうに捻じれていて、論中で引用されている苅部新書を読むと、丸山を殴っていた兵士って同時期の日本が植民地化していた地域の出身だという記述になっている。だから宗主国のエリートを殴れる機会に関する挿話でもあったわけです。その要素を捨象して階級の話にしている。そこでいう階級、格差の話も言ってしまえば現在では不遜というか的外れな"人並み"観に支えられていると映る訳ですが、評論を読めばわかるように、そこには赤木の上の世代の"総中流"イメージ、人並みならこういう暮らしを送る、っていう"常識"の問題点が反映されている面もある訳です。

 で、もちろん題にあるように、思考実験でいう"臓器くじ"より陰惨な感じになった"戦争"の話が出てくるところが一番評価を難しくしている(一応確認しておけば、希望は戦争というのは反語であり、自分には戦争のような形でしか希望をイメージできない、というのがこの評論のメッセージです)。イメージというか、現に総力戦体制が富裕層への課税を可能にしたのではないかという『金持ち課税』みたいな議論もありますが、ここでの戦争は、どちらかといえばディストピアないしユートピア的な、イメージです。ジェイムソンの「アメリカのユートピア」も、国民皆兵制を利用して皆保険をアメリカで実現するという、SF作家のフィクションをよすがにしたユートピアとしての戦争しない軍隊からなる社会構想の話でしたよね。先ほど挙げてもらったのはジェイムソンの議論とそれへの理論的検討が論集になってものでしたが、「「丸山眞男」をひっぱたきたい」の方も、議論の応酬が雑誌に載っていたようです。

「「丸山眞男」をひっぱたきたい」は、論旨への是非が検討されがちだったと思いますが、レトリックというか、イメージに関しても色々と掘り下げうると思います。例えば「国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態」みたいな文言があって、論外扱いされたりもしてきたけれど、実は機銃掃射でアメリカ軍に打たれて死んだ人物をギャンブルに負けた人物と形容する描写は阿佐田哲也『麻雀放浪記』の冒頭にも出てきます。言ってしまえば、ロシアンルーレットとして空爆を捉えるイマジネーションの系譜があるわけです。それはもちろん、臓器くじほど洗練されたイマジネーションではない。でも共通性がないとはいないない。著者自身の見解に即するかどうかとは別の話もなってしまうけれど、論としての出来と別に、ゼロ年代以降、転生してチートもらって異世界で一発逆転するみたいなものがひろがっていったわけですし、言ってしまえば、〈上〉からの力で身分をリセットするという発想自体はどんどんメジャーになった。その願望を先駆けて記していた評論だったんじゃないかとも自分には思えます。

【木澤】 p.50の「もし我国の為めに死することを厭わば、始めから日本国へ生れて来ぬがよし」とかって完全にネット右翼の言説と同じですよね。徴兵逃れの部分を読んでいると、当たり前ですけど近代国家の国民ってはじめから国民なわけじゃなくて、ベンサムの教育論にも端的に現れていると思いますけど、近代的個人のフォーマットをインストールすることではじめて「個人」になれるわけですよね。ゼロ年代に東浩紀がフーコーの権力論(パノプティコン!)とそれに対するドゥルーズの応答を念頭に置きながら、ポストモダンの特徴として規律権力の機能不全とそれに代わる環境管理型権力の台頭を挙げていましたが、これなども本書で主張されている19世紀的個人の崩壊とそれに続くアーキテクチャによる統治と共振し合っているように思えます。

【江永】 まあ「生れてこぬが…」って霊魂か何かに自己決定権でも認めているのかという話になりそうですが。芥川龍之介「河童」(1927)とかも思い出します。河童の方は胎児がこの世界に生まれてくるか否か自己決定する挿話でしたが。個人なるものがあるっていう枠組みが、自然科学的な発生過程の理解とかちあっているというか、前近代的(?)な霊魂観と合体しているというか。さっきのに絡めていうと教育施設は国民を作り出す工場でもあるわけですね。

【ひで】 現代に当てはめると、いまのぼくたちは徴兵されていないからあまり日本人は国民感を持っていないのかもしれません。それこそ「普通の日本人」ってTwitterのbioに書いているやつがヤバかったりしますし……。一方で韓国ではまだ徴兵制あるからか徴兵されない人を馬鹿にする風潮とかありますし、徴兵されることが政府へ参加する主体としての地位を担うことを意味していた自由民権運動の時代の感覚に近いのかも知れません。

【江永】 p49の、元々余裕のあった人々にとっては自由が大きなお世話であった、というのはあらゆる時代・地域ごとに、言えそうな話ですね。そういえば、明治期って内乱とともに制度を整えていった面もあると思うので(西南戦争とか)そのあたりとの関連ももっと知りたかったです。
 p56の一番最後の段落に書いていますが、「自己決定を通じて自己の幸福に配慮することのできる主体、個人たちからなる近代社会は、その成立と維持においてそれ以外の存在を暴力的に排除することで成り立っていた。市民として絶対不可欠な知識・技能を子どもに与えることを目的とする義務教育もまた、包含と排除という二面性を備えた制度だったと言うことができるだろう」。でも、現代ではその近代が崩れてきてしまっているというという批判を次の章以降にやるんですよね。 今気付いたんですけど、この本って章の最後の段落だけ読んだらわかるようになってますね。

【ひで】 論説文として正しいですね。

【木澤】 わかりやすく要約して書くのって端的に技量がいるんですよね。こういうところで著者の技量が出る。

第2章 見張られる私―二一世紀の監視と権力

■1.監視の浸透、2.情報化・グローバル化と国家のコントロール、3.「新しい中世」

【江永】 二章の一番最後を読みます。 「二〇世紀から発達してきた情報技術は、新世紀に至って近代的統治の根幹を揺るがすに至った。監視と、行為の物理的環境を操作するアーキテクチャの権力が結合することにより、近代的「個人」の存在基盤が失われていく。この点に危惧を覚える意識も――著者自身の前著もそのひとつと理解されるだろうように――多く現れている」(p114)。

【ひで】 崩壊した個人の存在基盤ってなんでしたっけ。

【暁】 現代は、地域社会が崩壊した上に、不景気で失業の可能性もあるため企業も頼れず、中間団体に頼るのが難しくなった。じゃあ国家による直接統治がしやすくなったかといえばそうではなくて、Googleみたいな中間団体(あるいはグローバル団体)が個人の情報などを公権力以上に持つようになり、アーキテクチャとして強くなった。で、これら団体は国家と異なり憲法で規制ができないからやばいよねという話でしたね。

【木澤】 最初に読んだときは、インターネットが出てきたことによって国境の価値が下がったとかそういう話だと一見思ってました。

【ひで】 政府という大きなものではなく代わりに中間団体が台頭してきたという流れですね。しかも中間団体は私企業だから、国家と違って行政手続きで透明性を確保したり、客体(顧客)を平等に扱うということが要請されていない。それなのに監視主体・統制主体になってきている。

【江永】 何をしたいかという意思が外から見えるようになったら、約束することなんて最小限でいいじゃんっていう気持ちになるんですけど、そういう感じなんですかね。

【暁】 アーキテクチャによる統治っていうのはそういうことを言ってますよね。

【木澤】 アーキテクチャによって合意に基づく契約が不要になるという感じですか?

【暁】 この本で言われてたかうろ覚えですが、例えばAppleによる表現規制って民主的手法で決められたものじゃないじゃないですか。だから契約・対話の余地すらないともいえる。江永さんが言いたいのはそういうことですかね? それに対する批判って出ていましたっけ?

【ひで】 ありました。AmazonがLOっていう雑誌を取り下げましたし。Amazonの設定する表現規制が嫌なら他のプラットフォームに移れと言われても、Amazonのせいで街の本屋は潰れたじゃないか。今更移る先が…というようになってきています。

【木澤】 憲法学者ローレンス・レッシグは1999年に『CODE』という本で、「コードは法である」というテーゼを引っ提げた。そこでは、(今で言うGAFAなどの)企業やソフトウェアによって設計されたアーキテクチャが人々の行為選択肢を予め制約し、既存の法がアーキテクチャに取って代わられる事態が描写されていました。レッシグの論旨の背景には当時におけるインターネット・ユートピア思想の台頭があります。サイバースペースは国家による規制が及ばないアナーキズム的/ユートピア的空間であり、本質的に「自由」な自生的秩序である、とするサイバー・リバタリアニズムの主張があり、レッシグの『CODE』は、そうした思想に共鳴しつつも批判する形で登場した。すなわち、サイバースペースはプログラム・コードによって成立しており、そうである以上そうしたコードを書き換えることで空間はいかようにも規制可能/変更可能であり、むしろコードによる(事前の)規制は(事後的なサンクションにもとづく)法による規制以上に強力に作動しうる、と主張した。さらに、そのコードを利用して大企業が自身に有利な規制を形成しつつあり、そこにおいては「法の私物化」といった事態すら出来しつつあるのだ、と警鐘を鳴らした。レッシグは憲法学者なんですけど、彼のアーキテクチャ論は、(先程も少し触れたように)なぜか日本では東浩紀を中心として現代思想や社会学の方面(情報社会論)で受容されたという経緯がある。これがゼロ年代代中盤ぐらいの話です。たとえばその当時にあっては、マクドナルドの椅子が硬いのは、客が長時間居られないようにするためのアーキテクチャであるといったアーキテクチャ都市伝説(?)などがまことしやかに語られていたわけです。一方、ゼロ年代後半以降になると、先程も述べたようにキャス・サンスティーンがアーキテクチャを積極的に活用した社会設計の方法を説き、奇しくも日本においても法哲学者の安藤馨が功利主義の立場からアーキテクチャによる統治を正当化する、といったように「アーキテクチャ論の転回」(成原慧)が起こってくる。こうした動向とも平仄を合わせるように、近年では法とアーキテクチャの関係について法学の領域から注目する研究も盛んになってくる。こうした情況の見取り図を提示してくれる本としては、『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな転回?』(2017)がおすすめです。

【ひで】 いわゆるコードによるアーキテクチャっていうのは、AmazonのオススメとかGoogleの検索結果とか、……。

【木澤】 サイトのデザイン設計とか、特定のユーザのBANとか。

【ひで】 あああ〜〜〜。そういえばぼくTwitterでシャドーバンされているんですよね。「ひでシス」で検索欄に入力しても、検索結果にぼくが現れないんです。

【暁】 あとはFANZAで特定タグがなくなったり、高校生を○校生表記にしていたりとか。

【ひで】 あーそれもアーキテクチャによる検閲の一つですね。

■ゲーテッドコミュニティとニックランド

【ひで】 「安全かつ正常な我々と、危険かつ異常な他者とを区別し、全社が後者を関しの対象とする」ホラーハウス社会を「アーキテクチャとして象徴するものこそ、ゲーテッド・コミュニティに他ならない。」――ここで引き合いに出されているのはゲーテッドコミュニティ(Gated Community)ですが、これは日本にはない気がします。

【江永】 オートロックマンションの延長っぽい。

【暁】 日本の田舎もゲートはなくても閉鎖的・排他的ですよね。見えないゲートがある。

【ひで】 この本でも「田舎もゲーテッド・コミュニティみたいなものやで論」はありました。たしかにインドネシアの田舎にも街の入り口にいるおっさんのための守衛所みたいなものがありましたし。

【暁】 その描写を見て「RPGで『ここは〇〇の街だよ』って言う村人だ!」と興奮していました。マジであるんですね。

【ひで】 ゲーテッドコミュニティって何に主眼をおいているんでしたっけ。

【暁】 ここでは「主観的な安心」って書かれていますね。
 アーキテクチャ的、デーテッドコミュニティ的な事例としては、例えば豊島区が挙げられるのかな。豊島区では投機目的のマンション(や低所得者の数)が増えないように、ひと部屋あたりの最低平米数を条例で定めています(通称「ワンルームマンション税」http://www.city.toshima.lg.jp/100/tetsuzuki/ze/sonota/hotegaize/001777.html)。

【木澤】 黒人のインナーシティーの話なんですけど、白人が郊外へフライトしていく傾向があるじゃないですか。それってある種の蟻塚的な自生的秩序ですよね。なのでアーキテクチャによる制御というよりは、リバタリアニズム的なアーキテクチャ(?)という感じがするんですよね。たとえばニック・ランドなんかは分離主義者なのでホワイトフライトを正当化しようとする。普段リベラルなこと言ってる白人も、無意識的な〈暗黒の啓蒙〉からは逃れられないんだぞ、といったふうに。

【ひで】 白人と黒人が混ざって住んでいる状態から勝手に互いが分離して住み始めるやつですね。

【木澤】 ニック・ランドはそういう無意識的/非人間的で、オートマティックな唯物的衝動性を称賛している。

【ひで】 マレーシアではマレーシア人が華人・マレー人・インド系に分けられていて、彼らの身分証明書にも何系かというのは書かれています。ここでワン・マレーシアっていう政策で地区にある家々ごとに住むべき人種が決められていて、わざとモザイク上に混ざって住むような枠組みになっているんです。中国人の家の隣は必ずマレー人になるようになっている。

【江永】 ランドは宇宙的な目線(?)からホワイトフライトを見ていて、数多くのゲーテッドコミュニティが生まれることで国家というエントロピーに抗っていくということを主張していましたね。

【暁】 ニック・ランドはユーゴスラビアのごたごたをどう解釈してるのか気になりますね。バラバラにまとまって住んだ結果、いまだに燻っているのがあの地域なので…。

【江永】 確かに。もっとまっとうな、というか"現実とSFやホラーの区別がついている"という評価になりそうな目線からの話も紹介すると、フェアトレードとかも自生的秩序でできるんじゃないかという研究もあります。

【暁】 この本では児童労働の権利を途上国から奪うのは発展を阻害しているとか書いてあってちょっとげんなりしたんですが、結構日本の企業とかもフェアトレード意識してますよね。そういう希望的な部分に光を当てていきたいですね。

【江永】 『不道徳な経済学』のアップデート版みたいな。

【暁】 (笑)

第3章 二〇世紀と自己決定する個人

■1.一九世紀から遠く離れて―戦争と革命の二〇世紀

【江永】 この章はさっき話したような個人の自己決定を疑う話が多かったですね。時間を超えた私と私の同一性ってマジ? っていう。

【ひで】 「だが問題は、法によって支配されるのがいま現在のこの私であるのに対し、支配するのは(法を作ったのは)過去の我々だという事実である」の部分ですね。そしてセントラル・ドグマにはもう一つ割け目が内在しています。個人は自己の意思と決断とによって自己の幸福を配慮できる存在として想定されているのだけども、そもそも個人は自己決定を本当に欲しているのだろうか?、という点です。

【江永】 ここで突然マゾヒストが度外視されているんですよね。

【ひで】 マゾヒストを引き合いに出すツッコミかたオモロイですね。他者に支配されることに苦痛を感じるから、それを避けるために我々は必然的に自由を思考することになるのだ、ってハンス・ケルゼンは言っているのに。

【木澤】 他者に支配されることを望むマゾヒストって、この本ではファシズムってことになるんじゃないですか?

【ひで】 あーなるほど、たしかにそうなりますね。

【江永】 いわゆる"自由からの逃走”に関する記述を見て、自由を背負うことが苦痛であるなら、マゾヒスト的には、自由を背負い続けることで苦痛を受け続けることが可能、って話にできる余地ないかなと思いました。世界そのものに苛まれる他者不在のマゾヒズム。ベルサーニ的には、外界の刺激に抵抗できない心身がサドマゾヒズムの基盤のはずなので(というか、フロイトを参照しつつ外界と他人の区別をつけずに、愛憎を抱き攻撃する/されるような対象として外部との直面を語っている)いけそうな気がする。

【暁】 なるほど。本書のこの部分では『家畜人ヤプー』的な極端なマゾヒズム①(番号は暁が勝手に付けたものです)は置いといて…、として、「自由は重い・つらいので支配されたい」という消極的な自由喪失派(マゾヒズム②)に主眼を置いています。一方で、江永さんはそうではなく「自由を背負い続けることで苦痛を受け続けることが可能」というマゾヒズム③を提唱しているのですね。僕個人としては、家畜人ヤプー的な積極的自由喪失(①)が最高なんじゃ~!って感じではありますが。ここにマゾヒズムの3類型が示されましたね。

【ひで】 選択肢がたくさんあるということを時として我々は重荷に感じることがありはしないか、って書かれてありますけど、まさにその通りですよね。自分たちは無限の選択肢を選べるからこそ、行動をした(選択を行った)ということ自体に自己責任が付きまとってしまう。だからもし可能ならば全ての選択肢を奪って私を責任から解放して欲しい――という漫画を昔書いたことがあります。

画像1

 あわたけ『押入れの奥に謎の露出空間が』も近いお話です。露出癖のある女性が日常生活では露出を我慢している――というのも露出するのは犯罪なので――のだけども、ある日家の押し入れの奥に異世界への扉を発見してしまう。押入れの奥の異世界では女性は奴隷として売り買いされ服を着ずに過ごすのが当たり前の世界だった。ひょんなことから異世界(露出空間)に迷い込んだ主人公は、半ば場の空気に載せられて・半ば望んで裸になり、パートタイム奴隷としてオークション会場で自身の裸を晒す。という話です。 (※R18作品ですhttps://www.dlsite.com/maniax/work/=/product_id/RJ224123.html)

【暁】 ああ~、こういう風に扱われるのは僕にとって理想のあり方かもしれません。最高です(ぐるぐる目)。

■2.個人と人間の距離

【木澤】 自由を喪失した市民がアメーバのようにヒトラーに同一化してしまうということ。

【江永】 p136ですね。民主政治体が想定している個人自体が、市民であることを捨てるという選択ができてしまうようになっている。

【ひで】 だからドイツというファシズム国家は個人なき社会になったわけですね。

■3.個人の変容への対応

【江永】 法の方も頑張って個人未満とされる対象を扱えるように、グラデーションをつけようとしたという流れ。

【ひで】 法というのは常に手遅れの手段なんだ、でも未来の予期ができる個人にとっては、法による処罰というのは事前規制へと転化することができる。でもそういう予測ができひんやつもおるやんけ、って話ですね。

【木澤】 たとえば一定のスパンの予期ができないホモサピエンスは短期的なメリットに飛びついて、言い換えれば長期的なデメリット(=刑罰)に目が行かなくて、殺人を犯してしまったりする可能性がある。すなわちここでは刑罰による威嚇的サンクションがうまく機能していない、と言うことができる

【ひで】 それが権利主体側の機能不全なわけですね。でもそこから「そういう奴らも保護したらなあかんな」って言って労働法が出てくる

【木澤】 法が殺人を犯す自由を許容しているというのは、ある意味では個人の自己決定に対する「過信」を感じさせますね。逆にアーキテクチャによる事前的規制においては「殺す」という選択肢自体があらかじめ(脳から?)排除されているかもしれない。

【暁】 『すばらしい新世界』でちょっとでも調子悪そうなら「お薬飲む?」ってやる風潮なのは、まさにアーキテクチャによる犯罪の抑止っぽいですね。

■4.Why not be Perfect?―アーキテクチャと完全な規制

【ひで】 法の側でも、「自己決定と幸福」の一致させる能力が不足している個体が一定数存在し、国家が適切な補助や強制を加える必要があるということを認めている。

【江永】 こうしてこの部分を読んでいくと、終身雇用が当たり前だった世代って一瞬だったという話になるんですかね。「丸山真男を引っぱたきたい」なんかも当時は異様な主張という扱いが主流だった感じでしたけど、今の方が同感する人が多そうです。

【暁】 この辺りだとp130の映画『地獄に堕ちた勇者ども』というナチスBL的な話がえぐかったですね。家畜人ヤプーとかもですが、この本は出してくる例がちょいちょいえげつないなと思いました(個人的には好きなラインナップでした)。

【江永】 ハクスリーといい、えげつないけど、著者の例示がわかりやすくていいですね。

第4章 自由と幸福の行方―
不安社会/民主政の憂鬱

■1.過去への回帰願望

【ひで】 普通ではない人、外からやってきた人、特定の我々とは違う人が社会を悪い方向へ動かしているんだという不安が社会に・世の中に広がっている。それが犯罪への厳罰化や排外主義の登場につながっている。

【ひで】 昔は境界がはっきりしていた。「夜に稲刈りをしているヤツは殺す、なぜならそいつは盗人に違いないから」。でも現代では生活習慣の多様化によってそういう区切りを設けることはできない。

【ひで】 前近代的なじゃりんこチエの世界では、暴力魔の異常者が居るけども、暴行で逮捕されずにナァナァで過ごせていた。

【暁】 でも、この暴力的な人をしょっぴかずになぁなぁにするのは正義に反しているよねって話でしたね。まあ現代日本でも、女性はナンパマンを優しく断ってあげなきゃいけないとか言ってる人もいるので、まだ前近代が終わってないのかもしれませんが…。

【ひで】 ここらへんなんか話がとっちらかってません? 他者の話をしてから→前近代のヤバい風習の話をして→それでもってまた他者の話に戻っている。

【江永】 ここは前近代を理想的とする人たちに「いやそんなことはないぞ」と例示していくターンとして読むとスムーズだと思います。

【木澤】 前の章が19世紀リベラリズムを批判した章で、それに対するオルタナティブを提示してみせた上で「これはダメでしょ」って消去法で潰していく箇所なんですよね。

【江永】 見知らぬ他者の相互扶助は前近代にもなかった。少なくとも近代以降にそう思われるほど牧歌的にはなかったし、現在のコミュニタリアニズムがその水準のものを考えているならば、という話ですけど、批判している。リベラリズムとネオリベラリズムは差異化できるという姿勢も疑問視している。

【ひで】 形式的平等も「カンボジアは児童労働を禁止しているせいで外貨を稼げない」っていう風に批判されている。

【江永】 そういう形で反駁で出てきそうな対案への再反駁を並べて(あるいは、共有すべき議論の前提を増やして結論が有効な範囲を画定して)、次節に移る。

■2.新たなコミュニティ・ムーブメント

【暁】 p186の、「つまりそこにあるのは全世代を一体化させてくれる、防犯という名のエンターテインメント、街の安全を契機に構成される新しいコミュニティなのである」って書いてありますけど、これ田舎の消防団とかもこんな感じですよね。入らないと村八分にされるし。これがホラーハウスであるということですね。

【ひで】 これこの前も出た「コロナ自粛警察」とも似てますよね。

【江永】 まあ感染症の場合は感染によって全員のアイデンティティ(?)を「感染者」に書き換えることもできるわけで、此方と彼方の境界は安定していないはずですが。

【木澤】 コロナに罹っている人間は外見からはわからないんですよね。それこそ映画『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)やレプティリアン(爬虫類型異星人)陰謀論とも共振するようなパラノイアの源泉となる。

【江永】ホラーSF的な映画やゲームみたいな話にもなるし、そのまま陰謀論みたいな話にもなる。

【ひで】 「我々はその他者たちの陰に怯え、現実には生じない危険に立ち向かうという状況を楽しんでいるということになるのではないだろうか」とまで書いてありますね。

【木澤】 拡張現実感がありますね。

【ひで】 で、こうしてゲーテッドコミュニティが生まれる。「しかし安全が感じられればいいのだ」

【江永】 ホラーハウスって何が悪いんでしたっけ?

【暁】 p187で「永遠に鎮まらない不安を抱え込んだように思える」と書いてあるので、結局そうやって異物を排除しても、安心は手に入らないのが問題なんですね。

【木澤】 分断を生むからじゃないですか。「他者への排除を生む出すことになる」。結局ホラーハウスでは監視する側とされる側が画然と分かれているんですよね。その秩序は、権力が固定化されているから逆転することはない。そういうのは良くないからミラーハウスにしようね、っていうのがこの辺の論点になるかと。

【江永】納得しました。犯罪者が減るのはよいことだが、犯罪者っぽい奴を探して排除するパラノイアは悪で、ホラーハウス社会は、自分たちより立場が弱い者たちを怪物扱いすることで結束する体制だから悪いわけですね。究極的にはコミュニティの中で不安や不和を感じたら怪物がいて脅かしているということになり、怪物役を決めていなくなるまで攻撃する流れになると。例えば環境問題を宇宙人のせいだといって宇宙人役を押し付けた人々を地球から追い出すまで攻め苛んで済ませるような社会なわけですね。

【ひで】 それこそ宇宙人が攻めてきてそれが人類にとっての他者になれば人類は団結すると思うんですよね。う〜ん……環境問題ってそういう団結を促してもおかしくないはずなんですけど、現実には…。

【江永】 ランド的な加速主義を、そういう危機がくれば目覚めて団結する的な逆張り終末論というか、ゼロレクイエムを陰惨にしたものみたいに解する立場もありますよね(加速主義が全てそういう思想かと言えば、ちょっとわからないというかたぶん違いますし、ランドもそういうことばかり言っていたようには思えないところがあるのですが)。ランド自身はSFホラー的な絶滅の話とかをもうしていない印象がありますが。

【木澤】 それとは逆に、人類の絶滅可能性(=X-Risk)はコロナによって今や現実化してしまった、という側面もあり……。

■3.アーキテクチャと「感覚のユートピア」

【江永】 ソラリス、ソラリス……アーキテクチャと感覚のユートピア。(追記:これで私が何を言おうとしていたのか、私にも何も思い出せません)

【木澤】 ここの章はもう皆わかっているからいいんじゃないですか。

【暁】 読書会頻出ワードですもんね(笑)。

【江永】 p197は人格廃止って打ち出している向きもあるよって話ですね。ある種の功利主義ガチ勢になると、現在と未来の自分を区別することも辞めるようになるんだなっていうのが面白かったです(自省するのですが、効果的利他主義者などからすれば、この手の、というか私がこう語るような功利主義の雑な語りが一番タチのわるいものなのでしょうか)。あと、感覚主体が人類じゃなくてもいいというのも印象に残りました。

【暁】以前の読書会で木澤さんが人格の廃止とソラリスの海につなげて話してたので、てっきり『統治と功利』の安藤馨さん由来か、木澤さんの発想だと思ってたんですが、この本の著者・大屋さん由来だったとは知りませんでした。キマッてますね。

【江永】 快楽物質の総量を問題にするのであれば、人類という種を超えて快楽を最大化される一つの存在へ融合される、というのがある種の功利主義的な構想が必然的にゆきつくビジョンの一つだとされている。

【ひで】 でも僕たちが生きてる間に実現できませんよね。状態変化界隈では他人と融合してキモチイイみたいなジャンルもあるんですが。

(※R18G作品です https://www.pixiv.net/artworks/68362891)

【江永】イメージは色々提出されてますよね。私はひでシスさんの状態変化もの作品を見ると、クレイアニメとか、あるいは、ある種のボディ・ホラー系の作品を思い出します。他人と融合というか、外部をとりこんで巨大化する系のやつ。映画『もののけ姫』(1997)のサンがタタリ神と化した乙事主に埋まりそうになっている場面とか、映画『メトロポリス』(2001)のティマが機械と融合する場面とかが自分の原風景的なものになっているんでしょうか。映画『AKIRA』(1988)の鉄雄が巨大化していく場面とか、色々な系譜を遡っていけるんでしょうが。もっと肉肉しい自他の融合イメージだと、前に読書会した沙耶の唄とかありましたね。人体は粘土じゃないし、融合の"実装"はそうはいかないでしょうけど。

【木澤】 イーロン・マスクがニューロリンカーを実現化して全人類の感覚を共有させれば可能かもしれません。一番手っ取り早いのは全人類にLSDを配ること(追記:これで私が何を言おうとしていたのか、私にも何も思い出せません)。

■4.ホラーハウス、ミラーハウス

【江永】 p203の「仮にこれらの選択肢を全てしりぞけたいとすれば、我々にはどのような道が残されているだろうか」以降が、今までの章を受けての結論というか打ち出したいビジョン。今までの話は、これから提示するビジョンへのいわば先回りしたクソリプ潰し(丁寧に言うなら、予想される反駁への予めの再反駁)だった。

【暁】 まあでもその丁寧な説明がこの著者の良さでもありますね。

【江永】 そうですね。で、心の中の看守を復活させることが語られる。

【木澤】 著者の大屋は安藤の「個人なきリベラリズム」の構想に批判的ですね。著者の前著『自由とは何か』では、「自由な個人はいまだなお信じるに足るフィクションであると、なお主張しておきたい」と述べていました。そこであくまで「個人」という擬制は担保したままでホラーハウスを超克する戦略を採ることになる。

【ひで】 それでホラーハウスに対する批判に繋がってくる。

【暁】 ホラーハウス路線を取ると、社会が分断された上に境界を変えようがないので行き詰まるという話ですね。ホラーハウス社会において、「闇の自己啓発」なぞをやっている我々は間違いなく怪物として排除されるわけですよ。

【江永】 ……という自己認識の下で「闇の自己啓発会」の名のもとに団結し外敵に備えるの自体がホラーハウス的だと言われてしまいうるわけで、難しい。仮に「闇の自己啓発会」は誰にでも開かれているみたいに言ったって、そんなの嘘だ、って周りから攻撃されたら本当に排他的(というか敵か友かありきの態度)にならざるを得ないわけで。だからこそ、ホラーハウス化を寛容や歓待の心で押しとどめるのは難しい。寛容や歓待の敵が何者かという特徴づけを行う過程自体が寛容や歓待を骨抜きにしてしまうから。つまり寛容や歓待のために予め排除すべき存在、”彼ら”へのパラノイアックな敵意を涵養するから。

【ひで】 加えて、無根拠な安心感のもとに、無弱に治安管理を社会に招き入れるのが良くないなって話をしていますね。で、外国人の指紋管理の話が出てきて、「外人だけにするなんてアカンから、いっそのことやめろや」って話と「日本人全員にもしろや」って話が出てくる。

【暁】 後者が「ミラーハウス」ですね。p215で「全員が等しく監視の目の下に置かれ、そのようなものとして平等であるこの社会を、ミラーハウスと呼ぼう」としています。

【木澤】 ミラーハウスが中国の監視社会との違いがあるとすれば、市民の側も統治者を監視するっていうところにあるんですよね。この点についてはベンサムも同じような主張をしていた、と。ミラーハウスにおける、監視の遍在によって「個人」をエンパワーメントさせようという発想は、ある意味では近代的リベラリズムの現代的アップデートの試みでもある。「自由な個人」が機能不全となった現代にあって、監視による内面の規律を常に注入させ続けることで「個人」をシャキッとさせるというか。このヴィジョンはどことなく、ヒロポンでシャブ漬けにした「個人」を大量生産していた戦後を想起させるのですが……。

【江永】 ミラーハウスは、みんなが監視されて嫌な思いをするから平等だし正義にかなっている、っていうことになるんでしょうか。

【ひで】 「他者に危害を加えない限り人間は何をしてもよいのだ。」っていう原則が忘れ去られているのはめっちゃむかつきますけどね。まぁでもそれは予防のためにはしかたなく捨て去るという思想なんでしょうけど……。

■おわりに 三つの将来

【暁】 最後にゴーギャンが引かれてて急に詩的な感じの終わり方になってていいですね。

【江永】宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』 文庫版(2017)の表紙がゴーギャンの絵だったのを思い出します。最後に出てくる3つの選択肢って、自由と幸福を両立させるための選択肢なんですよね。

【木澤】 ハイパーパノプティコンってみんな不快な思いをするのに幸福なんですかね。

【ひで】 幸福じゃないと思いますよ。ハイパーパノプティコンやばすぎでしょ。予防のために自分の一挙一動を監視されるんでしょ。ぼくがやっている行動の真意が他の人になんかわかるわけがないし、介入されたくなんかもない。

【江永】 監視者の能力を高く見積もりすぎな気もします。

【木澤】 アーキテクチャが解決するんじゃないですか。AIとか。現にYouTubeではAIが動画の検閲をしていますよね。画面上に占める肌色の率が高いとBANされる。

【江永】 それを万人による監視と呼んでいいのだろうか、という疑問もあります。そうした垢BAN的措置を「人」による「検閲」のようなものとして比喩的に理解すること自体も批判できそうな気がします。

【木澤】 この本の結論ではミラーハウス的な社会がもっとも妥当な選択肢として提示されていましたが、これは現在の中国の社会制度とも共振している部分があって興味深く思いました。

【ひで】 たしかにそうなってますね。

■どのような社会に住みたいか?

【ひで】 ぼくはミラーハウスなんて完全に反対なんですけども、皆さんどうなんですか?

【木澤】 ぼくはその少し前に出ている感覚のユートピア派なので。

【江永】 「人格の廃止」とかは、パワーワードですね。

【暁】 感覚のユートピアは読書会で度々言及してますもんね。本全体としても、1984とソラリスとハーモニーなどが出てきていて、凄く既視感がありました。

【木澤】 それと本書には出てませんが『沙耶の唄』もこの読書会の頻出ワードですよね。

【江永】 ソラリス、ハーモニー、沙耶の唄は「人格廃止」の鉄板セットみたいなとこ、あるかもしれませんね。

【木澤】 「人格廃止」三人衆を連れてきたよ、みたいな。

(一同爆笑)

【ひで】 ぼくはこの本を読んで感じたんですけど、感覚のユートピアの全くの正反対であるみんな引きこもる社会がいいと思ったんですよね。そうすれば、監視もされないし内面を追求できる。ロリマンガを書いていても、ミラーハウスみたいに他人からツッコまれることもない。みんなが引きこもっていたら社会じゃないかもしれないですけども。

【暁】 僕も意識喪失したいので、“感覚のユートピア”か“家畜人ヤプー”的な世界を期待したいですね。家畜人ヤプーはそのままやると人種主義等々問題しかないのでダメですが、家畜と主人(人間とそれ以外の組み合わせ・カップルに限らない関係性も想定しています)のマッチングが成功したユートピア(?)的なものへの憧れはあります。
 あとはやっぱり沙耶の唄ですね。マジョリティは往々にしてマイノリティに変わること・適応することを強要してきますが、本当に変容させられるべきはマジョリティの方だと思うので。開花ENDにたどり着きたいです。

【江永】 私は、あがっている選択肢が全部嫌だから、駄々をこねるみたいになってしまうかもしれないけど、話の前提を変えて別の社会像をひねり出したいです。みんな自由の重荷が好きなマゾになるのはアリか、とか。あるいは、自由か、幸福か、という二者択一でしたけど、自由も幸福も第一の目的にするのやめたらどうなるか、とか。自由や幸福を手段にするような、自由でも幸福でもない目的を設定したいなと思いました。

【木澤】 そもそも江永さんはベンサムの快楽価値説を完全否定しそうですよね。

【暁】 たしかに。快じゃないことがマゾには快なのだって言ったら解決ですし。

【ひで】 5時間ぶっ続けでやったので疲れましたね。

【江永】脳がビキビキします。とても疲れました。

【暁】 この疲労すらも快になったような気がします。お疲れ様でした!

次回は、喬良『超限戦-21世紀の「新しい戦争」』(角川新書)を予定しています。お楽しみに!(追記:2020年9月に開催済)

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