折に触れて (日露戦争 4)

1895年10月8日というから今日からちょうど125年前の話になる。開化派、大院君派などの朝鮮人壮士に少なからぬ日本人が加わり朝鮮王宮に突入するクーデターが発生した。彼らは閔妃を殺害し、その遺体を焼却する。身体髪膚を毀損するのはこの上ない親不孝として厳しく咎められる儒教道徳の国である。遺体の焼却はクーデター勢力の閔妃への憎しみを物語って余りある。これを後ろで糸を引いていたのは日本の三浦梧楼公使だと言われている。朝鮮のクーデター勢力の憎悪と(日本政府の意思が確認されないままに)ロシアの南下政策に朝鮮が取り込まれてゆくことを座視出来なかった長州奇兵隊出身の三浦の血の気が融合したというべきか。当時の観点からもこのクーデターは蛮行であるとされている。こともあろうに王室の皇后を殺害したということがどうしても引っかかる。どういう経緯や理由があるにせよやり過ぎの誹りは免れない。閔妃が倒れるとお定まりの大院君が復活して表面に出て来る。違った意味合いでのお定まりの無定見も始まる。ロシアのシンパの閔妃を倒したのだから日本のシンパとして大院君は振る舞う。大国の勢力に振り回される悲しさかも知れないが、清・日本・ロシアの間でその時点で強いものになびくのは閔妃も大院君も全く変わりがない。
 1895年は忙しくかつ有為転変目まぐるしい年であった。整理してみたい。日清戦争が決着し、朝鮮半島における日本の優越的な指導性が確立し、大院君が政権の表面に復帰した途端にロシアの力を借りたクーデターを決行し、閔妃は大院君から政権を奪還しロシアを優遇する政策を始める。それが上記の閔妃殺害を含む再度のクーデターにつながっているのである。日本はロシアの朝鮮半島への影響力を排除するために既に朝鮮からロシアに売り払われていた鉱山の採掘権を始め、朝鮮北部の森林伐採権、関税権などを朝鮮政府に圧力をかけて買い戻させる。その上で日露戦争となった後の1904年8月には第一次日韓協約を朝鮮政府と取り交わし、朝鮮に局外中立をさせ、財政・外交については日本の顧問との事前協議を強いることになる。この時点の事実として記憶しておかねばならないのは、日本に併合を望む朝鮮人勢力があり、鉄道工事などの近代化工事に5万人が協力したりしたのである。方や朝鮮国王高宗やそれを取り囲む既得権益層である両班は禁止されているロシアとの連絡を秘密裏に行ない、日露戦争中も何とかして政権復帰出来るように画策していた。
 かかる環境の中で日露は一触即発の1904年を迎えていた。日本は2月8日旅順港への駆逐艦の奇襲攻撃を決行し、この戦争を始めた。

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