折に触れて (日露戦争 6)

日露戦争の戦闘の経緯はそれこそ「坂の上の雲」などで活写されているので本稿では避けることにしたい。主要な流れを取り上げると鴨緑江渡河戦から始まり、旅順港の閉鎖、旅順要塞攻略戦、奉天会戦、日本海海戦あたりとなろうか。それに付随して前後に行なわれる遼陽会戦、黄海海戦、黒溝台の戦い、それに日本海でのロシア側のウラジオストック艦隊による補給線の寸断とそれを阻止する日本艦隊との戦い、逆にシベリア鉄道の輸送を妨害するための少数の日本側騎兵ゲリラ部隊の戦いなども無視できない。また、ヨーロッパで地道にレーニンなどを指嗾して、革命の火を熾す努力を続けた明石元二郎の努力も無視できないし、金子堅太郎や高橋是清の戦費調達活動も大きく貢献した。
 日本は明治維新以降、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と自国よりも領土の大きい相手との戦争を繰り返したが、いずれも相手を屈服させる戦いではなかったことでは共通している。相手国の首都を占領したり、主要生産拠点を完全に抑えて経済的に屈服させるようなことは出来ないのである。この日露戦争も同じで、開戦前に小村寿太郎外相は「(ロシアの)死命を制する能わざる」戦いだと正直に述べている。当時も今も遠く離れたロシアのサンクトペテルブルグやモスクワを占領する力は日本にはない。生産拠点はヨーロッパ側にあって、シベリアを経由して攻めて行き、それらを機能させないように制圧するのは首都攻略同様に不可能である。あくまで朝鮮半島を自己のコントロール下に置き、日本とロシアとの緩衝地帯にするのが目的であって、その意図は明確であった。それゆえ、元老伊藤博文自身が語るように同じロシアの南下に懸念を抱く英米の番犬にすぎないとも言える日本の立場をよく理解していた。開戦5ヶ月にして小村寿太郎は閣議で講和の模索を提案し、「直接に列国の利益を害することなき範囲」で講和したいとガイドラインを示している。物事の成否は準備の精密さに相当程度依存するが、このような周到な準備と配慮をした日露戦争と第二次世界大戦を比較すると同じ日本人とは思えないほどの叡智の格差を感じる。学校秀才の知恵では到底及ばない叩き上げの叡智とでも表現できようか。クラウゼウィッツは「戦争は政治の延長」にあると述べ、孫子は「人に致して人に致されず」と言うが、兵書を座学で読んだ秀才の官僚や軍人と、実際に明治維新以来銃弾の下を走り回った人間との肌感覚の差なのかも知れない。
 1905年9月ロシア全権ウィッテと日本全権小村寿太郎が握手し、ポーツマス講和条約が結ばれる。アメリカのセオドアルーズベルト大統領が仲介した。

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