これまでの仕事
これまで、井本健が携わらせてもらった仕事について、少し書いています。
私は、本当に多くの社長、社会人の方にお誘いいただき、大学1年生から長期インターンシップとして様々な会社で働かせてもらいました。
どのような経験を経て、なぜ興味を持ち、今に至るのか、プロフィールで書いているよりも少し詳しく、井本健について、理解いただけると思います。
有限会社キャンパスシティにて、「合宿.com」の運営企画
高校卒業後、東京へのキラキラした妄想と社長に憧れを抱き、山口県から上京しました。
とにかく、社長になるために、当時流行っていた、GREE、mixiで多くのIT系社長にメッセージを送り、会いに行きました。その中で、キャンパスシティの学生起業家、濱田社長(現、メルカリCINO @yukihamada)に「長期インターンシップとしてで働かない?」と誘っていただきました。
任された仕事は、「合宿.com」という合宿所と合宿したい団体をマッチングするサイトの運営した。担当は1人。
HTMLを知らないのはもちろん、ブラインドタッチすらできない学生だったのですが、本当に毎日、夜遅くまでITビジネスについて教えて下さいました。
ほぼ毎日、ご飯にも連れて行ってもらいながら、「サーバとは?」というITの仕組みから、「世の中がインターネットでどう変わるか」まで社長と直接話すことで刺激をもらっていました。
仕事内容は、毎日、毎日、全国の宿に電話をして、サイトに登録してもらい、登録フォームから来た問い合わせに対応し、人力でマッチングさせるというものです。マッチングビジネスを運営するなかで、インターネットビジネスは世の中を変える可能性を秘めていると強く感じることができました。
実は、自分が「はたらくこと」「インターネットビジネスへの可能性」はここにあるかもしれないと思っています。
株式会社ドリコムで学生ビジコン運営、ドリコムブログ営業
当時、IT系、インターネットに可能性を感じていたので、様々なビジネスコンテストに参加していました。
その中で、参加させてもらったビジネスコンテストの主催企業の株式会社ドリコム人事だった宮崎謙介(@miyaken0117)さんに「うちで働かないか?」とインターンとして誘ってもらい働かせてもらうことになりました。
当時は、ドリコムは上場間近ということで、少し、ピリついた環境の中、LOCUSの瀧さん、アカツキの熊谷さん(@yujikumagai_)らとともに、インターン生として本当に多くの優秀な方と働かせてもらい刺激をもらいました。新卒第一期生も非常に優秀な方が多かったと思っています。
仕事は、ドリコムで実施していた学生ビジコンの運営でした。
ミッションは、優秀な学生を集めて、オモシロイ学生を見つけ出すこと。
多くを語ることはできないのですが、運営の中で、いろいろと失敗をして、「インターン生が勝手に動くな!」ということで内藤社長から、当時の担当が怒られ、営業に配属にりました。
営業部では、「営業の達人」と呼ばれていた吉田さん(現在クラウドワークス @yoshidaCW)がマネージャーでした。
夜になってから、営業資料の解説や説明会などが開催され、仮眠室で寝て流人たちを間近で見ながら、これが学生起業家で上場した会社の勢いか!というのを身近に実感していました。上場の日の六本木はいかにも学生ベンチャーという勢いでした。
株式会社手嶋屋で社内SNSの企画、運営、営業、開発
引き続き、ビジネスコンテストには参加し続けていたのですが、株式会社手嶋屋というオープンソースのSNSエンジンを作っている会社で、学生を対象とした、ビジネスコンテストがあったので参加しました。
当時ドリコムではブログ主体の営業をしていたが、より社内へのコミュニティを強化したSNSの必要性を感じていたときでした。
そのことを、ビジネスコンテストでプレゼンしたところ、ちょうど、PNEBIZという手嶋屋が開発しているSNSエンジンを活用したASPサービスを展開するので、「うちで働いてみない?」と社長の手嶋さん(@tejima)に誘っていただき、手嶋屋内で、企画、運営、営業、開発に携わることになりました。
営業は、私の他に1人。当時、PHPについて、勉強しながら、少しカスタマイズをしながら携わらせてもらいました。
当時、社内のコミュニケーションは、まだまだメールの時代。チャットがない時代に、社内SNSを売るのは本当に難しく、先進的な企業だけが導入していました。(定着したかどうかは微妙だと思います)
このときに、社長の手嶋さんには、オープンソースの考え方のおもしろさを教えてもらいました。伽藍とバザールは今でもバイブルです。
SNSを活用したスカウト型新卒紹介事業「就活カレッジ」の企画、運営、営業、開発
手嶋屋でのインターンを通じて、SNSの可能性を感じていたので、なにかSNSを活用したビジネスが自分に出来ないかと模索していました。
コトノハというSNSを通じて知り合った、遠藤さん(現 株式会社TypeBeeGroup)と「なんかオモシロイビジネスをしたいよね」ということでオフ会で意気投合して、ビジネスモデルを毎日考えていました。
当時、遠藤さんは、ネオキャリアという人材会社に勤めており、同じ赤坂で勤務していたので、良く地下の中華屋さんでお昼に集まってミーティングをしていたのを覚えてます。
僕は主に開発側を担当していたので、エンジニアを探して、遠藤さんは、人材領域で知見とノウハウを吸収して、「SNSを活用したスカウト型新卒紹介ビジネス」をすることに、なんとなくの方向性が決まりそうでした。
GREEN DAYがが好きで、社名はマイノリティにしようなどと盛り上がっていたのですが、創業時にネオキャリアの西澤社長に、独立するならネオキャリアの子会社で。という話になり、最終的には、ネオキャリアの子会社として、就活カレッジを立ち上げ、インターンとして参画することになりました。
SNSの開発は、企画、設計のみ。コーディングは外部に委託をすることにして、スカウトサイトを構築しました。営業とインターン生の組織化をしながら、就活カレッジの新卒紹介事業の立ち上げに参画。
株式会社手嶋屋でエンタメSNSの企画、営業、OpenPNE公式書籍発売
就活カレッジが軌道に乗り、私自身も、就職活動を終えたあと、再び、約半年ほど、インターン生として、手嶋屋でのエンタメ系SNSの企画、営業に携わらせてもらうことになりました。
赤坂から移転して、新宿御苑前で、スクエアエニックスのゲームSNSの企画営業、また、手嶋屋監修のOpenPNEオフィシャルガイドブックの執筆活動を手伝い、大手企業への資料作成や、出版などの大変さを実感しました。
株式会社武蔵野で、ダスキンルートセールス、法人セールス、総務課長
22歳で新卒として入社を決めたのは、株式会社武蔵野という会社でした。
大学2年生のときに学生団体のイベントで初めてお会いした社長の小山さん。当時、「儲かる仕組み」をつくりなさい」という書籍が発売された頃で、当時は入社なんて全く考えていませんでした。
数々のベンチャー企業の経営を間近でみてきた中で、最終的には、社長の小山さん(@KoyamaNoboru)の「潰れない会社をつくる」という信念に共感し、社会人として1社目に選びました。株式会社武蔵野の事業内容は、経営コンサルティングとダスキンの代理店をやっている会社です。
持ち前のハードワーキングと提案型の営業スタイルで入社すぐにトップ営業となることができました。朝6時過ぎには出社、支店に戻るのは22時過ぎ。そこから、資料の作成などをしていました。夜中の12時を回って営業をすることも多々ありました。今、そんな働き方は許されませんが、当時は、とにかく働いて、働いて、成果を上げることに必死でした。
複数回の成績優秀者、優秀社員賞などを経て、3年目で総務課長となることができました。
社長の小山さんの近くで「潰れない会社をつくるためには何をすべきか」を肌で感じながら、総務課長として、社内のマニュアル整備、IT化などバックオフィスを改革をしつづけました。
吉南運輸で、営業、倉庫課長で赤字を黒字化へ
その後、25歳で家業の吉南運輸株式会社へ入社。
当時、吉南運輸の営業所は、山口県から茨城県まであり、茨城県の営業所を撤退した翌月に入社しました。
私自身は、初めての物流業。営業は得意であったものの、物売りとは違う営業に悪戦苦闘。8月に運行管理者合格しつつ、物流の知識を身に着け、営業と倉庫の改革をすすめました。
得意な飛び込み営業と、テレアポ営業で、EC関係、自動車部品サプライヤーを中心に新たな仕事を取り込み、粗利改善、不採算事業からの撤退などを経て、約1年半で黒字化へ。
ニオクルで、物流マッチングサービスの開発
吉南運輸で営業をする中で、配車、お客様、現場の間に立ち、意思疎通が取れず悩んだことが多くありました。
この配車の非効率さ、運送業界の多重構造に疑問を抱き、「インターネットの力でなんとかしたい。」という想いで、「荷物を送るをもっと簡単に」をコンセプトに、ニオクルというサービスを開発しました。
山口県でエンジニアを見つけ、毎日、会社の帰りにマクドナルドに寄り、1杯のコーヒーで、数時間Macを開きサービスの開発を深夜までしていました。
多くの方に、ビジネスモデルについてのレビューをしていただいたり、エンジェル投資家の方にも話を聞いていただきました。
加藤順彦さん(@ykatou) には、無理やり岡山に押しかけて話を聞いてもらい、アイデアを膨らませたり、家業とのバランスについてアドバイスを頂きました。
サービスのティザーサイトをオープンすると、東京でのニーズが高いことがわかり、最終的には、吉南運輸を離れ、独立して、活動の本拠地を東京に移しました。
結婚し、子どもが産まれる中で、個人で約1,500万円の借入をして、家族とともに東京世田谷区へ引越し、 ニオクルへ注力しました。
オープン後、登録者は右肩上がりで伸び続けるも、粗利の低さと配車をネットですることへ抵抗感から、なかなか需要が伸びず、宅配にピボットすることになりました。
ウィルポート株式会社で地域物流(宅配)と宅配ボックス事業立ち上げ
宅配といえば、大手ECを落とせば、荷物はあると考え、Amazonへの営業をすすめる。
知り合いの紹介で出会った方とともに、日本の地域物流を変革するために、ウィルポート株式会社を共同創業し、日本最大手のEC事業者の地域物流を受託し、2年目で売上高数億円の事業成長を遂げる。
また、地域の再配達問題を解消すべく、誰でも使えるオープン型宅配ボックスの開発を実施。経済産業省の次世代物流構築事業に採択される。
キチナングループへ復帰し、グループ経営の基盤構築
現場での非効率さを解消するために、東京に出ていったが、結果的には、物流業となってしまい、自分自身が何のために、会社をやっているのか見いだせなくなっていました。
成長戦略の中で、複数、事業売却の話をいただいたが、最終的には、ニオクルを解散、ウィルポートを共同創業者へ譲渡することにしました。
そして、私は、お客様、先輩経営者、先輩事業承継者、社長からの言葉もあり、最終的には、キチナングループへ復帰することを決め、本拠地を山口県に移しました。
入社後は、経営企画として、新卒採用の強化、グループ内教育の強化、不採算部門からの撤退、環境整備定着化、複数のグループ会社の就業規則、人事制度統一、社内のIT化推進(Gsuite,Slack,zoom等)とさまざまな小さな改善を繰り返してきました。また、新たな事業領域として、医薬品物流への進出も果たし、子会社社長を経て、2020年5月、キチナングループの代表に就任しました。
施策定着はまだなところもありますが、少しずつ、グループとしての一体感と新たな事業モデルを構築する素地が出来上がってきている気がしています。
2020年6月6日 経営計画発表会にて
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