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錯覚によって「意味」が生じる−マネージャーの役割と新卒協力隊が出来ること−

みなさん、こんにちは。

なぜ、朝礼で大声を出させる組織が存在するか

現在、親会社であるホールディングス傘下のグループ会社のメンバーと共に新たなビジョンを策定するというミーティングに参加していまして、私はその中でも浸透させる方法を考えるという役割なのですが、過去のビジョンを浸透させる取り組みとして、社内でビジョンを大声で唱和させていたという驚愕の浸透案を耳にしました。

そういうやり方って確かにあります。工場とか飲食店とか、割とやっていますね。なぜかと言うと、人材の質が「ピンキリ」だからです。だから、足並みをそろえるために、接客の挨拶とか理念やビジョンを唱和させてるのですが、この方法を採用するというのは明確に「あなた方社員やアルバイト一人ひとりの能力を査定できていません」ということや「採用時点で優秀な人材を集めることが出来ていません」ということをそれ単体では無言のうちにメッセージとして発信しているに他なりません。

マネージャーの仕事とは

さて、今回のテーマは「マネージャーの仕事は『意味』を伝える仕事」だということです。結論から言いますが、できるマネージャーは今している仕事の『意味』を分かっていて、それを説明することができ、納得させることができなければいけないと思います。意味を伝えて、役割を与え、正しく報酬を設定し、最後にはすべての責任を取ること、これがマネージャーの仕事です。チームのメンバーのすべてが、仕事の意味を十分に認識していて、報酬もきちんと提供していて、失敗がなく、成果が出続けている組織にマネージャーは必要ありません。マネージャーの仕事がないからです。今回は、そんなマネージャーの仕事の中でも、特に【意味を伝えること】について話します。

全部が華々しい仕事はない

バックオフィス系の仕事は言わずもがな、フロントオフィスの仕事であったとしても、仕事を単位で見てみると、華々しい仕事なんてほとんどないです。それを単に「作業」としてみるか、ストーリーを踏まえた「仕事」として取るかは、その意味性をどれだけ理解できているかどうかです。そして、それらの「作業」に陥りがちな業務をしているスタッフは、なかなか大局観をもって「物語」を認識できないわけです。

だから、マネージャーはメンバーにその「意味」を伝え続ける必要があります。あなたには、これだけのことを期待していて、この仕事を任せている意味や、あなたがしている業務はどこの誰の笑顔につながっているという意味を伝え続けないと、すぐに「作業」に「歯車」になってしまうのです。

それをやる気出せと言い続けるという対策しか出来ていなかったり、とにかく「やりたいこと」を問い続けたりするマネージャーは、彼らもまたマネージャーが存在する「意味」を認識していません。組織にはリーダーやマネージャーという形は違えど、組織を率いるメンバーを「なぜ」含めないといけないかが理解できてない。

僕は、意味を伝えられない世の中のほとんどのマネージャーを責めたいわけではありませんので、もう少し細やかにこの[意味を伝えられないこと]について考えてみたいと思います。

少し余談ですが、私が、青年海外協力隊に行ったときに感じたお話をしたいと思います。

錯覚によって学び・仕事の意味が発動する

私は、新卒で協力隊へ理数科教員として参加しました。教員として、生徒に向かったのは教育実習だけ、教員免許のみ持ち合わせている自分に何ができるのかはいつも向かい合わざるを得ない自分に対する問いでした。周りに10年くらい教師としての経験を積んだ同期の教師隊員から、シニカルに「お前に何ができるんだ」という言われていたこともあって、常にこの問いが頭から離れなかったわけです。

そんな問いとずっと向き合いながら、実際に現地での指導を始めて何か月か経ったあと、ようやく自分が納得できる解と出会いました。

それは、【教育というものは教師が100教えたら、生徒の理解力や教師の指導力に応じて、-20や-30と目減りしていくものではない】ということです。

この教師の話すことには、耳を傾ける価値があるとさえ生徒に思ってもらえれば、たった1しか教えてなくても、その学びは100にも200にも、1000にもなり得るということです。教育というものは、教えた総量から目減りしていって、生徒の学びが完結するような、そういうシンプルなゲームではないということですね。

だから、語弊を恐れずに言えば、教師なんて誰でもできるのです。なぜかと言うと、生徒の学ぶ力が最も重要だからです。

学びは「錯覚」から生まれる

これを端的に象徴する出来事がありました。生徒が優秀な教員を投票で選び、表彰するという年に一度のイベントでの出来事でした。酒が入ったペットボトルを授業中に携えて、煙草をふかしながら、授業を行う不良教員が、生徒による得票を最も多く得て、その年の最優秀教員になったということです。

本当に驚きました。
冗談で選ばれたのかと思いきや、生徒は大まじめに彼に票を投じていたのです。

なぜかと言うと、彼は何も教えてないし、教員としての態度も最低だけど、時々発する発言が生徒にとって(←ここが重要)含蓄に満ち溢れていたからです。いや、もう少し丁寧に表現すると、そう思わせること、つまり錯覚させることに成功していたんですね。この錯覚の中において、学びが最大化されているのであって、教師の指導力や経験と教育の結果としての学びの総量とは無関係であるということです。それを理解した。

つまり、教師は生徒から「なんだかわからないけど、この教師が言うことを聞いておかないとダメな気がする」とか「こいつが言うことは聞くに値することである」「自分の人生にとって、死活的に重要なことを言っている」と【錯覚】させれば、学びは青天井に膨らんでいくということですね。

そうだとすれば、教員経験のない自分にだって、教師としての役割を全うすることが出来る。学びを最大化させることが教師の役割だとすれば、拙い指導や語学力、圧倒的に足りていない指導経験は、その役割を果たすのに無関係だから。

教師もマネージャーも意味を錯覚させることで成立する

話が随分それてしまいましたが、、こういった錯覚を意図して促すためには、「意味」が重要です。でも、意味なんて全部を事細かに伝えることは不可能です。伝える側が折に触れて、目の前の「点」としての事象の意味を物語として伝えてあげて、「線」にしてあげることが重要なのです。そうしていると、伝えられた側は、勝手にその「意味」を解釈(=往々にして錯覚)してくれます。

これは、映画「ベスト・キッド」と通ずるものがある。いじめられっ子のダニエルは強くなるために師匠のミヤギから空手を教わることになりますが、ダニエルが師に仕えて当初は、洗車とか庭掃除をやらされるわけです。ダニエルには、その意味がわからない。もっと実践的なパンチの繰り出し方とか、キックのよけ方を教えてほしいわけですね。

そして、ある日ミヤギは、その意味を話すのです。車の窓を吹くそのアクションというのはパンチのさばき方を、箒で枯葉を掃くのはパンチを繰り出す腰の動き方をわからせるために任せていた仕事であったことを、という具合に。

そして、ダニエルはそれらの作業に「意味」を見出すわけですが、およそ師匠のミヤギにもとよりそういう意図があったとは思えません。つまり、この瞬間にミヤギはダニエルに任せた無意図な作業に意味性を見出させ、ミヤギからの作業のすべてはダニエル自身が強くなるために意図的に仕組まれたという物語を錯覚させることに成功するわけです。例えば、これからダニエルの強くなるという目的に整合しないことをミヤギがダニエルに作業として課したとしても、学びが物語において発動していれば、無意図的に指示した様々な事柄に対して、ダニエル自身は自動的に意味を付与し続けるわけです。これは伝える側の能力とは無関係です。そう思わせさえすれば、物語の中において解釈が発動し、学びが発動するわけです。

だから、時々意味を伝える

時々でいいんです、意味を伝えるのは。意味を錯覚してくれない状態で会社の理念やビジョンを唱和させたら、額面通りにそれを受けとるだけですし、何の効果も発しません。唱和させることで伝わる額面通りのメッセージは、あなた方社員やアルバイト一人ひとりの能力を査定できていません」「採用時点で優秀な人材を集めることが出来ていません」ということです。いやいや、まさかそんなそんなことさせるわけがないよな、、、と思ってもらうことが重要です。

それでは、アディオス

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