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フランクルの人間観と思想をもっと知る(知の教科書フランクル・諸富祥彦)

フランクルの言葉は、人生を諦めかけ、自暴自棄になり、「もうすべてを投げ出してしまいたい」と思っている。そんな人の魂を揺さぶって「もう少し生きてみよう」という思いを掻き立てる力を持っているのだ。

「何か」があなたを待っている。
「誰か」があなたを待っている。
私たちは、常にこの「何か」「誰か」によって必要とされ待たれている」存在なのだ。

(序章より)

ヴィクトール・フランクルの本は「夜と霧」「それでも人生にイエスと言う」を読んだがそれらには書かれていなかったことが多く書かれていた。

フランクルが取りあげられる際にはアウシュビッツの強制収容所での出来事にスポットがあたるが、提唱したロゴセラピーや実存分析は収容所に送られる以前から考えられていた。それよりももっと驚くのはフランクルが4歳のときに「生きる意味への問い」に目覚めたということ。

ある晩、眠りに入る直前にはっと飛び起きたことがある。
自分もいつかは死ななければならないと気づいたからである。
しかし私を苦しめたのは、死への恐怖ではなく、むしろただひとつ、人生の無常さが人生の意味を無に帰してしまうのではないか、という問いであった。

P36 WNMF「フランクル回想録」

この本は、大きく分けて2部構成になっている。

◆第一部 フランクルの生涯と思想形成

ウイーンのユダヤ人家庭での誕生からフロイト、アドラーとの出会いと別れ、結婚、強制収容所、そして再婚。様々な出来事がおきる中でフランクルの思想の変遷がわかりやすく書かれている。

◆第二部 フランクル思想のキーワード

第二部がこの本のメインであると言える。

1.「苦悩する存在」
人間存在の本質は「悩み苦しむこと」にあると考え、その「ただただ悩み苦しむこと自体」にすでに意味がある。
「人間が人間たるがゆえん」を「苦悩する」という点に見出して「人間は苦悩する存在(ホモ・パティエンス)である」と言った。
また、フランクルは「苦悩」を一つの「能力」と捉えた。

2.バイ・ザイン(もとにあること)(Bai-sein)

正しい苦悩とは何か。
それは「何かのため」に思いを馳せるような苦悩である。自己目的的な苦悩ではなく、「何かのため、あるいは、誰かのため」の苦悩である。
自己目的的になった途端、苦悩はすぐにマゾヒズムに転化してしまう。

フランクルは人間精神の「志向性」について、バイ・ザイン(~のもとにある)という独自の概念を提示している。
たとえば、愛する人のために真に苦悩するとき、その人は「愛する人のもとに」いる。亡くなった人のことで悲しみにくれ、その人のことに思いを馳せて苦悩するとき、その人は「亡き人のもとに」いる。

3.実存的空虚

多くの人の内側にぽっかりと空いている「心の穴」、実存的空虚にフランクルは着目している。

どこまでいっても同じことが繰り返されていくだけの透明な絶望感。どこまでもまっ平な未来の、先の先まで透けて見えてしまっていて、そこから抜け出すことなど永遠に不可能なように思える、そんな絶望感。

P128

実存的絶望感には二つある。
一つは「絶望型」の実存的空虚。
突然のアクシデントや挫折によってもたらされる急性の実存的空虚。
二つ目は「慢性」の実存的空虚。
特に大きな悩みがあるわけではないけれど、どこかむなしい、何か足りない、という空虚感。

(空虚に苦しみ続けることは)けっして「心の病」として治療の対象にされるべきものではなく、「人間の成長にとって大きな意味を持つ体験」であると考えるところにフランクルの考えの独自性がある。

P134

4.幸福のパラドックス

実存的な空虚に陥った人に必要とされるのは、「孤独になって自分と向き合う時間」である。
自らの内面の「空虚」を生み出しているものは、自分自身がとってきた「生き方の姿勢なのだ。それは自らの幸福そのものを直接に追求するような姿勢である。

人が幸福になることができるのはむしろ、自らの幸福を顧みなくなったときのことである。自らのことを顧みず、使命・天命であると思えるような「何か」にひたすら没頭していくとき、その「結果」として幸福は自然と生じる。(フランクル)

P137~138

5.「人生の問い」の転換

フランクルの本には必ず登場するキーワード「人間は人生から問われている」
人生をまったく異なる角度から見るということ。
「私の問い」よりも「人生からの問い」が先という、「人生の立脚点」の転換。

世界体験の根源的な構造を振り返るために一歩退くと、人生の意味を求める問いにコペルニクス的転換が生じる。人生が人間に問いを発してきている。人間は、「人生から問いかけられている存在」である。
人間は、「人生からの問い」に答えなくてはならない。人生に責任を持って答えなくてはならないのである。そしてその答えは「人生からの具体的な問いかけ」に対する「具体的な答え」でなくてはならない。(フランクル)

P140

6.意味への意思

人間は何よりも「意味」を求める存在だというフランクルの考えは、「意味への意思」という概念として結晶化されている。

人間は、人間として生まれついた初めからその生命の終わりに至るまで、「意味と目的を発見し、実現しようとする努力」をたえず重ねている。(フランクル)

P152

「人間は意味への意思によって徹頭徹尾支配され尽くしている」というのがフランクルの考えだ。生きている限り、「自分はこの人生でなすべきことをしていると思いたい」「自分の人生のほんとうの意味を実現していると思いたい」という欲求から解き放たれることはただの一度もない、とフランクルは考える。

P153

7.次元的存在論

この項では、どのような観点に立ってみるかで異なって見えるということが書かれている。

(精神医学の診断基準では「健康」である二人の人物がいるとする)
一方の人間は、毎日忙しく働いており、社会的には成功者であり経済的にも豊かであるが、内面的にはとても「空虚」である。自分は空っぽであると感じている。
もう一人の人間は、同様に健康であり社会的に成功し経済的に豊かという点でも同じであるが、内面的にとても充実している。毎日心の深いところから喜びに満たされ「自分はなすべきときに、なすべきことをしている」と感じている。

P160

「心理的健康(メンタルヘルス)」と「魂の充足」「意味の充足」とは、人間存在の異なる側面である。両者を混同してはならない。フランクルの次元的存在論は、両者を混同することがないようにと戒めてくれる。

P162

8.魂のケア

フランクルの主著に「医師による魂のケア」というものがあるが、フランクルは自らこの「魂のケア」が特定の思想・信条によるものではないことを伝えるのに腐心したらしい。

ロゴセラピーはプロテスタントの、カトリックの、あるいはユダヤ教の心理療法ではない。宗教的心理療法というものは、正しい意味では考えられない。なぜなら、心理療法と宗教の間には本質的相違、次元的相違があるからである。両者の目的は初めから異なっている。心理療法は精神的健康を目指している。宗教は救済を目指している。(フランクル)

P167

ロゴセラピーと宗教のこの違いを「人生の意味」という文脈に位置付け直せば、次のように言えるだろう。それぞれの宗教は「人生の意味とは何か」「人生の意味の内容」を告げることができる。信者はそれを信仰する。一方、ロゴセラピーは「どんな人生にも意味がある」と訴えかけるが、「人生にどんな意味があるか」、その内容を示すことはしない。それは個々人に委ねるのである。

P169

9.心理(精神拮抗作用)
10.脱内省
の2項は少々病理的で特殊な印象があったのでここでは省略いたします。

11.あなたがこの世に生まれてきた「意味」
 あなたの人生に与えられた「使命」

フロイトの精神分析をはじめとした因果論的心理療法では過去のトラウマからの解放を試みて、「思考パターン」や「行動」の修正を試みるが、苦しみに満ちた「過去の物語」から解放され「苦しみの原因」から解放されたとしても、からっぽな心は依然、からっぽなままで、人は「空虚」に耐えられないから、自分の苦しみの原因をどこかほかに探そうとする著者はいう。

ほんとうは、自分が情熱を傾けて取り組むことができる「何か」、これが私の人生の意味だ、私はこれを果たすために生まれてきたのだと心底思える「何か」が見つかっていないだけなのに。

P188

生きていく上でさまざまな問題が起き、出会った問題に真摯に取り組む。
「解決すべき問題」にしか見えていなかった問題が、次第に「自分にとって不可欠な固有の意味を帯びた問題」になり、「自分にとって特別な問題」になった問題に懸命にかかわっていくことで、その人の人生が、またその人自身が変わっていく。出会った「問題」が人を作っていくという。

そして「人生からの問い」に立ち返る

人生に対して「生きる意味はあるのか」と問うに先立って、人間には「人生からの問い」が与えられている。人間は「人生から問われている」。だから私たち人間は「人生を問う」問うのではなく、「人生からの問い」に答えていかなくてはならない。これがフランクルの考えであった。

人生は私に、何を求めてきているのか。
人生からの問いに対して、私は何ができるのか。

P190

では、人生からの問いに懸命に答えていくとどうなるのか。

人はまた生涯を貫く「天職」に出会う。また生計を立てるための職業にならなくても、人がその生涯をかけて取り組むに価する「使命(ミッション)」、「召命(コーリング)」に出会う。そしてこの「使命」「召命」との出会いこそが、人間の自己形成にとって不可欠のものなのだ。

P191

最後に著者が幸福についてまとめてある。

人間の幸福にとって真に重要で不可欠なもの。それは、「魂の充満」ないし「意味の充足」であって、それに代わるものはない。そして、魂を満たして生きていく上で、自分の人生に与えられた「使命」をまっとうしながら日々を生きているという実感を抱けていることほど、大きなことはない。
そのとき、その人のそれまでの人生がどれほど苦難に満ちたものであろうと、すべての出来事は必然的な意味を持って輝き始めるのである。

P198


◆感想

過去にフランクルの専門書を読んだら難解で挫折してしまったが、この本はフランクル自身のことや思想をわかりやすく且つ詳しく書かれていてフランクルのことがよくわかった。

「人生からの問いに答える」、「使命」「天職」をまっとうし充足した生き方をする。
こうまとめれば簡潔でわかりやすく着地した感じはするが、実際に生きていくうえでどう難しいかと考えると、現れる「問題」「課題」を人生からの問いと考えることができても、それを乗り越えることが難しかったり、「使命」と思えることに出会えるとは言ってもなかなか出会えない、あるいは出会えていると思えないということもあるかもしれない。
このあたりの実生活で起こることをどう捉えて思考するか。
それこそがフランクルが我々に問うていうことなのではないかと思う。

心理学でありながら、人生哲学のようでもあり、宗教といえども自己をみつめる仏教の思想と似ているところもあったり、魂という言葉からスピリチュアル的でもあり、自己の考えや人生観の幅が広がる思想であると思った。

あとは生きるうえで実践できるかどうかそこにかかっている。


・以下は過去に書いたフランクルの読書記事


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