私はもうしあわせにはなれない。そのことにやっと気づいて、とてもとても安堵した1年でした。端からあきらめてしまえば楽になれた。絶望することが、希望につながることもあるのですね。
手洗いとアルコール消毒を日々くりかえす指先はささくれだっていて、もともとさかむけが出来やすいほうだったのがここのところ特にひどくて、なんにも可愛くない手。所帯じみて見えますけど、まだ所帯は持ってません。いっそ誰かのための食事や衣類をととのえるので荒れているならまだ美しかったのかも。しかし私の手は私のためだけにうごき、はたらき、疲れきっていました。 白いびろうど張りの小箱の蓋をそっと開けて、かがやくそれを指に通します。左手の薬指に小さな星がともり、手の全体がぱっとあかるく見
「当たり前」なんてない。「当たり前」は当たり前じゃない。どんなことにも感謝の心を忘れないようにしよう。 最近になって特に、よく耳にするフレーズです。満開の桜を画面越しに眺め、友だちや恋人と画面越しに会い、日ごと揺れ動く数値を画面越しに追い、日がな一日何らかの画面ばかりを注視していた春を経て、それらのことばはたしかな説得力をもって胸にひびきます。 ときおり以前の写真を見返すとびっくりします。人と人との距離の近さ。無防備にいろいろな公共物ー手すりやベンチや“映え”スポッ
あまりマメなほうではないのにペディキュアが好きだから、ほら、もう爪の付け根が見えていて、爪の2/3くらいを中途半端にパールピンクが覆っている。ちゃんといったんリムーバーで落としてまた塗り直すのはめんどうだから、上からぺぺぺっと大粒ラメ入りのトップコートをかさねてしまいます。色のあるところとないところの境目も、きらきらで目くらまししてなかったことにして、これでいいや、延命。 手だとこうはいきません。自分にも他人にもつねに晒されているから、欠けや剥げはゆるされず、派手すぎても
幼稚園のとき、コロコロクリリンのハンカチを持っていました。両手いっぱいにひまわりの種やナッツ類を抱え、大きな瞳をキラキラさせたクリリンのイラスト。横には「まんぞく♡」とアテレコが添えられていました。 (10数年前の話だし…とダメ元で検索してみたら、似たようなデザインが出てきました。時を経ても変わらないサンリオの安心感) 当時、私が「まんぞく」ということばの意味を理解していたかどうかはわかりません。ただこのイラストを見るたび、私は空恐ろしくなりました。「まんぞく」って、
「みんな、本当に、セックスってしてるの?」 今さらかまととぶるつもりはありません。保健体育の授業では妊娠の成立や避妊方法についてきちんと習ってきたし、お泊まり会では早熟な友だちからのレクチャーも受けてきたし、「抱かれたい男」とは単純に抱きしめてほしい男の人って意味じゃないってことも、「勝負下着」とは文字通り勝負ごとの日につける下着って意味じゃないってことも、よくよくわかっているのです。 それなのに、なんだか信じられない。みんな、本当に、あんな非日常的なことを、日常的に
体の弱いこどもでした。特別大きな病気をしたことはなかったものの、とにかく風邪をひきやすく、また一度ひくときまって長引かせ、何週間も幼稚園を休むこともざらでした。 幼稚園では毎月カレンダーが配られ、先生に毎日スタンプを押してもらうことになっていました。4月は桜、8月は浮き輪、12月はクリスマスツリーというようにスタンプは毎月違い、それをひとつひとつ集めてカレンダーのマス目をいっぱいにすることはちょっとしたお楽しみでしたが、私のカレンダーはいつも歯抜けだらけでした。 そ
結婚にはお金がかかる。 「いつか結婚したいなあ」「やっぱり結婚式は教会式でバージンロードを歩きたいなあ」「いやいや神前式で白無垢も捨てがたいよなあ」と夢をふくらませることはあっても、実際に働き始めるまではそれはやはりリアルではなくて、ふわふわとしたあこがれでした。 ところが社会人になったとたん、結婚が身近な問題としてさしせまって感じられるようになりました。 先輩たちとの飲み会の席で。大学時代の友だちとのおしゃべりで。そしてSNSで。結婚の話題はすこしずつ、でも確実
家を出る段になって、気がつきました。アクセサリー、どうしよう。 襟が詰まった服なので、ネックレスはいらないかな。そのかわりイヤリングはちょっと華やかなものを。さて、手もとは。しばし迷い、やっぱりこれかな、と右手の薬指に通しました。 同窓会へは、ひとりで向かいました。学生のときは、かならず誰かと待ち合わせて一緒に行ったものだけど。総勢100人を超すサークルに入っていたなんて、さぞ社交的で活発なタイプなんだろうと思われてしまいがちですが、私はそのへんはさっぱりなのです。