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美と私

私は20年前にあることがきっかけで長野に一年住んだことがある。

冬季オリンピックが終わった後の長野は活気はもうなかったが、町はきれいに整備され、長野市内はとても洗練された観光地になっていた。

私は東京の下町育ちで一度も東京以外に住んだことはなかった。だがら驚いた。住宅街にはネオンがなく、夜は真っ暗になり、しんと静まる。昼間は誰かいるだろうと思うと、たいして歩いている人なんていない。そして、気づいたのだ。大手スーパーに買い物に行けば、人に会える。車社会なんだから、今思えばそんなことをまるで新しいことを発見したかのように思って、したり顔だった自分のことを恥ずかしく思い出す。

長野に一年過ごす中、私は、日本庭園の美しさに目覚め、盆栽、横山大観の掛け軸、善行寺、東山魁夷美術館によく立ち寄った。

全国の工芸品を集める趣味の人に会い、各地の工芸作家の逸品たちを見せてもらった。自分もその土地を訪ねたような感じになった。

そんな一年を過ごしていたら、都会での生活が一気に色あせた。

そして、私の美の定義が揺らぎ始めたのだ。

日本には、素敵な工芸品がたくさんある。気づいたと思うが、私はCool Japanで日本を愛する外国人みたいなものだったのだ。

だから、正直、ものすごい感動をしていた。時代を超え、弟子に伝えたその技は、手になじみ、地味深い味わいがあるので、一度手にしてしまうともう欧米の有名な食器に心躍らなくなる。

よく海外から来た旅行者が、畳や障子を買って帰るなんてことも聞いたことがあるが、私は欧米スタイルのインテリアの中に日本からやってきた、工芸品、岩谷箪笥、屏風や壺などが、美しくレイアウトされている本を持っていて、いつか私も少しずつ買いためた、備前や越前焼の食器や壺、岩谷箪笥などとコーディネートして、素敵なリビングに暮らしたいとずっと夢見ている。

大阪の東洋陶磁美術館に立ち寄ったことがあり、そこで見た備前焼への衝撃に導かれ、身内が住んでいるわけでもない、まったく縁もゆかりもない岡山県に向かい、あてもなく後楽園で散歩した後、道端で人に備前焼の専門店はないかと聞いた。

赤松を使って一週間近くも窯で焼かれ、出てきた作品は釉薬も掛けていないのに、つるっとしていたりする。

国宝級の作家は、どんな時でも高値が付き、それだけを求めて東京の大手のデパートのバイヤーがやってきて、あるだけ買って帰るという。

私は、備前焼協会の会長がひっそりと開いている店に行き、作家の名前も一切聞かず、店主が作家の窯から直接自分の目で買い付けた最高の作品をほぼ3時間くらい店主に作品の背景を聞きながら、手に取ってみたり、遠くから眺めたり、さんざん悩んだ挙句、値段を知ってびっくりしたりして、予算オーバーでもなんとかやりくりして買えないものかと思案する。

素敵な時間だなと思う。

たとえマグカップ一個だとしても、店主の作品愛が半端なく、彼から説明される作家たちの熱意や思いを聞いているとまるで私自身がその作家の窯に入って見聞きをしている錯覚に陥るからだ。

私はこと芸術作品は絶対に作家の名前と金額を最初から聞かない。美術館でも、必ず一人で見て回り、人だかりができている有名作家の作品は時に遠くから眺める程度で終わりにして、自分の感性に合う作品を見つけたらベンチに座って眺め、最後に作品のそばに書いてある説明書きと作家名をちらっと確認するだけ。

おかげで旅が終わってもその作品との出会いの感動はずっと続く。

ありきたりな表現だが、この贅沢な時間こそ、Quality of Lifeなんだと思う。

2、3年おきに岡山の店を訪ねた時期があり、驚いたことに、感性だけで選んでいるにも関わらず私はほとんど毎回同じ作家の作品をを買っている。

そして一度も人間国宝の作品に心奪われたことがない。

工芸品、特に日常で使う焼き物は飾って愛でるのも一つの在り方かもしれないが、私は毎日の生活の中で使い、その経年による味わいも一緒に楽しむことが正しいと思っている。

今日のヘッダーの写真は奥に備前のマグカップと湯飲み、手前は南部鉄器の鉄瓶。

朝は鉄瓶でお湯を炊き、白湯を飲む。水はただの水道水。
なのに湯は限りなく丸く、ほのかに甘い。五臓六腑にしみわたり、私のひそかな至福の時となっている。

鉄瓶と備前の織り成す豊かな朝の始まりこそ、私の美の原点。


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