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いつもそこにあるもの(ある旅の窓)

ふだん目にしているものによって、やっぱり価値観とか性格とかアイデンティティみたいなものは作られると思う。

ある時、デリーからネパールのカトマンズへ飛んだ。
2時間ほどの短いフライトだったが、その半ばを越えたころだろうか。
にわかに機内がざわめき始めた。

窓際の乗客が外を見ながら、英語やヒンズー語、ネパール語、何語か分からない言語も混じりささやきあっている。そのうち、写真を撮り始める人もいる。
さすがに気になり、人の隙間を縫うように窓の外を覗き込んだ。

高度数千キロを飛ぶ旅客機の、その窓を覗く私たちの真横に現れたのは真っ白に輝く壁。

一瞬、自分が何を見ているのか分からなかった。それは異常に発達した積乱雲の連なりのようでもあった。しかし。
ここはネパール。とすれば、これまで見たことはないけれども、こんなものは世界に一つしかない。

それが初めて見た、ヒマラヤだった。


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あの衝撃を僕はずっと忘れられないだろうな、と思う。

東京から九州の方へフライトした時に見える、富士山は美しい。
いつも仰ぎ見ていた端正な富士を、眼下に見下ろすことに優越感といくらかの後ろめたさを含んだ興奮を覚える。
それでも、空から見ても放射状に広がる円錐形の美しさに、やはり富士は「神の造形物」だ、と感じる。

一方、ヒマラヤはまったく違う印象を抱かせる。

あの向こう側には別の国があって、別の世界があり、そこにも人が暮らしていて… そういったことがまるで想像できないのだ。
それは、どこまでも遙かな借景であり、ひとつの世界の果てに見えた。

世界の境界線を定義するヒマラヤ。
神の造形物というよりも、もし神がいるとすれば私たちにこうした印象を与えるのかもしれない。
何百キロも続く峰々に、私はただ見とれた。

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いつも目にしているものが、その人の性格やアイデンティティに影響しないわけがないと思っている。

ネパール人は奥ゆかしく、丁寧で、礼節を重んじ、通りすがりの旅人である私にもよく手を合わせて「ナマステ」と言ってくれる。

熱砂の大地を生きぬく、前のめりでタフなインド人との汗ばんだ付き合いに疲弊していた私にとって、ネパールの人びとの距離感はどこか懐かしいものだった。

たとえば、訪れたこともない山陰地方の山間の村の景色に、なぜか「懐かしい」と思うことはないだろうか。あの感覚だ。

山に囲まれたネパールの山村の日没は早く、夜は海の底のように暗い。
田んぼの畦町を面白がって歩いてるうちに、気付けば足下が見えなくなる。
彼方に宿の明かりは見えてるのだけれが、帰り道が分からなくなった。

そんな時、通りすがりの男の子たちが話しかけてきた。

「何をしているんですか?」
「あの、向こう側に見えている宿に帰りたいんだけれども、帰り道が分からないんだ」

サッカーボールを抱えた少年達は、顔を見合わせ、一言二言ことばを交わしたあと、
「カモン」と言った。
宿までのおよそ片道30分、彼らは私が宿に入るまで、付き合ってくれた。

晴れた日、彼らの通学路からはヒマラヤが見える。
この、いやがおうにも世界の大きさと、人間の小ささを感じさせる存在と共に生きていることが、彼らの限りない親切心と無関係だとは思えなかった。


そろそろ旅がしたい。
今年の夏は、ンゴロンゴロ国立公園の緑の芝生の上で、ごろんごろんしていたはずだったのだ。

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