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久しぶりに都心を歩くと、



久しぶりに駅を利用したら改札機から
「ピンポン!チャージしてくださいっ!!」
と言われてしまった。どうして、あれ、すごく怒られている気分になるんでしょうね。

やれやれと思いながら券売機に向かおうとすると、今まさにチャージしようとしていた30代の女性と目が合った。彼女は何かを感じ取ったのか「あ、どうぞ」とゆずろうとしてくれた。

「いえいえ、どうぞ、どうぞ」
なんとか先に券売機を使ってもらったものの、電車に乗った後もしばらく「しまったなぁ、しまったなぁ」と反省した。

久しぶりに都心を歩くと、家の周りを散歩している時よりも歩くのが速くなっていることに気付く。きっと、あの女性にも僕があまりにサッサと歩いていたので気を遣わてしまったのかもしれない。

「歩き方」は雄弁だ。



「東京の人は歩くのが速い」とよく言われるけれども、半分は正しくて半分は間違っているようにも思う。

東京の人だって、上野動物園のパンダやミュシャの絵の前では「立ち止まらないでください!」と言われる程度に歩くのが遅くなるし、どれだけエスカレーターで「立ち止まらないで」と言われても左側に立ち止まる「頑なさ」も東京の人は持ち合わせている。

都心の駅で人々の歩みがやたら速いとしたら、それはもう街がパンダやミュシャほどには「おもしろくない」からにちがいない。

街がつまらなくて速く歩く人。そして、そういう人がうしろからずんずんと迫ってくるから仕方なく速く歩く人。
そうした人達の連鎖が、超高速歩行都市・東京の正体だ。



「歩く」といえば、10代の頃、とある女性から
「歩き方が変」
と言われたことがある。思春期というのは、どうしてあんなにも「変」に敏感だったのだろう。

ある特別な職業以外は、じぶんの歩き姿をそれほど意識して見ることがないと思うので、「歩き方が変」というのはなかなかの衝撃だった。

「歩き方」の面白いところは「見せたいように動かしても、その通りには動かない」ということだと思う。
もちろん僕だって「内股で歩こう」と意識して、歩いているわけではない。だから、内股を打ち消そうとして、「ほんの少しだけガニ股で歩こう」と意識すると、それは結局「変なガニ股」になる。

昔、ある陸上選手から身体の動かし方について聞いた話で、へぇと思ったことがある。

速く走るために、彼らは足を速く回転させたい。でも、「足を速く回転させよう」とすると、どんどん足の回転は遅くなっていくというのだ。
「自分の感覚」と「実際の運動」には、往々にしてズレが生じる。

だから、「動かしたい動作」が先にあって、それを生み出す「感覚」を練習では探していくんだって。その選手の場合は、足がつく瞬間に「地面を強く踏もう」と意識すると、結果的に「回転率」が上がるのを見つけたという。

当時の僕の場合、靴の裏を見てみると、つま先の方ばかりがすり減っていた。それで、かかとを意識して歩くようにしたら、彼女からは
「まぁ、マシ」
と言われるようになった。以来、僕は今でも歩く時には「かかと」を意識してしまう。


どんな街で生きてきたか、どう見られたいと思ってきたか。歩き方は外からでも見えてしまう「人生の履歴書」みたいなものかもしれない。

最近では、顔が映っていなくても「歩き方」を元にAIが個人を特定できるようになってきたというニュースを見た。中国では マスクをしてても歩き方から「アイツが誰か」分かる、“防犯用”の持ち運び可能な360度カメラまでできているんだって。

もっと「歩き方」に関するビッグデータが溜まると、歩き方から、その人が何を好きか、育ってきた家庭の水準、職業、発達障害の傾向なども分かるようになるのかもしれない。「歩き方」でマッチングする婚活アプリとか出てきたりして。


思春期は「変」と言われることに敏感だったのに、逆に年をとると「普通だね」と言われるのに敏感になったりする。「普通」でも「変」でもいいけれども、何と言われても「でしょ?エッヘン!」と言い返せると、生きるのが楽ちんな気がする。


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