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本棚に埋読本、手にとってみたら・・・          『朝鮮考古学75年』有本教一 著

積読というより、埋読まいどく本か

積読という言葉があるが、この本は「埋読」(まいどく)といっていいのではないか。誰かにもらったのだろうか、イベントか何かの出店で買ってしまったのだろうか、覚えていない。家でビートルズ関係の本を探していて、どういうわけか目に留まり、パラパラとページをめくり読み始めてしまった。タイトル通り、朝鮮考古学者の地味な自伝である。著者の有光教一という方は、明治、山口生まれ。京都帝国大学史学科で考古学を学び、二十歳そこそこから、朝鮮総督府、中央博物館に務めていた。日本の敗戦後は主として京都大学教授として考古学を研究しておられた。この本の出版年2007年には100歳でなお、京都の高麗美術館の研究所長である。

想像通り「普通の自伝」だなと思いつつ、僕の好物、古墳発掘のことが嬉々として書いてあり、しかも韓国慶州の古墳、ということで辛うじて読み進んでいたが、1945年日本の敗戦が近づくに連れて俄然面白くなってきたのだ。

朝鮮の博物館を守るため

日本本土空襲がはじまり、朝鮮半島にも危機が迫っていた。そうなると博物館のことなどはかまっていられない、それどころか建物を戦争遂行に利用しようとすら考え始めた総督府。そんな状況下に、二〇名に満たない博物館員だけで陳列品を地方に疎開させたのである。幾度も幾度も、四人一班で汽車に乗り、京城と地方を往復し、手荷物として収蔵品千点を運んだのだ。ナチスドイツのパリ侵攻を目前に、ルーヴル美術館が収蔵品を各地に隠匿したエピソードを思い出した。その頃世界中でそんな動きがあったのだと思う。でも、有本さんの場合は、植民地朝鮮のもので、総督府のいいなりになり、逃げ出すこともできたのだが。

8月15日を迎えた有本さんの心境が綴られている。

「私にとって、敗戦のショックは大きかったが、正直なところ、窒息状態から辛うじて脱出できたという安堵の方がもっと大きかった。博物館は助かった。人も物も助かったのだと私はほっとした。これからどのような困難が待っているかを考えぬではなかったが、助かってよかったという喜びに先行きの不安は、しばし霞んでいた」

有本さんは敗戦後も、陳列・収蔵品を守り抜こうと、決意するのである。日本人蒐集家、骨董商から、海外への散逸を防ぐために必死で走り回る。そんな気持ちが伝わったのだろう、乗り込んできた韓国人の金載元博士(後の博物館長)とも徹底して話し合ううちに、考古学研究者としての「仲間意識、国籍や民族を超えた連帯感を覚える」ようになるのである。その後、有本さんだけが、博物館日本人官員のなかで唯一帰国が許されず、米軍により「引き継ぎ」を命じられる。先に帰国させていた妻子の動向を心配しながら、政情不安の京城に取り残された日本人が目にしていた当時の風景描写も興味深い。

幸いなことに博物館を担当していた米軍人もなかなか教養もあり、有本さんの論文も読んでいたのには驚きであったが、そんな出会いもあり、1945年12月には、もう博物館は開館するのである。

仕事を成し遂げたと思っていた有本さんだが、さらに1946年12月、帰国直前に再採用となる。そして、慶州の古墳の実地調査による発掘研修をおこない、ようやく翌年5月に日本の土を踏むのである。

1996年8月15日。 僕はソウル・光化門広場にいた。旧朝鮮総督府、後に韓国中央博物館が、戦後50年に取り壊されるその瞬間、大群衆のひとりとして。そのとき、僕は有本教一という日本人朝鮮考古学研究者のことは知らなかった。彼は、植民地支配に敢然と抵抗したわけではない、むしろその官吏の一人であった人物、その彼が、ただただ朝鮮の発掘品、陳列品を守ろうと行動していたことが、いまやとてつもなく美しい。その無名さが眩しい。

「普通の自伝」、どうせ自慢話と、面白くないと決めてかかることは、人の人生を舐めてかかることで、これは本当にやってはいけない。猛省いたします。

田中角栄の1945年8月15日京城

どうでもいいエピローグだけど、こないだyoutubuで、NHK「アナザーストーリーズ」のバックナンバー、「田中角栄」を観た。金権政治家としてのルーツを手繰っていくとそれが朝鮮半島に行き着くと。建設会社の社長・田中角栄が請負った理研の大きな仕事、その場が朝鮮だったのだ。日本敗戦の報を聞くと、角栄はテジョンから車を飛ばし、京城で、すぐに紙屑になる軍票を換金し、8月25日、風のように帰国したという。今の金で90億円を持って。

有本教一さんの8月15日を想うと、面白いな〜〜。

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