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バラエティ番組的時代劇 ~舞台「次郎長、渡世人(ヤクザ)辞めるってよ」~

12/15(日)、六本木俳優座劇場で公演された舞台「次郎長、渡世人(ヤクザ)辞めるってよ」の千秋楽を覗かせて頂いた。

時代劇と聞くと固そうなイメージを持っていて、若者的趣向がこびりついている自分としてはあまり積極的に見に行こうと思えるジャンルではないが、友だちがキャストとして出演していたというつながりがあり、今回この舞台に足を運ぶことになった。

これ時代劇?

物語のあらすじは単純だ。
自軍7人に対し、敵70人という大規模な討ち入りを成功させた清水次郎長一家。討ち入りで大勢を斬った罪深さからか、一生喧嘩はしないと刀を封印した次郎長に子分志願者(森の石松)が押し掛ける。愉快な石松を中心に次郎長一家のその後が描かれるという話だ。

ボクの友だちは次郎長一家の一人を演じた。キャスト表の最上段に名前があり、おそらく彼の役者キャリアの中で一番の大舞台だろう。応援する気持ちが2割、純粋に客として楽しもうと思う気持ちを8割にして席に着いた。

コメディーと聞いていたから、すこし緩めのお話なんだろうな。とはいっても時代劇だから歴史的な事件や出来事を真剣に取り扱いながらその合間に笑いを挟み込むみたいな、緩急のバランスが取れたお話しだろうか。
そのようにストーリーの内容を予想してみたが、すべてが予想を裏切るような内容だった。

初めのオープニング映像から違和感はあった。
メインキャストを一人一人紹介するという一点のみは普通だが、それ以外は時代劇らしからぬ様相だ。音楽はDTM調のけっこうイケイケなトラックで、水戸黄門や必殺仕事人のテーマソングみたいな威厳はまったくない。映像演出もかなりポップだ。アメコミ調の漫画のコマの中でキャストがポーズしたり動いたりしているといった感じで、色指定もピンクや黄色、水色のような明るい色ばかり。とにかく派手で、時代劇特有の重苦しさや古式ゆかしさは心配をしてしまうほどなかった。

物語はいきなり殺陣のシーンからはじまり、「おおー時代劇らしいな!」と思わされたのもつかの間、森の石松役の泉堅太郎さんがスポットライトを浴びながら客席から入ってくると殺陣が中途半端な所で止まった。演者の一人が泉さんに台詞を投げる。たしか「貴様は何者だ」、「そこで何している!」みたいな台詞だったと思う。
役柄にのっとったナチュラルな台詞運びだったから、その時点ではまだ舞台演出だと信じる自分がいた。しかし前方の席から徐々に後ろのボクたちの席の方へ、どよめきが運ばれてくる。「これは一体なんなんだ?」。運ばれてきたのはそんな困惑だ。
会場中の注目がちょうど集まったとき、石松に扮する泉さんの口から「俺はな遅刻してきたお客様を席に案内しているんだ」と威勢の良い声がとどろいた。
一瞬全体が?に包まれた。だが次には全員が笑い声をあげていた。
舞台上のキャストと泉さんのやり取りがあまりにナチュラルでイレギュラーな様子を感じなかったから、演出の一部じゃないかとまだ思い込んでしまっていた。
というか、舞台上のキャストも泉さんの悪ふざけ、もといアドリブじゃないかと疑っている様子が見えた。
しかし、よく見ると泉さんの後ろには数人の素人らしき若いお客さんが立っていて、最後尾には法被を羽織ったスタッフもいた。そして本当に座席へ案内しはじめた。
「お客さん見てねぇんだからもう一度はじめからやるぞ」と泉さんが呼びかけて、キャストは一度裏へ引いた。舞台が暗転し、照明が上がると全く同じ動きの殺陣が再び繰り広げられた。その乱れぬ動きから、演者たちの稽古の足跡が垣間見えた。

ここでわかった。この劇、時代劇と思ってみちゃだめだ。
この人たちは時代劇を魅せるための演技をしているんじゃない。時代劇という物語をつくるよりも、純粋に笑いを届けるためだけに舞台を作っているんだ。

一言でいえばこれは時代劇の世界観を借りた笑いのためのコントだ。
「水戸黄門」や「必殺仕事人」、「鬼平犯科帳」みたいな本格時代劇とはまるで違う。
どちらといえばドリフターズのコント「バカ殿様」に近いものだ。

自由過ぎる演劇、ついには突然の楽屋トークへ

その後のストーリーでは世界観をぶち壊す台詞や設定がこれでもかと言うくらいに投げ込まれた。
いきなり「ショートコント、〇〇」って棒読みで言ってコントを始めてしまったり、懐から携帯電話を取り出して数十キロ離れているはずの子分を一瞬で呼び出したりするなど、めちゃくちゃな演出ばかりだった。

そんなめちゃくちゃさの間に絶妙に挟まるのが、アニメ「ちびまる子ちゃん」でお馴染みのキートン山田さんのナレーションだ。
演者の二人が突然ショートコントをして、会場中が白けた場面があった。ボクを含め会場中がみんな思ったはずだ。「やばい。このすべった空気が続くとなんか気まずい」。
せっかく楽しみにして来た舞台が崩壊するんじゃないかと、割と本気で心配した。しかし、コントのすぐあと山田さんの声が響く。
「わかっていると思うが、このふたり、すべっています」
ただ言葉として並べるといたってありきたりだ。でもキートンさんの声には、キャラクターの馬鹿らしさを見下げ果てながらも、その馬鹿さを愛おしく思わせる特殊な響きがある。会場に沸き立つ笑いは馬鹿な人間を見下す笑いではない。泥溜まりに転んで「やっちゃった」と舌を出す子どもに「しょうがない子ね~」と親が子に向けるような、愛おしさのこもった笑いになっていた。要するに、このナレーションのおかげで気持ちよく笑えたわけだ。

会場に一番笑いを起こしたのは、またしても泉堅太郎さんのアドリブだ。
泉さん扮する森の石松が金比羅に人斬り刀を奉納するお使いの旅途中、次郎長の子分の一人、小政が合流し、ともに旅をし始めることになったシーン。
二人が互いの身の上を話し、打ち解け合ったところで「あの山の先へ行こう」みたいな台詞を小政役の木村恭介さんが締めに言って、場面が次へ移る、というのが本来の流れだった。

流れはあらぬ方向へとはずれに外れた。小政が客席に向かって指を指し「あの山の先へ行こう」と言ったとき、泉さんは急に「お前にはあそこ(客席)に山が見えんのか」とアドリブをぶち込んだのだ。
突然のことにさすがにすこし慌てたのか「客席のあの辺りに山が見えるっていう設定なんですよ」みたいなメタ発言を返してしまった。これはいじり甲斐があるぞと言わんばかりの意地悪な表情で泉さんがツッコミを入れる。
「なんだ、お前には客席と山が両方見えんのか」
その時点で二人は役を離れ、楽屋みたいなノリのトークを展開しだす。
「これは時代劇なんですから」。小政役、木村恭介さんは劇の設定がそうだからそういうメタな発言をしたんだと主張を繰り返し、隙を見ては舞台裏へ頓挫しようとする。
しかし泉さんはそれを許さない。逃げようとする小政をがっしり捕まえては、自分のアドリブから派生したメタ発言をあげつらい、説明責任を果たせとばかりに攻め立てる。

自由な二人の駆け引きに客席は笑いの渦と化し、二人は好き勝手に言葉をぶつけ合った。

「お前なんかうち(神田時来組)に拾われなきゃ、溝ノ口のチンピラじゃねぇか」とついには木村さん個人についていじり出す始末であった。
「あんた頭おかしいよ(笑)」
「頭おかしいのはお前だろ。お前には客席と山が、同時に見えんだろ」とニタニタ笑いながら再びメタ言及に立ち戻る。
最後には「もう時間押してますから」「はやく楽屋に帰らせてくれ」と木村さんがわめきたてて、泉さんも十分笑いは取っただろうといった様子で裏へ引いていった。

大団円

笑わせられてばかりの舞台だったが、最後は殺陣の大立ち回りで幕を閉じた。
忠臣蔵よろしく清水次郎長一家の面々は殺された仲間のために封印した刀を手に取り、熱い気持ちで刃を振り下ろした。
ボクの友だちも舞台の上で槍を振り、走り、声を張っていた。

彼を応援する気持ち2割で見始めた舞台だったけど、気付けば何も考えず客としてただただ楽しんでいた。そいつとは、いつもバカな話をし合っている間柄だ。バカなことやったあいつを「なにしてんだよ」と呆れて笑うのが決まったパターンだけど、この日のそいつには呆れて笑うことはなかった。
役作りで地毛と眉毛を剃って、他の演者と一緒になって、舞台の上で一つの作品を創り上げていた。
自分自身が妥協から安定した職種を選んでしまった人間だからこそ(その選択に後悔はないが)、人生賭ける気持ちで舞台に臨むそいつの姿はとてもかっこいいと不意に思ってしまった。

バラエティ的時代劇。テレビと舞台のこれからは

舞台後の挨拶で泉さんは、昔のバラエティ番組を意識してこの舞台の脚本を書いたと語った。最近はテレビ自体を観ないので、最近のバラエティ番組がどんな感じなのかは分からない。でも、この舞台を見て、自分が小学生の時に見て笑ったコント番組を懐かしんだのはたしかだった。
テレビは見ないがYOUTUBEで芸人さんの漫才やコントは見たりする。だから活躍している今の芸人さんが昔のテレビ全盛期の頃の芸人さんに負けているとは思えない。
単純にテレビが面白いつまらないの二元論的な話ではおそらくない。

テレビというメディアは「バラバラなものをひとつにまとめる」ための媒体で、それが50年代から日本で普及しだしたテレビに求められた役割だった。(※1より引用)

ニッポン放送アナウンサー・吉田尚記さんと評論家の宇野常寛さんの対談で上記のような考察がされていた。

お茶の間に置かれたブラウン管の箱は、力道山の闘いや、東京オリンピックの興奮と感動を、家庭に運び、翌朝その話題について学校や職場で語り合える条件を国民に与えた。おそらくそういう意味でテレビはバラバラな人と人とをひとつにまとめられたのだ。

「人々がバラバラなままでも共存できるように社会にダイバーシティ(多様性)を実装していこう」という方向に社会変革のイメージが変わった。 (※1より引用)

しかし、近年はメディア環境が上記のような形に変化し、テレビがもたらす影響力も縮小している。時代を彩るような大人気番組を提供して、人々をひとつに染め上げることが難しくなっているのが現状だ。

人々がテレビから同じ文化や情報を一方的に受領し共有するのではなく、個々人がインターネットを通じて好みに合わせて情報を取捨選択するようになり、テレビはその選択肢の一部になった。それにもかかわらず、「バラバラなものをひとつにまとめる」というイデオロギーだけがテレビの存在性として変わらずにあり続けている。

だいぶ話が脱線してしまったが、つまりは冒頭でも述べたように今回の次郎長のコメディを観て懐かしく感じたんだ。小学生の時に観ていた、まだテレビがバラバラなものを一つにまとめられる力を持っていた頃の、そうするために作られていた数組の芸人さんたちによる自由なコント番組が舞台の上にたしかに見えたから。
翌朝番組の内容について学校で笑って話していたあのときが懐かしい。それは役立つ生活の知恵や、雑学や美談を提供しない純粋な笑いだった。昔はただの笑いで人と人とがつながれていた。
インターネット娯楽が隆盛し、媒体の一選択肢になったテレビにはもう純粋なお笑いで話題性を創り上げることは難しいのかもしれない。
しかし、神田時来組の皆さんが創った舞台「次郎長、渡世人(ヤクザ)辞めるってよ」は、劇場にいた人たちに昔テレビの前でしていたのと同じ種類の笑いを届けてくれた。
テレビじゃできなくなった演出でも、舞台なら届けられる。
だって舞台はライブだ。テレビやネットと違ってなんの媒体も挟んでいないのだ。稽古と舞台道具・資材さえ整えば、どんなものだって届けられて足を運んだ劇場のお客さんを同じ気持ちにさせてくれる(最大の課題は足を運んでいただくことなのだが)。

今年の最後に

2019年はたくさんの舞台を見る機会に恵まれた年だった。オペラ、バレエ、演劇。その数合計7公演にわたった。

いずれの作品も、音楽・声・身体表現などの物理的な力でボクたちの五感を感動させてくれた。

或る時は涙と鼻水がすすられる音が、或る時は大きな笑い声が、或る時は称賛の拍手が、まるでお客さんの心が一つになったみたいに鳴り響いた。

人間はどんなに努力しても完全に目の前の相手の気持ちを理解することはできないものだ。だけど、舞台上の芸術を見つめているその瞬間においては、限りなく近い気持ちを大勢と共有できると信じたい。それが舞台芸術の醍醐味で、いつの時代も人々から求められている理由だとボクは思う。

かつては「バラバラなものをひとつにまとめる」役割をテレビが大部分を占めていた。しかし、これからはその役割を様々な媒体や芸術が分担して果たしていく時代になる、というかなりつつあるのではないだろうか。

「人々がバラバラなままでも共存できるように社会にダイバーシティ(多様性)を実装していこう」というのが今の社会変革のイメージだという。バラバラでも共存できるというのはすなわち一見バラバラな文化・価値観にわかれてしまっていても、目に見えない細い糸で人々がまとまっていることの証ではないかと思う。基本はバラバラだけど、いつでも違う多様性の人たちと糸を辿ってつながれるチャンスが溢れかえる社会だ。
そのチャンスを創り上げるのが、これからのメディア媒体や舞台芸術の役割ではないだろうか。

これからも素晴らしい作品に巡り合うために時々劇場へ足を運ばせていただきたいと思います。

(参考)                              ※1 ☆shibuya2nd連動企画☆ 吉田尚記×宇野常寛『空気の読め(読ま)ない男たち』 いま〈世界の全体性〉を記述できるメディアとは――「業界人幻想」のテレビ、「総合芸術」のゲーム、「他人の人生の代理体験」としてのアイドル (https://note.com/wakusei2nd/n/nf735ec690b4b)

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