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エネルギーに還元されない食品を食べたお話

午後二時ごろ、太陽が西に傾いてきたころ、僕はとても穏やかな気分だった。

その日、朝起きてから何をしたわけでもない。
ゲームして、本を読んで、洗濯して、ネットで引越し先の物件探しをして、カップ麺を啜って、また本を読んで、頭が疲れたからボーッとしていた。
それがとても穏やかだった。
何をしなくても退屈でなくて心が満たされていた。窓から刺さる西日が暖かくて、神がかった気分だった。

多分20分くらいそんな状態だったと思う。
次第に神がかりが解けてくると、満月が欠けていくように、退屈がじわじわと感じだした。

だけど、頭は疲れたままだったから何をする気も起きない。でも何かしないと退屈に締め付けられる。そんなマイナスのスパイラルに陥りかける。
糖分が足りないせいだと思って、飴を舐めてみるが、何も変わらない。舌の上にレモンの甘さが広がるだけだった。
水をグラスに注いでぐびっと飲んでも気分転換にはならなかった。乾いた口の中が潤ったのはよかった。

こんな天気のいい休日に、そもそも家の中にいるのがよろしくないのだと思った。
家の中にいて退屈に心が歪むことは今までだって何度もあった。外に出て、体を動かして、肺の中の空気を入れ替えれば、いつも気分は爽やかになった。

今より少し若い時は「何も予定がないのにどこかに出かけるのは面倒だな〜」と思って、どんな気持ちの時であっても家から出るのが億劫だった。今でもそうだが僕は病的なまでにインドアなのだ。だけど、外出して気分が晴れる。その経験を年月かけて繰り返してきたおかげで、今は以前ほど億劫でない。億劫さに足が止まっても、その度に記憶を思い起こして、足を前に進める。これが年の功というものなのだろうか。悪い気持ちはしない。

思い立つや否や、ウエストポーチに財布とスマホだけを入れて、玄関を開けた。
歩くルートはパターン化されている。
大通りを渡った先の商店街をくぐり抜けて、川岸まで出る。川に吹く風にあたりながら空を仰いで橋を渡り、市街に入り、その中心に位置する駅まで歩く。大体20分ほどのルートだ。

どんなに歪んだ気分であっても商店街を抜けるくらいには身体があったまって気持ちがポジティブになってくる。橋の上から川を臨めば完全に気分が晴れて、快活に街を行き交う人々の間を通れば元気が出てくる。

これがいつものパターンなのだけど、今日は違った。
身体があったまるところまではいつも通りだった。なのに気分が晴れない。頭は重く疲れたままだし、むしろ意識が朦朧気味になるほど疲れがのしかかる。嫌なことがあったわけじゃない。前述したように数十分前までは神がかりに穏やかで幸せだった。

家でぼーっとしていた時は気づかなかったが、身体を動かしていると、どうやら頭に栄養が流れていっていないのではと感じられた。
肉体に備蓄された栄養、エネルギーと言い換えてもいいだろう、それがお腹に集中している。
なるほど。
意識するとお腹の中が少し重かったのに気づいた。
これはあれだ。お昼に食べたカップ麺が消化できていないのだと分かった。
昨日試しに買ってみた新商品。食べてみると思ったより少し脂っぽくて、麺が結構太かった。ジャンク中のジャンクフードだ。

高校生の時、白米がぎっしり詰まったお弁当を食べた後に、授業でいつも眠くなっていた記憶が蘇る。
人は食事直後は消化にエネルギーを使うから眠くなる。
もちろん、そんなことは常識として知っているけれど、その時は食事から三時間経とうとしていたのだ。
いまだにカップ麺は胃の中で塊として残留し続け、燃焼されてエネルギーの素になるどころか、燃焼するために身体からエネルギーを奪っていた。
なんと手強い相手か。

要するに僕の身体は消化にほとんどのリソースが割かれている状態だったのだ。
だからいつまで経っても頭は疲れたままでやる気が出ず、
外へ散歩へ行っても気分転換できず、
むしろ消化にリソースが全集中している状態で身体を動かしてしまったものだから、エネルギー消費が加速し、ヘトヘトになってしまった。

どこかに倒れて眠りたかった。
最後は足を前に出す一歩一歩に意識を傾けなければならないほどだった。

帰宅するや否やベッドに倒れて、電池が切れるみたいに寝た。

日が沈んだ頃に一度目が覚めると、次は腸のあたりに重さを感じた。まだ消化活動は続いている。頭もまだ重たいままだ。体の上と下に重たさを抱えて、気分も歪んでどうにもならない状態で、胃の中だけが爽快に空っぽで、ついには「ぐ〜」っと音を鳴らしやがった。

これは空腹の生理的な反応であって、食欲なんて皆無だ。
と思っていたら、口の中で唾液が暴れ回っていた。体内時計は夜ご飯の時間だとサイレンを鳴らしていた。

一時間は我慢したけど、状態は進展せず、何も食べないわけにもいかなかったから、お米の上に納豆と生卵とピーマン麹というご飯のお供を乗せた特製TKGを食べた。

これも失敗だった。
いつかテレビでギャル曽根さんが言っていたんだけど、TKGは卵が米に絡まるからお米を噛まずに飲み込めてしまうものなのだという。
空腹だったお腹に今度はあまり噛めずに流れ込んだお米が残留して、また重くなってきた。

唯一の救いは、炭水化物パワーのおかげでもう一度眠気がやってきたこと。
部屋を暗くした途端にまた眠りにつけた。

次起きた時は胃に残り物がある感じはしたものの、頭と腸にあった重みは消えていた。
エネルギーが全身に隈なく行き渡っている状態に戻っているのが分かった。

そのエネルギーは食べ物からきているものだ。
だから人間、ものを食べないとそもそも頭も体も動かせない。
だけど食べ物によっては、その食べ物を消化するためにエネルギーが消化されて、結局プラマイゼロ、時にはマイナスに振り切るみたいなことにもなり得るらしい。

十代の時はどんな食べ物でも消化してエネルギーにしてくれた。
二十代の後半に差し掛かって、まだ若い年代だが着実に老いが始まり、消化する力が弱くなっている。
これからより燃費の悪い身体になっていくのだろう。
食生活には人一倍気をつけている方だけど、今回のことで、十代の時と身体は違うのだと自覚した。

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