物語は頂点を目指さなくなったのか?

最近、漫画「帝一の國」を読み返している。二周くらいしている。野望や政争をコミカルに、かつ熱く描いた傑作であるのだが、しかし基本的に女の子が大好きな自分が、男子校を舞台にした漫画になぜここまでハマったのか? それは、俺もまた野望の人だからである。

というわけで「渡葉の好きなもの」シリーズ第2回は「頂点を目指す」を取り上げたいと思う。

自分は、三十代も半ばにして、いまだに「天下取りたい」とか言ってしまう人間である。出来うる限り、人に勝ちたい。一番になりたい。だから過去の作品や登場するキャラには、そんな考えが色濃く反映されてきた。デビュー作のタイトルにも「彼女と目指す最強ゲーマー」って入ってるし。

なので、頂点を目指すのは自然なことだ、と思い込んでいたところがあるんだけど。実は、それは違うよというのを友人にツッコまれた事がある。

一人は「もう誰もが一流企業に入って高級車を欲しがるような時代じゃないんですから、共感できないですよ」みたいな事を言った。言われてみればその通りではある。うむむ(ちなみに彼はその後作家になって著書も順調に売れている)。

別の友人からは「そんなに頂点を目指せるのも、ある種才能ですよ」みたいに言われた気がする。結局、俺が思うより人は頂点を目指していない。あるいは、時代とともに目指さなくなってきたのかもしれない。

自分は運動はさっぱりだが、スポーツ漫画は好きである。「死ぬことなく命を懸けて、戦う相手は敵でなくライバル」な雰囲気が好きなのだ。そして彼らは一様に向上心を持っている。基本的に全国優勝を狙っている。そんな要素も自分に馴染むのかもしれない。

が、どうやらそのへんも時代とともに微妙に変わってきたらしい。「ハイキュー」の全国大会編は、ああいう形で終わった。あれはすごく意味のあることだ。地に足のついた物語だと思う。もちろん物凄く面白いのだが、少年漫画のセオリーとされていた展開からは外れている。

アイシールド21のキャラたちは「絶対全国大会決勝(クリスマスボウル)!」と叫んでいた。ハイキューのキャラは違う。「勝って帰ってうまいメシ食うぞ」と言うのである。どちらが良いというのではない。ただ後者のほうが現代的ではある。

モンキー・D・ルフィが「海賊王に、おれはなる!」と叫んだのはもう二十年以上前の話なのだ。今、そうやって「野望」で共感を得るのは難しい時代になってしまった。インターネットを見れば、自分より優れた人間がいくらでも見つかる。天下を取ろうなんて思うのは難しいのかもしれない。

厳密には、人は最強にはなりたいのだ。願望はあるのだ。「俺は最強だ」で始まる物語は今いくらでもある。ただ、最強を目指す「過程」を描くものは、もう受け入れられない。俺なんかはその過程で、才能の壁に抗ったり、同程度の実力者と互角に戦うところで「熱さ」を感じるわけだが、そもそも「熱さ」がもう求められなくなってしまった。

本屋さんで売られている漫画やラノベの、オビを見てみると良い。「白熱の戦い!」と書いてあるものはあんまりない。ラノベは特に顕著で「蹂躙する」「無双する」といった単語が多いはずだ。少なくとも2010年代、物語は「爽快感」「安心感」の時代だった。概ね時代劇の類型と言ってよい。

時代はかつて「世界一」を目指すところから「世界唯一」を目指すほうへ転換した。だが今は、さらに転換した。もう「世界唯一」も難しいので、そもそも「目指す」がなくなったのだ。

正直、ちょっと困ってしまったのである。キャラメイクをする段階で「〇〇を目指している」がキャラの核として機能しなくなってきてしまったのだ。何かいいアイデアがあればコメント欄で教えていただきたい。マジで。

この記事は自分の「好きなモノ」を明文化して整理するのが目的であるので、結論まで出すことはできない。ただ今後、そういう「何か目指す」キャラメイクをするにしても、もっと現実的で、地に足のついた要素を取り入れる必要はあるんじゃないかと思っている。

ひとまず今回はここまで。次回はたぶん「登場人物が多い」「多勢力の入り乱れ」などの要素を扱うと思います。リクエストもあればどうぞ。

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