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【解禁】侵略を退けた豊臣秀吉の4枚の手紙✉️もし当時✨豊臣秀吉✨がいなかったらと思うと、ゾッとします… 🐧💦

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(メルマガの転載です。。。✍️🐧)

ビデオ2本・①②:大東亜四百年戦争の歴史(9月30日まで公開)
https://in.kamijimayoshiro.jp/mmmr1_12800


件名: 【解禁】侵略を退けた豊臣秀吉の4枚の手紙

* * * * *

本日より、松浦光修氏の新講座である
『大東亜四百年戦争の歴史』
〜白人諸国が恐れた戦国日本の武威

・日本が植民地にならなかった秘密
・日本が鎖国に踏み込んだ本当の理由
・明治維新はなぜ起きたのか
・なぜ日本が大東亜戦争で欧米列強と戦う道を選んだのか

明確には語られない全ての答えが
豊臣秀吉の4枚の手紙から明らかに…

続きはこちら↓

画像1

* * * * *

今から遡ること500年前…

日本では腕に自信のある
強者たちが群雄割拠し、
各地で血で血を洗う
合戦が繰り広げられていた。

そんな戦国時代では、
桶狭間の戦い、本能寺の変、
関ヶ原の戦い…など、
これまで日本国内の
大きな争いばかり
が注目されてきた、、、

しかし、その裏で
今日までほとんど
語られてこなかった真実がある。

それは、
戦国日本と白人列強との戦い….
そして、"日本人奴隷の存在"である。

実は、戦国時代は
日本が初めてスペイン・ポルトガル
などの白人列強に侵略を
仕掛けられた時代でもあった。

例えば、日本人奴隷を
作っていた代表的な
侵略者があの、
フランシスコ・ザビエルである。

しかし、あなたもご存知のように
日本はこれまで
植民地になったことがない。

なぜ、日本は植民地に
ならなかったのか?

その秘密は、今では、サルと呼ばれ、
ラッキーで天下を
統一した老人のイメージが
ある豊臣秀吉が
フィリピンの首都マニラに送った、
"4枚の手紙"にあった。

この4枚の手紙は
日本の未来を大きく変えた。

この秀吉の4枚の手紙、、、、

そこから明かされる
日本が植民地にならなかった秘密、、

日本が鎖国に踏み込んだ本当の理由、、

明治維新はなぜ起きたのか、、

そして、なぜ日本が
大東亜戦争で欧米列強と
戦う道を選んだのか、、

これまで明確に語られて
こなかったそれら
全ては秀吉の4枚の手紙から
明らかになるでしょう。

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件名: ローマ教皇「日本領土はお前らで分けろ」

あなたはご存知ですか?

戦国時代の日本は、
勝手にスペイン・ポルトガルの
領土とされていたことを、、、

というのも、大航海時代の
16世紀…

スペインとポルトガルは
アメリカ大陸、アフリカ大陸、
オーストラリア、そしてアジアへと
世界を飲み込む勢いで
侵略を繰り返していました。

しかし、侵略の手を広げるうちに
スペイン、ポルトガルの両国で、
侵略と掠奪の”競争”が
始まって次第に両者で
争うようになりました。

そこで、両国の仲裁に入ってきたのが、
当時のローマ教皇です。

ですが、
ローマ教皇の口から出た言葉は…

「虐殺と掠奪をやめろ。」

ではなく、、、

「両国で仲よく山わけにしなさい」
でした。

こうして、1506年に侵略対象国の
分割方式を取り決めた
「トリデシリアス条約」
が締結されました。

つまり両国は、現地に住む人々には
何の断りもなく、
丸い地球を二つにわって、
その線から、西をスペインのものとし、
東をポルトガルのものにする…
という約束がされていたということです。

しかも、ほぼ現在の東経百三十五度線
あたりで、スペイン・ポルトガルの両国は、
勝手に“日本の領有”を主張していました。

スペイン・ポルトガルからすれば、
「西日本はポルトガルのもの」
「東日本はスペインのもの」
ということになっていた…
かもしれません…

つまり、日本人が知らない間に、
日本は、両国の利害が衝突する
”世界で最もおどろおどろしい戦場”
になっていたということですが、、、

あなたもご存知のように、
日本はこれまで一度も
植民地になったことがありません。

何故でしょうか…?

その理由は、

スペイン・ポルトガルが
侵略してこなかったからでもありません、、

スペイン・ポルトガルが弱かったら
からでもありません、、

日本が島国だからではありません、、

その秘密は、
あの豊臣秀吉にありました。

秀吉が書いた4枚の手紙によって、
日本は白人列強の植民地侵略から
守られ、その後300年間の平穏な時を
過ごすことができたのです、、、

一体、秀吉は手紙に何を書いたのか..?

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「庶民」から起こった尊王思想


外国の脅威から守るべき
同義国家とは何かということで、
尊王思想が浮かび
上がってくるということですね。


松浦:

外国からの脅威に直面して
「尊王思想」が生まれる一方で、

“では、守るべき日本とは何なのか”

ということを、
みんなが考えはじめ、
“日本は天子さまの国だ”という事実に、
改めて思い至ります。

戦後の日本では、
学会でも一般でも、
尊王思想というのは、

「単なる政治スローガンだ」とか、
「幕末に一部の知識人が
 創り出したイデオロギーで、
 それを明治政府が利用し、
 国民に教育した」

とか言われていますが、
それは大間違いです。

尊王思想と言われるものの根底には、
天皇や朝廷を尊いもの、
と感じていた
一般の民衆の潜在意識が
横たわっているからです。


後ほど触れると思いますが、
幕末に尊王思想が高まる背景には、
江戸時代における
諸学問の興隆があります。

近世の尊王思想の源流とされる
「崎門学」の始祖・山崎闇斎は、
鍼医者の息子です。

江戸時代中期に勃興した
国学の大成者・本居宣長は、
木綿問屋の息子ですし、
十九世紀始め頃に後期水戸学を
スタートさせた藤田東湖は、
古着屋の息子でした。

つまり、みんな庶民の出身です。
 

ですから、
“尊王思想は庶民の思想、民衆の思想”だ、
と私は言っているのです。

その背景にあったのは
伊勢信仰とか、
富士講などの
神道的な思想でしょう。


実際、よく知られているように、
江戸時代初期から、
伊勢参りが全国的に流行しています。

江戸時代には、
雛祭りも大ブームになりました。

お金のない庶民は、
土で雛人形を作って飾ったのですが、
お内裏さまとお雛さまといえば、
言うまでもなく天皇、
皇后両陛下なのですから、
そういう尊い存在に対する敬仰の念…、

憧れが全国民に浸透していた、
ということでしょう。

また、江戸時代の商人たちは、
荷物を安全に輸送するために、
しばしば公家の定紋入りの札
(会符)を付けました。

会符を付けると、
山賊から襲われたり、
荷を抜かされたり
されにくかったからです。

つまり、
公家の荷物には手を出しにくい、
という心理があったということで、
間接的ながら、
天皇や朝廷がいかに
権威をもった存在であったか、
ということを示唆していると思います。


さらに興味深いのは、
桃園天皇が崩御された直後の、
東北のある村の百姓の日記には、
「大たいり様ほうきょ(崩御)」
と書いてあります。

また、
年号が「文化」と改められた時、
地方の農民が残した記録には、
“年号が、朝廷によって発布された”
ということも書いてある。

当時は「禁中並公家諸法度」によって、
年号を決める権限は
幕府が握っていたことに
なっていますが、
“天皇が年号を変えて、
幕府が従った”と、
民衆には認識されていた
ということです。

つまり、民衆意識のなかには、
「上の天皇、下の幕府」という
図式があった、ということです。

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<【衝撃】ザビエルはスパイで侵略者だった? >

画像2

あなたはご存知でしたか?

よく歴史の教科書に
掲載されており、、

学生の間でネタにされていた、
フランシスコ・ザビエルが
実はスペインのスパイで
侵略者であったことを、、、

というのも、
16世紀の当時、宣教師というのは、
キリスト教の布教だけではなく、
各国を回って、その国の状況を
視察するという役割も担っていました。

視察を終えると、
その後に軍隊を出撃して
他国を植民地化してきました。

これが、スペイン国の
侵略の常套手段です。

実際に、イエズス会の文書館に
保存されていた秘密文書には、
ザビエルの手紙が見つかり
このように書いてあります。

「スペインの基地を作るために
地理的条件を考えると
天草が最高だ。
長崎に要塞を作るべきだ」

このように、ザビエルは
布教活動をする一方で、
スペインの基地を作る
という計画も遂行していた
ようです。

つまり、ザビエルが
日本に上陸した時点で、
日本はスペインに侵略されかけて
いたということですが、、、

あなたもご存知のように、
日本はこれまで一度も
植民地になったことがありません。

何故でしょうか…?

その理由は、

スペインが侵略して
こなかったからでもありません、、

スペインが弱かったら
からでもありません、、

バテレン追放令で
宣教師が国外追放されたから
でもありません、、、

その秘密は、
あの豊臣秀吉にありました。

秀吉が書いた4枚の手紙によって、
日本はスペインの植民地侵略から
守られ、その後300年間の平穏な時を
過ごすことができたのです、、、

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< 幕府批判を可能にした大政委任論と復古論 >

(本メールは、上島嘉郎氏が推薦する皇學館大学教授 松浦光修先生の
メールマガジンをお送り致します。)

松浦:

もちろん、
こうした庶民の思想だけで、
「尊皇思想」が形成されて
いったのではありません。

庶民のあいだにある雰囲気を、
思想として形のあるものにしていくには、
やはり学問が必須でした。


卑近な喩えですが、
「尊皇思想」を豆腐だとします。

天皇に対する
庶民の敬仰の意識は豆乳です。

豆乳を固めて豆腐にするには、
「にがり」が必要なように、
天皇や朝廷へ民衆の思いを固めて
「尊皇思想」にするために、
「にがり」の役目を果たしたのが、
水戸学や国学(皇学)などの尊皇の学問です。


江戸時代は、
幕府が全面的に統治の実権を
握っていたのですが、
その正統性がどこにあるのか
という議論は、
大きく変化しているのです。

江戸時代の中期までは、
実力で天下をとったわけですから、
徳川家はまるで
中国の“覇王”のように
考えられていました。

江戸中期の儒学者である新井白石にも、
徳川家は覇王であるというような
意識がまだ残っていて、

むろん、そうした“空気”のなかでは、
幕府批判、将軍批判などは、
あり得ないことでした。


そうした覇王意識が主流であった時代…

これは、白石より前のことですが、
山鹿素行などは、

“徳川家は大政を朝廷から
委任されているのだ”と説いています。

そうしたなかで、
やがて覇王意識が廃れていき、
十一代将軍の家斉の頃になると、
のちの老中の松平定信は、家斉に、

「天下は天朝よりの預かりものですから、
 自分のものだと思わないで下さい」

と、将軍の心得を説くまでに
変化していくのです。


これは「大政委任論」、
つまり“幕府は朝廷から政治を
委ねられている”という考え方です。

幕府という政治体制を
肯定する考え方ともいえ、
中途半端だとする向きもありますが、
人々の意識を動かし、
時代を進めたという点で、
私は評価しています。


というのも、
幕末になって外国の脅威が意識され、
攘夷運動が高まってくると、
“せっかく大政を委任されているのに、
幕府はきちんと仕事を
していないではないか”という主張が
出て来るようになるからです。

また、

“将軍は朝廷から
「征夷大将軍」という役職を
もらっていながら、
征夷すなわち「攘夷」を
実行していない、仕事をきちんとしろ”

という幕府批判にもつながっていく。


つまり、「征夷大将軍」の「夷」は、
幕末になって、欧米列強を
意味するようになったのです。

こうした幕府批判が可能になったのも、
ある意味では、「大政委任論」
という考え方が広く浸透していたからだ、
と思います。


━━━ 尊皇思想というと、
国学(皇学)というものを
思い浮かべるのですが、
こちらの方は
どういう役割を果たしたのでしょうか。


松浦:

先にもふれたように、
尊皇思想の源流となったのは、
江戸前期の儒者であり神道家の
山崎闇斎が創始した崎門学です。

この伝統の学者が水戸に招かれ、
水戸藩は一つの巨大な
シンクタンクのようになる。

特に『大日本史』の編集で
知られる水戸光圀は、
大金を投じて優秀な学者を
育てていくのですが、

その一人が、
契沖という人でした。

契沖が光圀の依頼によって
『万葉代匠記』を書き、
これによって、
『万葉集』の解読が画期的に進み、

それが元になって、
国学(皇学)の流れが出てくるのです。

その契沖の本を読んで、
目覚めていったのか
『古事記伝』を著した本居宣長です。

宣長は賀茂真淵の弟子ですが、
宣長が神道に開眼するのは、
契沖の本を読んだことが
きっかけになっています。


ちなみに、
教科書などでは国学(皇学)は、
荷田春満から始まる、
とされていますが、
これは平田篤胤以降の“偏見”にすぎません。

その本当の元祖は契沖だ、
と私は考えています。


では、こうした契沖、真淵、
宣長らの学問は、
のちの時代に、
どういう影響を及ぼしたのでしょうか。

当時の儒学者は、
日本の古代は、
ただただ野蛮な時代だ、
と捉えていた人が少なくありませんでした。

外国から儒学の書物がもたらされて、
それで初めて日本は文明化した、
というのが儒学者の歴史観でした。

その意味で、当時の儒学者は、
「西欧と較べて日本が遅れている」
と考えた近代の知識人に似ています。


それに対して契沖や宣長は、
『万葉集』や古事記の研究を通して、
シナよりも古代の日本の方が
立派な国だと説いた。

むしろ、日本においては、
古代は「仮名遣い」などにも、
きちんとした法則性があったのに、
外国からの文化流入のせいで、
中世から文法が乱れたと、考える。

そして、“日本の古代は、
きちんとした日本の言葉が
話されていた今よりも
正しい時代である”とも考えた。

だから、
もとの日本へ戻らなくてはならない。
こうして、「復古」という考え方が
出てくるわけです。


ただ、国学(皇学)も水戸学と同様に、
政治大政の考え方としては
大政委任論でした。

しかし、「復古」という考え方でいけば、
古代に「公地公民」という
概念があったことを連想させます。

天皇と民衆が、
直接結びついていた時代があった、
という記憶がよみがえるわけです。

このようなことも、
幕府や諸藩による
統治というものを乗り越える、
新しい統一国家像を準備した、
といえるでしょう。

皇學館大学教授 松浦光修

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< 歴史上の人物の“心の中”を知る方法 >

あなたも一度は、歴史上の人物が
何を考えていたか、心の中を覗いてみたいと
思ったことがないでしょうか?

ですが、、、
歴史上の人物の“心の中”
を知ることが出来る史料というのは、
ごく限られたものになります。

しかし、”和歌ならば残っている”
という場合が、少なくありません。

和歌は、日本人だけが使えて、
自分の心の中を言葉に変換したものです。

つまり、和歌は日本史そのものなのです。

なので、本当は歴史学にとっても、
和歌は重要な史料に
なるはずなのですが、、、

現代の歴史学では、
政治、経済、法制、軍事など
そういった側面からの研究がメインで、
それらの現象の根本にある、
“人々の心の中”は、あまり考慮されません。

歴史の中で、苦闘してきた
先人たちの“心の結晶”が、
子孫である私たちへの
“心の遺産”として、
せっかく残されているのに、
それを見ずに表面上の歴史だけを
学ぶのはもったいないのではないでしょうか?

そこで、戦前の日本人の歴史、心の中を、
和歌という角度から読み解く、

『皇神と言霊の国"日本"
~和歌で読み解く戦後に失われた"心の遺産”』

という、限定商品を制作しました。

画像3

しかし、この商品には、値段がついておりません、、
つまり、非売品ですが、ある条件を満たすと、
セットでご提供することができます。

条件の内容はこちらのビデオをご覧ください。

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< 元値の100倍?日本人奴隷ビジネス >

奴隷として海外に
売り渡されていく日本人…

1570年、日本は滅亡の危機にあった。

なぜなら、その当時、欧州列強(スペイン、ポルトガル)
による植民地化が進んでおり、
世界中の国々が植民地化となっていた、、、

そして、その侵略が日本に
まで押し寄せてきていたのだ。

そんな、スペイン、ポルトガルは宗教を
上手く利用して、
日本を植民地にしようと計画していた。

当時の宣教師というのは、
表向きの役割はキリスト教の伝道と
して日本にキリスト教を
浸透させようとしていたが、
その裏側でとんでもないことをしていた、、、

なんと、宣教師は
キリスト教を広めるため、
九州に度々訪れ、
浸透活動をしていたが、
それと同時並行で、
日本人を多く購入して連行し、
奴隷として世界中に
売りさばいていたのだ。

遠くに飛ばせば飛ばすほど、
儲かり、元値の100倍近い
値段をつけたとも言われている。

彼らにとっては、
まさに美味しいビジネス、、、

スペインの首都マドリッドに
残る日本人奴隷の資料には、
「手足に鉄の鎖をつけ」、
「むやみに積み重ね」、
「奴隷の日本人少女たちと醜い行い」
など見るに堪えない記録が散見される。

つまり、日本は戦国時代から
欧州列強から徐々に侵略を
されていたということだ。

しかし、現在に至るまで、
日本は他国の植民地に
なったことはない。

なぜか?

その理由は、

欧州列強が侵略して
こなかったからでもない、、、

欧州列強が弱かったら
からでもない、、

バテレン追放令で
宣教師が国外追放されたから
でもない、、、

その答えは、
あの豊臣秀吉にあった。

一般的には知られておらず、
教科書にも決して載らないが、、

秀吉が書いた4枚の手紙によって、
日本は欧州列強の植民地侵略から
守られ、その後300年間の平穏な時を
過ごすことができたのだ、、、

一体、秀吉は誰に何を書いたのか..?

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(本メールは、上島嘉郎氏が推薦する皇學館大学教授 松浦光修先生のメールマガジンをお送り致します。)

< 復興する朝廷の権威 >

━ 尊皇思想が学問の面でも、
民衆の思想として高まっていくと、
現実の政治にも反映して
いくことになるわけですね。

松浦:

ええ。

外国船が出没する少し前から、
内政の面では朝廷が
少しずつ重みをましてくる
ことになります。


特に十八世紀末に起きた
「天明の飢饉」に際して、
何万にもの民衆が“天皇陛下に
難儀を救っていただこう”ということで、

御所を拝みに行く
「御所千度参り」と
呼ばれる動きが起きました。

これは、信仰という形をとってはいますが、
人々の本音は、
天皇陛下から幕府に何か言って欲しい、
ということだったと思います。

そして実際、
時の光格天皇は、幕府に対して、
「救済米を出してやってくれ」と、
江戸時代では、はじめて
「内政」に注文をつけられたのです。


ちなみに、
天明の飢饉があったのと同じころ、
フランスでも飢饉が起きました。

しかし、
フランスでは飢饉によって革命が起こり、
王様がギロチンで殺され、
ブルボン王朝が潰れました。

日本は、まったく逆で、
飢饉によって朝廷の権威が、
飛躍的にたかまっていくわけです。

じつは朝廷の儀式の復興は、
江戸初期の後陽成天皇のころから、
すでにはじまっていて、
戦国時代に廃れた色々な儀式が、
江戸時代を通じて、
次々に復興していきます。

後陽成天皇は、
後水尾天皇に位を譲られるとき、
醍醐天皇の例にならって、
“測位と元服を同時にさせたい”ということで、
幕府と対立されているほどです。


また、
先にふれた光格天皇の崩御後には、
「天皇号」が再興されています。

そのころ、
平安時代以後の天皇は
「天皇」ではなく「院」とされていたのが、
その時から「天皇」と
言われるようになったのです。

これは古代以来のことだ、
というので評判になり、
この調子でいくと、
いずれ古代のような山陵が
つくられるのではないか、
という噂が人々の間に
広がったりもしました。

実際、後に孝明天皇は、
山陵復活に乗り出されています。

それこそ「禁中並公家諸法度」からは、
ありえないようなことが、
次々に起こっていくのです。

「復古への気運」というのは、
単に学問の世界でおこったことではありません。

江戸時代を通じて、
じつは朝廷の儀式の復興などを通じて、
高まりつづけていたものなのです。

皇學館大学教授 松浦光修

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< コロンブスの偉業の裏に隠された1億大虐殺事件 >

日本が戦国時代を迎えた当時...
世界は大航海時代。

新たな領土や富を求めて
ヨーロッパ人たちが
大海原に乗り出していった。

冒険家として知られる
コロンブス、
ヴァスコ・ダ・ガマ、
マゼランも新大陸を発見することで
ヨーロッパを大きく繁栄させた
偉大な冒険家として今でも
世界中で語り継がれている。

しかし、視点を変えてみると
ヨーロッパが海外に進出した、
この大航海時代こそ、人類史上、
最も不幸な「殺戮と掠奪の時代」
の幕開けだった。

コロンブスたち冒険家は
"新大陸発見"と声を上げて、
実質的には新しい
侵略対象候補を見つけ出す、、、

そして、見つけられてしまった
侵略対象候補は、
スペイン、ポルトガルの二カ国から
大量の軍隊が送り込まれ、
次々と植民地にされていった、、、

例えば、エスパニョーラ島では、
こんな暴虐の記録が今も残っている。

「キリスト教徒たちは、
女や子供を奪って、
使役、虐待し、食料を強奪した。

ある司令官は、島で最大の権威を
誇る王の后を強姦した。

彼らは、絞首台をつくり、
われらが救世主と二人の
使徒を称えるためだと言って、
十三人ずつその絞首台に吊るし、
その下に薪をおいて、
生きたまま火あぶりにした。」

グアテマラ地方とその王国では、こうだ、、、

「スペイン人たちは、
多くのインディオを鎖につなぎ、
国王の焼印を押して奴隷にした。
インディオには食料を与えなかった。
そのかわり、インディオたちに、
そのスペイン人が捕えた
インディオたちを食べることを許した。

子供が殺され、焼かれた。
また、男が手足を
切断されて殺された。」

フロリダ地方でも、、、、

「札付きの無法者たちは、
部下たちに命じて、
ある村の200人以上の
インディオの鼻から口髭まで、
唇もろとも削ぎ落とし、
のっぺらぼうにした。

スペイン人たちは、
血を流して苦しんでいる
その哀れなインディオたちを、
ほかのインディオたちのいる
ところへ行かせた。

目的は、それがカトリックの伝道師たち
のおこした奇跡であることを、
彼らに報せることであった。」

アメリカ大陸、アフリカ大陸、
オーストラリア、そしてアジアへ…
もはや”世界を飲み込む勢いの
残虐な侵略”によって最大で
一億人もの先住民族が虐殺されたという、、、

つまり、戦国時代は、
白人列強は有色人種が
平和に暮らしていた土地を次々と侵略し、
もはや”白人でなければ人にあらず”
といった究極の白人至上主義が
当たり前のように蔓延っていた時代と
ということだ。

しかし、あなたは不思議
ではないだろうか?

これだけ、スペインとポルトガルによる
侵略が世界各地で起こりながら、
日本だけが現在に至るまで
一度も他国の植民地になったことがない、、、

その理由は、

スペインとポルトガルが侵略して
こなかったからでもない、、、

スペインとポルトガルが弱かったら
からでもない、、

バテレン追放令で
宣教師が国外追放されたから
でもない、、、

その答えは、
あの豊臣秀吉にあった。

一般的には知られておらず、
教科書にも決して載らないが、、

秀吉が書いた4枚の手紙によって、
日本は欧州列強の植民地侵略から
守られ、その後300年間の平穏な時を
過ごすことができたのだ、、、

一体、秀吉は誰に何を書いたのか..?

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< 白人諸国が恐れた戦国日本の武威 >

これまでご案内してきたように、
日本は戦国時代から大東亜戦争に至るまで
400年間も白人列強の侵略と戦ってきました。

しかし、今日では、
「先の戦争は、すべて
日本が悪かったのだ。」
とGHQの洗脳教育によって
日本人の心に植え付けられてきました。

この事について
松浦光修先生はこう語ります。

「今も、精神的な占領政策は、
つづいているのです。

たとえば、“戦争に負けたのだから、
なにをされてもしかたがないのだ”とか、
“そもそも日本人は、武器を持つと、
すぐに悪いことをしでかす、
悪いヤツなのだ”などと…、

そういうことを、ほとんどの国民が
信じ込まされてしまっていますが、
それらは悪い妄想です。

その結果、天皇陛下や総理大臣が、
ごくあたりまえのこととして、
靖国神社に参拝することさえ、
できなくなっています。

「靖国神社で、また会おう」
と誓いあって、散華された方々
の御魂に対して、
日本人の一人として、
これほど申しわけなく、
面目のないことはありません。

憲法改憲も陛下の靖国参拝も、
いずれもできないままであるという、
このような現状がつづいている
主たる原因は、主にわが国の
報道と教育にあります。

逆からいえば、それを
変えることさえできれば、
日本は精神的な
占領状態から「解放」されるわけです。

大東亜戦争での、
軍人・軍属の死者は、二百三十万人。
一般国民の死者は八十万人
(戦災で五十万人、
外地での死亡が三十万人)
にのぼります。

日本が日本であり…
日本人が日本人であるかぎり、
わが国家と、わが国民は、
それらの尊い御魂たちに対して、
鎮魂と感謝の祈りを、
堂々とささげつづける権利があり、
義務があります。

いったい、いつになったら日本は、
「自分の国は自分で守る…
自分たちには、その権利と義務がある」
という、国家としての基本原則を
明記した憲法をもてるのでしょう。

また、いったい、いつになったら、
天皇陛下や総理大臣が、
ごくあたり前のこととして、
靖国神社に参拝して、
英霊に敬意をささげることの
できる日がくるのでしょう。

その日がくるまで、
日本は真の意味で
「独立を回復した」
ことにはなりません。

しかし、もしも一人一人の日本人が、
正しい歴史を学び、まずは自分の心が、
精神的な占領状態から解放されれば…

そして、そういう日本人が、
どんどん増えてくれば、
きっといつの日か…
ごく自然に、日本は、
本来の日本に戻るはずです。」

日本を白人列強の手から必死に守り、
今の日本を私たちに残してくれた
先人たちの正しい記憶を取り戻してほしい。

そのような強い想いから皇學館大学の
歴史学者である松浦光修先生と
共同製作をしたのが、、
『大東亜四百年戦争の歴史~
白人諸国が恐れた戦国日本の武威』です。

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<「五箇条御誓文」がもつ思想のダイナミズム >

(本メールは、上島嘉郎氏が推薦する皇學館大学教授 松浦光修先生のメールマガジンをお送り致します。)


インタビュアー:

天皇を尊ぶ庶民の意識や学問の流れ、
あるいは、朝廷のなかの復古の動きが、
幕末に攘夷思想と合体して、
討幕に向かっていくわけですね。


松浦:

討幕路線というのは、
もうぎりぎりの、
最後の段階になっての話です。

それまでは、
西郷さんも英明な将軍を据えて、
幕府を何とかリニューアルできないかということで、
将軍継嗣問題を命がけでやりました。

橋本佐内の殿様である松平春嶽も、そうです。
時代は、まだ大枠では大政委任論だったのです。
 

ところが、
公武合体をやっても、
諸侯会議を開いても、
ぜんぜん政治が機能しない。

だから、勝海舟は、
見切りをつけて
「もう幕府専政の時代は終わった」
ということを、西郷さんにも言うわけです。

そのあと、
だんだん倒幕をやらなければ
どうしようもない、
という事態になっていきます。


実際に討幕路線が
現実味を帯びてくるのは、
元治元年(1864)の第一次長幕戦争の後です。

その直前に長州が
「禁門の変」を起こした時は、
まだ、薩摩は幕府と会津と一緒になって、
長州を追い払っていたわけですから。

特に土佐藩は、
ぎりぎりまで大政奉還路線、
つまり、”無血革新”の路線を取るわけです。

その結果、
倒幕の密勅が出た同じ日に、
徳川慶喜は「大政奉還」を行っています。

しかし、
それでは将軍家は残ってしまします。

新しい政府を作っても、
旧依然としたものの寄せ集めで、
”なあなあ・・・ずるずる”といった感じで、
古い体制が続くことになる。

やはり、
いっぺん決定的に古いシステムをツブし、
一から出直さないかぎり、
新しい日本は生まれることはない。

だから、”もはや武力倒幕”しかないと
西郷さんたちが決意した。

この決断が明治維新につながる。

妥協せずに戦争も辞さなかったからこそ、
後にあれだけ急激な改革もできたのです。

それをやらなければ、
のちの「廃藩置県」など、
成功しなかったと思います。


この意味で、
「小御所会議」がゆきづまった
ギリギリの場面での、
西郷さんの「短刀一本あれば事が決する」
という一言は、きわめて重いのです。

いわば日本の運命を切り開いた一言・・・とも言えます。


ちなみに私は、
西郷さんがわからなければ、
明治維新はわからず、
明治維新がわからなければ、
”日本”はわからない、と思っています。

平成20年12月末に、
私が『〈新訳〉南洲翁遺訓
―西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』(PHP研究所)
を出版するのも、そうした思いがあったからのことです。
 

明治維新の大宣言である「五箇条の御誓文」も、
以上述べてきたような、
討幕の過程からでてきたものです。

そもそも「五箇条の御誓文」は、
原案の段階では、
諸侯会議の会議規則みたいなものでした。

しかし、諸侯会議の構想が、
鳥羽伏見の爆音とともに吹っ飛んでしまい、
しばらく「お蔵入り」してしまう。

それを木戸孝義が再発見して、
「諸侯会議を興し」を
「広く会議を興し」に修正して、
新生日本の国是に仕立て直すのです。

ここから、
のちに民選議員の設立を求める
「自由民権運動」も起こります。


しかも、
思想の流れという点から言いますと、
「五箇条の御誓文」には、
近世の様々な思想が流れ込んでいる。

そこには、
儒教的な王道政治の理念もあれば、
坂本龍馬などの志士に
大きな影響を与えた横井小楠が説いた、
アメリカの共和制的な思想も入っている。

そして、
それを「天皇が神に誓う」という
神道的なかたちにコーディネートして
公布されるのです。

その意味で、
「五箇条の御誓文」は
東西の高い政治理念を、
日本古来の思想によって
見事に止揚させた
「近代日本の政治思想原型」といえるのです。

 
先の大戦後、
マッカーサーから、
アメリカ直輸入の「民主主義」を
押し付けられそうになった昭和天皇は、

昭和二十一年元日に出された
「新日本建設の詔書」の冒頭に
「五箇条の御誓文」を引用されています。

それを引用することで、
”今更アメリカからもらわなくとも、
日本はすでに主体的に民主的な政体を作ってきている”
ということを敢然と示されたというわけです。


インタビュアー:

まさに、
尊皇攘夷という思想があったがゆえに
明治維新が実現したといえますね。


松浦:

ええ。

ですから、
明治維新はもちろんのこと、
維新を実現させた尊皇攘夷思想も、
こうした大きな構想の流れの中で
理解すべきなのです。

そうでなければ、
維新の志士たちの心に
脈打っていた国の独立・自立への
あつい思いも理解できないと思いますね。

皇學館大学教授 松浦光修


* * * * *

画像4

(上島嘉郎さん/松浦光修さん)

* * * * *

日本の永続のために…
糸を紡いで継いでゆく
松浦光修さんの歴史講座に期待する

松浦光修さんの
歴史講座を楽しみにし、
また大いに期待しています。

私が、松浦さんに初めてお会いしたのは
平成11(1999)年でした。

当時松浦さんは
皇學館大学(三重県伊勢市)の助教授で、
私は産経新聞社が発行する
オピニオン誌『正論』の編集者でした。

どうも三重県の公立学校の
教育がひどく偏向しているらしい、
という話は耳にしていましたが、
上京された松浦さんから
実際の話しを聞いた私は、
「日本人の”心の故郷”とも云える
伊勢神宮(正称は「神宮」)
のお膝元にありながら、
そんなにひどいのか」
と思わず口にしたのを今でも覚えています。

その頃、三重県教職員組合(三教組)は
組織率日本一を誇っていました
(現在も日本有数の組織率を維持)。

松浦さんは、その日教組王国に果敢に挑み、
不法な勤務時間中の組合活動や、
反日的な授業方針などの実態を
『正論』などのメディアを通じて追及、
文科省や県議会も看過出来なくなり、
ついに三教組は、実際は組合活動だった
勤務時間中の給与(約11億円)を
“寄付”というかたちで
返還せざるを得なくなりました。

松浦さんは国史を専門とする
学究の徒として歩んでこられましたが、
「日本人として生まれながら
日本への愛と誇りのない子供たちを、
これ以上増やしてはならない」
というやむにやまれぬ思いから、
日教組との闘いに身を投じたのです。

「『日本らしい日本』で暮らしたい。
日本男児と大和撫子に満ちた尊い国、
その国があることを信じ、
信じる仲間たちと、その日本に
“帰還”出来る日まで微力を尽く。」

そう語る松浦さんは、
私の盟友でもあります。

大東亜戦争が敗戦という
かたちを強いられたことで、
今日の私たちは、戦前の日本とは
細々とした幾筋かの糸に繋がれるのみで、
その連続性を断たれようとしています。

糸を手繰り寄せ、
日本人としての思いを継いでゆく。

神話、皇室、言葉…守るべきものを、
松浦さんの語りのなかに
是非見出していただきたいと思います。

上島嘉郎

* * * * *

松浦光修(まつうら・みつのぶ)/ 歴史学者

昭和34年、熊本市生まれ。
皇學館大学文学部を卒業後、
同大学大学院博士課程に学ぶ。
現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)。

専門の日本思想史の研究のかたわら、
歴史、文学、宗教、教育、社会に関する評論、
また随筆など幅広く執筆。全国各地で、
講演活動をつづけている。

<著書>

『大国隆正の研究』(神道文化会・平成13年)
『大国隆正全集(編者)』第八巻・補遺(国書刊行会・平成13年)
『竹内式部』(皇學館大学出版部・平成7年)
『やまと心のシンフォニー』(国書刊行会)
『いいかげんにしろ日教組』(PHP研究所・平成15年)
『夜の神々』(慧文社・平成17年)
『永遠なる日本のためにー“女系天皇“は天皇といえるのか』(四柱神社・平成18年)
『【新訳】南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』(PHP研究所・平成20年)
『日本の心に目覚める五つの話』(明成社・平成22年)
『【新訳】留魂録 吉田松陰の「死生観」』(PHP研究所・平成23年)
『楠公精神の歴史』(湊川神社・平成25年)
『日本は天皇の祈りに守られている』(致知出版・平成25年)
『【新釈】講孟余話 吉田松陰、かく語りき』(PHP研究所・平成27年)
『龍馬の「八策」 維新の核心を解き明かす』(PHP研究所・平成29年)


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(メルマガ・ビデオの情報より…)

〜 戦国武将 VS 白人列強 〜
植民地侵略を跳ね返した豊臣秀吉の4枚の手紙

<日本人を黒船に買い取らせて、手足に鉄の鎖をつけ、地獄の苦しみを与えています>・・・これは、豊臣秀吉の配下である大村由己ゆうこが書き残した記録です。

今から遡ること500年前。日本では腕に自信のある強者たちが群雄割拠し、各地で血で血を洗う合戦が繰り広げられていました。そんな戦国時代では、桶狭間の戦い、本能寺の変、関ケ原の戦いなど、これまで日本国内の大きな争いばかりが注目されてきました。

しかし、その裏で今日までほとんど語られてこなかった真実があります。それは、戦国日本と白人列強との戦い。そして、“日本人奴隷の存在”です。実は、戦国時代は、日本が初めてスペインやポルトガルなどの白人列強に侵略を仕掛けられた時代でもありました。例えば、日本人奴隷を作っていた代表的な侵略者が、あのフランシスコ・ザビエルです。

しかし、皆さんもご存知のように、日本はこれまで植民地になったことはありません。なぜ、日本は植民地にならなかったのか?その秘密は、今ではサルと呼ばれ、ラッキーで天下を統一した老人のイメージがある豊臣秀吉が、フィリピンの首都マニラに送った“4枚の手紙”にありました。この4枚の手紙は日本の未来を大きく変えました。この秀吉の4枚の手紙。

そこから明かされる日本が植民地にならなかった秘密。日本が鎖国に踏み込んだ本当の理由。明治維新はなぜ起きたのか。そして、なぜ日本が大東亜戦争で、欧米列強と戦う道を選んだのか。今まで明確に語られてこなかったこれら全ては、秀吉の4枚の手紙から明らかになります。

・・・

コロンブスの偉業の裏に隠された1億大虐殺事件

日本が戦国時代を迎えた当時、日本は歴史上最大の危機を迎えていた。何故なら、ローマ教皇の許可によって結ばれたトルデシリャス条約によって、日本は勝手にスペインやポルトガルの領土と見做されていたから。

ポルトガル人が種子島に上陸し、スペイン人のザビエルも鹿児島に上陸。とうとう日本にも、白人列強の侵略の手が伸びてきたのである。戦国時代の日本にやってきたスペイン人やポルトガル人には、明らかに侵略の意図があった。なにしろ、ローマ教皇から侵略の許可が出ていたから、彼らにとっての侵略はごく自然な発想だった。こうした白人列強による侵略現象は日本だけではない。

この時代の白人たちは、新たな領土や富を求めて大海原に乗り出していった。冒険家と知られるコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランも新大陸を発見することで、ヨーロッパを大きく繁栄させた偉大な冒険家として、今でも世界中で語り継がれている。

しかし、視点を変えてみるとヨーロッパが海外に進出したこの大航海時代こそ、人類史上、最も不幸な「殺戮と略奪の時代」の幕開けだった。コロンブスたち冒険家は“新大陸発見”と声を上げて、実質的には新しい侵略対象候補を見つけ出す。
そして、見つけられてしまった侵略対象候補は、スペイン、ポルトガルの2ヶ国から大量の軍隊が送り込まれ、次々と植民地にされていった。

アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア、そしてアジアへ。もはや“世界を飲み込む勢いの残虐な侵略”によって、最大で1億人もの先住民族が虐殺されたという。この次の侵略対象が戦国日本だった。

これまで秀吉は、日本にやってきた外国人宣教師たちが、良くない存在であることを察していたとはいえ、キリスト教に対して極めて寛容だった。日本人のキリシタンに対して、「キリスト教に一夫一婦の戒律さえなければ、私もキリスト教徒になったであろうに… 」などという冗談を言った。

ところが、秀吉は、予想以上のキリシタン、ザビエル一行の悪行を九州の地で知ることになる。秀吉に仕え、共に九州に赴いていた大村由己は、その様子を手紙にこう書き残している。

<五島、平戸、長崎などでは、南蛮船が着くごとに、その国の領主を信者にし、様々な信仰の者を自分の宗派に引き入れ、それだけではなく、日本人を数百人、男女は関係なく、黒船に買い取らせて、手足に鉄の鎖をつけ、船底に押し入れ、地獄の苦しみを与えています>

つまり、キリスト教の宣教師たちとポルトガルの奴隷商人たちは“グル”で、日本人を奴隷として買い、連れ去って行ったということだ。その証拠に、宣教師たちが『奴隷貿易許可証』を発給していた事実が露見し、ポルトガルのリスボンでは、行く先々で日本人奴隷の目撃情報が後を絶たなかった。

スペインの首都マドリードに残る日本人奴隷の資料には、
「手足に鉄の鎖を付け」「むやみに積み重ね」
「奴隷の日本人少女たちと醜い行い」
…など、見るに堪えない記録が散見される。

このように、徐々に侵略されていった日本だったが、戦国日本には、アメリカ大陸の先住民にも、他のアジア諸地域にも、どこにもないものがあった。

それは、秀吉による強力な統一政権。それに従う全国の百戦錬磨の大名たち。そして、戦闘能力の高い武士たちと最新鋭で大量の武器だ。例えば、鉄砲は、
「鉄砲の絶対数では、16世紀末の日本は、間違いなく世界のどの国よりも大量に持っていた」と言われている。
つまり、戦国日本は、世界がまだ知らなくとも軍事大国だった。

日本人奴隷を作って、日本の信仰を破壊していた外国人に秀吉は激怒し、『伴天連バテレン追放令』を出して、大胆に外国人宣教師たちの国外追放を命じた。こうして、日本に伸びた侵略の手は一旦、秀吉によって弾かれた。ここまでなら、他の武将でもやって退け、侵略者の排除に安堵の息をつくかもしれない。

しかし、秀吉だけはこれで安堵することはなかった。これまでの日本史のデータにはなくとも、侵略者の執念深さというものを非常に理解していたのだ。続け様に秀吉は、ある大事業に乗り出した。その大事業とは、近代の歴史学では、古くから秀吉の『功名心』とか『誇大妄想』ということで済ませられがちな『朝鮮出兵』である。

・・・

白人列強が恐怖した秀吉の4枚の手紙

そして、来たる朝鮮出兵の時、秀吉はマニラのフィリピン総督に対して、威嚇の為にこんな手紙を送る。

「今、私は支那に対して、戦いを為そうとしている。あなた方も旗を倒して、私に従う時が来た。もし、従う時が少しでも遅れれば、私はあなた方に対して、速やかに罰を与えるであろう。その時、後悔してはならない」

なぜ、秀吉はマニラのフィリピン総督に送ったのか? それは、既にフィリピンが植民地支配され、実質的な君主がスペインであることを秀吉が見抜いていたからである。秀吉は、国際情報も踏まえた上で威嚇をしていたのだ。この手紙はマニラに届き、現地のスペイン人はかなり動揺した。慌てふためいたマニラには厳戒令が敷かれ、フィリピン総督はスペイン国王に援軍の派遣を求めた。

スペイン人は、日本軍の攻撃をきっかけにして、フィリピンの人々が立ち上がり、ひいてはスペインの植民地体制が崩壊する危険性を本気で感じていたのだ。キリスト教徒の支那人である通訳者アントニオ・ロペスは、この日本人と白人の戦いについて、こんな証言を残している。

「この島には4千人から5千人のスペイン人がいると私が言うのを聞いて、日本人は笑った。彼ら、フィリピン諸島の防備は児戯に類する。なぜならば、日本人100名はスペイン人の200名、あるいは300名に匹敵する力を有するからである」

さらに、秀吉は総勢16万の大軍を朝鮮に送り、日本軍は朝鮮王国の首都・京城を陥落させた。その時に秀吉は、フィリピン諸島長官に宛てて、日本の軍事力を誇示する為に、こんな内容の手紙を送る。

「私は、高麗の国にその土地を通過する事を求めたが、それを実行し始めた時、高麗は私に約束したことを行わず抵抗したので、私の軍の先鋒は高麗の国を破壊した。これは、甚だ容易なことで、まるで雪に熱湯をかけるかのようであった。私は、人々が皆、平和に静穏に生きることを求めている。そして、私の統治している地域では、何人も商船の往来を妨げない。

そうであるから、あなた方は、毎年来て貿易をすることができる。フィリピンは遠いとはいっても、もしあなた方が私の命令に背くようなら、私は優秀な将軍を遣わして、あなた方を罰するであろう。あなた方は、急いで私のところに来なさい。また、人を遣わして私が言っていることをスペイン本国にも伝えなさい」

つまり、この頃の日本の軍事力は、朝鮮半島の軍を遥かに凌いでいたのだ。
そして、秀吉の視線は朝鮮半島を越え、支那大陸を越え、遠くスペインにまで注がれていた。さらに、秀吉のスペインへの威嚇は続く。
1593年の秋に秀吉は、フィリピン総督に宛てて、こんな手紙を送る。

「今、私の配下の多くの武将たちが、マニラを占領する許可を私に求めている。支那に到着したらルソンはとても近く、私の親指の下にあるようなもの、ということになる。そうなったら、私たちは地理的にも近い関係になるのであるから、永遠に親しく交わりたいものである。私がそう言っていると、スペインに書き送りなさい。スペイン王は遠くにいるといっても、私の言うことを軽視してはならない」

つまり、秀吉は、「私は、やがてマニラにも攻め入るかもしれない」
と、強く脅しをかけたのだった。

スペイン人は、この手紙に肝を冷やした。スペイン・ポルトガル勢力の側から見ると、日本を“軍事占領する”と大言壮語してナメていたら、いつの間にか自分たちの支配する地域の方が“軍事占領される”かも知れないという状況になっていたのだ。

さらに秀吉は、1597年2月、再び14万の大軍を朝鮮に送ると同時に、フィリピン総督に宛てて、侵略国の企みを暴いた手紙を送った。

「数年前、数人の宣教師が我が国に来て、外国の悪魔の教えを説き、我が国の貧しい庶民の男子や女子の信仰を乱し、更にはその外国の風俗を持ち込み、庶民の心を惑わし、我が国の政治も破壊した。そのため私は、その教えを厳しく禁止し、我が国に一切入ってこないように命じた。

ところが、外国から来た宣教師たちは、自分の国に帰らず、町や村を回って、密かに貧しい庶民、従僕、奴婢などに外国の教えを説いて止まなかった。私はそのことを聞いて忍耐することができず、直ぐに彼らを殺すことを命じた。なぜなら、外国において布教は、外国を征服する策略、また征服するための方便である、と聞いているからである。

もし、我が日本国から日本人の教師や庶民があなた方の国に渡って、神道の教えを説き、庶民を混乱させ、惑わし、人の道を踏み外すようなことがあったら、その国の統治者のあなたは、それを嬉しいと思うであろうか。喜びはすまい。もし私を批判するなら、そのことをちゃんと考えてから批判しなさい。

私は思う。あなた方は、そのような方法を用いて、フィリピンの古来の君主を追い出し、それに代わって自分たちが、フィリピンの新しい君主になったのではないか。それと同じように、あなた方は今、あなた方の国の信仰によって、我が国の信仰を破壊しようとしている。そして、やがては日本国を占領しようと企てているのである」

つまり、秀吉は、スペイン・ポルトガル勢力が、“排他的な思想と侵略的な軍事力”によって、日本を征服しようとしたことも全て見透かしていたのだ。
こうして秀吉の朝鮮出兵は、スペイン・ポルトガル勢力に衝撃を与えた。

それまでは、“日本など、我が軍事力で一ひねり”という勢いだったスペイン・ポルトガル勢力は、むしろ、日本の軍事力に恐れを抱くようになった。

秀吉が目指したのは、世界の植民地化イベリア両国に対する東洋からの反抗と挑戦とも言えるだろう。スペイン勢力に対して、日本の軍事力の強大さを否応なく知らせることになったと言って良い。

早く日本を征服してしまえと威勢の良かったフィリピン総督や宣教師たちは、どこかに行ってしまったかのようだ。朝鮮出兵は、世界最強を自負するスペイン人の心胆を寒からしめる効果を発揮していた。

日本は大東亜戦争よりずっと前の戦国の世から白人列強と戦っていました。一般的にはサルと呼ばれ、ただ天下をラッキーで統治した老人のイメージがある秀吉ですが、実は、国際情報にも詳しくスペインやポルトガルの侵略の魔の手を跳ね返していたことが分かって頂けたと思います。もし、秀吉が白人列強の侵略を跳ね返すことができなかったら、日本はとっくの昔に植民地になっていたかも知れません。

20世紀を代表する歴史家と知られるイギリスのアーノルド・トインビーは、当時の世界の有り様について、このようなことを書いています。

「瓦解した諸帝国が、トルコから中国に至るまでアジアの全大陸にその残骸を並べていて、至るところの原住民らは、やはり羊のごとく従順にその毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。敢えて彼らの毛を刈り取る者に立ち向かって反抗しようとはしなかったのである」

つまり、アジアの国々は白人列強国に侵略され言いなりになって反抗もできなかったということですが、トインビーは、この文章に続きを書いています。

「日本人だったら、全く違った反応を示したであろう。しかし、日本は極めて珍しい除外例であり、かえって原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ」

トインビーがこのように言っているように、秀吉のような大胆な行動を起こし自国を守れたのは、日本だけだったのです。そして、この日本だけが戦国時代から白人列強と戦っていたという事実から、もう1つ見えてくるものがあります。それは、秀吉の朝鮮出兵の後に続く鎖国、明治維新、そして大東亜戦争についてです。

秀吉が、一度は白人列強の脅威を跳ね返してくれたからこそ、その後の日本は鎖国という防御態勢を取ることができ、再度、白人列強の脅威に曝されたときには明治維新を起こし、そして大東亜戦争で欧米列強と再び戦うことが出来ました。

一般的に鎖国は、周りが強かったため日本が引き籠もったようなイメージが強いですが、真実は真逆で、日本が強い国であったからこそ、鎖国という防御態勢を作ることが出来ました。秀吉による軍事的プレゼンスが無ければ、日本はいくら鎖国をしたいと主張してもスペイン、ポルトガルはローマ教皇の許可に従って侵略してくるでしょう。

鎖国は続きましたが、ペリー来航と共に再び日本と白人列強のパワーバランスが崩れ始め、白人は300年の時を経て、再び日本に侵略を仕掛けてきました。それから始まったのが大東亜戦争です。そして、大東亜戦争への日本側の準備が、あの明治維新だったのです。このように400年以上、白人の侵略に対する日本の防衛戦争があったという見方をすれば、あらゆる辻褄が合うと思わないでしょうか?

しかし、このようなことは学校やメディアは教えてくれません。そればかりか、朝鮮出兵は秀吉が調子に乗った結果の侵略で、明治維新はテロリストによる革命、大東亜戦争は日本側の侵略だったと流布されて、書店に並ぶ本では、今の日本を私たちに残してくれた色々な武将、幕末の志士、軍人たちが軒並み感情的な言葉で、口汚く罵られています。

このような知識は、歴史学の素人の方が一見すると、あたかも“斬新な視点”と“豊富な知識”が満載されているかのようにも見えるのでしょう。もちろん、歴史上の人物を批判するのは自由です。しかし、それはあくまで事実に基づいて論理的に批判されるべきです。批判する言葉も正確に用いられなくてはなりません。
でないと、嘘で塗り固められた自虐的な歴史を学んでも、私たちは日本人であることを誇ることができませんし、何より今の日本を私たちに残してくれた先人たちを『冤罪』に陥れて日本人の名誉を汚してしまいます。

・・・

戦国時代の日本は、勝手にスペインとポルトガルの領土とされていました。大航海時代の16世紀、スペインとポルトガルはアメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア、そしてアジアへと世界を飲み込む勢いで侵略を繰り返していました。しかし、侵略の手を広げるうちにスペインとポルトガルの両国で、侵略と掠奪の”競争” が始まって次第に両者で争うようになりました。

そこで、両国の仲裁に入ってきたのが、当時のローマ教皇です。ですが、ローマ教皇の口から出た言葉は…、「虐殺と掠奪をやめろ。」ではなく…、「両国で仲よく山分けにしなさい」でした。こうして、1506年に侵略対象国の分割方式を取り決めた『トリデシリャス条約』が締結されました。

つまり両国は、現地に住む人々には何の断りもなく、丸い地球を2つに割って、その線から西をスペインのものとし、東をポルトガルのものにするという約束がされていたということです。しかも、ほぼ現在の東経135度あたりで、スペイン・ポルトガルの両国は、勝手に“日本の領有”を主張していました。

スペイン・ポルトガルからすれば、
「西日本はポルトガルのもの」「東日本はスペインのもの」
ということになっていたかもしれません。

つまり、日本人が知らない間に、日本は両国の利害が衝突する“世界で最もおどろおどろしい戦場”になっていたということです。

・・・

よく歴史の教科書に掲載され、学生の間でネタにされていたフランシスコ・ザビエルが、実はスペインのスパイで侵略者であったことを皆さんはご存知でしたか?

というのも、16世紀の当時、宣教師というのはキリスト教の布教だけではなく、各国を回って、その国の状況を視察するという役割も担っていました。視察を終えると、その後に軍隊を出撃させて他国を植民地化していきました。これが、スペイン国の侵略の常套手段です。実際に、イエズス会の文書館に保存されていた秘密文書には、ザビエルの手紙が見つかり、このように書いてあります。

「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。長崎に要塞を作るべきだ」

このように、ザビエルは布教活動をする一方で、スペインの基地を作るという計画も遂行していたようです。つまり、ザビエルが日本に上陸した時点で、日本はスペインに侵略されかけていたということです。

・・・

日本が戦国時代を迎えた当時、世界は大航海時代。新たな領土や富を求めて、ヨーロッパ人たちが大海原に乗り出していきました。冒険家として知られるコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランも新大陸を発見することで、ヨーロッパを大きく繁栄させました。偉大な冒険家として今でも世界中で語り継がれています。

しかし、視点を変えてみると、ヨーロッパが海外に進出したこの大航海時代こそ、人類史上、最も不幸な『殺戮と掠奪の時代』の幕開けだったと本編で書きましたが、その理由は下のような事実があったからです。

コロンブスたち冒険家は、“新大陸発見”と声を上げて、実質的には新しい侵略対象候補を見つけ出します。そして、見つけられてしまった侵略対象候補は、スペインとポルトガルの2ヶ国から大量の軍隊が送り込まれ、次々と植民地にされていきました。例えば、エスパニョーラ島では、こんな暴虐の記録が今も残っています。

「キリスト教徒たちは、女や子供を奪って使役、虐待し、食料を強奪した。ある司令官は、島で最大の権威を誇る王の后を強姦した。彼らは、絞首台を作り、我らが救世主と2人の使徒を称えるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊るし、その下に薪を置いて、生きたまま火あぶりにした。」

・グアテマラ地方とその王国では…

「スペイン人たちは、多くのインディオを鎖に繋ぎ、国王の焼印を押して奴隷にした。インディオには食料を与えなかった。その代わり、インディオたちに、そのスペイン人が捕えたインディオたちを食べることを許した。子供が殺され、焼かれた。また、男が手足を切断されて殺された。」

・フロリダ地方でも…

「札付きの無法者たちは、部下たちに命じて、ある村の200人以上のインディオの鼻から口髭まで、唇もろとも削ぎ落とし、のっぺらぼうにした。スペイン人たちは、血を流して苦しんでいるその哀れなインディオたちを他のインディオたちのいるところへ行かせた。目的は、それがカトリックの伝道師たちの起こした奇跡であることを彼らに報せることであった。」

アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア、そしてアジアへ。こうして、“世界を飲み込む勢いの残虐な侵略” によって、最大で1億人もの先住民族が虐殺されたといいます…。

つまり、日本の戦国時代、白人列強は有色人種が平和に暮らしていた土地を次々と侵略し、もはや “白人でなければ人に非あらず” といった究極の白人至上主義が当たり前のように蔓延っていた時代だったということです。



_φ(・_・  💦


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