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【 2020/06/21→→→06/15 】 。 。 。 。 。 。 。 。 【宮 崎 正 弘 の 国 際 情 勢 解 題】 。 。 。 。 。 。 。 令和2年(2020)6月15日(月曜日)〜 〜 〜6月21日(日曜日) まで〜♫ ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月21日(日曜日)弐
       通巻第6549号  
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(日曜版)ニュース解説はありません
 下欄に「早朝特急(14)
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明日(22日)発売!
https://www.amazon.co.jp/dp/4802400993/
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宮崎正弘『WHAT NEXT(コロナ以後大予測)』(ハート出版)
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──コロナ禍で人生が変わった人が多い
──誰もが気にし始めた「WHAT NEXT」
日本はこの「鎖国」をチャンスに活かせないでしょうか? 大きな流れとしては、
(1)グローバリズムの大後退。
(2)ナショナリズムの復権。
 (3)中国基軸のサプライチェーンが全世界的に改編され、
 (4)コロナとの「共存」時代がくる、ことです。
 長期的には思想、哲学に大きな変化があらわれ、多死社会(看取り社会)の到来に死生観の適正復帰が行われるでしょう。輪廻転生の考え方が真剣に考え直される。
 地政学的には「米中対決が最終戦争」段階へ、つまり「金融戦争」です。すでに香港への優遇措置剥奪を表明した米国は中国の「在米資産凍結」を視野に入れています。
 対抗する中国はドル基軸態勢の崩壊を企図して、「デジタル人民元」を「次のウィルス」とする気配が濃厚になっています。
独特で伝統的な日本の文化力の回復。国風の復活があってこそ、自律自存の国へ復活することになる流れがあります。 
           
集中連載「早朝特急」(14) 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++第一部「暴走老人 西へ」(14)   第十四章 内蒙古紀行

 ▲牧畜とゲルとチーズ酒

 「内蒙古自治区を見てきます」と友人に言ったら「牧畜とゲルとチーズ酒ですね」と連想ゲームのように印象を告げられた。しかしそれらは十数年前の風景である。
 いまの内蒙古自治区は経済成長激しく、意外や意外、繁栄を享受し、街はクルマの洪水、コロナ禍前まで、豪華レストランは満員だった。遊牧民族が馬を駆って山羊を追う、のんびりした草原地帯というイメージはとうに消えてしまった。
 十年前に再訪したときは、意気消沈の日本人がうらやむほどの景気の良さだった!
 草原と馬と羊のくにが、レアアースによって外貨が雪崩れ込み、摩天楼乱立は町づくりに秩序がなく、テンでバラバラの建築思想でひたすら派手は建物を競った。無思想と美観の欠如。
 バブル崩壊があれば、間違いなく震源地となる可能性の場所に激変したのだ。 
 実際にゲルは激減し、遊牧民は都会のマンション暮らしが奨励され、付近の工場で就労するケースも増えた。ゲル(中国語はパオ)に泊まる「草原ツアー」にでも参加しない限り、一般人が牧草地での宿泊も食事も難しくなった。

 内蒙古自治区の省都はフフホトである。西の拠点はパオトウ(包頭)になる。
 二十年ほど前にも筆者はフフホトを取材した経験があるが、夜、星々が手に取るように近く風景は寂しく、もの悲しく、平原のオアシスに低層の住宅と裏寂れた商業地区があった記憶しかない。
商店街の入り口には岩がごろごろとなって、何かと思えば岩塩だった。貧困なイスラム街と公安に監視される仏教寺院という貧弱な印象を抱いた。
 2013年に再訪してみれば街はぴかぴかに整備され、新築の摩天楼が目立ち、しかも車はベンツ、アウディにBMWと新車が多い。人々の身なりも格段に良くなっていた。宿泊したホリディインホテルでは一般市民がグループで食事にきていた。相変わらずリヤカーの運搬人、リキシャもあるが、朝夕のラッシュ・アワー以外、利用者がいない。鉄道駅に屯した出稼ぎ労働者の群れも激減していた。
 第一の驚きは大召というチベット寺院でのこと。この古刹が観光バスの列ができるようになり急激に人出が増えたが、同時に急速に悪く俗化していた。「女神酒店」というやや豪華なホテルでは昼間から酒を飲んでいる地元民。ロビィに入るなり酒臭いのである。
 (何かが崩れた。カネに酔って大事なものが壊れたナ)。
 他方、イスラム街はぴかぴかの新都心に変貌して外装こそ立派だが、巨大モスク前にはアラジンの不思議なランプをもじった金ぴかのオブジェがあって記念写真の場所となっている。

 フフホトといえば、チベット仏教の僧院が建ち並び、日本と縁の深いお寺もある。その仏教の町の目抜き通りに白亜の巨大なモスクが林立しているのだ。突如、町の景観に変調を来すような違和感があった。地図を見比べて、このモスク街が仏教寺院を取り囲むように建っていることが気になった。モスクの中へ入ると洋装品のバザール、古本の屋台、モスクなのに宗教書は一冊もなく、礼拝堂は倉庫となっていた。
 こうなると宗教を餌にした観光施設である。モスク前の広場ではテント村が出来てバザールをやっていた。
 なんだかアリバイ証明的にモスクの外環だけを整えているだけとみた。

▲雨が降ると道路が陥没し、あちこちに水たまり

 第二に観光名所、寺院の拝観料が二倍から三倍に跳ね上がっていた。ついで言うと公共バス料金も値上げされ、長距離バスは三割ほど高くなっていた。ジンギスカンの御陵に到っては入場料が110元(1500円強)もとる。幸い(?)筆者は高齢者ゆえパスポートを見せると「老人割引」で半額になったが。。。。

 第三に建設現場労働者が激減していることだった。
 2013年に北京を襲った豪雨は77名の犠牲をだした。同年八月初旬の台風は上海で大きな被害がでた。ちょうどその頃に旅行したので内蒙古自治区の各地で洪水があって道があちこち陥没、凹凸だらけ、泥水。道路整備を怠り、手抜き工事の悪影響が露呈していた。道路インフラが遅れているのは否めない現実だった。
 
 第四に貧富の差の拡大ぶりにも驚かされる。豪華瀟洒なレストランにBMWやベンツで乗り付ける「資源成金」の脇に乞食がまとわりついている。この地方の乞食はしつこい。
 繁華街では流行のホットパンツにアイスクリームを食べ歩く若い女性が目に付いた。日本の風景と変わらず、行儀が悪い。高級レストランはごった返すほど混んでいて党幹部とおぼしき人間と企業幹部が昼から白酒を飲んでメーターを上げている。
 第五にタクシーが掴まらないことも驚きだった。北京や上海と同じである。
 この「周回遅れの繁栄」は、いずれ周回遅れで不況に陥没するだろう。中国人は来生信仰が希薄なので、刹那的で、いたずらな拝金主義に突っ走り、いまさえ良ければ人生全てが良いという賭博的な人生観が露呈している。宗教観の希薄な漢族はとくに来世を信じないが、イスラム教徒は別である。
 ともかく内蒙古自治区の「意外な」経済繁栄は石炭とレアアースが貢献した。

 高度成長にともなって需要がのびた石炭であぶく銭が入り始めた。当時、石炭価格が四倍となり、電力のみならずバイヤーは競争で買いに来る。地元はウハウハ。そのうえ次世代ハイテク製品の中枢部品に必要なレアアース埋蔵量が膨大であることがわかり有頂天となった。
 レアアース相場は三十倍に跳ね上がった。
 「石炭成金」と「レアメタル成金」が内蒙古自治区のあちこちに出現し、「次に儲かるのは不動産だ」とばかり実際の需要があろうが、なかろうが市場原則にはお構いなく豪華マンション、別荘などハコモノをむやみやたら官民挙げて建築した。
 結果、各地に出現したのが「鬼城」(ゴーストタウン」だった。

 ▲宇宙船「神舟」が自慢のタネ、レアアース景気が沸騰

 フフホトでは新設された内蒙古博物館を見学した。
 中華愛国、チャイナファーストと、中華ナショナリズムを丸出しにした展示が続くのだが、規模としては上野の国立博物館の二倍ほどの広さがある。入り口では外国人とみると闇両替がわっと寄ってくる。
 この内蒙古博物館は豪華絢爛、恐竜時代からマンモス時期を経て、きょうど、突厥など騎馬民族の跳梁と漢族王朝との闘い、和解までの歴史を描くジオラマもふんだんに飾られている。近代の中国共産党の内蒙古侵略は「解放」と改竄されている。
 その展示パネルの圧巻はレアアース自慢、宇宙船自慢の二つ。中華ナショナリズムを鼓吹し、次世代文明は内蒙古自治区に発展の秘訣があるとばかりに誇大な宣伝陳列をしていた。
 たまたま筆者が見学した日は日曜日、家族連れ、子供の夏休みで内蒙古博物館は人出で溢れていた。キャンペーン期間中なので入場料も無料だった。
 かくして最貧地域だった内蒙古自治区が資源に導かれて活気に溢れ、墜ちこぼれを除いて人々は幸福感に浸った。宇宙船「神舟」の着陸地点も内蒙古の砂漠なのでお祭り騒ぎになった。
 この中華思想に収斂させていくやりかたの背景には内蒙古自治区の当時の書記、胡春華の政治的打算と野心がちらつく。「習近平時代」のあと、つまり「次の次」のトップレースの筆頭を走るのが胡春華で、2015年にするりと政治局員入りした。
当時ライバルと言われた周強(湖南省書記)、孫政才(吉林省書記)はいずれも醜聞が暴かれて失脚した。したがって習近平のあとは、胡春華の天下が来ると共青団は期待しているようである。

 内蒙古自治区の第二の都市はパオトウ、満員電車に揺られてフフホトから二時間とちょっとで着いた。冷たい雨に祟られた。
 パオトウの新開発地区は早くも幽霊都市の趣きとなっていた。
 誰も入居していないマンション群がニョキニョキと林立している。鳥肌が立つほどに恐ろしい風景である。毛沢東の「大躍進」のネガフィルムを見ているような錯覚を抱いた。そうか、中国のバブルの発生と破裂は、飢餓が実態だった「大躍進」の裏返し、か。
 パオトウ市内の目抜き通りには高層の「レアメタル国際大飯店」という一流ホテルも建築された。「さぁ、次は新都心建設で儲けよう」とかけ声も勇ましく、地元の起業家や行政側が強気の読みをしたのも無理はなかった。
 パオトウ新開発区では05年から高層ビル、とくに34棟のマンション建設がラッシュを迎え、およそ三万坪の新開発区が設定された。パオトウ市東河区のあちこちにも高層ビルが林立し始めたが、基本的に人口が少ないので売れ行きはサッパリ。中国沿岸部の投資家からみると、内蒙古省の印象が薄く、投機の対象になりにくいのだ。
 資金を転がすため「投げ売り」が始まっていた。売り出し価格の十分の一の値段で多少の取引が成立するという。くわえてパオトウは1996年5月3日にマグニチュード6・4の地震に襲われ、家屋倒壊などの事由により旺盛な住宅需要があったが、それも終わっていた。

 ▲パオトウがレアアースの本場だ

 パオトウ市で筆者が見たかったのはチベット寺院と人々の信仰ぶり。また漢族へのルサンチマンの風景が拾えるような場所だった。パオトウからバスで二時間かけて東北へ行けば有数のチベット寺院があるが、一日がかりとなるので、市内西北部にある昆都論召を見学した。
 湿地帯を埋め立てて開いた古刹だが、付近は工業ベルト地帯、つまり鋼鉄、鉄鉱石の工業地帯であり、河畔にはブルドーザのレンタル屋が並び、車の往来は激しいが歩行者が少なく、寺院はわびしい風景で門前町もなく、境内で五体投地をしているチベット仏教信者が数人、巡礼が二組、チベット僧が十人ほど。
 パオトウは漢族の入植激しく、いまや住民の95%は漢族のようである。繁華街のデパート前には白い毛沢東像が屹立している。
 このパオトウは百十万都市だが、ちょうど静岡市が駿河城跡を中心の旧静岡市と東へ二十キロ以上の距離がある清水市が合併したように、パオトウも東河区と旧城内諸区とは二十キロも離れている。五分ごとに走る東西横断バスは、運賃僅か一元五角(二十円)、なんと一時間以上もかかる。
中間の湿地帯はジンギスカン森林公園が広がり、旧市街区よりにシャングリラホテルなどが建ち並ぶというような都市つくりがなされた。
 周辺には山手線内ほどの広さの工業団地(いずれもレアアース開発区)が三つもあって、クレーンが林立し、工場などの建設に勤しんでいたが、これも廃墟となる懼れが大きい。というのも中央政府により沿岸部から内陸部へ工場移転が奨励されて補助金、予算がつく間はプロジェクトの取り合いだが、企業進出がまったくないのが現実だからだ。

 ▲世界に悪名を轟かせた百万のゴーストタウンはオルダス市の南郊外にある

 つぎにパオトウから長距離バスでオルダスへと南下した。
 オルダス市の南郊外、草原の台地に忽然として開発されたカンバシ(康巴什)新区、この場所こそが中国の不動産バブルが破裂した「もっとも悪名高い」現場である。
 『タイム』(2011年4月5日号)が写真入りで報道し、「百万都市はできたが住民が誰もいない」という衝撃の写真が添えられた。草原に蜃気楼のごとく突然、百万都市ができたのだ。
区役所、党委員会ビル、学校、商店街、医院、ショッピング・アーケードに映画館、豪華ホテル。これら全てがシャッター通りだ!
 オルドス市そのものは広大な面積を誇り、人口は150万。旧市内の人口は40万、新開発区は市の周辺に幾つもあり、工業団地の造成も進んでいる。いずれも砂漠に建設した新造区で、問題の康巴什新区も、そのなかのワンノブゼムでしかない。
 実際に康巴什区を見学すると、「観光客」がうじゃうじゃと「廃墟」を見に来ている。中国最大のバブル崩壊の現場を一目見よういうわけだ。市のど真ん中、区役所ビルと公園を挟んでジンギスカンや神馬のオブジェを背景に記念撮影をしてはしゃぎ、夜は誰もいなくなって怖いと地元民がいう。
 ゴーストタウンの建設は2003年から始まり、07年頃までは地盤改良と造成期間だから不動産価格は上昇し続けていた。
 これを千載一遇の投機機会と読んで、他省の投資家らが家屋も建たない裡に着手金を打った。デベロッパーは運転資金が続いた。
 初期は豪邸が中心でメゾネットの瀟洒な別荘など700棟が作られたにすぎず、物件はすぐに売れた。この勢いを背にして、およそ10万坪の宅地開発に豪邸建設ラッシュ、高層ビルのマンションが林立する。バブルは2007年から2010年まで続いた。
 そして現在、どの方角へカメラを向けても無惨な廃墟、誰もいない豪華マンション、一軒の店も開店していないショッピング・アーケード、客がこないスーパー。これら残骸が「百万都市」を謳ったオルドス市康巴什区のゴーストタウン化した無惨な光景としてカメラの前に晒されていた。
 高層ビル乱立の町に人通りがない情景を想像していただくと良い。信号が点滅しても、車の通行がないという鬼城風景を。
 
▲南モンゴルの悲運

 コロナ災禍に隠れたが、西側は中国の少数民族弾圧を非難してきた。筆頭はチベット、そして強制収容所が暴かれたウィグルに西側メディアは大きく報じるようになった。
 こうしたチベット、ウィグルの民族弾圧の原型は南モンゴルにある。
 戦前のモンゴル、当時、徳王は親日派で、日本軍支援のもと、独立を追求していた。突如の敗戦、日本が引き揚げた後、モンゴルはヤルタ協定によって北をソ連が抑え、南側を中国が支配することが決められていた。当初、少数派だった漢族、いまや内蒙古省に1000万人もいて多数派となった。

 中国共産党の支配に立ち上がった民衆のうち34万人が逮捕され、27900名が処刑され、生き残った12万人も身体障害者となったという数字は公式見解である。1968年から76年の文革期、80万人が拘束されたとする見解がある。この数字からみれば、ウィグル百万人収容所入りは、驚くほどのものではない。
 内蒙古省の省都フフホトへ筆者はかれこれ三、四回ほど行っている。
 同省の北は満州里、ハイラルからノモンハンの現場、西はパオトウからオルダス、さらに南の「チンギスハーン御陵」まで歩いているが、飛行機や汽車の乗換がフフホトのことが多いからだ。

 楊海英『「中国」という神話ーー習近平「偉大なる中華民族」の嘘』(文春新書)は始めから終わりまで、膝を叩いて納得できる「真実の中国史」である。
 中国の軍事力の脅威は日増しに高まっているが、楊海英教授はまず、その軍事力は内陸アジアに向かっており、「強国」イメージの習近平体制がかかえる最大のアキレス腱は、ウィグル、南モンゴル、チベットなどの内陸部である、と喝破する。
 「歴史始まって以来、中国と内陸アジアは衝突しつづけてきた。そして、内陸アジアの動静は中華の運命を左右してきた。中国にとって、内陸アジアはその死活を握る、地政学上重要な存在」とする。
 なぜなら「中華の思想や価値観は一向に万里の長城を北へ西へ超えることはなかった。仏教とキリスト教、イスラーム教は中国に伝わって定着したが、中国起源の道教や儒教が嘉谷関より西へ広がることはなかった(中略)。中国的な価値観と思想は、遊牧民にとっては異質な生き方で、受け入れがたい精神として映っていた。つまり内陸アジアの遊牧民にとって、中国人ははっきりと異なる文化、文明に属する」
 だから凶奴(きょうど)、突厥(チュルク系)、吐蕃(チベット)に軍事的に制圧されると、中国は遊牧民に女性を贈ることで「結婚による民族戦略」を行使してきた。中国人の認識では、「中華の嫁を妻とした以上は、うちの婿だ」という中華的で独特な発想が根底にあり、相手の政権は「中華の地方政権」という身勝手な論理が露呈する。だから「チンギスハーン」は「中華民族」の英雄となるのである。モンゴル人が漢族を征服した屈辱の歴史は、かくして中国の歴史教科書からも消える。

 ▲王昭君のレヴィレート婚。文成公主の悲劇

 そこで楊教授は二つの歴史的イベントを、克明に詳述する。おそらくこの話、日本人の多くが知らないではないか。 
 第一の典型的な「神話」は凶奴に嫁いだ「王昭君」のこと、第二が「文成公主」である。
 現代中国ではこの二人の姫君が遊牧民に嫁いだことは「和宮降家」のごとき扱いなのである。
 遊牧民の呼韓邪単干に漢王朝は宮廷にいた王昭君を嫁として嫁がせる。紀元前33年のことである。
 (そんな古代から政略結婚も政治戦略の手段だったのか)
 王昭君は子をなし、「悲劇的女性」、つまり中華のヒロインとして描かれるようになる。歴史改竄は朝飯前、現代中国では、王昭君は異民族と結婚し、その屈辱的な風俗習慣に絶えても宥和をはかったゆえ「民族団結のシンボル」となり、二千年前から政治的にヒロインだとして甦らせた。
 フフホト郊外に巨大テーマパーク「王昭君墓地」なるものがあって、次々と観光客を呼び込んでいる。復活したヒロインの記念公園には彼女と夫の呼韓邪単干が夫婦仲良く馬に乗っている巨大な銅像が聳えている。テント村の売店ではチンギルハーンの絵画、人形、Tシャツも売られている。
 この王昭君墓地を見学したのは、かれこれ十数年前である。タクシーを雇って、フフホト市内から三十分ほどだった。車を待たせ、テント村に入り、この新しい神話のオブジェが並ぶ場所(彼女の墓地であるかどうかは誰にも分からない。二千年前の話を突如、甦生させたのだから)を見学した。
 彼女は側室の一人でしかなく、しかも呼韓邪単干の死後は、その息子の側室として二人の娘を産んだ(これが遊牧民独特の「レヴィレート婚」)。そうした悲劇のヒロインのわりに銅像の風貌はふてぶてしかった。西安に行くと楊貴妃の白い像があるが、想像より遙かに肥っているように。
 
二例目は吐蕃(チベット)に嫁いだ「文成公主」である。唐の都・長安はチベット軍に降伏した、唐の王家の娘を吐蕃のソンツェンガンポの元に嫁に出した。
そしていま、王昭君と並んで「民族団結」のヒロインとして文成公主が現代中国に甦り、あちこちに記念碑やら銅像が建てられている。筆者も文成公主の巨大な白亜の銅像を青海湖を一周したときに山の中腹でみた。
つくりは観音菩薩のようで、表情は愁いをたたえているかに見えたが、よくよく考えると唐王朝も漢族ではなく鮮卑系である。したがって漢族と蕃族の民族団結とはいえないため、中国は「中華民族」なる架空の概念を発明し、歴史教科書を塗り替えてしまったわけである。
 
 


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月21日(日曜日)
       通巻第6548号  <前日発行>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~米国NIH(国立衛生研究所)には、まだ中国のスパイが数十人
  リーバー(ハーバード大学教授)が中国のエージェントだった衝撃
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 リチャード・リーバー(ハーバード大学教授)は中国の武漢科技大学と秘密契約を交わし、月々5万ドルの手当を別途支給されていた。かれは中国の「千人計画」に深く関与していた疑惑などで起訴され、裁判が進行している。
 2018年12月にはシリコンバレーで研究者のリクルートに励んでいた中国人物理学者・張首晟博士(スタンフォード大学教授)の自殺事件があった。この日にカナダのバンクーバーではファーウェイCFOの孟晩舟が、不正輸出容疑で拘束された。

 海外の専門知識を持つ人材を中国の研究プロジェクトに活用するためリクルートするのが「千人計画」である。米FBIなどの関係者は、これを「技術窃盗プログラム」とし、内偵をつづけてきた。
「千人計画」の対象は、海外の企業や大学の研究者、リサーチャーや特許担当幹部らで、中国人と外国人の二つのプログラムがあるという。

 現在、米国NIH(国立衛生研究所)と協同で開発研究プロジェクトを進めている大学、研究所、ラボなどは全米59都市にあって、1億6400万ドルのR&D予算が配分されている。
 関与している研究者は399名、このうち133名を当局が調査中であることが分かった(アジアタイムズ、2020年6月20日)。

 「中国と共同研究すること自体が誤りだった」などと反省の声もあるが、現実には無自覚的に中国に協力しているラボ関係者が多いとされる。
 問題は日本である。米国や欧州諸国とは異なって、日本にはスパイ防止法がない。ゆえに、情報の筒抜け状態は米国より悲惨である。
   
●宮崎正弘の新刊 『WHAT NEXT(コロナ以後大予測)』(ハート出版)
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明日(22日)発売!
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宮崎正弘『WHAT NEXT(コロナ以後大予測)』(ハート出版)
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──コロナ禍で人生が変わった人が多い
──誰もが気にし始めた「WHAT NEXT」
日本はこの「鎖国」をチャンスに活かせないでしょうか? 大きな流れとしては、
(1)グローバリズムの大後退。
(2)ナショナリズムの復権。
 (3)中国基軸のサプライチェーンが全世界的に改編され、
 (4)コロナとの「共存」時代がくる、ことです。
 長期的には思想、哲学に大きな変化があらわれ、多死社会(看取り社会)の到来に死生観の適正復帰が行われるでしょう。輪廻転生の考え方が真剣に考え直される。
 地政学的には「米中対決が最終戦争」段階へ、つまり「金融戦争」です。すでに香港への優遇措置剥奪を表明した米国は中国の「在米資産凍結」を視野に入れています。
 対抗する中国はドル基軸態勢の崩壊を企図して、「デジタル人民元」を「次のウィルス」とする気配が濃厚になっています。
独特で伝統的な日本の文化力の回復。国風の復活があってこそ、自律自存の国へ復活することになる流れがあります。 
           
集中連載「早朝特急」(13) 
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第一部「暴走老人 西へ」(13)  第十三章 北朝鮮国境は、いま

▲瀋陽の日本人街は壊され、新しい町並みに変わっていた

 こんどは北朝鮮との国境の町へ行ってみよう。
 大連から特急で瀋陽に入った。当時、新幹線が開業したばかりで満員が続き、朝の従来線の列車しか切符が取れず、瀋陽着は昼ごろになった。旧満鉄の「亜細亜号」を思い出しながら沿線風景を愉しんだ。
 瀋陽でも、いくつか衝撃的なことがあった。
 第一に東京駅を真似た駅舎として有名だった旧駅のどっしりと赤煉瓦の建物がとうとう取り壊され、反対側の西口に巨大な駅ビルとターミナルが出現しているではないか。新幹線は西口に入る。東口は駅舎もろとも商店街も埃を上げて突貫工事中だった。
 しかもいつの間にか地下鉄が開通している! 日本では報道がなかったので、現場に立つまでは知らなかった。
 
第二に「奉天」と言われた日本時代には各地に日本人租界のごとき日本人街、商店街があった。中山公園の大和ホテルを中心に「浪速街」など隆盛をきわめた百貨店「松浦洋行」は露西亜系ユダヤ人の秋林(チュウリン)に看板を換えたが、往時の建物のままだった。付近は安酒スナックや簡便食堂が数知れずあった。
 戦前、日本が建てた「大和ホテル」の豪華ロビィは数々の映画のロケでも使用された。その真ん前に毛沢東の巨大な銅像が聳えている。右手を前に挙げたポーズの毛沢東像をみて、若者が言うのは「タクシーを止めようとしているおっさん」の由。
 付近は高層ビルの建築ラッシュが続き、クレーンが唸り、古色蒼然とした旧街と対照的だ。ところがセピア色の古き良き時代の風景を求めて、わずかに雰囲気を留めた旧日本人街が「新婚アルバム」の格好のロケ地になっていた。中国人は結婚のアルバム作りにはカネをかける。なかには数百万円もかけて、婚前旅行を兼ねての海外ロケ組もいる。
 そのビルの隙間に貧民街が残っている。
うら寂しい横丁の入り口は青果店、飲食店のほか入れ墨専門店、潰れたダンスホールの無惨、客の少ない日本料亭は売りに出ているようだ。隣が回天寿司。ぽつねんと新聞を読む老人が印象的である。
こうした町の風景の表と裏をみていると、どうやら貧富の差はますます開いていることが分かる。

 第三は日本領事館がアメリカ領事館と隣り併せて十四緯路にあるが、脱北者の駆け込みと反日デモを警戒して大通りからのクルマの進入を禁止していた。別の機会にも、ここまでタクシーで行って撮影しようとしたら警官が飛び出してきて、「撮影は禁止だ。あっちへいけ」と怒鳴られた。
ソンミちゃん事件をご記憶だろう。2002年5月7日、脱北の少女一家五人が日本領事館に駆け込み、中国の官憲が「日本の領土」にどかどかと踏み込んで、一家を拘束した事件だ。明らかなウィーン条約違反であり、日本は珍しく主権侵害と中国を一斉に批判した。
国際問題に発展したため、一家は幸運にも韓国へ亡命することが出来た。

 郊外にある「九一八歴史記念館」(看板は江沢民の揮毫)もどうなったか、再訪してみた。ひしゃげた格好の奇妙なビルの前にパトカー、白バイが停車していて抗議活動を極度に警戒していた。反日の中国人活動家が、何か騒ぎを起こそうという情報が流れていたからだ。
写真を撮っていると、その横の高架を轟音とともに新幹線が通過した。
「いつ開通した?」と待機させていたタクシーの女性運転手に訊くと「まだ試運転中ですよ。年内開通では?」とあまり興味もなさそう。
 第四に駅前開発の犠牲で、不法屋台や露天商が一斉に手入れを受け、そのあおりでシャッターをおろし、連帯して一斉休業形式で当局に抗議した五業商店街がある。ここへも行ってみて驚き、あの屋台の露天商は地下のショッピング・アーケートに移転していた。地上はH&M、伊勢丹、ZARA、ユニクロなど外国企業がぎっしり(その後、伊勢丹は撤退した)。
露天商は近くの道路に移動し、極度にカメラを警戒している。ルイビュトンの偽物財布が500円だった。ビニール製で子供のオモチャである。

▲韓国人激減は、国境の町=丹東へ行って了解できたこと

 瀋陽であれほど目だった韓国人がほとんど消えていた。理由は北朝鮮の真ん前に開けた街、丹東へ行ってみて分かった。
 瀋陽ー丹東間は昔のままのローカルな列車に揺られた。このルートは新幹線が通らない。
山間部や探鉱町を走るが、乗客のマナーの良さがむしろ不気味である。四時間の車中、トンネルをのぞけば台地、平野、トウモロコシと稲作。山間には山羊がいる。石炭の集積所は山盛りの在庫。
 車内で携帯電話に大声を張り上げる手合いが減り、デッキに灰皿があるが喫煙する人も少ない。マナーの迅速な向上ぶりは日本の影響だろうか?
 途中の炭坑街、本渓ではブルドーザやクレーン置き場が満杯、採掘現場は人出も少なく活況が失われている。理由は石炭を取りすぎて在庫の山が築かれ、鉄鋼製品は売れ残りの山。その生産現場に不況の風が吹くが、一方で強気で開発したマンション群が軒並み廃墟と化しつつある。ゴーストタウンは中国全土に共通である。
 途中の駅で驀進してきた軍用列車に追い抜かれた。
客車部には兵員、無蓋の貨物車には戦車、装甲車、火砲を積んでいる。北朝鮮国境へ移動しているのだ。瀋陽軍管区(現在の北部戦区)が北朝鮮の異変を警戒し、軍の配置を換えているという直近の軍事情報を裏付ける。

 鴨緑江に面する国境の町=丹東。日本時代の安東である。戦前は、この町に銭湯が何軒もあった。この丹東でも韓国からの観光客が激減していた。
 一時は目の前に肉眼で見える北朝鮮を観察しようと韓国からのツアーがひっきりなしだったが、要するに北朝鮮観光ブームは終わっていたのだ。
 鴨緑江を一時間半ほどクルーズする観光船も、意外と空いていて双眼鏡でつぶさに北朝鮮の町並み、人々の生活を望見できるのだが、あいかわらず川向こうは活気がない。生産の煙も見えない
 韓国は遼寧省、吉林省の朝鮮族を雇用して多くの工場を稼働させてきた。
ところが数年前から、まずは山東省から韓国人の夜逃げが目立ちはじめ、つられて遼寧省南部からも韓国企業の撤退が相次いだ。北朝鮮観光に行きたくともビザを取れない韓国人グループは団体バスで丹東の河畔、鉄橋の繋がる場所でチマチョゴリを着て記念写真を撮る。周辺には北朝鮮の切手、通貨、バッジなどが売られているが、いまこれらの土産を買うのは中国人観光客である。ここまで来る日本人は滅多にいない。
 朝鮮戦争で爆破され、切断された橋梁は、そのまま残って「観光名所」、先端箇所にカフェがあったのはご愛敬というべきか。
 
 丹東側の川岸に並ぶ料亭や新築のビジネスホテル。韓国資本の夜逃げでレストラン、ホテルが改称されている。要するに中国資本に取って代わられており、繁華街には新築のビジネスホテルが四、五軒も建っていた。
 その後、中国も北朝鮮への経済制裁に加わったため、どこもビジネス客が少ないので閑古鳥。かわいそうなくらいである。ショッピング街にも客がおらず、ピンク系マッサージも海鮮料理店も開店休業状態。わずかに中国国内からの観光客がぶらぶら歩いて朝鮮人参などの買い物くらい。
 もうひとつの理由は北朝鮮のハッカー部隊が、丹東の安宿やホテルに分宿し、さかんにランサムウエアなどのハッカー戦争の発信基地としていたが、これも欧米の偵察と抗議で、どうやら丹東から姿を消したといわれる。
 鴨緑江の河岸に一軒だけ満員のレストランがあった。地元民で混む火鍋屋だった。
対岸に霞んで見える北朝鮮の新義州市の夜は漆黒の闇。工場の煙突から烟が見えない。十年ほど動いていない観覧車が虚しい風景をさらに寂しくさせる。中国側はネオンが輝く。 
 丹東の「売り」は北朝鮮が直にみえるという観光の強み。二番目は万里の長城の北東端(虎城が残る)、三番目が朝鮮戦争の展示をする「抗美援朝記念館」が山側に仰々しく建てられ、つい最近まで「朝鮮戦争は米国と南の傀儡が仕掛けてきた」と嘘宣伝を繰り返していた。往時のミグ戦闘機や大砲も飾ってあるが、不思議にも反米色が薄く、むしろ朝鮮戦争と無縁だったはずの日本の悪口を並べている。

 この街は地図を広げると鮮明に地形の特色が把握できるように鴨緑江に沿って東西に長い。
細長い街を北東へ向かって山道を行くと遠方に長白山が聳える。北朝鮮の金王朝の始祖、金日成が生まれたという「神話」の聖地である。

 ▲日本時代の安東(丹東)には数軒の銭湯もあった

 丹東は急発展して人口は280万人に膨らみ、市内にはあちこちに摩天楼が林立した。2014年あたりまで、軍の関係企業やOBが名前だけの「貿易会社」を設立し、北朝鮮との貿易利権を独占していた。習近平政権となって旧瀋陽軍管区の軍人幹部を入れ換え、貿易企業幹部を逮捕したため、これらの利権も雲散霧消。いまは一日数十台のトラックが食糧などを積んで北朝鮮援助に運行されているくらいだが、これもコロナ以後は、中断されているという。
 丹東市内の路線バスは縦横無尽に走り、タクシーも綺麗になった。街を一歩出ると白い柳、せせらぎ、白樺、野菜畑とのんびりした田園風景が広がり、なぜか心が和む。
 先代の金正日将軍様が、06年一月と2010年5月の中国訪問の際に鴨緑江を特別列車で渡河したが、丹東まで李克強首相が出向けて、歓迎の拠点だった。おりから鉄道橋の改修工事を終えたばかりだった。
夏のハイ・シーズンに行ったときは、中国側の河畔沿いには高級海鮮レストランがずらーっと並んで壮観だった。
いけすから鮮魚や何種類もある貝を撰び、その場で焼くなり煮るなりする。価格も安い。アベックや家族連れも気軽に入ってくる。筆者もネオンの派手な一軒に入り石狩鍋のような盛り合わせ(量が多く半分以上を残す)にビールを二本。勘定というと500円もしなかった。
 鴨緑江には遊覧船、観光ボートがひしめき、北朝鮮を肉眼でみようと韓国からの観光客が大型バスを連ねてやってきていた。
それも二階建てシースルー・バスの豪華版だった。貸し出し自転車は二人乗りタンデムではなく三人乗りが多い。珍奇を衒うのはかの民族の特性らしい。

河畔の観光歩道に露店が十数軒、パラソルの屋根、朝鮮特有の民族衣装を貸して記念写真を撮る韓国人相手の商売、ときおり警官が見回りにくる。
警官の表情にまるで緊張感がない!
パラソル屋台のおばさんに、「ロシア人はあまり来ないの?」と聞くと「中国はロシアの(北)朝鮮介入を牽制するために援助しているけど、われわれから言えば、あんなわけのわからない政権を助けるくらいならもっと税金を他へ回して欲しい」と率直なことを漏らす。これも世論のあり方が中国の管制報道とは異なることを如実に物語っている。

 ▲図門へ行くと、北朝鮮との川幅は二、三十メートル。泳いでも簡単に渡河できる

北朝鮮と山岳でつながる地点は集安だ。
 この街は長白山の麓、鴨緑江の上流に開けた田舎臭い町である。まわりはトウモロコシ、麦、稗などを栽培していて、これという産業は南へ100キロ、通化市(日本軍が敗走のおり一時的に参謀本部が置かれ、終戦のどさくさ時に三千もの日本人が虐殺された場所)まで行かないとない。その通州にあった製鉄所も閉鎖された。

 集安の町も至る所にクレーンが林立して高層ビルを建てており、たぶん人口7万という公式統計より五割は多く、隠れた北朝鮮からの流民、移民がいると推測できた。市内のかたすみにぽつねんとキリスト教会があったが、人の気配はなかった。
 特筆しておくべきが二つ。
この集安に「広開土王」の石碑があること、歴史論争が続いて、はては関東軍がでっち上げた偽物説まであるが、ようするに朝鮮半島の南側に日本府があって、神功皇后の三韓征伐、白村江の戦いでは、日本が応援した戦争だったことなどが、ちゃんと書かれている貴重な歴史的遺物である。
日本の対外戦争の嚆矢は「白村江」だった。『日本書紀』には大和王権が朝鮮半島の任那、伽耶を統治していたと記されている。
集安の「広開土王碑」には、倭が新羅や百済を臣従させたと記されている。新羅と百済は王子を日本に人質に差しだしていた。任那日本府があったように、朝鮮半島の南端は日本の統治下にあった。唐が新羅を攻め立て、ついで百済を侵略した。唐の大軍に対して日本にいた王子が大和朝廷に救援を求め、斉明天皇自らが大軍を率いて瀬戸内海からの出軍、途次の福岡で急逝する。防衛路線を継いで日本は半島に出兵したが、白村江の戦いで敗れた。
この集安にまで観光にくるのは主として韓国人。理由は世界遺産に登録されたピラミッド型の高句麗王陵墓に登るためである。観光客に溢れ、山奥の町なのに市内に海鮮料理がある。値段も高いが、韓国人がどっとやってきてカネを落とす。つられて筆者も入ってみたがエビなど結構美味だった。
 別の機会に軍春の貿易特区をみにいった。中国とロシアと北朝鮮が接する要衝に開け、税関のビルだけは威容を誇っていたが、ロシア側の開発が遅れていて、とても工業特区とは言えない状況だった。
軍春で雇ったタクシーは、なんと19050年代のソ連製ラダだった。ホテルもレストランも朝鮮族、なにしろ吉林省延吉自治区は、住民のほとんどが朝鮮族である。
 軍春へも、図門へも行くには延吉が拠点となる。ホテルの部屋は入るなり、キムチの臭いがぷーんと立ちこめて往生した。
 延吉からボロボロの汽車で軍春へ向かい、かえりに図門に立ち寄った。

 図門も朝鮮人が多い、狭い町である。人口は13万人くらいか、筆者が行ったときは北朝鮮との貿易拠点で、そこそこ商業は活発だった。
 図門は朝鮮語で「図門江」。戦前の日本時代には、この町に天照大神を祭る図門神社があった。
 河岸まで足を延ばすと、目の前の北朝鮮までボート遊覧があった。 
川幅は最大でも50メートルくらいで、もっとも近いスポットでは北朝鮮との川幅は二、三十メートル。泳いでも簡単に渡河できる。脱北者は、ここで警備兵に賄賂を渡し、中国側は亡命するのだ。
河畔にボート屋があって、すぐ国境のところへ接近するという。三十元だったか。
救命着をきて乗った。舵取りは「カメラを向けるな」と注意された。なぜなら雑草のなかからぬっと北朝鮮兵士が顔を出すからだという。脱北を警戒しているらしいが、肉眼でも間近にみた北の兵士らに生気がなく、痩せていて飢えをあらわしていた。
 かくて中国の北朝鮮国境も凄まじい変化に見舞われていた。
  
      
   ♪
(読者の声1)武漢ウィルス禍で暫く中断しておりました、横浜の「ジャパン・ファースト」パネル展が、久々に開催されます。皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 ◎ 「ジャパン・ファースト」パネル展
    ~日本は素晴らしい国です。国民は一致して頑張りましょう!

とき   6月22日(月)12~20時
       23日(火)10~20時
       24日(水)10~20時
      25日(木)10~15時
ところ  かながわ県民センター・1階展示場
    (横浜駅きた西口徒歩5分、ヨドバシカメラ裏)
入場料:無料
テーマ:コロナ感染症対策・慰安婦問題・メディアの偏向・沖縄基地問題
主催  日本大好き市民の会、新しい歴史教科書をつくる会・神奈川県支部
後援  「慰安婦の真実」国民運動。日本文化を学ぶ会
     NPO法人さいたま市民セミナー
お問合せ:高橋 090(4952)1536
      (つくる会・神奈川県支部)


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月20日(土曜日)弐
       通巻第6547号  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ザンビアも中国に借金の免除を要請。慌てる中国
  交渉代表団をルサカに派遣するが、29億ドルの焦げ付きは目の前
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 ザンビア? 何処にあるの? 東隣がタンザニア、その南にマラウィが張り付き、南隣がジンバブエ。中国が、ザンビアの銅鉱山に目を付けてタンザニア鉄道を敷設した。
昔の兄弟国ジンバブエへの鉄道が頼りだった銅の輸出はタンザニアの港までの鉄道輸送となり、ほっと一息つけた。中国に感謝した。

 ザンビアに観光で訪れる人はジンバブエとの国境を分けるヴィクトリア滝だ。発見者の名前をつけたリビングストン市が観光拠点。でも世界からのツアーはジンバブエ側に集中する。ナイアガラの滝を米国側から見る人が多いが、カナダ側からも見られるように、結局はアクセスの善し悪しが観光ルートの強弱を決める。

 ザンビアは昔の北ローデシア、もともとポルトガルが支配していたが英国が横取りした。当時は農業大国として知られたものの、独立後、白人がでていき経済は廃れ、銅鉱山だけが生命線となった。ザンビアの輸出の75%が銅である。この銅鉱脈に随伴するコバルトが取れる(世界六位)ので、日本もザンビアからコバルトを輸入している。

 さて中国は29億ドルを貸し込んでいる。ほかに民間企業がザンビアの銅鉱山を買い取って操業しているが、奴隷のように労働者をこき使い、賃金未払いもたびたびだからストライキが頻発し、暴動となって中国人商店襲撃事件もおきた。大統領選挙のたびごとに、「中国を叩き出せ」と訴える候補に相当の票が流れる。中国は嫌われるようになったのだ。
 
 中国は2000年から2017年までにアフリカ全体に1460億ドルを貸し込んだが、大半が焦げ付き。ほとんどの国はIMFに救済を求めている。ザンビアも例外ではなく、慌てた中国が交渉団をルサカに派遣した。
    

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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  似非作家・司馬遼太郎を擁護する磯田道史という歴史家の欺瞞
   ロシア革命はユダヤ人が実行した裏面史をわすれてはいないか

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田中英道『左翼グローバリズムとの対決』(育鵬社)
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 共産主義を正面から説けなくなった左翼は、隠れ蓑にエコロジー、異常気象、公害、反原発、反基地などを選んで反対運動を組織化してきた。だが、予想したほどの運動の盛り上がりはなかった。沖縄を見ても、反対を叫ぶのは外人部隊、つまりプロの活動家たちであり、地元住民の顰蹙を買っている真実はよく知られる。
 嘗ては左翼を名乗ることがインテリの証明だと錯覚された時代があった。いまでは左翼は社会のゴミという認識が拡がった。全共闘世代はその出自を隠して企業に入った。
 そこで左翼は、もっと巧妙な、周囲を遠慮なくごまかせる隠れ蓑を探した。あった。LGBTと異常気象だ。だが、多くはこれらの運動を異常なものとみた。
 昨今の格好の偽造装置はマルクス主義に替わるグローバリズムだった。
「資本主義の自由を鉄壁の楯」として、資本(カネ)の移動の自由化、ヒト、モノの移動の自由を訴えて、多くの共感を得た。
世界市場を席巻した。ところが、その内実は国家破壊策動だった。根源に陰謀があることを、最初から見抜いた人は少ない。当初から警告を発し続けた知識人のひとりが、この本の著者、田中英道氏である。
 グローバリズムとは、かつてのインターナショナル。国際共産主義運動の変形であり、共産主義者の世界標準化を、狡猾に狙うものと田中氏は問題点を抉り出した。
だから「かれら」は、マルクス主義とか、共産主義とか、全体主義に直結イメージのある語彙を使わなくなったのだ。
 田中氏は本書で似非作家・司馬遼太郎を奇妙に擁護する磯田道史という歴史家の欺瞞を糺している。
またロシア革命はユダヤ人が実行した裏面史をわすれてはいないかと問題を問いかける。ユバノヴァル・ハラリとかの『サピエンス全史』を取り上げて徹底的に批判しているあたりも痛快である。
 司馬遼太郎が明治維新の近代化を理想のように描いたのは、江戸時代までを封建制度社会ととらえ、近代を金科玉条のように「進歩」とする誤謬による。
このような進歩史観は、ヘーゲル源流のマルクス主義史観を基盤とするのだが、「人間そのものが進歩するという誤った考え」でしかないと断言してやまない。
田中氏は以下を続ける。
「紀元前六世紀から紀元前五世紀に、東西の哲学はすべて出揃っていた。プラトン、アリストテレス、釈迦、孔子など、観念論、唯物論、道徳論など、原型はすべて出揃っていた。それ以後、人間の思想は精密になってもさほど進歩していない」(129p)。
 まさにその通りだろう。けれども、日本ではインテリ層の激しい劣化が起きている。
           
集中連載「早朝特急」(12) 
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第一部「暴走老人 西へ」(12)  第十二章 旧ソ満国境は、いま

 
▼東北の辺境、旧満州とロシア、そして北朝鮮国境は建設ブームだった
 
 中国の辺境が開発ブームで沸騰したと聞いて、本当かどうか、現場を見ようと思った。
日本のマスコミが殆ど伝えない場所で何が起きているのか。その実態はどうなっているのか。
 素朴な疑問がおきた。なぜなら鎖国時代の「大躍進」とは「大飢饉」だったし、「蠅もかもいない、理想の社会主義を達成した」と中国が宣伝したが、行ってみたら貧困が渦を増していたように、中国の最貧地帯が「大飛躍」しているって、本当の話かと疑うのも自然ではないのか。
 旧「ソ満国境」というと古めかしい印象があるが、どっこい中ロ関係の雪解け以後、最大の障碍といわれた中国とロシアの国境紛争は片づいた。中国は公開していないが、内実はカネで買ったのだ。
直後から中国の国境地帯は目を瞠(みは)るほどの様変わり、瀟洒なホテルやら洒落たバア、ぴかぴかの摩天楼が林立しはじめたのだ。
 そこで旧満州の北西から時計回りにロシアとの国境は満州里、海拉爾(ハイラル)、漠河、黒河。そして黒竜江(アムール川)はハバロスクを経由してウスリー河となり、樺太に流れ込むが、この地点に撫遠、虎頭などの都市があり、ロシア沿海州との国境は鉄道が繋がるスイフェンガ、トラック道路ができた興凱湖、さらに南下して北朝鮮、ロシアと中国国境がおり重なる三角地帯の中心地=軍春が開発特区となって爆発的勢いで近代化した。
 さらに南下を続けると北朝鮮国境の町、図門、集安、丹東など従来の辺境の街がどえらく近代化して尻餅をつくほどの驚きがある。

▲宣伝と実態のディカップリング

 たとえばスイフェンガだが、二十年以上前に最初にいったとき、ロシアから担ぎ屋さんたちがきて、ものすごく大きな荷物を担いで鉄道駅に運んでいた。ロシアの大女が目だった。町はどことなく露風でエキゾティックだった。ロシア正教特有の白くて玉葱教会が高台に聳えていた。
 それから五年ほどして再訪すると、7万人の人口が20万人に膨れあがり、高層ビルがあちこちに建っていた。ロシア美女が侍るナイト・クラブもあって驚いた。
 だが、本質的な驚きは庶民レベルの生活で、なにも変わっていない。表通りは近代化したが、一歩裏の庶民の街は、五十年、百年単位で変化がないように観察できた。宣伝と実態のディカップリング(乖離)が明確に存在した。

 北京ー瀋陽を時速250キロで突っ走る新幹線は2012年に開通し、その先の長春、ハルビンまで延びた。
 この哈爾浜と瀋陽が旧満州のあちこちをめぐる旅の拠点となる。
 瀋陽が奉天と呼ばれた満州時代に数十万の日本人が居住し、開拓した浪花町や平安小学校、高千穂神社跡も面影はなく、ホリディインやコンチネンタルなど高級ホテルとデパート、電化製品の量販店街に変貌している。ZARAもH&Mもユニクロもある。頭がふらふらするほどの激変ぶりである。
 瀋陽はいまや遼寧省の大都会となった。

 そこで旧満州旅行を何回かに分け、あるときは瀋陽から満州開拓団の牡丹江ーー佳木斯ーー撫遠のルートをたどった。途中まで鉄道、その先は長距離バスの旅となった。このあたりから新幹線という幹線からはみだして、いずこもローカル列車が主力になる。
 瀋陽発夜行列車は牡丹江で終着となる。
その先にぐんと拓ける荒野は「農業大国」と化している。トウモロコシ、ジャガイモ、キクラゲなどの農作物も、近年は日本の技術指導によって米作に成功し、中ロ国境は穀倉地帯に変貌していた。日本酒になるコメも作付けに成功したのだ。
 瀋陽からの特急の食堂車で25度の白酒を飲みながら暇そうなコック長、車掌らと雑談に興じた。車窓からは荒野に沈む赤い夕日。壇一雄『夕日と拳銃』の一節を思い出した。
 どうもこのあたりにくると北京人とは明らかに違い、中国人とは思えないほどに純朴なのである。
瀋陽北駅発の寝台車は東の国境=スイフェンガ行きで、四人一組のコンパートメント。一等車の車両はMAX型二階建て。二階部の寝台は二人部屋、ここは特等である。二人分買って部屋を一人で使う金持ちもいる。
 瀋陽市内の中央部に米国領事館、日本領事館がならぶ外交街が広がり、太い針金のバリケードで厳重に囲み、多数の警官(あるいは人民武装警察)が警戒している。
 付近には外国人相手のカラオケ、ナイト・クラブが蝟集している。欧米人相手のディスコでは連夜、怪しげなベリーダンスをやっている。退廃的で妖艶で、「ここは本当に中国か?」と訝しんだ。

 さて牡丹江を拠点に北東を見渡せば鶴岡、富錦、同江、ジャムシ(佳木斯)、スイフェンガ、鶏西、虎頭などロシア国境に近い町や村が点在する。いずれも旧満州時代に日本人開拓民が大量に入植した。
 牡丹江の流れははやく、泥水だが、ここに飛びこんで水泳をやっている人もいる。見ているだけでも寒気を催す。

ソ連参戦(昭和20年8月9日)以後、満州開拓団の日本人が、どっと逃げ出したが、数十万人が生命を落とした。日本人の霊がまだ鎮まっていない土地だから数珠を手放せない。
 牡丹江の朝市で名物とうふ屋の露天に長い列ができている。キクラゲ、キュウリにネギ。魚屋の種類も数種、汚染された松花江の川魚ではなく付近の養殖魚と湖魚が多い。公園では太極拳、社交ダンス、ただし法輪功が弾圧されて以来、気功グループはいない。公園には奇妙なかたちの公衆便所がある。
 牡丹江にも何年か前にも来ているが、住宅地なのか産業地なのか分からない地区にぼつんと建つ四階建てのホテルに泊まった記憶が甦った。駅から拾ったタクシーに「適当な旅館へ」と言うと、連れて行かれたのだ。
 ところがフロントにいたのが60歳くらいのオーナーで、片言の日本語を喋った。世代的に日本語教育をうけている筈がないから「どこで習った?」と聞くと、一時、日本語ブームがあって、そのときに講習を受けた。これから日本人客が増えると思ったからです、と片言の日本語で答えたのだった。

 現代中国で東北三省と呼ばれる貧困地帯のなかで最も貧乏な地帯は見渡す限りの地面が耕されている。ここは文革以降も集団農場がのこり、部隊単位で「農場会社」となっている。地名も「1345部隊農場」とか。農民は『社員』と呼ばれ月給制ではなく年俸のシステムが導入された。
 田園風景をよくよく観察すると黒づくめのボロ服をまとって背中を丸めた農夫が鍬を肩にのせて、とぼとぼと歩いている。貧困はちっとも改善されていないようだ。やっぱり中国共産党の宣伝には気をつけなければいけない。

 ▲各地にいまも日本時代の名残が

 つぎに牡丹江からバスで密山市まで300キロを飛ばした。
 密山には戦後、人民解放軍に協力した林与一朗の飛行部隊300名が残留した。中国空軍の創設と訓練をした学校跡が記念館となって、庭には当時使用したボロ戦闘機の模型が五、六機飾ってある。
 そうだ、中国の空軍の創設は日本軍人が指導したのだ。
記念館では「日中友好」を謳っている。ロシアとの国境は目の前、国境線は琵琶湖の六倍半もある興凱湖の中央あたりだ。すでに大規模なリゾート地になっていて瀟洒な別荘が建ち並んでいる。凜烈な風が吹き上げて身体が凍り付くようになり、早々に引き上げたが、付近にはロシア土産屋がずらり、夏の観光客を待っていた。このあたりの夏は日本の初冬だ。
 ロシア製のライターには火をつけると女体の乳房が点灯する色好みのものもあるが、機内に持ち込めないので土産にならない。
 佳木斯も二回目だったが、僅か五年ほどの間に駅前が見違えるほどの新築ビル。バス駅は近代的高層ビルに変貌しての急発展、ネオンぴかぴかの大都会、カラオケ横丁に入れ墨屋、イスラム料亭もある。対照的に郊外に残る日本軍の兵舎址はゴミのにおいが漂う。
 この都市に立ち寄ったのは知り合いの編集者が「わたしの父は佳木斯引き上げです。まだ健在ですので、たくさん写真を撮ってきてくれませんか」と頼まれたことも手伝った。

 さらに鶴岡から東へ200キロ弱で富錦へ入る。この町の南方に広がる緩やかな山稜は五頂山(標高450メートル)。じつはここに初めて公開された日本軍陣地址があるのだ。
 山の頂きが五つあるため五頂山と命名された。わが皇軍兵士はソ連軍と最後まで戦って玉砕した。数珠と線香をもってバスを降りた。
枯れ木、白樺、でこぼこの山道に残雪が残る。だが雪景色の美しさはなかった。軋んだタイアの跡が雪道をどす黒く汚していた。
一帯には風力発電の施設が並び、ハイカーはゼロ、バイク乗りが数組のみ。塹壕と大砲陣地の残骸はコンクリートを剥き出しにして敗戦の空しさ、寂寥感が漂う。付近には日本軍が突貫でつくった飛行場跡が残っていた。
 ついで富錦から北へ110キロ、同江という寒村に立ち寄った。ここでウスリー江、松花江、黒竜江の三つが合流する。川面は水の色が違う。この三江平野の両側は水が豊かなため水田で稲作ができるのである。

 ▲とうとう北端の撫遠までやってきたゾ

 さらに北上を続けて240キロ。中国の最北東端「撫遠」にとうとう着いた。この撫遠を筆者は是非とも見たかったのだ。
 寒村と予測していたら、まったく予想外の驚き。なんと帝都ペテルブルグのごとき、ロシア風の荘厳な建物がずらりと並び、豪華壮麗。いやはやこれが辺境の町なのか?
 外見はとてつもなく近代的で、大都会の風情がある。国策とはいえ、何時こんな都会を短時日裡に建設したのか?
 日本で売っているガイドブックにも、いや中国発行の黒竜江省地図にも、この撫遠の急発展は何一つ書かれていない。推定人口四万しかいない寒村がなぜ急に? 
 三年間の突貫工事だったらしい。答えは単純明快、中ロ間の領土問題が片付いたからだ。爾来、本格的な交易と交流が始まるのでビジネスマン、投資家が集中した。撫遠の目抜き通りの看板は全部ロシア語併記。ホテルのメニューもロシア語。
 あたかも夏の軽井沢のように観光客、避寒目的の金持ちを当て込んでホテルもビルも新築中、あちこちにクレーン、ブルトーザーが唸る。

翌朝は午前五時に目覚めたので、散歩に出ると、辻々に早くも労働者があつまって作業を開始しているではないか。北端の朝は寒いが、それでも一時間ほど散歩して、ざっと市内を一巡した。
 ブローカーがトラックを辻に横付けして、あつまった労働者のなかから屈強な若者を詰め込んでいる。夏が終わるまでに新築ビル、マンションを次々と建てるらしく、商店街の看板をみても香港、浙江省、台湾からの華僑の投資が混在していた。
 朝はやくに店を開けていた雑貨屋に入った。派手なデザインのパラソルが目に入ったからだ。
ジロっと店主が筆者を見て、「アンタ、何処からきたの?」「日本からです」「え、日本人がこんなところへ、初めて見るな。遊びかい? ええロシア女いるで。。」
 この撫遠から鉄道をロシアへも繋ぐ計画があり、すでにウスリー河に橋を架ける工事が始まっていた。空港もできた。驚くことばかりだ。
 中ロ間の領土係争はハバロフスクの対岸の大ウスリー島(中国名=黒害子島)をロシアと折半し、無人の中州だったダラバーロフ島(中国名=銀嶺島。中州といってもべらぼうに広い)は全部を中国領とした。
 大ウスリー島は西半分が「ハバロフスク郊外」と呼ばれていたほど事実上ロシアの実効支配が続いていた。プーチン政権になって2004年に両国が領土問題の解決に合意し、08年10月14日に正式に議定書が発効した。状況が百八十度かわれば、巨大な商機が訪れる。このチャンスを中国の商人が見逃すはずがあろうか。
 島の真前にある鳥蘇鎮には中国軍の監視所もあるが、観光土産屋、遊覧船も浮かんでいた。同江と撫遠はロシアからのアライバル・ヴィザを認めた。ヴィザなしでロシア人がやってくる。
黒河、綏芬河、東寧、同江、撫遠でロシアとの交流、貿易は拡大の一途となる、筈だった。しかし後日譚。コロナの二次感染で、これらの国門は扉を硬く閉めた。
 
 ▲最北端、ロシア国境も発展している
 
 黒河はロシアとアムール川を挟んで中国最北端の街だ。
 黒河へもなぜか二回も行った。足繁く旧満州のあちこちを見て歩いたのは、満州のドキュメントを単行本にまとめようと考えていたからだ。しかし、あまりにも宏大で、これは一人で出来る作業ではないし、資料あつめもたいへんだが、中国で入手できる資料は悉く嘘が書かれているから、結局、諦めざるを得なかった。満州引き揚げは森重久弥、加藤登紀子、宝田明、なかにし礼ら夥しい著名人がいて、この人たちの手記だけでも迫力がある。

 黒河はロシアの影響下にあり、市の南郊外には愛軍条約記念館がある。もちろん見学したが、あれほど無茶苦茶な歴史改竄をおこなって日本を貶めている各地の歴史観の展示と比べると、ここでの展示や写真パネルなどのロシア批判は政治的に抑えられていた。
 黒河対岸のロシアはアムール州の州都でもあるブラゴベンシチェンスク。中国側からロシア側の高層ビルが見える。川幅は800メートルほどだろうか。冬は凍るのでバスで渡河するという。それにしてもこの街には中華文化を体現する伝統的な建物がない。立派な高層ビルは政府、共産党地区委員会と公安の建物だけである。
 筆者が最初に黒河を訪問したのは二十年ほど前だった。哈爾浜から飛行機で入ったが、到着前から豪雨に祟られ、泥沼の道を市内に入ってバスが止まった真ん前のホテルに泊まることにした。中国民航経営のホテルだった。一泊190元くらいだった記憶がある。

落雷がやみ、雨の小降りとなったので国境のみえる河畔を散歩した。ロシア側は雨に霞んで見えた。黒河では、なかにし礼原作の「赤い月」の映画ロケが行われた。夜中にホテルの部屋をノックされ、おそるおそるドアを明けると、若い軍人が「ロシア観光にビザなしで行ける」と即席観光の斡旋に来た。
こんな情景を体験すれば、およそ中国軍の末端兵士の士気がいかなるものか想像できる。
 黒河市内の看板もロシア語併記がやけに目立ち、なんだか街の中心街はロシア租界風。ロシア人ビジネスマンや買い付け部隊が多いのでエキゾティックな雰囲気も漂い、ホコテンもあるが人通りは少なく、大半の市民は貧乏である。
 それでも週二便だった飛行機便は北京、大連などとも繋がり、いまでは毎日四便の「大躍進」ぶり。高速道路も繋がって高層マンションが並びたつようになり、金持ちを相手に「ロシアにも別荘を買いませんか?」(百坪で日本円で600万円ほど)という広告塔もある。他方、ロシア語だけのビルもある。僅か数年でこれほどの変貌!
 商店街で歩道を清掃している女子店員は、そのゴミを公道に吐き出していた。自らの領分だけは綺麗にするが、公の道路がどうなろうと、彼女らの関心事ではない。ショッピングバザールをからかい半分に覘くと服飾品は流行遅れ、時代感覚のおかしい物資、土産品が並び、手に取る気力も起きなかった。
 黒河は、ともかく夏でも寒い。
 繁華街で昼食のあとバスで南下し、一時期関東軍参謀本部があった孫呉へ急いだ。
 鳴り物入りで完成した高速道路は積雪と雪解けで痛みが激しく、いたるところで補修工事をしている。黒竜江省はロシア国境とも何千キロにわたって国境を接するゆえに森林資源に恵まれ、林業と木材加工が発達している。雪解けの季節は空気が乾燥し、大火となることが多いため全地域が「禁煙」だ。どこでも煙草をすう中国人も、これだけは断固として護る。自分たちの生活がかかっているからだ。

▲犬肉レストランだけは繁盛していた 

 夕暮れ前に孫呉に着いた。
三つ星ホテル(孫呉には四星ホテルは当時なかった)にチェックインすると公安警察数人が突如、現れ、筆者等のパスポートをデジカメに撮った。監視が厳しくなっている。昔の軍事都市だった面影だろう。孫呉には往時、関東軍参謀部が置かれていた。
 孫呉は寂しい街のまま留まり発展から取り残され、黒河のように華僑の土地買い占めもない。
ただし犬肉レストランだけは繁盛していた。店先で犬を料理しているので「撮影しても良いか」と聞くと嬉しそうにポーズ。よほど観光客が少ないらしい。
 孫呉では旧日本軍の勝山要塞跡が公開された。123師団が作った大がかりな要塞だが、兵舎跡、台所跡、用水路、トーチカ跡など森林公園のなかに展示されている。ほかに731部隊の孫呉支隊跡、火力発電所跡などがぼろぼろの建物を晒している。
 旧関東軍の軍人会館跡を見学して驚いたことがある。
二階の将校控え室の看板が「慰安婦室」となっているではないか。歴史改竄が常識とはいえ日本軍の将校会館の内部に慰安婦を入れる筈がない。だが日本軍の鉄則を説明しても現地ガイドはキョトンとするばかりだった。
 日本人は遺族、関係者いがい来訪は稀とかで、市の観光局副局長以下が道案内にたち、食事時には名産品の差し入れ、夜行列車でハルビンに向かうというと駅まで見送りにきた。
 駅にはトイレもない。売り場も外国人が珍しいらしく、一軒でミネラルウォーターとスナックを買ったら、いろいろと聞かれた。
「どこから来た?」と決まり切った質問が第一問だが、つぎは公安調となって、
「目的は何か」
「日本ではなんの商売をしているか」等々。
純朴だが好奇心丸出し、待合室で日本から持参した焼酎を振る舞うと陽気に歌い出した。 改革開放から四十年余、文革の恐怖も去って年配者も安心して酔える状況になったようでもある。

 ハルビンに入った。
 松花江(スンガリ)河畔のグロリアホテル。五つ星と聞いていたがお湯は出ない、テレビは付かない。風呂はバスタブがないなど豪勢な外見とはえらく違う。それでもキタエスクワア(中央大街)を歩くと凄まじい人出、その熱気に圧倒される。この通りにも日本時代の建物が数多く残り、デパートだった松浦洋行ビルは新華書店となっていた。書籍ばかりかスポーツ用品も売っている。
 たまたま連休中だった所為で、ホコテンにイナゴの大群のごとき家族連れ、アベック、友人同士。コーナーではファッション・ショーあり、音楽大会に似顔絵屋あり「若いうちにヌード写真を撮影しませんか?」という宣伝もあった。
若い世代の表情には屈託がない。子供達も携帯電話片手に大声でお喋りをしている。繁栄しているのである。
 ハルビンの最大の変化は林立する高層ビルと地下鉄だった。
ハルビン駅が改築されたため伊藤博文暗殺現場はわかりにくくなってしまったことも衝撃だった。ハルビンは東北地方発展の象徴と化していた。この哈爾浜の現状は別の章で詳しく触れる。

   
   ♪
(読者の声1)2019年の日本国の死者数は約138万人、出生は86万人、差引き人口減は約52万人です。
 では2020年の「死者数」はどうなるでしょうか? 前年と同じ、138万人として、その内の「コロナ罹患死」は、どのくらいになるでしょう?6月18日時点で、935人です。
 あと第二波、第三波が来たとして、2千人くらいでしょうか。その2千人の死者の内で、70歳以上の高齢者が90%以上ではないでしょうか(厚労省は、なかなか年齢別の死者を明らかにしようとしない作意を老生は感じますが)
世の中で、働いている人々の中心は20-30-40-50代です、この現役勤労層の、コロナ罹患死亡率は問題にならない程少ないものです。感染して全く自覚症状がなく、働いておられる方々も相当数おられると推定されます。
つまり勤労層世代にとっては、COVID19は、毎冬のインフルエンザのレベルの疾病と老生は断定します。確かに欧米では深刻な死者数ですが、欧米でも死者は高齢者が大半で、「厳重規制続けると経済がもたない」との社会了解が成立しつつあります。
 ましてアジア人には、ファクターXがあり、COVID19には遺伝的(?)に耐性・抗体があるのです、これは解明されてはいないがファクトです。
 前述の色々なファクトから判定すれば、取るべき「行動基準」は明らかではありませんか。COVID19を「法定伝染病」から外すことを提案します。
(KI生、尼崎市)
   

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月20日(土曜日)
       通巻第6546号  <前日発行>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~インドで中国製品不買運動、国旗と習近平の写真燃やして気勢
  中国がインド管轄区に土足で踏み込み、インド兵士20名が殺害された
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 ヒマラヤの奥地、インドと中国が国境の策定で揉め続け、付近ではときおり軍事衝突が起こる。両軍のにらみ合いは半世紀を超えるが、衝突で死者がでたのは35年ぶりだった。

 インドは中国側の侵略行為だったと非難した。中国は「インド軍が挑発したのだ」と突っぱね、緊張が激化、インド兵20名が殺害された。
 インド軍は応援部隊を陸続と現地に派遣した。 

 衝突現場は両国がそれぞれ自国領とする国境。中国はトンネルや地下要塞などの軍事インフラ(道路や橋など)の工事を連日、これみよがしに展開しており、工作部隊が多数、国境に終結していた。
インドと中国の国境は、東西におよそ3500キロ。しかも国境線がほとんど未確定である。

 インド国内では鬱積していた「反中感情」が爆発し、各地で中国国旗を燃やし、習近平の写真に火をつけ、中国製品の不買を呼びかけている。
インド政府は中国からの輸入品の関税率を引き上げるなどの報復手段をとることを宣言した。

 中国外交部の声明などを読むと、言葉こそ強烈だが、緊張状態が緩和されることを望んでいることが行間からも分かる。
しかし現地の中国軍は、数年前に習近平がインド訪問日を狙って軍事行動をおこしたように、習の思惑とは異なる衝撃の行動をとるのである。
   

集中連載「早朝特急」(11) 
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第一部「暴走老人 西へ」(11)   第十一章 遼寧省のいま
 
 ▲「アカシアの大連」で

 日本に一番近い中国の地方は遼寧省である。大連へは多くの飛行機会社が直行便を出している。名古屋、福岡、札幌便もある。
 清岡卓行が書いた『アカシアの大連』はロングセラーを続けているが、あの世代の郷愁が漂う作品だ、日本時代の大連は綺麗な街だったのだ。
大連、瀋陽、旅順、営口、鞍山等々。遼寧省には日露戦争からなじみの深い土地があり、中国旅行が解禁になったときは、大東亜戦争で引き揚げた人々がセンチメンタル・ジャーニーを試みて大挙して押しかけた。
90年代がそのピークで、行く先々のホテルで感傷旅行中の老人グループにであった。ロビィでも昔話に花が咲いていた。

印象深いことがあった。
長春で七十歳代後半と見られる母親を兄弟二人で連れてきた組み合わせに出会ったが、早朝にガイドに無理をいって、昔住んでいた住所を尋ねると、家はそのまま残っていて見知らぬ中国人(それはそうだろう、半世紀以上も前のことなのだから)。ところがその中国人家庭は親子の事情を聞いて(ガイドが通訳したらしい)、家の中へ入れてくれたのだという。感極まって母親、そのあと腰を抜かして、付近の店から急遽購入した車いすに座っていた。望みを果たしたので、動けなくなったのだ。

大連は同時に魔都でもある。繁華街の夜は情景が一変する。コロナ感染で緊急事態解除後も、東京アラートが発令されたが、『夜の町』の新宿のホストクラブからクラスターが出た。同様な夜の町は大連の中山公園、希望公園の周辺に開けた。なかには銀座の一流倶楽部を思わせる雰囲気の店もあった。習近平の節約令以後、ほとんどが閑古鳥、そのうえ日本人客が激減したため、多くが店を閉じた。
昔の大和ホテルは、遼寧賓館と看板を変えた。いかめしい玄関には車が横付けできる。中へ入ると厳粛な雰囲気があり、明治時代の建築で高い天井に威厳がある。赤絨毯を踏んで部屋へ案内される。
突き当たりに居酒屋があって、ここだけは騒々しく、刺身、天ぷらから鍋焼きうどんもあった。

▲日本人が激減して、遼寧省は不況に転落した

最近の激甚なる変化、都市の変貌ぶりは枚挙に暇がないけれども、日本に関連した興味津々の話題が幾つかある。
 尖閣諸島問題でささくれだった両国関係、友好行事もツアーもキャンセルが目立ち、さぞや反日ムードが溢れているだろうと思われがちだ。しかし遼寧省と黒竜江省は例外で、いまも親日的である。吉林省はやや反日色がつよい。同省の東側は北朝鮮にも近い所為か朝鮮族が多いからだろう。
 かつて大連市長を歴任し、商務部長から重慶特別市の共産党委員会書記に出世した薄煕来は、弁護士でもあった夫人の英国人殺人と右腕だった王立軍の米国亡命未遂事件により失脚した。
 その後の経済成長の状態は悪いと聞いていた。
薄のぼんくら息子の英米留学費用から豪遊に必要なカネ、なにしろ薄瓜瓜はフェラーリを乗り回し、ボストンでは24時間バードマンつき、プール付きのマンションに住んでいた。
薄夫人の北京事務所の最大スポンサーでもあった大連実徳集団のCEO・徐明は、個人ジェット機に美女を侍らして、薄煕来と周永康(ともに政治局員)のために便宜を計り続け、利権を次々と手中にして商圏を拡大した。もともとは材木の卸し業者だったが、気がつけばコングロマリットとなって、長者番付にもはいる億万長者に化けていた。
ところが、薄失脚により、大連実徳集団は120億元の負債をかかえて倒産し、CEOの徐明は、2015年師走に刑務所内で「急死」した。心筋梗塞と発表されたが、だれも真相究明に関心がなかった。秘密を知る者は消されるのだ。享年44歳という働き盛りだった。
 薄煕来は日本企業と最も繋がりの深かった政治家である。
重慶赴任にあたっては、大連時代からの企業をどっさりと連れて行ってインフラ整備のプロジェクトの利権を寡占した。大連時代の公安の右腕だった王立軍も、重慶の副市長兼任で引き連れた。それが汚職の巣となって批判された。
王立軍は漢族ではなく蒙古族とされ、ピストル一丁でギャングと渡り合った武勇伝の持ち主だった。重慶から成都の米国領事館へ女装して車を飛ばし、亡命を申請したが、ときのオバマ政権は中国の圧力に根負けして亡命を認めず、米国の威信は崩れ去った。
以後の、中国人高官らの亡命は、在中国米国大使館、領事館を避け、外国で行われるようになった。
 薄失脚以後、遼寧省への進出企業のペースが鈍り、雇用に甚大な悪影響がでた。
大連の町の真ん中には幾つもの近代的ビルが聳え、景観は素晴らしい。代表的な高層ビルは森ビルだ。向かいは韓国現代の建てたビル。森ビルの中には日本人が集まる日本料亭がテナント入居していたが、ここも客足が遠のいた。
 このレストランに日本人駐在人が集まると、聞こえてくるグチは上海のことばかりで、上海へ日本企業が集中して進出し、大連はうっちゃられていた時代である。
 
デルは大連工場の主力社員をなぜか日本留学組の中国人から大量に採用した。ほかにも日本語が堪能な留学生をあつめてコール・センターを開業した人材派遣企業もあった。
 日本企業との縁が深い遼寧省ゆえに、公安演出色の濃い「反日デモ」も領事館のある瀋陽以外では組織されなかった。
日本留学帰りが夥しく、遼寧省では現地採用で日系企業に働いている。「反日」で騒いで日本企業が韓国企業のように夜逃げして貰ったら困るのは彼らだ。
 しかし上海進出の急膨張によってビジネスマンの足が遠のき、とりわけ日本人街が精彩を欠くこと甚だしく、希望広場にある森ビルはぎっしりとテナントが埋まっているが、対面の現代ビルは空きが多くて対照的である。
森ビルの裏手に蝟集する日本レストランとバア、スナックも「営業中」の店が激減したことが、なによりも雄弁に事態の深刻さを物語る。
 中山公園周辺に三十数店舗が密集する日本人相手のバア、ナイトクラブは閑古鳥の店が多く、日本料亭や食堂は「食べ放題、飲み放題199元」が常識。理由はむろん、中国経済の不況により日本企業が人員削減と経費激減と、撤退姿勢だ(ただし工業区は別)。 

 ▲日本人街からもネオンが消えて。。。

 大連は中国海軍の空母基地でもあるが、となりの旅順が開放されてからは二百三高地など日本人団体ツアーの主力だった。「水師営の会見」で知られる馬小屋は、レプリカで再現された。
♪「庭にひともとナツメの木、弾丸跡もいちじるく。。。のナツメの木はあとから植えたものだ。馬小屋も日本人のツアーを当て込んで、急遽建てられたレプリカである。
その観光客も歴史ファンのツアーが一巡して、息切れをしている。
 大連で事情通に訊くと、「韓国企業のなかで中小企業は夜逃げしたし、大手企業だって撤退した会社も目立つが、後始末がなっていない。そこへ行くと日本企業は撤退するにしても退職金まで支払うし、再雇用の斡旋もするほど面倒見が良い。できれば日本企業もっと来て欲しいというのが中国側のホンネです」。
 これほど景気減速の大連なのにタクシーがまったく拾えないのは不思議だ。
北京、広州と同じ状況で、したがってバスと電車が満員。景気が良いとタクシーが拾いにくいのは万国共通だが、中国の場合は「タクシー代が安すぎる」からである。
 たとえば日本で二万円ほどの距離を乗っても2000円程度(要するに十分の一)。瀋陽では市内から空港まで一時間かかるタクシー代は高速道路代を含めて1300円程度である。
 初乗りは五元(丹東)、八元(大連)、九元(瀋陽)。大連では北朝鮮の「将軍様」がお泊まりになったフラマホテルで食事をした。大連で一番高い中華料理と聞いていたが、日本の居酒屋程度の値段だった。それでも日本人ビジネスマンが少ない。

 大連の観光名所は波止場に近い「ロシア街」がもっとも有名だろう。
じつはここで買いたい物があった。ロシア製品の土産と言えば双眼鏡、軍服、武器模型、弾丸のニセモノ、無骨な時計、ウィスキーの携帯壜くらいだが、もうひとつがマトリョーシカ(プーチンの人形を開くと中からメドベージェフがでてくる、次がエリツィン、ゴルバチョフ、アンドロポフ、フルシチョフ、ブレジネフ、スターリンと続く)。

何軒か歩いて同じ質問をくりかえした。
「毛沢東、トウ小平、江沢民、胡錦涛、習近平」のマトリョーシカはないのか、と。どの店も「それは置いてありません」
「外国人観光客に売れると思うけど何故?」。
 或る店先で店主が拝むジェスチャーをしながら、
「(少なくとも表面的に)指導者を崇めているからです」。
 ということはプーチン、メドベージェフのマトリョーシカを大量に売るのは中国人がロシア人をバカにしているからだろうか?
 複雑な思いを抱きながら、ホテルへ戻った(後日談、そのマトリョーシカをロシアのサンクトペテルブルグの屋台でみつけて買った。50ドルを25ドルに値切った)。
  
 かくして筆者は大連に何回か行っているが、一度は金正日の黒い高級車の車列に遭遇し、40分も信号待ちを食らったこともあった。
 さてドン底になって消えた、前述の「大連実徳集団」に代わって、米国の映画館チェーンを買収した万達集団が遼寧省で最大級の企業となった。

各地で豪邸マンション、別荘売り出しなど不動産業に派手に進出し、大連の一等地には高層の本社ビルを建てた。万達集団のホテルチェーンから遊園地、ディズニーのような娯楽施設もつくった。CEOの王健林は、中国富豪のナンバーワンとなった。
2019年から中国のバブルがはじけ、王健林は高値で買った欧米の映画館チェーン、ハリウッドの映画スタジオなどを一斉に売却、それでも足りず本丸の万達ホテルチェーンやテーマパークも売却して手元資金をかき集め、かろうじて営業を続けている。
かれの栄華の夢も終わりになった。

 ▲胡廬島から百万以上の引き揚げ者が日本に還った

 もうひとつ、思いで深いことがある。
エコノミストとして八面六臂だった三原淳雄氏は筆者より九歳年上だった。なぜか気があって初対面から四半世紀以上の歳月が流れた。
 80年代後半から90年代初頭、日本経済がバブルの頃、筆者はラジオ短波(現在のラジオ日経)で早朝番組を持たされていた。早朝、ロスアンジェルスのマネー局
と生中継、その場で同時通訳もやるというプログラムで、ウォール街の動きが、ただちに兜町に跳ね返るため金利、為替の早聴き早読み番組だった。
なぜこの話をするかと言うとアメリカ取材で穴があくと、大先輩であることを顧みず、代役に三原さんをお願いしたことが二度ほどあった。あとで担当者から「速射砲のような英語でした」。それで初めて三原さんがノースウェスタン留学ということを知った。ハーバードよりMBAでは難しい大学院。そして最新のアメリカ経済情報に通暁されているのは当然だが、米国へ行かれると直感力で新しい経済学の本を見つけられ、速射砲のように翻訳をされた。バフェットの投資理論を紹介するなど、ジョージ・ソロスやウォール街の裏情報にも詳しかった。

 その三原さんは旧満州生まれ、引き上げの際に弟さんを亡くされ、チチハル、新京(長春)、奉天(瀋陽)、大連の金山で育ち、当時のシナ人のことを実感として知っていた。引き揚げ船は胡廬島からだった。
 平成二十二年春、「その瀋陽、胡廬島にも立ち寄りますが、ご一緒しませんか」と旧満州旅行に誘ったら「そうですねぇ。引き上げ以来、一度も行ったことがないので。。」と参加されたのである。
 二日目の朝、北京空港で最初の印象は「中国では珈琲がまずいですね」。
 北京から黒河(黒竜江省)へ飛び、ロシア国境の流氷を見てから、旧日本軍の拠点だった孫呉。夜汽車でハルビンへ。翌朝は残留孤児のメッカとなった方正県へ足をのばし、日本人墓地で祈った。「ひょっと間違えば、わたしとて残留孤児になっていたかも」と三原さんの感傷だった。
 強行軍だったので、ハルビンから瀋陽へは飛行機で飛び、市内を一巡。なんと三原さんの通った小学校があった。無言でじっと校庭をみていた。日本人町もまだ多少残骸があった。旧「大和ホテル」のロビィで休憩、このロビィは甘粕大尉や川島芳子らが嘗て活躍した舞台だった。
「すべてが懐かしい。親父に連れられてこの辺を歩いた」と言われた。
 そこからまたバスで強行軍、二百キロを南下し、胡廬島へ向かった。私は開放されたばかりの胡廬島港と軍需工場へ視線がいくが、三原さんは日本への引き揚げ船がでた港をじっとみていた。
茫然と佇立していた。感無量という感じで、「長年の夢が叶いました」。
 その晩は宴会の酒を奢っていただいた。一緒だったのは高山正之、樋泉克夫、北村良和氏ら総勢十五名ほど。誰かが、「なんだか、今回の旅は三原さんのセンチメンタル・ジャーニーじゃありませんか」。
 翌日、営口から大連、旅順とまわり、最後の晩はカラオケに繰り出したが、三原さんは疲れたので睡眠と早めに部屋に引き上げられた。この旧満州旅行はよほど強烈な体験だったらしく帰国後は会う人ごとに「宮崎さんと行ってきた」と吹聴されていた。
それからも数回、講演でご一緒したが師走に体調を崩され、2011年12月8日(開戦記念日)に肺炎で急逝された。
なにか運命的なものを感じた。
      
   ♪
(読者の声1)皇統問題についての国連女子差別撤廃委員会への意見書
 3月9日付で、国連の女子差別撤廃委員会から日本政府に「皇室典範について、現在は皇位継承から女性を除外するという決まりがあるが、女性の皇位継承が可能になることを想定した措置についての詳細を説明せよ。」という質問が送られてきました。日本の伝統と国家の主権にかかわる問題に内政干渉介するとんでもない質問です。
 そもそも、これは日本の左派系NGOが女子差別撤廃委員会へ出した意見書をもとにして出されたものです。いわば反日左翼が、国連を利用して日本の伝統破壊を行おうというたくらみに、国連が悪乗りしたよくあるケースです。
 さすがに外務省もこれははねつけてはいますが、いつの間にか、国連のお墨付きを得たかのように左翼が悪宣伝するようになる恐れがあります。我々が「声」を挙げることが必要です。
 この度、国際歴史論戦研究所の呼びかけにより二つの意見書が、国連の女子差別撤廃委員会に送られました。
 一つは、「皇統(父系男子)を守る国民連合の会』(会長:葛城奈海)からのものです。
 日本の皇室典範「皇位の男系男子継承」は古代伝承に基づく信仰であり、
女性差別として扱うことは「宗教の自由」への侵犯である
日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/CEDAW1.pdf
英訳文:http://www.sdh-fact.com/CL/CEDAW1e.pdf

 もう一つは、百地章日本大学名誉教授と「国際歴史論戦研究所」(所長:山下英次)連名のものです。
「男系男子による皇位の継承」は、わが国の2千年近い「皇室の伝統」にかかわる、純然たる国内問題であって、国際組織の管轄外にある
国連女子差別撤廃委員会の日本政府に対する事前質問に答える
日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/CEDAW2.pdf
英訳文:http://www.sdh-fact.com/CL/CEDAW2e.pdf
 女子差別などと次元の違う国家の伝統と主権にかかわる問題に対する見当はずれな見解を真っ向から批判する卓論かと思います。こうした論を内外に発信していくことが必要ではないでしょうか。
   (「史実を世界に発信する会」 茂木弘道)


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月19日(金曜日)参
       通巻第6545号   
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~米中外交トップ、ハワイで七時間の会談も実りなし
  コロナ、人権、香港、ウィグル、貿易。そして台湾問題で激突
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 小誌6月15日(6737号)で予測した通りに、米中外交トップの秘密会談がハワイで行われた。会談は七時間にわたった。

 ポンペオ国務長官は、コロナ感染拡大の責任問題から貿易不均衡、そしてチベット、ウィグルの人権抑圧。香港の自由を圧殺する安保条例などを痛烈に批判し、防戦する楊潔チ国務委員は、「台湾は不可分の中国領土」「香港の内政に干渉するな」などと従来の主張を繰り返した。

 合意したのは「対話の継続」だけ、せっかくの会談も、なにひとつ成果のないものとなったが米中の対立点が改めて浮き彫りになったとも言える。
トランプ大統領は同日、議会が可決していたウィグル民主人権法に署名した。
   
  ☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆ 
  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~〜 もののあはれ、奥ゆかしさを追い求め、「詩人」石平の旅は続く
  なぜ日本の風景、その美と静けさが外国人も感動させるのだろう?

  ♪
石平『石平の眼 日本の風景と美』(ワック)
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 石平さん、プロも唸るような、秀逸なカメラ技術を持つ。この意外な特技を多くの読者はたぶん知らないだろう。評者(宮崎)、何回か一緒に旅行したことがあるので、撮影の構図の取り方がうまいことは知っていた。そのうえ留学生時代から暇を見つけると日本中を飛び回って撮影していたことも、私家版の写真集を弐冊、過去に出しているので知っていた。今回の写真エッセイも、『WILL』に連載中から愛読していた。

 だが、改めて通読すると、よくまぁ、こんなに日本の隅々を、それも景色の良い場所を選択し、観察するどく撮影し歩いたものと感心することしきりである。
 大原三千院、醍醐寺、唐招提寺に竜泉寺、高千穂から霧島神社へと、かれは景観の美だけを追っていたのではない。石さんは「自然と文化の中に日本精神」を発見する旅をしていたのだ。
 高千穂では天孫降臨から天皇伝統と歴史を考え、城めぐりでは「戦争と平和」を考える。テーマも風景別に、そして四季別に自ずと拘ることになる。

 ▲京都嵐山の優雅な景色に感動したことから撮影行が始まった。

 石さんが育ったのは四川省。その山河は「美しい田園風景が一面に拡がる場所」だった。が、日本に来るまでは「政治的風景」としてしか捉えていなかった。
 故郷を懐かしむのは世界共通だが、中国人は「老家」と表現し、ともかく旧正月、国慶節となると民族大移動を起こす。しかし中国人は老家に帰るだけが目的である。

 日本にきて、初めて京都嵯峨野、嵐山へ行った。そこで石さんは、「人生において初めて、美しい風景と雅な世界に魅了され、美しさというものに目覚めた」のだった。
 爾来、デジカメ一台。ときにスマホを駆使して旅行にでると綺麗な風景を納めた。人物や動的な写真、報道写真には無縁の、ひたすら風景だけを撮影し続けた。残念なことに信州上田城に行ったときは、デジカメを忘れ、スマホの充電も忘れていたそうな(ちなみに上田へは評者も二回行っているが、真田の本拠、北へバスで一時間ほど北上すると真田村があって、村役場で電気自転車を貸してくれる)。

 秀吉が天下を喧伝するために開いた豪華絢爛の花見は醍醐寺だった。
「醍醐寺の西大門から入って、国宝の金堂や五重塔を拝観してから、さらに奧へ進むと、観応堂と弁天堂の間にひっそりとした池が一つあるが、新緑に囲まれた朱塗りの弁天堂のたたずまいが鏡のような水面に映っている。この風景はあまりにも美しい」。

そこで石平氏はにわか詩人となって次の漢詩を詠んだ。

「古堂深池緑映紅
  閑日一遊酔薫風
    太閤花見栄華事
     群芳散尽春色濃」

 水戸光圀公の隠居邸は常陸太田市の西山荘だ。評者も吉田松陰伝を書いたときに、水戸学の震源地ではないかと、ここへ見学に行ったことがある。水戸からローカル線で大田駅からはタクシーを雇った。
 なぜか、石さんも、この天下の副将軍「水戸の黄門様」の隠居場に出かけている。現場に立った石さんが、あっと驚いたのは質素な建物でしかないこと、しかし高貴と優雅が周囲を支配していたと、「詩人」の感覚はつづく。
写真集を閲覧し、文章を読みながら、この光景にある日本文化は「わびさび」である。しかし古代日本の縄文文化は、対極的に動的でダイナミックである。次回作は、この同じ日本文化の両極性を論じて貰いたいと思いつつページを閉じた。   

集中連載「早朝特急」(10) 
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 第一部「暴走老人 西へ」(10)   第十章  河西回廊紀行

 ▲シルクロードの本筋は蘭州から始まる

 ♪「月の砂漠をはるばると。。
 敦煌に対する日本人の執着、その過剰なまでの思い入れ、浪漫的な観照と一方的な感傷は井上靖の小説と平山郁夫の幻想的絵画など、親中派の「功績」による。
 浪漫に溢れるシルクロートの諸都市も経済発展に便乗したが、辺境オアシスの庶民は健康的だった。
 中国では敦煌も武威も張液もシルクロードのワンノブゼムのオアシス都市に過ぎず、とりたてて敦煌にのめり込むことはない。げんに漠高屈に匹敵する仏教彫刻群は蘭州市郊外の石門峡にある丙霊寺、武威市郊外に開ける天?山石窟、張液郊外の馬蹄寺、山丹の大仏寺などでも見学できる。それも外国人観光客が少ない分、じっくりと堪能できる。
 「河西回廊」は広義には西安から酒泉、敦煌を超えてペルシア辺りまで、あるいはインドまでを指す。だが狭義では甘粛省の蘭州から嘉谷関までである。万里の長城の西の果ては嘉谷関市の西郊外にある「長城第一敦」だ。
 『西遊記』の巨大な像が飾られているのは蘭州市の黄河河畔、中山橋から白塔山へのびるロープウェイ駅の隣である。しかし旅人の浪漫をいざなう西遊記の巨大な像が金ぴかなのにはいささかげんなりした。
 白塔山麓の観光街も巨大なショッピングモールに化けた。ところが観光客が寄りつかない。観光客を当て込んでの豪華タウンだけは出来たが、計算違い。これは大失敗の見本だ。
 蘭州の地元民に拠れば最近「シルクロード」のブームが去った所為か日本人団体客が減っているという。
 そういえば、河西回廊を歩いた十日間の旅程中、一人だけ日本人を見かけたくらいで、上海や大連は日本人だらけなのにと思った。
 ひとつにはロブノール周辺における中国の核実験の悪影響による土壌汚染が広く伝わって砂漠の沙にも放射能が混在している懼れが、福島原発の災禍と重なって日本人に認識されたからではないだろうか。
 それなら「いま、どうなっているのか」。現地を視察することにした。
 いかに辺境、奥地とはいえ経済発展とは無関係ではなく、いや、シルクロード一帯もまた不動産バブルが破裂しているのではないのか。内外の雑誌を手に取ると「中国経済成長の終わり」「バブル破綻」という記事ばかりを見かける。

 ▲蘭州は冬虫夏草の町

 北京で乗り換え、まずは甘粛省の省都である蘭州へ飛んだ。市内人口二百五十万人ほどの大都会だ。
 大ざっぱな地図では黄土高原といわれる、荒地の高台にある中川空港から市内まで70キロ、リムジンバスで一時間もかかる。空港周辺に外国人が泊まれるホテルがない。
 距離的には成田より遠く、中国国内で、この飛行場より遠い場所にあるのはチベットのラサ空港だけ。途中の高速道路両側には砂漠緑化プロジェクトが進み、スプリンクラーが植林した樹木に大量の水を撒いているため棚田開発が結構進んでいる。
毎年、富山県ほどの面積が砂漠化している中国で緑化対策は死活的政策である。砂漠の緑化は「青年林」と呼ばれ、およそ一千万ムーを今後、重点的に緑化し、田畑を開いて農作物を作る。
その壮大な計画はよし、だが植林する傍らで伐採する地元民がいる。すぐに禿山にもどる可能性すくなからず。
 
 蘭州市内へ入って最初の驚きは、「え、まるでイスラムと『冬虫夏草』の街ではないか!」。
 漢族の回教徒が夥しい。イスラム寺院があちこちに林立し、その規模が大きい。ウィグル系、チベット系など少数民族の混在地域、彫りの深いペルシャの顔立ちの女性も目立った。繁華街は漢方薬店が犇めき、「冬虫夏草」のネオンが燦然と輝いている。その間に挟まった海鮮レストランも満員だった。
 景気は良いのかな? 夜の街はごった返し、高級レストランに酔客多数、タクシーはまるで掴まらない。沿岸部、華南の部品メーカーが蝟集する広州周辺の不況とは異なり、なんだか景気は良さそうなのである。
 蘭州ではおりから国際交易会が開催中だった。幹線沿いのホテルは軒並み満員。しかたなく「スーパー8」というビジネスホテルに宿泊とあいなった。この米国系のチェーン、すでに中国国内で300店近く、受付ではたどたどしい英語が通じるが、日本のパスポートを見せると、よほど珍しいのかスタッフが集まってきた。朝飯付きで3100円。
 翌日は早起きし、一日がかりで劉家峡の石門ダムへ行った。目的は黄河の「断流」の現場を見たいからだ。

 ▲人工湖なのに琵琶湖ほどの宏大さ

ダムによってできた人工湖が琵琶湖なみか、それより広い。船着き場から快速モーターボートで石仏まで一時間もかかる。大型遊覧船なら三時間半! 救命具を着込んでの情宣だが、船内もひどく揺れた。
 水没した集落住民はダムの奥地にある劉家峡鎮に強制移住させられ、行ってみるとバザールは繁栄しており、人口四、五万人ほどだろうか、デパートもある。葡萄や桃、瓜など果物が美味しい。街の真ん中を黄河が荒々しく流れている。かなりの急流である。
 ダム庫によって黄河の流れが変わり50キロほどの旧河川は地面が見える。水は一滴もない。雨が降ると、干しあがった旧河川がこんどは暗渠の役割をなして洪水を防ぐのだという。

 見学を終えてボート乗り場へ一時間かけてもどって、でトイレを借り、土産物を見ていると、タクシーがいない。
仕方なく五百メートルほどあるいて県道へ出るが、タクシーなど来るはずもなく、二十分ほど突っ立っていると、白タクが寄ってきた。蘭州まで百五十元というので首を振る。執拗に百三十元となるが、「あいにく小銭しかない」と嘘を言うと、「じゃ近くのバスターミナルまで十五元でどうだ」となった。
 蘭州市内の手前に巨大な工業団地が造成中だった。その周辺がマンション群で予測通り誰も入居者のいない鬼城(ゴーストタウン)化していた。
なかには工事続行を見せかけてクレーンが時折動くが、建設現場では労働者が二、三人しかいないのだ。蘭州へもどりショッピングモールで洒落たレストランでもないかと探してみたが、大衆食堂ばかり。
一軒の土産屋に毛沢東の布袋像があった。大きなプラスティック強化剤でつくったものだが、ユーモラス。毛沢東を布袋様にして、金儲けの神さまにしちゃったのか。参考のため値段を聞くと日本伝で五万円ほどだった。

 ▲マルコポートも、このあたりに長期滞在した

蘭州からシルクロードを西へ向かった。
 途中の武威と張液、酒泉の三つの都市で、面白い比較が出来た。
 タクシーの初乗代金である。それぞれ四元、五元、六元。ちなみに北京は11元、上海14元、蘭州は七元だから、どれほど安いか理解できるだろう。
 エコノミストがよく使う購買力平価の代表的指標は「ビッグマック」(マクドナルドの大型ハンバーグの値段を世界各地に比較して物価水準を調べる)だが、筆者は中国に関していえば、このタクシー初乗り代金と、ビール代金で比較している。レストランでのビール代は、北京で15元平均、上海20元だが、蘭州から嘉谷関までの河西回廊諸都市は四元から四つ星ホテルですら12元。やはり最貧地域である。その分、インフレも起きず、したがって不動産バブルの破産被害も少なく、かえって救われているという皮肉な現象があった。
 
蘭州からのローカル列車はすし詰め、満員で四時間立ちっぱなしだった
 武威まで超満員の列車に揺られた(こんなローカル列車でも切符購入時、パスポート提示)。あたかも昭和三十年代を思い出すほどの混み合い、日本の旧盆や正月の比ではない。車中ではトランプに興じ、即席ラーメンの大盛りをほおばり、車内販売のキュウリを囓り、しかし往時のような喧噪はない。意外に乗客はおとなしい。四時間強の立ちん坊で足が棒になった。

 武威は小さな街である。
 神馬を飾る雷台、孔子廟などがある。街の中央のホコテンには大きな銭を形どったオブジェ。泊まった旅館は天馬飯店。名前の割にはエレベータもなく、鍵は南京錠。部屋はボロボロで、シャワーを使う気にもなれない。
 すぐ隣の公園ではウィグル系の人々があつまって歌謡大会をやっている。革命歌ではない。中国語でないので歌詞が分からない。初老の人たちが懸命に歌っていた。
 
 張液はシルクロードの拠点にして古都。なんといってもマルコポーロが一年滞在した街として知られる。街になんとなく歴史の風情が流れる。
 街の中央に位置する明街の歴史的町並みの隣が欧州路、その交差点に鼓楼がわりに立つのが白亜のマルコポーロ像である。
 この街の名物は大仏寺。まるで奈良の大仏寺のごとくに外観が似ているが、拝殿に鎮座するのは巨大な寝釈迦。おおきな怪物が横になっている不気味な感じだった。このあたりまで来ると疲れが混んできた。
バス駅前の簡便旅館に泊まったが、その汚らしいこと、ここでも手ぬぐいで身体を拭き、シャワーも使わずに寝た。ただし一拍1500円。おそらく十年前は三つ星ホテル級だったのだろう、部屋の中の説明書に日本語も混ざっていた。
受付は日本語も英語も通じず訛りの強い中国語だけ。要するに優秀なスタッフは新築の高級ホテルに移籍したのである。そこで夕食だけは、その高級ホテルに移動し、地元自慢という料理を食した。
 
 ▲酒泉の名前に浪漫を感じたが、酒は不味かった

 またも西へ。酒泉市へ。
 飲んべえならたまらない名前だろう、酒泉と聞けば、よほどの銘酒と遭遇するのではないか。。。。
 酒泉は宇宙舟打ち上げ基地としても世界的に有名だが、それは市内から北方へ200キロ、むしろ内蒙古省に近い砂漠にある。
 酒泉市内は落ち着いた、瀟洒な雰囲気が漂う街で綺麗な印象を持った。この街で見たかったのは兇奴を破った雀去病・将軍が行軍する光景を描いた大レリーフ。雀が凱旋したときに休憩した場所から酒がわき出たという伝説があって酒泉などと洒落た名の都市ができた。その公園を見に行った。
 長城の西端は「第一敦」がある嘉谷関だ。高原が地下水で蚕食され、ずるっと陥没したかたち、蒙古族のゲルが展示用にあるが、ごぼっと砂に足をさらわれそうで上から見るだけにした。
 この場所には酒泉からタクシーで二十分で着き、さんざんおんぼろホテルで愛想が尽きかけていたので、ここでは四つ星ホテルに泊まった。
シャワー設備も室内も広くて清潔、朝食付きで6000円。休憩後、町を散歩していたら驟雨になった。ショッピングアーケートに飛び込む。衣料品は秋から冬物がならび、夏なのにジャンバーが欲しいと思うほど冷えた。酒泉は思ったより活気がなく、淋しい町である。
かなり歩いて町見学を終え、ホテルへ戻って館内のレストランで夕食をとった。吹き抜けのロビィの半分を占めるが、私たち夫婦のほかは二組に客しかいなかった。寒く感じたので紹興酒を所望するが、「没有(ありません)」。しかたなくビールだけにした。

 翌日、嘉谷関、懸壁長城、万里第一敦、魏晋壁画墓の四つをまわるためタクシーをチャーターすると、四十がらみの運転手が「そんなコースなら、子供が夏休みなので妻と一緒に同乗させて良いか」と言う。
というわけで人の良さそうな運転手一家とドライブとなった。
 夫婦してタクシー一台を昼夜でシェアし、贅沢は出来ないが、そこそこの生活は出来る、と言った。十歳の男の子は聡明そうで、将来「米国に留学したいか」と訊くと頷く、アイスクリームを買ってやろうかと言うと三回、遠慮した。含羞のある中国人とあったのは久しぶりである。

 四個所まわって六時間、チャーター料金はわずか260元(3600円)。北京ならまず700元は取られるコースである。空港で別れ際、お互いに壮快な気分となった。
 その爽快さは北京で乗り換えた中国民航機が「成田が豪雨のため関空に緊急着陸します」というアナウンスで不快と替わり、深夜、ロビィで寝袋支給のごろ寝と相成った。中国民航の機内では、最後まで日本語の説明も謝罪もなく、なるほど日本人のサービス精神とは異なり、その責任回避ぶりのマナーは「国際」的だった。

(註 模高屈の「模」はつくりのみ。丙霊寺の「丙」は火へん。張液の「液」は手偏
   嘉谷関の「谷」には山偏。第一敦の「敦」は土偏) 

      
   ♪
(読者の声1)新しい歴史教科書をつくる会東京支部主催<歴史・公民>新東京塾第13回研修会が8月2日(日曜)に開催される予定となりました。
詳細につきましては以下の通りであります。
<正統な皇統を死守しなければ、吾が国は 「日本」 ではなくなる!>

日時   8月2日(日)13時20分~16時30分
会場   北区立 赤羽会館 4階 大ホール
     (北区赤羽南1丁目13-1)(電話 03-3901-8121)
     JR赤羽駅 東口 徒歩5分 東京メトロ 南北線 赤羽岩淵駅 徒歩10分 
1)研修会
基調講演 「精神再武装のすすめ」 (13:30~14:10)
      講師: 馬渕睦夫氏 (皇統(父系男系)を守る国民連合の会 顧問)
「『日本』を『日本』として受け継ぐために」 (14:10~14:40)
     講師: 葛城奈海氏 (皇統(父系男系)を守る国民連合の会 会長)
 対談 及び 質疑応答  対談・質疑応答者: 馬渕講師、葛城講師  
コーディネーター: 新しい歴史教科書をつくる会東京支部 支部長 池田元彦 
2) 懇親会 17:00~19:00 JR赤羽駅付近の居酒屋を予定

   会 費 研修会 1,500円(予約優先で、概100名様まで)  
        (ただし、大学生・大学院生は500円、高校生以下は無料) 
懇親会 4000円(先着30名まで) 
共催 「皇統(父系男系)を守る国民連合の会」
「新しい歴史教科書をつくる会東京支部」
<申込先> 加藤幸太郎 TEL090-9244-2096
FAX 03-5993-1287   MAIL  2740kxuy@jcom.zaq.ne.jp
      

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月19日(金曜日)弐
       通巻第6544号   <前日発行>
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~コロナ禍が運んできた孤独なる人間、絶望、自殺。あるいは結婚
  孤独に苛まれると強制に期待し、強い指導者に憧れる傾向がでる
*************************************

 ディビッド・リースマンの『孤独な群衆』は、社会が機能するにはその成員が担う役割の遂行を促す一方で、個人の性格は社会環境が大きく作用するとし、社会的環境の変化、たとえば人口成長期、過渡的成長、初期的減退の過程において社会的性格は伝統指向型から内部指向型、他人指向型へと変化するとした。

 慣習とか伝統はかならずしも個々人には共通しない。内部指向型は権威者、或いは保護者の教育によるモラルの刷り込みによって行動規範がでるが、他人指向型では周囲、交際範囲の人々の言動ばかりか、マスメディアを通じて他人の動向を気にする。

 このような二律背反的な現象が現代社会の特徴であり、家族関係、友人関係、所属する企業団体など組織との関係が消費にも影響する。個性がつよければミーハー流行型のバッグには見向きもしないだろうし、個性が弱い個人はブームと聞けば、ルイビュトンに飛びつき、ミズノなどのスポーツシューズを買い換えるように。

 コロナ災禍で、上記は如実にあらわれた。
「緊急事態宣言」以後、在宅勤務、レストラン、百貨店などは営業自粛要請であって強制力も罰則もないにもかかわらず、日本人の多くは御上の意向に従い、街に人影もなくなった。レストランはずらり閉店。逆らったパチンコ店もメディアの攻撃に耐えきれず、みなが閉店した。これは孤独の強制でもある。

 だが、社会的環境による物理的孤立と、本人しか自覚し得ない孤独感とはまったく異なる。後者はときとしてメンタルヘルスに悪影響をもたらし、自殺への衝動となる。
 
 米シカゴ大の世論調査センター(NORC)が調査した「幸せ度」の結果をみると、アメリカ人で「普段の生活にとても幸せを感じる」と答えた割合が過去50年で最も少なかった(2020年6月17日の各紙報道。複数回答調査)。

 「孤独」と答えるアメリカ人は増え、武漢コロナ感染拡大を防ぐ都市封鎖、テレワーク、外出制限、あるいは突然の失職がもろに影響を及ぼしたことが分かる。
 「とても幸せ」と答えたアメリカ人は14%しかおらず、「それほど幸せでない」が23%、「孤独を感じることがある」は50%で、前回23%の二倍を超えている。

 テレワークは人と人の結び付きを弱める。家族を持たぬ人が多いが、独身世帯なら尚更だろう。東日本大震災のときもそうだったが、独身女性が突如、結婚願望になるというケースが目立った。

 米週刊誌『TIME』の世論調査ではコロナ災禍前の2018年、孤独を感じるが54%だった。2019年に61%となっていた(同誌、2020年6月22日号)。
 コロナ以後、孤独感は以前より増したと答えた人は米国で31%、同じ質問はカナダ、英国、豪で行われたが、22%だった。ダントツにアメリカ人が孤独なのだ。
 これを年齢別にみると、40歳以上の女性で18%、40歳以上の男性が26%。ところが若い世代に同じ設問をすると、24歳から39歳までの女性が31%、男性が36%だった。つまり、結果から推測できること、アメリカ人の孤独感はほかの先進国より高く、しかも、若い男性が女性より孤独だということだ。
 日本で同じ調査をすると、たぶんアメリカと同様な傾向が出るだろう。その議論の前に、日本に引き籠もりが70万人もいる。以前からこれは深刻な社会問題だった。

 ▲何が人間をこうも孤独に追いやったのか?

 ソーシャル・ディスタンンスは人と人が距離を置くことの奨励であり、しかもマスク着用なら会話も成立しない。飲食店が営業規制を受ければ、居酒屋にあつまってガヤガヤ騒ぎながらのコミュニケーションも取れず、テレビ会議などは所詮ヴァーチャルな世界との中間地点であり、直に手で触って得られる実感を伴わない。孤独はますます強くなるだろう。

 コロナ災禍で、本来なら読書のチャンだが、多くは映画、ゲームに明け暮れ、スマホのチャットで時間を潰した。絶好の機会を自ら失った、

 フロムの『自由からの逃走』は戦後のベストセラーだが、全体主義との対比も描かれている。
人間は孤立を怖れる習性があり、意識の中では自らの意思で動いていると思いながらも、人間は自由になればなるほど、心の中では孤立を深め無力感に襲われるとした。
全体主義の足音が近付いている音が聞こえないか?    

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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 「中国共産党の大罪」を絶対に許さないと中国人の芥川賞作家
    楊逸さんの大胆な発言に注目、決死の覚悟で涙の訴え

 楊逸『わが敵 習近平』(飛鳥新社)
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 副題に「中国共産党の大罪を許さない」と芥川賞作家が訴えた。
 日本人作家なら誰もが思っていることだ。一部の財界人とハニー・トラップに引っかかった政治家を除き、いまの日本で中国を褒める人間はいないだろう。習近平を悪魔と考えている人が大半だろうと思う。
 しかし中国人の発言は決死度がことなる。中国に残された家族や、親戚に累が及ぶ懼れがあるために、言いたくても言えない。無言の抑止力が機能するからだ。
 だから多くが沈黙している。あるいは米国へ再度亡命し、ようやく自由は発言を得られると、民主化運動に邁進できる。日本にはそうして自由が大幅に、目に見えないかたちで制限されている。
 マスメディアが中国の暴政を正面から批判しないではないか。
 しかし哈爾浜出身の作家、楊逸さん、ついに怒りを爆発させた。香港デモに対する目を覆うような香港警察の血の弾圧、コロナ禍で中国を地獄に陥落させ、同胞人民を殺し続ける共産党政権を、どうしても許せない。
自らの幼少期の過酷すぎる下放体験の記憶と、今の苛烈な人権抑圧の状況を重ね合わせながら、楊逸女史は文学者として、日本と世界の市民に対して、中国における自由と人権の侵害に抗い、状況が改善するよう働きかけてほしいと呼びかける、悲壮なメッセージが本書に結晶した。
評者(宮崎)、じつは、2004年に上梓した『中国のいま、3年後、5年後、10年後』(並木書房)のなかで、「在日中国人が五年以内に『日本語で書いた小説で芥川賞を取るだろう』」と予測した。
 拙著はすぐに韓国語訳されたが、中国語の翻訳本はでなかった。楊逸さんの芥川賞受賞は2008年だった。評者の予測より一年早かったが、予測通りに中国人の芥川賞作家が誕生した。
 受賞作を読んだわけでもなく、何をテーマにしたかも知らなかったが、本書を通じて楊逸さんがこれまで歩んできた苦労の道が読めた。
 筆舌に尽くしがたい受難、文革中の下放生活を経て、歯を食いしばって苦学し、日本留学。そして天安門事件以後もひどい政治が続く独裁国家に本当に失望して日本に帰化した経緯があった。受賞作は天安門事件の犠牲者への鎮魂歌だった。
 本書は、そうして楊逸女史の血涙の叫びである。

    
集中連載「早朝特急」(9) 
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 第一部「暴走老人 西へ」(9)  第九章 華南の大動脈「広州ー武漢」

 ▲香港から広州まで
 
 また新幹線開通の部分開通と聞いて、こんどは広州ー武漢の旅に出た。このころ活躍していたミッキー安川のラジオ番組によく呼ばれたが、「宮崎さんは三日閑があると中国へ行っているみたいだな」と突っ込まれ、そういえば、それほどの頻度で中国を回っていたものだ。
最大の理由はヴィザが不要となったため、日本人は何時でも、中国の何処へでもいけるようになったからだ。
 香港から特急で広州東駅へ入り、地下鉄を乗り換え、出来たばかりの広州南駅へたどり着いた。そこから新幹線(武広高速)で湖北省の古都=武漢へ向かった。
2019年師走から世界を震撼させた武漢コロナウィルス発祥の地として悪名が高いが、筆者の乗車時点は2012年の話である。
 千六十八キロ(在来線の距離)の距離を、直線の新線を作って九百六十八キロに短縮させ、僅か三時間十六分で結ぶ。中国は世界へむかって「新幹線大国だ」と獅子吼した。
 日本の新聞もこの路線開業は写真入りで報道した。シーメンス、ボンバルディア、アルストムの「鉄道ビッグ3」が技術を提供した。
 「武広高鉄」は直線ルートと新駅増設により巧妙に距離と時間を短縮したが、じつは各駅停車に乗ると四時間かかり、平均時速247キロである。
 湖南省の長沙のみ停車のCHR3型(車体は中国製)が三時間十六分。じつはこの超特急は一日一本しかない(宣伝と実態はえらく違う)。
 そして広州南駅をでる「こだま」「ひかり」混交型(選択的各駅停車)は広州北駅、清達、韻関、椰州西、来陽東、衝山西、珠州西、長沙南、泪羅東、岳陽東、赤壁北、威寧北を通過(もしくは停車)し、武漢へたどり着く。

駅の名前から判断できるように殆ど全てが新駅なのである。それも僻地、農村を新規に開拓した場所に駅舎を突貫工事でつくった。その迅速なスピードは驚くほどの早業、軽業師的な建設だ。しかし途中駅の都市と新幹線駅までのアクセスが悪すぎる。たとえば広州東駅から筆者は新幹線始発駅の「広州南駅」へ向かったが、最新のガイドブックにさえ駅の地図が載っていない。慄然となった。
 ーーえ? どうやって行けば良いの?
 念のため『地球の歩き方』も見たが新駅の行き方が載っていない。それで地下鉄に乗って、「いったいどこでアクセス出来るのか?」車内の路線図にも書いていない。
 たまたま隣り合った乗客五人に聞いて、やっと一人が知っていた。「地下鉄の『漢渓長龍駅』でおりて、そこから地上にあがり、連絡バスに乗り換えろ」と教えてくれた。
 その連絡バスの代金は二元、荷物一杯の旅客を詰め込むから超満員。高速道路をぶっ飛ばして十二、三分かかる。広大な荒野のど真ん中に新築ぴかぴか、まだターミナルの一階は工事中の広州南駅が忽然と出現した。

 ▲ホットコーヒーなし。缶ビールは一種類だけ

 広州南駅のドーム型の優雅さにしばし見とれ、つぎに昼時だったのでレストランを探したが、まだ駅構内が工事中(営業開始から八ヶ月というのに?)、二階の簡素な売店でパンをビールで押し流すように食べて次の列車に乗る仕儀となる。
 ところが外見こそ美しいが駅構内はゴミが散らかり、空き瓶は放置され、壁がはやくも汚れている。
 待合室は東京ドームのグラウンド部分ほどの大きさ。楽に一万人くらいは収容できそうに見えるが、入りきれず入り口にも旅客が屯している。一階の喫煙室はたばこの煙で窒息しそうになるほどだ。
 広州南駅を1434に出発、武漢着は夕方の1830。四時間弱である。二等車の料金は四百九十元。これは中国の庶民感覚からすれば相当高い!
 列車は広州南駅を定刻通り静かに滑り出した。ところが車内の音響が凄い。旅客同士のお喋りも怒鳴りあいに近い。携帯電話をデッキへ行ってかける人はいない。道徳心、公徳心の欠如。洗面所とトイレを撮影したが意外に綺麗。乗っている車掌、掃除、物売り、公安警察までが女性だ。

 喉が渇いたのでワゴンの物売りを待つがホットコーヒーがない。
缶ビールは一種類だけ。大型の即席麺がやまのように売れる。乗客は洗面所に設置された湯沸かし器に走り、ずるずると車内で食べる。独特の臭いが漂うが、この香りは不味そうな味がまざった。横の客をまったく気にしないのも中国特有の風景で慣れっこになると何も気にならない。さすがに車内で喫煙する無礼者はいなくなった。
電光掲示板に速度がでる。トンネル内で、瞬間的に331キロ、平原部で310キロが筆者が乗った日の最高速度だった。
浦東空港から市内に入り口までの上海リニアカーも宣伝は450キロ、筆者が数回の経験では最高が431キロ、雨の日は300キロの『徐行運転』。それでも距離が短いので到着までの時間は一分ほどしか違わない。

 ▲日本の新幹線は土地の収用にやたら時間がかかるが。。。。

 途中の景色の描写は省略する。というより通過する駅名も認識できないほど速い(プラットフォームの表示看板が小さく、車内の電光掲示板に「ただいま○○駅を通過」とか親切な案内情報はない。あれは日本だけなのだ)。
 したがって時刻表から推定するしかなく、沿線は単一な景色、農村、茶畑、そうするうちに衝山、長沙を過ぎ、岳陽、泪羅とくれば何回かきた曽遊の地、古い写真が頭の中で回るように既視感が湧いてきた。
 脱線だが筆者はこのとき、南から北上するルートを撰んだけれども、戦争中に日本軍は逆コースをたどり武漢を陥落させ、岳陽から南下して、長沙に進撃する直前、中国側は焦土作戦をとって長沙を焼き払った。岳陽で日本軍が毒ガスを使ったというのも嘘宣伝だったことは歴史研究家によって明らかとなった。

 閑話休題。乗り心地は快適、なにしろカーブが殆ど無い。うっかりすると眠りに落ちそうだ。ならばほかの中国人客は何をしているのか、と観察すれば、団体はお喋り、カップルは静かに会話。ビジネスマンが学生らはパソコンを叩いている。日本より早く、新幹線の座席にはコンセントが設置されていた。
拙速ともいえるほど迅速に出現した中国新幹線の強みは土地の収用がただ同然であることだ。つまりまっすぐに線路を敷設できる。日本の場合、直線区間がすくなく、トンネル在り、カーブあり、上り下りが急で場所によっては十度ていどの傾斜があり、それでも250キロの高速で珈琲がこぼれない。
 日本では土地の収用にやたら時間がかかり、その分、新幹線の建設コストが跳ね上がる。
 この点で中国新幹線の優位性は圧倒的ともいえる。なにしろ共産幹部が地図を拡げて赤線を引けば、該当する地区住民は強制立ち退き、歯向かうと夜中にブルドーザーがやってくる。補償金は雀の涙。しかも中間搾取が常識である。
 まして中国新幹線はまっすぐ、ひたすらまっすぐ。だから高度な運転技術は要らない。あまつさえ各駅へのアクセスの悪さ、そもそも出発駅の広州南駅からして新駅。武漢も新駅! この新駅から旧市内までそれぞれ一時間かかるのである。

 途中駅も全部新駅で市内とはかけ離れた場所にあり、東海道新幹線の岐阜羽島駅だって開業の頃は遠い遠いとぼやかれたけれども岐阜市内とそれほどは離れて
いない。新神戸にしても地下鉄との連絡が便利、もっとも市内から遠い新幹線駅は下関くらいか。中国新幹線は「まっすぐ」な路線と各駅の新駅であるがゆえアクセスが悪くなるのは当然だろう。この発想は台湾新幹線そのものではないのかと連想した。上海に101階高層ビルを建てたときも何回となく[Taipei 101」(台北のランドマーク)の建設現場に中国側が「スパイ」を送り込んでいたことを思い出した。そのうえで、上海の高層ビルを強引に102階建てとしたのだ。
 
 長沙をすぎて夕闇がせまった。窓外が暗くなり雨模様となった。夕焼けが山稜の向こう側に沈む頃、筆者の乗った「和諧号」は武漢駅に一分も遅れずに到着した。
 ここも田畑のまんなかにできた新駅だった。
 武漢のど真ん中の武昌まで一時間十五分ほど。漢口まで五十分(いずれもタクシーで)。ひたすら遠い。蛇足ながら漢陽駅は廃屋になっていた(漢口、漢陽、武昌の所謂「武漢三鎮」が合併して武漢市となった)。
 武漢コロナの発生といわれた海鮮市場は、この市内のど真ん中に近い場所にある。

 ▲日本のように「借景」の発想がない中国。高級ホテル周辺は貧民街だった

 かくして広州─武漢三時間強と言っても、実質的には倍の六時間を要するから旧在来線よりちょっぴり速いくらいだ。ただし日本の新幹線同様に開業と同時に在来線は巧妙に減便もしくは長沙など途中駅間の快速を乗り継ぐしか残っていないが。
 武漢新駅で雨の中、タクシーの列に十五分ほど並び市内へ向かったが、羽田から池袋ほどの距離をハイウェイと使わずに下の道路を走ったと想像して頂きたい。ようやく漢口駅に立ち寄り翌日の南京行き切符を買った。長蛇の列とはいえ番が来るまでに三十分もかからなかった。横からはいる行儀の悪いのがいなくなった所為だろう。

 武漢に何時に着くかの見当が付かなかったので宿泊先を決めていなかった。
 「ええい、ままよ」と名前を知っているシャングリラホテルへ行くが満室だった。この頃からハイテク企業の出張族が多くなっていたのだ。武漢には日本企業が160社進出している。それも自動車部品と半導体などハイテク関連である。
 満室と聞いて、仕方なくビュッフェで遅い夕食を摂っているとホテルの職員が近くのホテルの情報を持ってくる。「598元でシングルがひとつだけ空いているが、予約するか」と親切にも教えて呉れる。こんなサービルの良さ、中国では初めての体験、いやシャングリラホテルの常連客と勘違いされたからだろう。

 それにしても武漢で600元近いホテル代は高いと思うが、夜も遅いし、疲れていたので、雨の中を遠くに移動も面倒、それにした。
 翌朝、高雄ホテル(台湾資本)で目覚め、窓をあけて驚いた。真ん前は貧民屈ではないか。日本のように「借景」の発想がない中国では高級ホテル周辺が汚泥地であれ貧民街であれ構わないという「美意識」を改めて認識した。
  さて、次なる南京へ向かう新幹線は夕方の便しかとれず、ゆっくりホテルでおきあがり、それからタクシーをひろって四カ所ほど名所旧跡巡り、そのまま漢口駅へ。到着駅と出発駅がまた違う。こうなると中国における新幹線旅行の三種の神器は「時刻表」「ガイドブック」「鉄道地図」となる。とくに前者の時刻表は日本で入手が困難、中国でも注意深く書店を回らないとまず買えない。
 技術が格段に進んでいるほか、営業キロが電光石火のように短時日で延長されており、最新のデータがつねに必要である。
 中国語版の『和諧之旅』、『旅伴』など新潮社の『旅』に似たカラー雑誌も数種あって情報が満載されているため必需品だが、これらは新幹線の座席でしか入手できない媒体である。
「持ち帰り自由」と書いてあるが、厚紙で重く、帰りの土産にする人はいない。
      
   ♪
(読者の声1)貴誌連載中の「暴走老人 西へ」がめちゃくちゃ面白くて、海南島の篇まで拝読しております。
 先生の書いたもの読んでいるとあっという間に時間が過ぎて仕事に戻れません(苦笑)。           (JM子、豊島区)
 


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月19日(金曜日)
       通巻第6543号  <前日発行>   
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~欧米のチャイナタウンも壊滅状態になっていた
  三年かかって回復できるか、地主なら店ごと売り払うか
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 ロンドンのピカデリーサーカス駅とレスター広場の間に拡がるのがチャイナタウン。およそ700店舗。横浜中華街並みの広さ、おおかたが中華料理レストランである。ロンドンの観光名物でもあり、昼飯時には近くのサラリーマンもランチをつまみに来た

 とくに観光シーズンともなると座れないレストランが多く、じっさいに筆者もこの町には三回ほど行っているが、どの店もごった返していた。そんなときはグループ客を取らない、中心から外れた店を選んだ。

 コロナ禍が襲った。旧正月から客足が激減し、非常事態宣言前に80%の減少と言われた。英国が3月23日に非常事態宣言を出してロンドンが都市閉鎖となるや、人通りが絶えた。まるでゴーストタウンとなって、英国に移住してきた夥しい中国人が悲鳴を挙げた。テイクアウトの店は数軒だが、売り上げも多寡が知れていた。

 町は朱色のアーケード、街灯にはランタンがぶら下がり、何カ所かにブルースリーの銅像、壁の落書きも中国の武道家が多く、観光スポットとして客を引きつけたものだった。

 ちなみに全米に展開されているチャイナタウンも同様な被害に遭遇している。
一番大きい規模はNYだが、もっとも古いのはサンフランシスコの金融街に隣接するチャイナタウンだ。
 ここには150店舗の中華料理レストランがあるが、80店舗は閉鎖されたまま。九月始業式になっても、留学生が戻る可能性は低く、母国で発生したコロナ災禍が、まさか海を渡って移住先にまで襲ってくるとは。
      
集中連載「早朝特急」(8) 
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 第一部「暴走老人 西へ」(8)   第八章 海南島へ

  ▼この島は、むかしの流刑地、いまや南海艦隊の拠点にして潜水艦基地

 海南島の南端に拓ける三亜へ飛んだ。中国共産党が「中国のハワイ」と喧伝しているが、昔の流刑地である。
 防衛関係者にとって海南島が意味するのは中国海軍の潜水艦基地であり、地政学的な要衝である。2001年四月には米軍偵察機の強制着陸事件の現場ともなった。
戦前、日本軍は海南島に巨大レーダーサイトを山のてっぺんに建設し、島の西側に鉄道線を敷設した。いまも、この路線にはSLが走っている。しかも、その蒸気機関車は当時の日本製だ。新幹線が開通するはるか前にことだが、このSLを撮影した。町中を、カメラをさげて歩いていると軍人が注意する。
「カメラをバッグにしまえ」と居丈高。顔をのぞき込むとニキビ面、十八くらいだった。
「なぜ?」。
軍人は無言。あとで分かったのだが、この町は軍事機密に属する施設が多いのだ。

海南島のやや南の山の麓までバスで行ったことがある。
ピンクの椅子をならべてのオープンカフェがあった。中国の装飾は朱と黄色、緑は好まれないが、ピンクというのは珍しい。リゾート色である。キーウェスト当たりではタクシーもピンクだ。日本では往時カップル専用のホテルの装飾だった。
中国人は欧州人と同様に緑を好まない。欧州では緑は森を意味し、ロビンフッドの象徴、つまり山賊、匪賊たちの住み家である。中国で「緑林」とは盗賊の意味である。「緑林白波」は兇漢な匪賊集団のような意味である。革命集団となった匪賊は紅巾、もしくは黄巾の乱とよばれ、古代から緑の鉢巻きを使わない。都知事が聞いたらびっくりするだろうなぁ。

麓の町には某某賓館しか、ましなホテルはなく、そこへ泊まると幽霊屋敷のようで、広い食堂に客は筆者一人だった。
山菜料理くらいしか、まともなメニューもなく、従業員は閑を弄び、あくびをかみ殺しながらも、じっと客を観察している。食後、付近の屋台でビールを飲もうと外へ出たが、街灯のない闇。店はすべてシャッターを下ろし、漆黒の夜に沈んでいた。
ようやく屋台をみつけ、冷えていないビールと聞いたことのない銘柄のタバコを買って部屋へ戻る。騒音のない、静かすぎる環境だった。メモを取らないまま疲れていたので熟睡できた。
翌朝、チェックアウトのときに別棟からアベックがでてきた。若い軍人と情婦のような組み合わせ、そこで気がついたのである。このホテルは軍人専用、どうやら軍の経営らしいことに。
午前七時前に、この麓の町は活気づき、朝飯の粥をだす屋台が数軒、バス乗り場まで歩いたが、なぜか、町に子供の姿がない。雑貨やとか粗末な玩具やゲームを売る店がない。
七時半ごろのバスで山を下りて、三亜へ戻る。沿線風景は典型の田んぼ、農家、牛馬に時代遅れの耕耘機。猫背の老人農夫がとぼとぼと歩いている風景があった。

▲「東洋のハワイ」と言っても観光インフラはお粗末

 「東洋のハワイ」という海南島へ十五年ほど前に最初に行った目的は、北側の海口にホンダのバイクの偽物工場があったからで、その取材だった。思い出した。当時、海南島はアライバルビザがとれた。ほかにアライバルビザは、厦門だけだった(それも行ける地域は限定されていて厦門周辺に限定された)が、海南島でのヴィザは「全土どこへでも1ヶ月以内ならも可能」というスグレモノで、飛行場でたしか25ドルだった。海南島の観光に力を入れるため、特典を用意して、「海南島へいらっしゃい」のキャンペーンを開始した頃だった。

 数年の時間的間隔を置いて、再訪すれば、ぼつぼつと別荘も建っていた時代と比べると、驚いたの、なんの。ドバイの七つ星ホテルに似た海豚のかたちの豪華リゾートホテルを高台の海側に、いきなり四つも建てた。2020年六月の中国の発表では、海南島に免税特区を造成するとか。
 着陸時に三亜の街全体を俯瞰したが(こりゃ、ラスベガスとマイアミを足したような、中国最大のリゾートじゃ)、なるほど島を南北に縦断するルートで、新幹線を無理矢理造成した理由がわかるような気がした。途中の東海岸にはボーアオという有名な保養地が整備されており、ここで毎年「ボーアオ会議」が開催さ、中国要人と外国からの賓客がスピーチをする。日本からの常連は福田康夫元首相らである。

 三亜にも、砂や風に耐えるリゾートマンションと豪華ホテルが林立し、会員制の豪華クラブまでそこら中に。それこそシャングリラ、シェラトン、ホリディイン、マリオット、マンダリン、ヒルトン、ウェスチン。。。。ないのはJALとANAのホテルくらいだ。
 海水浴客でごった返す三亜の旧市内の繁華街も中国版のハワイそのものだ。
しかしながら土産屋、エンタメなどのインフラがととのわず、とくに観光客用の洒落たバー、サパークラブ、南国風の雰囲気たっぷりのレストランは貧弱。だが客の九十五パーセントは中国人だから、ま、いいか。
 リゾートも数万軒は建てたのだろう、数年前から売れ残りダンピングを始めている。不動産屋の前にたって物件のビラを眺めていると店員が飛び出してくる。客のいない証拠である。

 ▲中国の若者達は日本人と同じく倫理観を失っている

 というわけで中国各地では駅前に新設のビジネスホテル(一泊200元以下だった)に泊まり歩くことが多いのだが、三亜だけはそうはいかず市内中央のビジネスホテル兼リゾートホテルに飛び込んだ。
シーズンにちょっと早いせいか350元だった。筆者にとって予算的には高いが、スイートルーム付きの部屋しか空いてなかった。ホテルのショップには安物のアロハシャツや海水着、ゴーグルなどが並んでいた。ビーチサンダルは、なぜか、仲の悪いベトナム製だった。
 このホテルの受付には派手な半袖の若者達のカップルが犇めき、値段の交渉をしている。訊くと大学の同級生同士、アベック同士の二人組。女子学生はなかなかの美人。なるほど中国にもこういう手合いが増えていることが如実に分かる。最新の風俗と倫理観の欠如は日本とあまり変わらない。
 夕食は海岸沿いをデジカメ片手にそぞろ歩き、まず日本人は敬遠する清潔とは無縁の屋台でビールと現地料理を食べた。食堂は一家の経営で高校生の娘が、しきりと話しかけてくる。日本人がよほど珍しいらしい。ともかく海南島は移住者ばかりだから、広東語ではなく北京語が通じるのである。
 経営者の奥さんは「ここは一月から三月がピーク。夏も海水浴でにぎわうけど春秋はさっぱりね」と言った。屋台のまわりの卓は現地の人たちが強い酒を飲みながら博打をしていた。マオタイではなく安物の白酒だから強い臭いで分かるのだ。

 翌朝、バスで三亜の新駅に向かう。雨がぱらつきはじめた。新幹線駅はアーチ型の奇をてらう建物だった。なにしろ遠い。旧市内から優に一時間。飛行場と同じ距離ではないか。バス運賃は四元だったが。
 さて海南島の南北を結んだ新幹線だ。
新装ぴかぴかの三亜駅で海南島の北の入り口、海口までの新幹線の切符を買った。ここでは十分も待たないで買えた。自動販売機は外国人のパスポートを読める機械が内蔵されていないため窓口に並ばざるを得ない。
 ようやく三亜から海口へ海南島を縦断する新幹線に乗ることができた。乗車率は半分程度、その半分が家族ずれの行楽客である。
 前の旅では逆コースで海口から長距離バスで三亜まで七時間かかった。新幹線、一時間三十六分、一等、105元。各駅停車は二時間七分。ところが一等は114元と、いってみれば「こだま」の料金が「ひかり」より9元高い。日本とあべこべである。
 島の海岸部からすこし山側を突っ走るのでトンネルが多く景観を楽しむことがなかった。途中から雷雨、車窓どころではなくなった。
 海口の新幹線駅(海口東)から市内まで、これまた四十分ほど。タクシーではなくバスを選んでゆったりと市内の景色をみた。時間の余裕があったからだ。海口には改めて泊まる気も起こらず、成都へ行く飛行機を探した。
 22時出発の便に空席があった。
飛行場では時間つぶしのため足裏マッサージを受けた。意外と丁寧で按摩もうまい。日本人ツアーなら当時2200円ほどぼられたはずだが、ここでは500円だった。
深夜の飛行機で成都へもどり、ホテル着は午前二時というのに成都市内は殷賑を究めていた。ドイツ企業の進出がおびただしくなった所為か、ケンピンスキーなどの五つ星ホテルも軒を競うようになっていた。成都のど真ん中にはイトー・ヨーカ堂が多くの客を集めていた時代である。

   ♪
(読者の声1)三島由紀夫研究会も6月から正常の活動体制に復帰いたしました。
その第一弾として来る6月25日(木)に北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の前事務局長をされていた増元照明氏による拉致問題特別講演会を開催します。
御期待ください。
時あたかも北朝鮮による拉致被害者漢族連絡会の代表をされていた横田滋氏が6月5日にご逝去されました(享年87)。
心よりご冥福をお祈りします。合掌。憲法第9条を戴く平和国家日本は、他国に領土を奪われようが、また同胞が拉致誘拐されようが、国家は何もしてくれません。増元照明氏のテーマである「拉致被害者の救出なくして日本は国家といえるのか」は正に最愛の肉親を奪われた者の血の叫びであります。
6月25日は昭和25年ソ連と中国の支援を受けた北朝鮮が韓国に侵略戦争を仕掛けた朝鮮戦争勃発70年目の記念日でもあります。拉致問題と朝鮮半島問題を考える機会にしたいと存じます。
            記
日時  6月25日(木)18時開演 (17時半開場)
会場  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  増元 照明氏(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会前事務局長)
演題 「拉致被害者の救出なくして日本は国家といえるのか」
講師略歴 昭和30年生れ。鹿児島市出身。北海道大学水産学部卒。水産会社勤務を経て家族連絡会事務局長等を歴任。増元るみ子さん実弟。
会費  会員・学生1千円(一般2千円)

 尚、今回は従来より開会を30分早めて18時開演とします。終了は19時半目途です。
今回はいつもよりも広い会場を用意し、参加者が十分な間隔をとって座れるように配慮しますが、参加者の方は是非マスクを着用されますことお願いいたします。
  (三島由紀夫研究会)


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月18日(木曜日)弐
       通巻第6542号    
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~米国、ウクライナ軍事支援を再開
  バイデンのスキャンダルで凍結されてきた武器、六千万ドル
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 6月15日、ウクライナ・スキャンダルによって凍結されてきた米国の軍事支援物資など六千万ドル分がキエフに到着した(ウクライナの英語読みはユークレイン)。
米国は、ウクライナ東部でソ連軍の偽装部隊と戦っているウクライナ正規軍を支援してきた。今回の供与物資は主に通信機材、弾薬の補給、そして対戦車ミサイルである。とくにサイバー攻撃に脆弱なウクライナ軍にとって最新鋭の通信機器が必要だった。

 凍結されてきた理由は、ヤヌコビッチ元大統領の国外逃亡から、ポロシェンコ(チョコレート屋の社長)政権のジグザグという政治的混乱に乗じて、バイデン元副大統領(民主党)は、息子のハンターに面妖な財団を設立させ、ウクライナ利権を漁ったことなど、前進できる要素が少なかったからだ。

このため米国は軍事支援分の四千万ドル分を凍結した。これを、民主党はさかさまに活用し、ウクライナ・スキャンダルをトランプの弾劾に結びつけようとした。問題の大規模なすり替えである。
でっち上げに怒ったトランプは、バイデン一派の陰謀に対応し、大統領弾劾はむろん議会で成立せず、民主党はそそくさと、この企みを仕舞い込んで、嵐が過ぎるのを待っていた。
人口が五千万人近いウクライナ政治は、ソ連から独立後も堕落、腐敗の典型で国民は投げやりとなっていた。
前回の大統領選挙では喜劇俳優のゼレンスキーが大統領に当選するというドタバタ劇の最中。ところが、この喜劇俳優、政治に目覚め、ウクライナ国益を求めて政治のやり直しを始めた。このため、西側が再評価を始めている。
      
集中連載「早朝特急」(7) <この連載は毎回10枚前後 80回ほど続きます
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 第一部「暴走老人 西へ」(7)   第七章 広州から華南へ南西へ

  ▼あの事故から九年の歳月が流れたが安全性は向上したのか?

 世界に衝撃をあたえた中国新幹線事故(2011年7月、温州近郊)の後も、筆者はひたすら全線踏破のためにどこそこ区間開業ときけば、そこへ飛んで新幹線に乗り続けた。
 「さあ、これで全部乗った」と思いきや、またも次の新線が開通しているので、まったく際限がないのである。
この原稿を書いている2020年六月時点で営業キロは25000キロだが、中国新幹線はあと6000キロを増設のため建設中だ。
要するに小生が目の黒いうちに「全線踏破」という目的は達成できそうにない。

さて珠海ー広州に繋がる新幹線に乗るため旧ポルトガル領のマカオへ入った。香港からフェリーで一時間。三年ぶりのマカオは繁栄の最中、どえらい高層ホテルが林立しているが、これすべてが二十四時間不夜城のカジノである。 
 マカオのギャング団は返還直前の1996年まで血で血を洗う凄まじい抗争を繰り広げ、真昼からピストルを撃ち合い、ダイナマイトを投げ合った。99年12月、マカオ返還とともに中国人民解放軍が進駐するにおよんで、しばし沈静化してきた。
 1999年までマカオのカジノと言えば、先月98歳で大往生を遂げたスタンレー・ホー(何鴻栄)一族の独占、リスボア・ホテルしかなかった。
2002年に新築カジノの入札が行われ、外国資本の参入が認められ、爾後のマカオは世界一の博打場になった。24時間、きらびやかなネオンが輝き、町は不夜城。ホテル内のカジノでははてしなく勝負が続き、チップが飛び交い、小銭をもうけるとロシアから出稼ぎに来ている美女を買うか、女性ならアーケートに並ぶプラダとかグッチの店へ飛び込んで買い物。負けると近くに林立する「押(質屋)」へ宝石やらバックをもって飛び込み、続きをやる。

 ちびちび賭ける人たちは食堂で朝までトランプ、一夜があけると大半はすごすごとホテルからの無料バスで中国の国境・珠海へ向かう。「虚栄の市」などという比喩は生やさしく、カネのためには生命を賭けるちんぴら、殺し屋もうごめく。
 このように稀有のカネが唸る場所を中国共産党が手離す筈がないだろう。
 江沢民派、団派、太子党入り乱れての利権獲得戦争が花開いた。しかし広東はもともとギャング、青幇、紅幇、マフィアの「三合会」、「洪門会」の本場。「14k」や「新義安」などが集結する香港の古巣へ戻ったか、マフィアの本場=広東省の地下へ潜った。

 これらマフィアは清朝末期、漢族の栄光を回復せよとして出来た秘密結社が母体で、そのご国共合作、内戦の間にも党派闘争を繰り返し先鋭的になった。
 現在の広東マフィアは14K,新義安、和勝和などが有名である。殺人、麻薬、売春、恐喝、高利貸しなんでもありの世界。これらを総称して「トライアド」(三合会)という。香港だけで57団体が確認されており、その凶暴性は日本のやくざを遙かに超えて、イタリアのマフィアもびっくり。そのうえ、日本に進出してきたから、札幌すすきのはチャイナタウン化し、新宿歌舞伎町は「華武器町」となった。後者はそのうえ、コロナの集団感染でまた悪名が高まった。

 ▲コロナ発生前まで年間2800万人の博徒が中国からやって来た

 一方、中国政府はマカオの「安全」「安定」を強くのぞんでおり、なぜなら民衆の不満のガス抜きのために絶対に博打場は必要な上、高官らにとってはマカオ出張でギャンブルに勝つと(たいがいは意図的に勝たされることになっているのだが)、なぜか「領収証」をもらえる。つまり合法の賄賂受け取りとなり、この利便性を失いたくないという思惑も働いている。
 マカオは香港と同じく「一国二制度」の特別行政区。マカオ憲法は全人代できめた間接選挙で、もちろん行政長官は北京寄りとなる。
これが経済繁栄の裏側の実態である。
 博打好きの中国人が大陸から陸続とカネをもってマカオへやってきた(コロナ発生前まで、じつに年間2800万人)。ホテルも土産屋も飲食店もほくほく顔。タクシーもえらく高い料金ゆえに不平を漏らす客が多い。
 マカオのタイパ島にはラスベガスの御三家、MGMもウィンもサンズも並んでいる。博徒は賭場を「はしご」する。「あすこの店は(玉が)出る」と噂を訊いて違うパチンコ店に駆けつける心理と似ている。マカオ全体が競合市場だ。
 ポルトガル植民地の遺風がのこる観光拠点も多いが、些末なことで幾つか驚きがあった。日本語のガイドブックにも出ているレストランなど、食事に行くと若い女性がワンサカ、案内書片手に名物を食しているので、てっきり日本人と思ったら韓国人だった。
 香港でも同じ現象。つまり日本人がいなくなった分を韓国からの観光客が埋めている。彼女らは日本語をそのままハングル訳したガイドブックを持参しているから日本人と同じ名物を買い、おなじレストランへ行くのである。
 店に入っても「コリアン?」と訊かれる。ただし韓国の女性は中国人女性と同じく、たばこを吸わない(少なくとも男性の前で)。日本の若い女たちより洗練されているように感じたのは錯覚かな?
 マカオの激変ぶりに感心しながら国門にいきつく。ここで出国手続きをして、国境をあるいて渡り、広東省へ入国した。機械化がすすみ出入國手続きがたった五分で終わる。以前は一時間かかったから劇的なほどの変わり様だった。居住民はIDカードだけで、地下鉄の改札機のように、読み取り機に触れるとさっとゲートが開く。

 ▲時刻表は何処を探しても売っていない。だから駅でまごつくことが多い。

 広州へのゲート=珠海市内に入っても国境から新幹線の駅まではタクシーで四十分かかる。これも不便きわまりないが、いまはバスが海底トンネルを超えるルートができた。
 タクシーは1100円。タクシーの安い中国では異例の高額。なにしろ新幹線料金は36元は日本円で460円ですからね。
 そうしたアクセスの悪さを嘆いていては中国で新幹線には乗れない。事故も恐れては乗る気にもなれないだろう。2011年8月31日にも四川省達州発成都行きの高速鉄道が遂寧駅の付近で突如停車し、煙を上げる事故があった。現地のメディアによれば乗客がパニックに陥ったという。そのまま列車は動かず、後続がとまって大混乱になった。
 この事故があった成都─達州間はCHR旧型車両が投入されており、最高時速250キロと謳われたのだが、温州事故以後、160キロで走行していた(筆者が成都から乗った区間である)。

 さて珠海北駅へ着いてホームに入ってきた新幹線車両に「えっ」と声を上げた。
 まさにCHR旧型。ボンバルディア製だからスピードはでない。緩慢な速度と聞いて、かえって安心感があった。
 珠海(北)ー広州(南)の新幹線は二等が44元だった。百キロ弱という短距離なのに外国人はパスポート提示。中国人は実名記入というテロ対策は変わらない。同様な措置が各地で措られ、時刻表は頻度はげしく、しかも大幅に改編されるにもかかわらず何処を探しても時刻表を売っていない。だから駅でまごつくことが多い。

 同ルートは100キロ弱の距離を50分ほどで走行し、途中に七つも八つも駅がある(筆者の乗った日の最高速度は195キロだった)。各駅停車。あたかも華南の通勤列車のごとくで乗降客が凄い。駅はすべて新駅、まわりは荒れ地だ。
 沿線は新開地、農地、養鰻場等もあるが、新しい団地に引っ越しの気配がない。椰子の木は南国特有の風景だ。水郷、こんもりとした緑をみると安堵する。湿地帯をぬけると山稜を削って赤土が剥き出しの地区がある。ぼつんと新築工場があった。

 広州南駅へ着いてから、ここでまた五つほどの衝撃があった。
 この駅からは武漢と珠海しか繋がっていないが、いずれ広州ー深センー香港と広州ーアモイが繋がる。そのため四本の別のプラットフォームがさきに完成していた。
 第一の衝撃は、その前年夏に来たとき、まだ未完成だった地下鉄が広州南駅に乗り入れていた。工事の迅速なること!
 第二に広州で筆者の定宿「花園ホテル」の地下にも地下鉄の新駅が出来ていたことである。それを知らなかったから途中の駅でおりて歩いた。事前に知っていたら地下鉄を乗り換えて広州南駅からホテルまで行けたのだ。
 
 ▲広州は人が多すぎる、物資が溢れすぎる

 第三の衝撃は広州市内ではタクシーがまったくつかまらないこと。ホテルで一時間まってもタクシーは来ない。盛り場でも乗換駅でも同じ。かのバブル時代の銀座・赤坂に酷似している。このため市内へでるにしても、毎日、地下鉄とバスを乗り継ぐ仕儀とあいなり、滞在中、ただの一度もタクシーに乗らなかった(というより乗れなかった)。
 第四にホテルのレストランが超満員、予約しないと食事も出来ない。この信じられない繁栄はいったい何だろう?
 そこで広州をそそくさと切り上げ、一部のアポは電話で用事を片付け、香港へ向かう予定に切り替えた。Uターンである。
 幸いにもホテルから広州東駅まで無料の送迎バスがある。
 
広州東ー香港間の鉄道は既存ルートだけでも二つあって第一は広州東から深せんまでの新幹線「和諧号」。これは十分ごとに発車していて香港との国境まで行く。便利この上ない。したがって常に超満員である。
 第五の衝撃。広州東駅は新改装増設されていたが、一階が長距離列車と新幹線が棲み分け、二階が国際列車だ。これが香港への直通便。駅に着いて40分も余裕があれば次の列車に乗れると考えたのが甘かった。次の列車は満員のため三時間待ちで「次の次」と言われる。咄嗟に一階へ下りて新幹線の列に並ぼうとして軽いめまい。切符売り場までに500メートルの長い列があるではないか! しかも三重四重の列だ。
 しかたなく二階の切符売り場へ戻り、香港への直通特急列車を待つことにした。空腹でもないのに早めの昼飯を取った。広州東駅から香港への線路に沿って新・新幹線ルートを併設するのも、こうした満員状況の緩和を計ろうというわけだ。
 2020年現在、広州東ー香港ホンハム駅の131キロは一時間で結ばれている。最高時速350キロを出す。香港に関しては、すでに『チャイナチ』(徳間書店)に詳細を書いたので、ご興味の向きは拙著を参照していただきたい。次稿は海南島へ話が飛ぶ。
      
   ♪
(読者の声1)貴誌で唐突にはじまった連載「早朝特急」ですが、毎号愉しみに拝読しております。私など日本のなかでも行っていないところがたくさんあるのに、中国の隅々を新幹線乗り尽くしの旅などとは、まさに「暴走老人」ですね!
 ところで、連載は80回ほど続くと予告されていますが単行本になりますか?
   (FH子、福井)


(宮崎正弘のコメント)具体的なことは何も決まっていません。キンドル版となるかも知れませんし、もし具体化すれば、本欄で告知します。


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月18日(木曜日)
       通巻第6541号 <前日発行>      
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ファーウェイ、制裁開始の5月15日前に駆け込み、売り逃げを果たし
  TSMCへ7億ドル発注を停止、1ランク下の半導体をSMICへ切り替え
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 5月15日は米国が設定したファーウェイなどへの半導体供給猶予期限だった。以後はアメリカ製品の25%以上の部品を使用した製品の中国へ輸出は制裁対象となった。

 制裁開始前までのデータが判明した。
 駆け込みの売り逃げ<?>。ファーウェイは四月に世界スマホシェアの21%にあたる6937万台を売却した。中国国内ではシャアの44%を占めるに到った。

 制裁発動は、もちろん米国のインテル、クアルコムにも甚大な被害が及ぶが、台湾と韓国の半導体メーカーは、路線を切り替えざるをえなくなり、現にTSMCはアリゾナ州で新工場を建て。
ホンハイ(鴻海精密)は米国ウィスコンシン州に研究所と工場を建設中だ。
 サムスンはインドでの販売を期待していたが、コロナ災禍の凶悪化によって、インドの売り上げは96%マイナスだった。

 他方、ファーウェイは、TSMCに発注内定だった7億ドルにも及ぶ半導体をキャンセルし、中国のSMICに切り替えた。これまでTSMCの売り上げの14%がファーウェイ向けだった。

 このためTMSCは、台湾国内の新竹、台南工場での増産と中断し、従来の顧客用の半導体生産を続けているという。TMSCの米国工場は、同社がF35仕様の精密な軍スペックの半導体を台湾工場で生産しようとしていたから、米国が警告していた。

     
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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~イコノロジー(図像解釈学)で古代中国美術を説いた
安土城はフランスの聖ミカエルの、モン・サン=ミシェルの建築思想に似ている?

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杉原たく哉著、武田雅哉・監修『アジア図像探検』(集広舎)
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 著者の杉原氏は古代中国美術専攻で、『いま見ても新しい古代中国の造形』などの作品がある。本書は、四年前に急死した氏の遺作とも言える労作であり図鑑的である。これは図像論(イコノロジー)というべきか。
 杉原氏は四川省成都の北にある古代遺跡「三星堆遺跡」に関する著作もあり、この遺蹟からは長江文明に属する古代の遺物が多数出土し、本格的発掘作業のあと、現場に巨大ミュージアムが建てられた。じつは評者(宮崎)も十数年前に、この博物館を見学に行ったことがある。当時、ガイドブックには載っていないので成都でガイドを雇い、車をチャーターしての見学だったが、半日かかりだった。夕食は成都へ戻って名物の「麻婆豆腐」の本店に行った。(「名物にうまいものなし」の典型だったが、これは余計な話)。
 三星堆博物館の場所は四川省徳陽市広漢市。
 紀元前2000年頃の三星堆遺跡は、その後の研究によって、およそ5000年前から3000年前に栄えた「古蜀文化」を代表する遺蹟と考えられる。わが縄文時代に土偶や火焔土器の文化が花開いていたと同時期にあたる。

 直感的にいって、縄文の奥ゆかしい造型に比べると、三星堆の造型は不気味なのである。図柄は図々しく、大振りな構図である。美というより醜悪であり、奇怪である。
同ミュージアムの展示室にはジオラマの太陽信仰の宗教的祭壇の想像模型。ガラスケースに夥しく出土したものが飾られているが、なかでも「青銅人頭像」、「青銅人仮面 」。とくに「青銅戴冠縦目仮面」は長大な額飾りをもつ異形の神の仮面である。売店にミニチュアを販売していたので、もちろん購った。
ほかに「青銅大鳥頭 」、「青銅人大立身像」(この模型も買った)、「青銅太?? 」など圧巻、時間を忘れて観賞したことを思い出した。
さて本書は図像に集中し、中国に限らず古今東西、あちこちの芸術的な、宗教的な図荘をあつめて、それをユニークに解説したものだ。毛沢東と秦始皇帝は似ている、諸葛孔明の三国志演義では、なぜか曹操が悪役に割り振られている等々。
評者(宮崎)個人的には信長に安土城建設を吹き込んだのはイエズス会であり、フロイスが信長と岐阜城において三時間の密談を行い、モン・サン=ミッシェルの突こつたる頂点が天使の象徴であると教唆し、その助言を入れた信長が比叡山の東正面、京も近い場所を選んで建築したのだという杉原氏の解説箇所に特別の関心を抱いた。

常識に照らすとあり得ないユニークな解釈をしている。本書の94ページから103ページにかけての「権力と美術」の節である。
この独創的解釈は、歴史文献の照合がない、図像からの想像であるのだが、やけに興味が深まるのである。
宣教師フロイスは記録をのこす名人だった。我田引水が多い。しかし天皇の詔が切支丹伴天連の追放を発布して危機的状況にあったイエズス会を救い、布教を認めたのは信長であり、フロイスが信長を好意的に書く一方で、明智光秀を陰謀家、策士、密会を好むなどと悪罵を書き残したのも、光秀がイエズス会の日本侵略の野望を見透かしていたからだ。そのことは拙著『明智光秀 五百年の孤独』に詳述したので、ここでは繰り返さない。
杉原氏はこう書いた。
「モン・サン=ミシュルは聖ミカエルの山という意味」で、「悪魔や悪龍と戦い撃退するたのもしき戦闘神、守護神」であったがゆえに、古代イスラエルやキリスト教の守護神ともなった。
だから日本にやってきたザビエルは日本の守護神に聖ミカエルをあてることに決め、ミカエルが悪魔を退治する絵図をひそかに運び込んだ。長崎、天草あたりに潜んだ隠れキリシタンはこれを礼拝していた。
織田信長は、自らを日本の守護神と錯覚し、聖ミカエル日本版の象徴として、山頂に天守閣を聳えさせた。まさに安土城はモン・サン=ミシェルの建築思想と同一軌道だと著者が強調する。
補完的に聖ミカエルが、モン・サン=ミシェルの上空で悪魔の怪鳥を退治している図像を用い、仏蘭西と仏蘭西国王の守護神でもあったと語る。イエズス会がポルトガル人主体の軍事組織でありながらも騎士団的であり、フランス的である要素は、この宗教画に描かれているとする。
その図像をつくつくと眺めたが、はじめて見た宗教画であった。

     
集中連載「早朝特急」(6) <この連載は毎回10枚前後 80回ほど続きます
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 第一部「暴走老人 西へ」(6)   第六章 江西省の南昌、九江へ

 ▼廬山会議ののぼり口、九江は水滸伝の舞台でもある

 江西省へ足を伸ばした。
 この地方の山岳地帯はレアアースの産地として知られるが、鉱山技術というより強い薬品を岩盤に流し込む乱暴で粗雑なやり方なので地下水が汚染され、深刻な公害問題が惹起されていた。
 現場を詳しく観察したが、いやはや驚くことの連続、内陸部開発の頭でっかち。実質ともなわず、ゴーストタウンの徴候があちこちに出現していた。
 九つの河が合流するといわれ海運交通の要衝が九江。三国志でも九江を先に奪うかどうかが軍事作戦の要諦だった。
 この九江は廬山への登山ルートの入り口である。廬山は「中国の軽井沢」と言われ、別荘地には嘗て蒋介石の豪邸もあった。共産党史では「廬山会議」の場所として刻印されている。
 『水許伝』の荒くれ無法者があつまって酒宴を開いた場所の一つがも九江だった。鎖江楼、寿陽楼などが残り、水許伝の主人公のひとり孫江が酌み交わしたという酒壺が飾ってある。記念にと筆者も壷に触れてみた(どのみち、ニセモノに決まっているが土産話である)。

 九江は呉魏蜀の三国志時代、拠点争奪戦が演じられ、古代から開けた街である。現在、旧市内の人口は65万余。九の意味は厳密に九つの河の集合ではなく、多くの河川が流れ込むという意味である。
 九江周辺は長江に沿って幾つもの水郷、運河、中国最大の湖=番陽湖(琵琶湖の六・二倍)と幾多の湖沼、そして支流の河川。水が豊かだが、溢れることが多く、毎年のように洪水に見舞われる。だから九江には洪水回避祈願の祠が無数にある。
 市内と新幹線駅は意外に近い。
 この新幹線開通は九江の経済にかなり重大な影響を与えたようだ。江西省の省都は南昌であり、経済力で逆立ちしても勝てなかったのだが、絶好の地位挽回チャンスが巡ってきたからだ。
 取材当時、武漢ー九江と南昌ー武漢は従来線だけだったが、なぜ内陸の寒村をつなぐ九江ー南昌間にさきに新幹線を開通させたか? あたりをじっくり見学して理由がわかった。これは胡錦涛執行部の執念に繋がるのだ。

 ▲「財源は?」と聞くと、「また土地を売れば良い」。
 
 九江に物流、運搬のほか、これという産業はないが、古都ゆえに流通が発達し、地元人民政府は沿岸部の経済繁栄をまねて市街地を大幅に開発し、番陽湖畔に五つ星ホテル、中州にはフィンランドが投資する工業団地とリゾートを建設した。現場に建つと壮観である。インフラ整備だけで80億元の予算がついた。
 官の投資も巨額だが、加えて民間では外国企業や国内外、とりわけ華僑ファンドが投資している。この点はユニークである。
 九江の新開発地区(八里新区)の周辺に新しい大学、病院、保育園、ケアセンター、体育館、文化センターなど総合的な新都心の建設が進んでいた。邦貨換算で数百億円を投下し、七つほどスポーツ施設が完成した。五年以内に「三百万都市になる」と豪語しているので、「その予算はどうやって捻出しているのか?」と市幹部に尋ねると「付近の土地を開発業者に売ったので心配はない」と想像を絶する回答があった。
 地方政府が企図し、銀行が貸し出し「開発公社」が基盤となる遣り方である。この開発公社への焦げ付きは時間の問題だが最終的にだれも責任を取らないだろう。2020年六月現在で、このような地方政府の負債は邦貨換算840兆円にのぼるが、誰も気にしていない。想像を絶する凄い神経だ(ちなみに同時点での中国新幹線の累積赤字は82兆円に達している)。

 中国全土どこでも、ガラ空きの工業団地がある。
 インフラは整備したものの交通アクセス、電力、労働力の関係で進出企業がない新興地区がおよそ七千ある。幽霊屋敷のようなショッピング街、まったく住民がいない団地がある。
 鳴り物入りの新都心が崩壊の危機にある理由は、第一に沿岸部からの進出企業が少ない。
第二に大学が周辺にすくないため、優秀なエンジニアの確保が難しい。たとえ行政が新都心に移転しても産業誘致がなければ雇用が生まれず、結局は内蒙古省オルドス市康巴士区(百万人の幽霊都市をつくって世界に悪名を轟かせた)に代表されるように巨大なゴーストタウンがぽつんと誕生するだけのことになる。
 九江とて発展繁栄への確実な勝算があるわけでもなく、とりあえずは土建プロジェクト先行となる。
ところが現場に立つと誰もが知覚できるが、八里新区にはやくもバブル崩壊の徴候があった。付近のマンション群を見渡せば洗濯物が出ておらず、工場は煙が見えず、殆どががらんどう。入居者が極端にすくない。周りの商店街はシャッター通り。もちろん消費者が不在だからだ。
これでは先が思いやられる。例外は低所得者用のマンションだけだった。

 ▼謎の都市が開けていた
 
 九江から南へ一時間の場所に新都市がにょきと出現している!
 この都市は九江ー南昌間の新幹線沿いに位置するが、車窓からは見えなかったので、それ以前の取材では見落としてしまった。
 これぞ、共産党中央が異様な力こぶを入れる新都市。共産主義青年団が独自に築城し、全国青年起業基地の別名がある「共青城市」だ。2010年に特例中の特例として「市」に昇格した。以前の共青城開放開発区。人口わずか12万人。それまでは九江市内共青区だった地区である。
中国で人口が百万を超える市は220ある。人口12万で市とは言えず、正確にいうと、「九江市共青城市」と「市」が二回ダブル。つまり共産主義青年団の看板、換言すれば胡錦涛の目玉。だが頭でっかちの党幹部が都市を運営する?
IQは高くてもイデオローグに固まった政治青年らが都市経済を運営できるのだろうか。

 この地には民主化のシンボル=胡耀邦の墓がある。だから共青団出身の胡錦涛総書記は批判などお構いなく予算とエネルギーを注ぎ込む。
 街へ入った。「共青城市」は町作りも異様である。軍人かと思いきや軍服を着た青年団が町を隊伍を組んで早足で行軍している。きらびやかなネオンもなく、娯楽施設が乏しい。市内にはカラオケ店を見かけない。
 市内からバスで三十分の小高い丘に胡耀邦記念館と御陵(耀邦陵園)が広がっていた。
 胡耀邦は湖南省出身だが祖父が江西省の生まれ。胡耀邦の遺言に「江西省のどこか、風水のよい場所に埋蔵せよ」とあって、当時政治局の有力者=李瑞環が埋葬行事の音頭をとった。
 死去から二年後に名誉回復があり、この地に墓が建立された。
 中腹には胡耀邦と親密だった中曽根元総理が寄贈した追悼碑も建立され、五万坪はあろうかと思われる広い御陵に花壇と七十三段の階段、墓は巨大な肖像入りの碑で石材が七十三トン、いずれも胡耀邦の享年七十三歳にちなむ。花輪が絶えず参詣者が多いので記念写真屋も店開き、記念館には胡耀邦伝記、DVDなども販売している。
 この光景は驚きだった。
 北京中央では共産党政治の邪魔者扱い、決して評価されていない胡耀邦が、江西省の片田舎では孫文のごとき広き御陵に祀られているのだから!
 共青城市は、それほど鳴り物入りの新都会、共青団がカネとエネルギーを注ぎ込んでいるのであれば新開発の工業団地を視察したい。市役所の広報部職員が案内してくれた。
 工場見学が許可されたのはダウンジャケットの製造工場だった。ユニクロの広告をみると、この同じタイプのダウンジャケット、日本では5900円台だ。
 最新の欧州デザイン、その年の流行色は黄色とピンク、八百台のミシンに従業員は二千名。つぎつぎと手際よく流れ作業だが、若い男女が一所懸命に作業している。さぼる気配がないのも「能率給与システムが奏功しているからです」と工場長(女性)が言った。月給は四千元! 沿岸部の工場並みだ。これが国有企業のひとつ「鴨鴨洋装」で輸出で潤っているのか、工場全体に活気があった。

 ▲党中央が異様な力点を置いたものの。。。。

 次に赴いたのは団地中央の誘致案内センターだった。ここには将来の町の見取り図がミニチュア模型で展示されており、「人口十二万の共青城市は五年以内に三十万となります」と意気揚々たる説明があった。
 このために320億元(邦貨換算四千二百億円弱)が投資された。見学から八年の歳月が流れたが、人口は12万余のままである。
 学校が多いためエンジニアや若い労働者が得やすく、当時、北京中枢を牛耳った共青団の故郷ともなれば、胡錦涛政権が武者震いして開発を支援した。

 九江では長距離バスターミナルに近い繁華街の安宿に泊まった。廬山会議の現場には九江からバスで一時間、箱根の山のような風光明媚な景勝地で豪華な別荘が建ち並び、その中腹に廬山会議記念館が残っていた。
 古い建物のまま、耳をつんざくような大スピーカーが国歌を流している
 「毛沢東館」なる建物は、何のことはない、蒋介石と宋美齢の別荘を乗っ取ったもので、「蒋介石が座った椅子」と称する椅子に座って記念写真を撮ると十元とられる。玄関脇に公衆便所があって、これも「蒋介石が使った厠」という説明。蒋介石を貶める宣伝材料に利用されている。対面の小高い場所に小ぶりながら瀟洒な洋館、「周恩来宿泊所跡」って看板があった。
 展示は劉少奇、膨徳懐の対立に触れておらず、毛沢東神話のみ。孫文の写真も飾ってある。なにしろ展示パネルの配列は共産党の正当化だけで中国人観光客も殆どが避暑目的だから歴史を真剣に見ている気配なし。記念館前の記念撮影、これまた一枚10元。要するに激しく、勢いよく俗化していた。

 州をまたぐと陶磁器のメッカ=景徳鎮があるので立ち寄った。偶然、景徳鎮市の郊外で「世界陶磁器博覧会」の最中だった。こちらの方は買い物客で凄い人出、展示品には九谷焼なども混ざっていて人気の的になっていた。
 景徳鎮は要の粘土が払底し、ほかの省から輸入しているが、陶器なら景徳鎮という名声だけはいまも響き渡り、世界中からケイトクチン、ケイトクチンと唸って買いに来るのだ。
        
   ♪
(読者の声1)「CNNの調査対象の32%が民主党で25%が共和党。共和党支持者は民主党支持者より3%多く実際に選挙に行く傾向がある。また調査対象は有権者登録した人だったが、この人々と実際に選挙に行く人では前者が2%多く民主党を支持する傾向がある。つまりCNNの調査は当てにならない。
https://www.foxnews.com/opinion/trump-biden-election-doug-schoen
 そのCNNの調査でも、選挙が今日行われた場合、バイデンをトランプよりも選ぶだろうと答えた調査対象者の60%が、バイデンへの投票よりもトランプへの投票のほうが多いと答えた。やはりバイデンはカリスマ性がなく最後はトランプ有利になるのではないか?
https://www.washingtonexaminer.com/news/stay-in-hiding-piece-joe-democrats-tell-biden
 トランプ氏の依頼でCNNの調査を分析した共和党系選挙専門家マクロフリンも、調査対象が共和と民主で半々になっていない、そして「必ず選挙に行く」人を対象にしていないことを指摘。後者はマクロフリンが2016年選挙を分析して編み出した選挙分析の重要問題。マクロフリンは知人だがもっとも精密な調査をする専門家。それをCNNは最も評価の低い専門家等と侮辱しているが、それは自らの欺瞞を暴かれたからだろう。
https://www.washingtonexaminer.com/news/trump-cries-of-fake-polls-more-politics-than-legitimate-criticism-analysts-say

 ゾグビーの世論調査だけはトランプ氏絶好調で、ついに51%対43%でバイデンを完全に抜いた。しかも苦手だった女性、ヒスパニック、中流階級の支持も向上。また無党派層では経済回復にはバイデンよりトランプ氏の方が有能と考えられている。
https://www.washingtonexaminer.com/washington-secrets/majority-agree-trump-will-beat-biden-51-43

 一応の専門家として言わせて頂くとゾグビーはアト・ランダム調査ではなく定点調査でトランプ支持の底堅さを測っているのでは?そのやり方で2016年にロサンゼルス・タイムスだけがトランプ当選を正確に予測できた。
 ワシントンDCで6月9日に行われた予備選で脱落したウォーレン上院議員が12%、サンダース上院議員が10%を獲得。サンダースはロードアイランドで15%、ペンシルバニアで18%を獲得。6月9日の予備選でバイデンは75%の達成に苦労。民主党はまとまっていない。
https://www.washingtontimes.com/news/2020/jun/11/joe-biden-divides-democrats-among-weakest-primary-/?utm_source=Boomtrain&utm_medium=manual&utm_campaign=20171227&utm_term=newsletter&utm_content=morning&bt_ee=dXSC9yDj84Jg%2FdN%2F2ErHaSOA6wUx5O1zIYJTpjiDNyzVs9hXNf0vchkFPOGsxN8A&bt_ts=1591954532483
 トランプ氏がオクラホマで開く大集会はコロナ感染拡大を心配する保健関係者の反対にも関わらずチケットが80万枚も売れた。
https://www.washingtontimes.com/news/2020/jun/14/brad-parscale-says-trump-oklahoma-rally-ticket-req/?utm_source=Boomtrain&utm_medium=manual&utm_campaign=20171227&utm_term=newsletter&utm_content=morning&bt_ee=CdM8vkAI52gob%2FdUUpPv8Tvc%2BPpfkBFYoyFnfznvch0WH559oMSRIi6k25MyKAXJ&bt_ts=1592213543577
 リベラル系「エコノミスト」誌の分析でも今のままならトランプ氏は2016年と全く同じパターンでバイデンに勝つだろう。国民投票では少数派だが大多数の選挙人票を獲得する確率(11%)は、両方の過半数を得る確率(4%)のほぼ3倍。
https://www.economist.com/graphic-detail/2020/06/12/americas-anachronistic-electoral-college-gives-republicans-an-edge?utm_campaign=the-economist-today&utm_medium=newsletter&utm_source=salesforce-marketing-cloud&utm_term=2020-06-15&utm_content=article-link-4
  (吉川圭一)
    

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月17日(水曜日)弐
       通巻第6540号       
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~CNN世論調査はバイデンが15%リードしているそうな。
  トランプ陣営。「あれはフェイクニュース」と反論
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なにしろコロナ災禍と、失業者急増にくわえて黒人差別を糾弾するデモ、暴動がつづき、現時点での米国大統領選挙、バイデン元副大統領がリードしている。
共和党内はトランプで一本化しているとはいえ、旧主流派、すなわちエスタブリシュメントがかたまるメインストリームは「バイデンに投票する」と言って党内に亀裂を招き、また軍人OBの閣僚経験者たちは、一斉にトランプ批判に転じた。

黒人問題では中間層が敏感であり、パウエル元国務長官が、反トランプ陣営に与したことはトランプ選対にとってブローとなった。つづいてジョンボルトン元大統領補佐官の暴露本が続く。いつもならここでハリウッドの映画スター達の民主党支持合唱が始めるのだが、黒人暴動がカリフォルニア州へ移行しているため、敏感なタイミングでの発言を控える傾向がみられる。

さはさりながら世論調査は誘導質問的なやり方が多く、ましてCNNは反トランプの急先鋒だから、バイデンが15%リードしているという報道は眉唾だろう。

現実はどうかといえば、次の六州が接戦。梃子入れの重要地区となった。
ペンシルバニア、ミシガン、ウィスコンシン州、そして、アリゾナ州、フロリダ州、ノース・カロライナ州の六つだ。

選挙専門サイトの分析ではペンシルバニア州でトランプが4ポイント、リードしており、ノース・カロライナで3ポイント、アリゾナ州で1ポイントのリード、逆にミシガン州、フロリダ州は微かにバイデンがリードし、ウィスコンシン州では互角の勝負という。
     
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 第一部「暴走老人 西へ」(5)   第五章 成都を起点に


 ▲諸葛孔明が動き。劉備玄徳が走った「蜀」のくに

 成都といえば三国志の「蜀」のくに、劉備玄徳、諸葛孔明を連想するが、別名「天府」とも言う。
 四川料理に代表される辛い食材、あつい鍋。日本人がもっとも親しい四川料理は麻婆豆腐だ。そのうえ成都が山梨県の甲府と姉妹都市関係にある。理由は盆地という地理的共通性ではなく軍師・武田信玄と諸葛孔明の因縁、共通性からではないかと筆者は考えてきた。
成都は人口千七百万の大都会(2020年2月27日成都市統計局発表数字では、人口1658万人(市内人口は1233万7900人だった)。

 四川省地震は2008年5月12日、死者行方不明が9万人を越えた大惨事だった。
 被害を受けた住民はおよそ1500万人で、復旧が遅れた。しかし震災後に急発展した地下鉄も意外に綺麗で、この町の人々は自立心が高く、独立精神に富むのも歴史的にみて独立国家然として自尊自立の経済圏を形作ってきたからだ。四川省出身の大物はトウ小平である。日本で活躍する石平も四川省出身だ。
 
 成都へ着いたのは深夜になった。
 成田からANAの直行便が就航したので、すぐに予約したのだが、到着が深夜になることは夕方近くに登場したときに気がついた。成都空港は深夜でも混み合っていてタクシー乗り場に長蛇の列、まるで不夜城だ。成都空港は街に近いのに市民の騒音への苦情はなく(あっても御上が弾圧するから声にならない)、二十四時間営業だ。
 成都市内へ向かう深夜バスもある。筆者は荷物が多いのでタクシー乗り場へ急ぐ。この列に百人ほどいる。あたりには雲助、白タクが屯していて下品な雰囲気があり、外国人とみるとボルらしい。白タクを断り、長い列について、ホリディインのビジネスホテル・チェーンに旅装を解いた。観光資源でいえば成都には杜甫記念館、武功嗣があるが、これらは以前に来たときに何回かみている。
 翌日、成都から重慶へ、開通したばかりの新幹線に乗るために来たのだ
 
 ▲軍人は一般市民に席を譲らない

 翌朝、豪雨に遭遇した。駅前広場は無蓋で、傘を広げて切符を買うために40分ほど並んだ。早朝特急は満員、売り切れだった。
昼前の新幹線の切符がようやく取れた。学生の夏休みとぶつかったためだ。普段の二倍の人混みである。
 十五年ほど前に、チベットへ向かったときも、乗換は成都だった。空港内で300人ほど収容できるロビィの椅子席を若い兵士が占領していた。ソファーに屈託なく寝そべっている。
日本で、もし自衛隊がロビィの椅子席を占領していたら、乗客は怒り出すだろう。だが、中国人兵士は一般人が何を考えようが平気の面構えだ。
 隊長に文句を言おうとおもってスナックをかじっていた若い兵士の一人に聞いた。
「隊長はどこにいる?」
「あ、あそこのバアで酒を飲んでるのが、そうだ」。
 嗚呼、これほど士気の緩んだ軍隊が、戦争で戦えるのか、と思った。しかも運悪いことに、この兵士らおよそ二百名がラサへ向かう機で同席だった。

 さて、成都駅を時間通りに発車した新幹線は二時間二分で重慶に着いた。一等117元。バスだと五時間かかる。
重慶は喜び事が重なるという意味で、蒋介石の臨時首都だった。毛沢東と会談した場所でもあり、共産党の秘密電波基地もあった。三峡ダム記念館もあるが前にみているので素通り。むしろ重慶では熱くて辛い重慶鍋に挑み、大汗を掻いた。坂だらけの街はいつ行っても道に迷う。
 当時、重慶特別市の党委員会書記は、かの薄煕来だった。
習近平最大のライバル、長身でハンサム、日本企業との付き合いの深さでも有名だった。薄は革命歌を謳うイベントを奨励し、北京中央に派手な政治宣伝戦に打って出た。胡錦涛政権は江沢民の院政という特質があり、胡錦涛は薄煕来の政治野心を籠めた行動や発言に対して無言だった。
 2011年七月一日は中国共産党の創立九十周年にあたった。このため中国各地で壮大なイベントが行われた。庶民は完全にそっぽをむいて、誰も関心さえないという記念日となった。
胡錦濤時代は、それほど政治的環境には自由があった。
 重慶でのそれは市の中央にある人民広場。巨大なアーチ、例によって中国的色彩感覚は黄色と赤。広場は民主派の集会を禁止するかのように写真展覧会がでこでこと、いずれも毛沢東や朱徳、周恩来がいかに偉かったか、国家に貢献したかの展示である。驚いたことに誰も見学に来ていないのだ。
 人々があつまっていたのは広場の隣の木陰、歌の練習をしている。それも革命歌ではない。革命聖地と言われるのは延安、南昌、鄭義、井岡山、重慶あたりだろうが、重慶でこんな調子。南昌でも広場にゴテゴテの写真展が開催されていた。
田舎町でも中央の公園で創立九十周年記念行事のデコレーションは同じ。誰も見に来ていない事実は特筆しておきたい。
 旧市内の重慶駅前の坂道をあがったところにあるホテルに泊まった。となりは快捷ホテルチェーンだが、外国人は泊まれない。盗聴装置、ヴィデオ監視装置が装備されていないからだ。

 ▲南昌から九江、共産革命の舞台

 こんどは重慶から飛行機で江西省南昌へ飛んで、南昌ー九江間を新幹線で往復した。
 ときどき場所が遠距離へポンと飛ぶ理由は、この時点で新幹線の開業区間が部分的だったからである。だからパズルのように未整備区間を飛行機で飛ばす必要があった。
 南昌から45分で九江へ到達、一等は50元だった。車内は通勤列車のごとく喧噪、携帯電話。消音しないゲーム機をやっている大の男もいる。
 まるで日本の通勤電車内の風景とそっくりである。
 この区間は短くてなにほどの沿線風景もないが、なにしろ筆者は「全線乗りつくし」が目的だった。となりの客が珍しく話しかけてきて、「え、日本から新幹線をのりつくすためにわざわざ? あんた、物好きだねぇ」。

 南昌も中国共産党にとっては意義深い街である。
 周恩来らの最初の暴力蜂起が失敗した場所(八一起義記念館が残る)、かの悪名高い封建制が濾過されずに残存しており、駅の切符売り場に「共産党員専用窓口」まである。この話を上海で中国人の友人(かれは便宜的に共産党員でもある)にすると「信じられないですね。時代遅れですよ。本当ですか」と聞き返してきたほどだった。
 いまの南昌の象徴はなにかといえば、奇妙な摩天楼、南昌駅だ。
 新幹線の発着も、この駅からである。ついでだから駅のてっぺんに繋がる鉄道ホテルに泊まった。一泊180元。二階のレストランは座る場所もないほど旅客でごった返していて、仕方なくその夜は近くのマクドナルドで済ませた。急ぐ旅はマックで十分というのが筆者の信条である。
 飛行場と市内を結ぶ町並みは内陸部だけに埃だらけ、物価は意外と安い。南昌ー九江間の新幹線は満員に近かったことは書いたいが、各駅での乗降も激しい。風光明媚な九江は黄河に直面する水郷の街でもあり、近郊に廬山が控える。
 党史では「廬山会議」の場所として刻まれる別荘地。しかし中国現代史に興味のない人にとって、その会議の歴史的意義なんぞはどうでも良い。いまや廬山はリゾート地、中国の軽井沢のような避暑地として栄える。なにしろ入山料を百元もとるのである。毛沢東は蒋介石の別荘を取り上げて、ことのほか好んだ場所なので「紅色旅遊」(革命の記念地を巡るツアー)の団体が引きも切らない。

 新幹線を往復して南昌へもどり、南昌駅前で旅行代理店を探しても見つからず、タクシーを拾って中国民航ビルへ行って格安チケットを手配して貰う。次の路線に乗る為、もう一回、成都へ戻らなければいけない。

 ▲古楼閣が建ち並ぶ都江堰の観光施設は回復していた 

 さて成都に戻ってここを拠点に四川省大地震被災地へのびた二つの新幹線を消化する旅程がまだ残っている。
 まずは青城山行きにのって名勝地=都江堰を往復した。これはミニ新幹線だ。
 古楼閣が建ち並ぶ都江堰の観光施設は回復していたが、観光客は戻らずという感じだ。
 この路線は都江堰から青城山まで延びているが終着まで35分で着いてしまう。新幹線というより通勤電車である。それなのに途中駅が七つ、八つあって一駅だけ乗ると7元。一等車でも7元。だから遊び半分、体験ツアー気分で付近のおじさんおばさんも乗りに来るから満員である。
 都江堰では風車が回り風情豊かな鼓楼に登り食事をと考えていたが、急流の上に泥水。あれで料理するのかと思うと突如、食欲が萎えた。以前来たときは河原で三国志の映画ロケをやっていたっけ。
 次の日は成都から達州への新幹線を途中の南充まで往復した。当時、ここも部分開通だった。成都ー南充は一時間二十九分。一等80元。四人がけボックス席が割り振られたが前の夫婦はひたすらおしゃべり、隣のおっさんはずっとゲームをしていた。仕方がないので、ポケットにいれてきた文庫本を取り出した。となりのおっさんが、チト視線を向けた。
 (こやつ外国人か)という胡散臭そうな眼だった。

 ▲水源が豊かな地方

 南充は意外と風情豊か、まわりを山地、高地に囲まれて河川が夥しい水量なので、よく洪水がおこる。古代の巴のくに、紀元前四世紀には開けた由緒ある街で、現在も旧市内の人口は70万人弱。山々にはダムが多く建てられている。
 駅前から歩いて十五分くらいの箇所にオアシスのような緑、その公園の向かいにあるカルフールに買い物客が目立ち、KFCにはアイスクリームを求める若者たちが。
 旅行の間、豪雨、猛暑、濃霧、そしてホテルの冷房。温度差とくに冷房による風邪を引いてしまった。ちょうど学生が夏休みに入ったので各地の駅は芋を洗うかのような雑踏と大音響。学生は25%割引、ちなみに傷痍軍人と警察、軍人は公務出張の場合、半額。子供料金と同額だ。

 若者たちは政治に関心を示さず、ひたすら帰省の鉄道切符獲得に並び、おどろきは美人の女子大生が堂々と列の横からはいる。或いは並んでいる人に頼んで、自分のチケットも買って貰っている。
日本人女性に、このたくましき図々しさはないだろう。
 中国的風景でいえば、「横入り屋」という稼業があり、並ぶ列のなかで待ちきれない人から注文をとり、別にひたすら並んでばかりいるおじさんに注文を渡して手数料をとるのだ。
それも一件30元ほど。もっと言うと中国での白タクは五割り増しが常識で、それから値下げ交渉をする。日本のやくざのように二倍という闇値もあるに違いない。ともかく三、四十分は、切符を買うのに待つのが中国的常識と思っているので、横入り屋を横目にそういた猥雑な風景をひそかに愉しんだ。
 
      
   ♪
(読者の声1)貴誌6538号によれば、サバクトビバッタが旧満州に出現とは、驚きです。ヒマラヤ山脈を越えられず、パキスタンから、再びアフリカに戻ったと思ったら、予想だにしない、満州へ。どうやって飛んだのだろう。
自然か、人為的か、ジェット気流か。
 ホモサピエンスはアフリカから東に移動した。慈覚大師円仁の法王寺蔵誌には、『仏教は東漸する』と染書きをした。生物は、地球自転の方向に動きやすいのであろうか。
 中国は、アヒルを何万羽放しても効果がないのではないか。これから暑くなる満州なら、中国の食料危機は確実に訪れる。世界的な食料武息が起きる。
中国はオーストラリア産の牛肉や小麦を買わないとしている。中国はどうなるのだろう。
 アメリカはアメリカで、トランプの歩き方がおかしい。病気ではないかという。攻撃型のトランプは、対中貿易戦争にはエキサイトしている。こういう人は受け身に回ると弱い。コロナとバイデンのほかに、暴動に襲われている。内憂外患は、老いた身にはこたえるのであろう。
 米中はもはや、かつての米ソの冷戦ではない、トゥキディデスの罠に陥り、米中双方が疲弊する前兆だ。古事記の序文のように、世界はますます、混沌としてきたようです。   (斎藤周吾)

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(読者の声2)16日放映の「フロントジャパン」は下記サイトでご覧になれます。宮崎正弘先生は「両極のシナリオに備える」がテーマでした。
https://www.youtube.com/watch?v=0CmodQQTMMA
  (日本文化チャンネル桜)
       

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月17日(水曜日)
       通巻第6539号       
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~米国、5G開発でファーウェイ排斥より、共同開発へ路線変更
  独自開発はとき既に遅く、開発費用が天文学的になる
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 米商務省のELリスト(ブラックリスト)によって米国のハイテク企業の中国企業との取引、連携、部品調達などが「国家安全保障」に重大な懸念があるとして、商務省の許可のない製品や技術を米国企業から調達することを禁止してきた。

 6月16日、商務省は、この規定を突如「改訂」し、新規則を適用するとした。ファーウェイとの「共同開発」を続行しているインテル、クアルコムなど「米国企業が参加する幾つかの国際標準化プロジェクト(典型は3GPP)には引き続き参画できる」ことになる。

 商務省は「国際標準の制定は開発の基本であり、新製品の機能性や相互運用性、安全性の確保に資する」とし、「米国基準案が十分検討されることを確実にするために米企業がこれらの機関で活動することは、技術的優位性にとって重要である」と理由をのべた。  

 回りくどい表現だが、つまり「いまごろファーウェイを排斥しても遅いし、まったくの新規開発となると研究開発費は膨大になる」からである。
 もっと分かりやすく言えば、5G開発競争で、米国は中国の頭ひとつのリードを認めたのである。しかも現在の開発プロジェクトの多くが3GPP(第三世代パートナー・プログラム)を基礎としているため、この協同プロジェクトに米国企業が残った方が有利と判断したのだ。

現在の5G基本特許状況を、ドイツのシンクタンク「IPLYTIC」の調査によれば、ファーウェイが15%、米国勢が13%を保有している。そのうえ英国も5Gの一部を排除したが、独仏は躊躇い、EU全体でもエリクソン、ノキアの全面支援には至っておらず、モナコに到っては全てをファーウェイで一本化しているという状況にある。
     
集中連載「早朝特急」(4) <この連載は毎回10枚前後 80回ほど続きます>
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++第一部「暴走老人 西へ」(4)

 第四章 安全神話

 ▼インターネットで旅行手配できる時代

 ネットで中国の国内航空券が買える時代になった。何時間も駅へ行って並んで買った時代は遠い過去の想い出となった。
 ネットで中国の辺境、奥地のホテルの予約ができて、しかも正規の料金より安い。
 治安の関係から、中国の新幹線切符はパスポート提示が必要。長距離バスも同様で、ちょっとした都市の駅前でも外国人が泊まれないホテル、旅館がある。地方へ行くと、タクシーは相乗りも常識であり、遠距離の値段は交渉次第というのも昔と変わらないが、最近ではスマホで配車手配が可能になり、黒車(白タク)がやってくる。しかも普通のタクシーより安い。
 <変な時代になったなぁ>

 私はこれまでに中国に渡ること数十回、香港、マカオ、台湾を含めると二百回ちかくも渡航しているけれども体系的に中国の鉄道に乗ることはなかった。台湾の新幹線は何回も乗ったがこれは一本道だし、台北ー高雄は僅か90分で結ばれている。
 よく質問を受けた。
 「鉄道、バスで到着した見知らぬ土地で、まずどうやってホテルを探すのか?」
 「レストランでちんぷんかんぷんのメニューに行き当たったら?」
 「足裏マッサージ、本当の値段はいくらか?」。
 
 新幹線が中国全土に張り巡らされる前までは、飛行機と中距離バスのほうが便利だった。
 鉄道を利用した旅行は場当たり的になりがちで、たとえばトルファンー敦煌とか、大連ーハルビン、孫呉ーハルビン、延吉ー図門とか、福州ー永定、阜新ー赤峰など幹線からローカル線に至るまで方々で鉄道に乗車したが、それぞれの取材目的が異なったので系統的鉄道旅行をしたわけではなかった。
 そこで新幹線と名がつく路線の全て(ただし建設中はのぞく)に乗るという目標を立てた。2010年、上海万博が盛りあがって、全土に新幹線建設の喇叭が鳴った頃である。
 いくつかの動機があったうえに次の要素も加味される。

 ▲新幹線停車駅は街が急発展するのか?

 第一に日本の新幹線と比べて技術、安全、集客、営業という観点から一種の中国ビジネス論が展開できるかも知れないと考えたこと。
 日本で新幹線ルートからはずれてしまった都市がどういう運命をたどったか? 成長と経済発展から取り残されたのでは? 
 開通後、あわてて新富士、掛川、三河安城などJRに頼らず市民の募金によって新駅ができた。新しく新幹線停車駅を増設した品川駅周辺は三菱グループがこぞって移転したことも手伝い、いきなり新宿、渋谷に並ぶ新都心となった。
 北京、上海、広州は別として、これから中国の新幹線が停車する地方都市と通過する都市との格差がどう開くのか。
現実には不動産業者が「将来性」を武器に片っ端からマンション群を建てて売りだしていた。その人気はとうに息切れした。新駅はまだ周りが田んぼだが、岐阜羽島のように発展するのだろうか? 

 第二は「エジソンと鉄道の関係」である。
 新幹線プロジェクトと沿線事情を、発明や技術ではなく経済情報の角度から比較してみたい。
 というのもエジソンが車内に活字工場をセットして、汽車がとまる村々や町々の物価を調べあげ、鶏肉いくら、豚肉いくら、トウモロコシから野菜まで価格を調べて新聞にし、次に停車する街で売った。経済情報の先駆者。関係者は競って少年エジソンの新聞を買った。これにヒントを得て明治時代に益田孝翁が創刊したのが『中外物価新報』、いまの日本経済新聞である。
 従来の物価、企業、地域ニュースが、これからの中国ではもっと迅速に伝わり、かの国の経済情報の空間を激変させるだろう。
 また流行ファッションの伝播もその速度が早まり、たとえば広州─武漢千キロは北から南まで、つまり湖北省、湖南省、広東省の地域的特質がどう均質化されていくか、あるいは日本のように平均化してしまうか、地方色が反比例して強くなるのか、どうか。興味が尽きないところだ。

 北京─天津は最速350キロ。たった30分で着いてしまう。旅行の醍醐味は何もない。景色をみる暇もないのに、車内では弁当や珈琲を売りに来る。試運転段階で、この間の最速記録は394キロだった。
 ーーしかし、どうして中国は安全性よりスピードに拘るのか?
 実験走行段階では上海虹橋─杭州間の新幹線試運転実験で、なんと416キロを達成した。人民日報日本語版(2010年9月29日)は新型車両のCRH380A,上海と杭州間は202キロ。従来は特急で二時間。高速バスでも二時間半。これが45分で結ばれたと報じた。CRH380Aというのは中国国産。エアバスをヒントに銘名した。同区間は新駅が殆どで、上海虹橋─関行、松江、金山、嘉興、杭州─杭州東駅。料金はバスより五割ほど高い設定だった。
 
▲中国は安全性よりスピードに拘る

 安全面の問題をここでまとめておきたい。
 台湾でも韓国でもそうだったが、新幹線は建設が遅れるのが常識、難儀なトンネルや高原のカーブ、峡谷の橋梁など技術的にも難所が多いと、それだけ工事が遅れる。ところが中国では反対に工期が短縮され、極端な例では二年も開通が早くなった区間がある。北京ー上海間はまさにそれである。
 そんな工期を短縮してまでも急ぐとなると安全は逆に脅かされないか。
 山東省の実験軌道で「和諧号」CRH380型が、時速410キロを出した。大動脈である北京ー上海間(1300キロ)のレール敷設工事が終えるや否や試運転期間にはいり、それも僅か二ヶ月しか、運転テストをしないで強引に共産党創立90周年の開業にあわせた。台湾の新幹線は乗務員の訓練に半年かけて、そのうえ開業から半年ほどフランス人が運転していた。

 この安全の議論が中国でも浮上した。
 中国経済週刊(2011年2月22日)に寄稿した人民日報陝西支社の杜峻暁・支社長は「新幹線工事の中核企業=中国中鉄の友人に『高速鉄道には危険性が潜んでいないのか?』と質問したところ、定年になった鉄道エンジニアは『絶対に高速鉄道には乗らない』と漏らした」という衝撃の発言があった。投書氏は「中国の高速鉄道の建設スピードは尋常ではないうえ、あまりに迅速すぎると粗末になりやすく、この粗雑な工事が命取りになる懼れあり」と警告した。

 中国の鉄道建設コストは米国の1マイル=4000万~8000万ドルと比較して四分の一から五分の一。ところが設備だけは日独仏などから輸入しているので高い。
 そもそも日本の例が象徴するように九州新幹線も青森新幹線も構想から実現までに三十年! 新幹線工事は基礎工事のレール敷設まえに地盤を固め、時間をかけてしっかりしたルートの基盤を築く。ところが中国は時間をかけずに拙速工事、しかも手抜きとなると、あとに待つのは?・
 
 ▲中国新幹線温州での大事故は予測されていた

 案の定、汚職事件がおきた。
 鉄道大臣が更迭されたのだ。多額の汚職疑惑で劉志軍・前鉄道相が逮捕されたのは2011年二月だった。高速鉄道建設や設備納入の入札にからんだ、建設業者から巨額の賄賂を受け取っていた(そればかりか劉は江沢民派で、胡錦涛に徹底的に逆らったため斬られたという見方もある)。

 劉志軍が恣意的に承認してきたすべての事前計画を見直し、予算を当初の7千億元(約8兆7500億円)から4千億元へと43%も削減した。これもめちゃくちゃな話だが、そもそも2005年の計画立案と予算化のプロセスも不透明、とくに08年リーマンショック直後の4兆元投入による公共事業の目玉として、暫時優遇されたため、鉄道は別という特別な意識があった。

 新幹線で最も重要なのは安全性なのである。
 最大の難所だった箇所では工事を引き受ける下請け企業が尻込みした。
 こういう逸話が残っている。
中国水利水電第四工程局有限公司の京滬高速鉄道プロジェクト部の羅卿副総経理(総工程師)が人民日報に漏らした。

 「京滬高速鉄道は途中、山東省を流れる大ブン河を渡るが、この川底の地質は典型的なカルスト地形。硬い石灰岩体もあれば、溶食されて出来た空洞が連続で存在
する場所もある。大ブン河を渡る大橋の橋脚は、そうした地形に基礎材、鋼鉄素材を打ちこまなければならない。地質調査の資料に基づき、橋脚の根入れのための掘削を専門とするチームをまねき、河床下の岩石上に杭基礎を打設する工程を委託した。この杭基礎掘削チームは各種機器・装置を携えてやって来たが、数日後に羅卿副総経理が視察に訪れた時には、作業中の人間は誰もおらず、機器・装置もすべて持ち帰った後だった。あいさつ一つせず、この掘削工事を放棄した」。
それほどの難所だった。

新しく鉄道部長に任命された盛光祖は「今後、品質と安全を建設の核心とする」とし「安全最優先」を筆頭におくと会見した。
 NYタイムズは「専門家の分析に拠れば、新幹線のコンクリート部分に使われる化学強度剤が不足しており、時速350キロを維持すると数年を経ずしてコンクリートの劣化が進行し、おそらく五年以内に時速を300キロ以下に落とさなければならなくなる」
 衝撃の証言は元幹部からでた。
 鉄道省科学技術局長などを務めた周翊民氏が中国の技術紙のインタビューに応じて、「中国が高速化を謳う『独自技術』なるものは、実際上、存在しない。ひたすら『世界の一流』に固執した劉志軍前鉄道相の意向で、技術的な裏付け無くスピードアップに猛進しただけだ」。
 中国は日本とドイツから導入した高速鉄道の試験走行で時速400キロ台を記録したが、その僅かな実績だけで営業運転でも350キロを出す決定がされた。

 ▲日本側が協力したが、恩は仇で還された

 人民日報によれば「京滬高速鉄道は一千余りのセンサーを搭載。重要なシステムや部位の温度、速度、加速度、圧力、絶縁性能などを常時計測し、運行状態に関する各種情報を集めて運転室のモニターに表示する。制限値を超えたり、運転士から規定時間内に適切な対応がなされかった場合、監視ネットワークが制御システムを通じて緊急ブレーキをかけ、安全を確保する。列車が一定の制限速度を超えた場合も警報と共に自動的に速度が落とされる」
などと謳われた。
 しかしながら技術上の難点はまだまだ解決されていない。
 国務院安全生産委員会弁公室の王徳学副主任(国家安全生産監督管理総局副局長)は「高速鉄道は技術が新しく、スピードが速く、難度が高いことから管理任務は重く、リスクも高い。もし事故が発生すれば想像もつかないほどの被害をもたらすだろう」と指摘している。
五つのリスクとは以下のとおり。
 (1)技術上のリスク:路盤沈下、レールの平坦性、列車のブレーキ性能、信号の制御、通信システムの安定性・信頼性などは、いずれも一定期間の実践、テスト、改善が必要。
 (2)管理上のリスク:関連の法律法規、基準・規範、管理制度、職員の資質などは段階的な改善・向上が必要。
 (3)沿線の環境リスク:高速鉄道は鉄道自身のリスクだけでなく、駅、気象・地質災害、沿線の治安、鉄道・道路の交差など、一連のリスクに関わっている。特に、企業や個人による鉄道エリア内での投資・開発、鉱物採掘、生産・経営拠点の開設、家屋の建築、屋台や露店の設置などは、事故を招く危険性がある。
 (4)社会的リスク:高速鉄道はレールの上を走る巨大な旅客機と同じだ。過激派による破壊行為の対象となる可能性もある。
 (5)安全監督:高速鉄道沿線の安全監督レベルは向上の余地がある。高速鉄道の安全に対する沿線住民の認識も向上が待たれる。

 日本側はJR東海が、全体のシステムごとの受注でなければ中国に協力しないと態度を鮮明にしてきた。以後、フランス、ドイツなどが技術を提供してきた。
 しかしながら日本の車両メーカーは将来のマーケットを考慮して技術を提供した。或るメーカーが「250キロ平均」で車両を提供したところ、それを基に模倣車両を大量生産したあげく、330キロで試走した。約束が違うとして、日中間では揉めに揉めたあげくに「270キロ以上のスピードで事故がおきても、日本側は関知しない。責任をとらない」とする確約書をとった。

 一転、華南を襲う大洪水。半世紀ぶりの豪雨で各地に被害がでて、江蘇省で水位七メートル、武漢は水浸し、成都─昆明間の鉄道土砂で麻痺した。
 ともかく中国は広い!
 この天災でも、干ばつ。干上がった農地は700万ヘクタールと言われた。地割れ、湖底、川底が見えていた。三峡ダム下流域は水涸れを叫んでいた。
 ちょっとした豪雨でも数百の死亡、数万、数十万が家を失うのが中国の自然災害。
 日照りから、一転した豪雨となり湖北省、四川省、江蘇省などで土砂崩れ、浸水被害。半世紀ぶりの豪雨ともいわれ、各地で道路が寸断され、鉄道幹線が四カ所で寸断された。
 三峡ダム下流の武漢は水浸し、江蘇省では避難場所に十万以上が非難し、人であふれ、全体の被災は二千万人を超えていると各紙が報じている。この極端から極端へ激甚な変節、変化とは共産主義から資本主義へと同じ? 

       
   ♪
(読者の声1)地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」配備計画の停止を河野防衛大臣が発表した件につき、またもやマスコミが騒いでいますが、私は以下の観点からこの防衛大臣の見解に異存なく、この防衛大臣の決定は正しいとおもいます。
 なぜなら、これが実際に運用されるのが10年もかかるだろうと云う事。何も専門家の意見を聞くまでもなく、脅威が現実の問題として迫っているにもかかわらず、「呑気に」今すぐに役立たない武器を大金をかけて設置するという考えはどう考えても意味のないことは素人だってわかります。
これが完成した時「日本はモウとっくに滅亡していました」でいいのでしょうか?
むしろこのような子供じみた計画を立て、推進してきた防衛関係の議員を含む幹部にたいしてこそ、その責任を追及すべきですし、かように、拉致被害者救出案件や憲法改正の件もそうですが、「時間軸」の欠落した人達が国政を担っていることを、我々は深く憂慮しなくてはなりません。
なお、昨年末に発刊された「ルトワックの日本改造論」の中で著者のエドワード・ルトワック氏は、「イージス・アショア10年計画の非現実性」を「比喩的に言えば、海上自衛隊のイージス艦にドライバーをもって出かけ、ネジを外して陸上に持って行き設置すれば大金と時間をかけずに済む」と強く訴えておられますので、私は河野大臣はこの本を読まれたのかも知れないと思いました。   (SSA生)


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月16日(火曜日)
       通巻第6538号       
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この話は本当か? 米中外交トップがハワイで秘密会談
  明日、ポンペオと楊潔チ(国務委員、政治局員)がホノルルへ?
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 14日から華字紙が報じていたが、『サウスチャイナ・モーニングポスト』がトップ記事扱い(6月16日、電子版)。
 6月17日にハワイでポンペオ国務長官と、中国外交のトップである楊潔チ(国務委員、政治局員)が膝を交えて面談するためにホノルルへ飛ぶ、という。

米中関係は歴史上かってなかった緊張関係にあり、この状態が続くことは両国にこのましいものではない。解決の糸口を会談を通じて模索できるのではないかと観測筋は分析している。

中国外交部のスポークスマンは、「外交チャンネルを通じてお互いのコミュニケーションは密に行っている」としながらも、会談に関してもコメントがなかった。
王毅外相も「お互いに連絡は取っている」としたが、外交首脳同士の会談の実現性には一言も触れなかった。

 北京でコロナウィルス第二次感染が発生し、しかも「新しいコロナ」によるもので、北京は再び封鎖の危機にあり、同時にサバクトビバッタが、湖南省と東北地方の穀倉地帯に出現し、農作物を食い荒らし始めた情報がある。

 中国政府の農業担当部署は、二月からサバクトビバッタのアフリカからパキスタンへ飛んだ事情に注目し、数回も対策会議を開催して予防措置を取ってきた。
ところが、襲来ルートと予想された新彊ウイグル自治区、雲南省を越えて、もっともアフリカから遠い旧満州地方に出現したことに驚きの色を隠せない。
     


集中連載「早朝特急」(3) <この連載は毎回10枚前後 80回ほど続きます
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第一部 「暴走老人 西へ」(3)   第三章  親日派が多い福建省の福州市へ

 ▼福州市からアモイ(厦門)へ

 こんどは福建省を北から南へ縦断した。このルートは2010年十月に開通した。
 福建省というと日本人のイメージは鄭成功、客家の土楼(世界遺産)、台湾人のご先祖、金門島。。。。。。
 じつは福建省は中国のなかでも珍しいほどの親日派が多い地域である。GDP世界第二位になったとはいえ、福建省では日本人にむしろ憧れ、羨望を抱く人々が多い。距離的な問題より親日国家=台湾が対岸にあり、台湾企業が夥しく福建省に進出したため彼らを通しての近親観がおそらく最大の原因だ。日本人を軽蔑の目で見る上海人とはどえらい違いがある。
 卑近な例でも日本のコンビニで働く中国人に上海人、北京人はほとんどいないが、福建人が多い。尋ねてみるとすぐに分かる。
「アンタどこから来たのか」と。

 愛国と政治主義を露骨にだす北京人やエリート的スノビズム丸出しにして、「日本なんか相手にしないゾ」と粋がる上海人と、福建人はまったく趣きが違って、人間的にも穏和で親切な人が目立つのだ。
 その福建省に新幹線が南北に繋がったので福州から南端のアモイまで早速、乗ってみた。ただこの工事、中国鉄道部の宣伝によれば僅か600日、五万人で完成したと言っているが、もし本当ならそれほどの拙速工事では事故が怖い。

 開業から五ヶ月で3000万人を運んだと鼻高々だった頃である。
 路線は海岸部から山寄りを平均時速200キロでつっ走る。山岳、高原だからトンネルばかりだが、248キロを出す。カーブは緩やかで、そこでも160キロほど出す。途中の駅は殆どが新築、旧市内とのアクセスが悪いのは他の新幹線と同様である。
 上海から延々と新幹線を乗り継ぎ、浙江省の南端、温州から福州南駅へ着いた。上海からアモイへ直行する新幹線もあるが、それはアモイ南駅までしか行かない。
 このため福州南駅でいったんおりて、旧駅へ行かないと正式の「福建省縦貫新幹線」に乗ったことにはならない。こうした情報は日本ではわからない。現地で実際にのって確かめるしかない。
 新駅の福州南駅からバスで一時間、福州市内へ入り旧駅(福州駅)へとたどりついた。バス路線「K2」の料金は2元(30円)だった。

 福建省の省都でもある福州には前にも密航者の取材で来ている。景観ががらりと変貌していて新しい街になっていた。
 二十年ほど前に或るシンポジウムで隣り合ったモバンフが言っていた。「半年行かないと、違う街にきたと錯覚しますよ」。
 摩天楼が林立し地下鉄工事も始まっている。驚くほどの新都心ではないか。駅前にビジネスホテルが数軒、軒を競っている。そこで一番高層のホテルへ投宿。一泊は388元(5200円ほど)。

 翌朝、散歩がてら駅まで歩いて自動販売機でチケットをさきに買ったが、すぐに席はとれた。ただし一等。
 和諧号は定刻に福州をでて青田、泉州、晋江、アモイ北、アモイへと僅か一時間四十二分。遅れもなく快適な旅だった。
 車掌以下、公安も背が高く、女性乗務員は痩身の美女が多い。しかしながら日本のように優しい笑顔はない。おしぼりも呉れない。車内の電光掲示には所謂ニュースがない、天気予報もない。「ただいまxx駅を通過」の案内もなく、現在230キロとかのスピード表示のみ。じつに即物的だ。

 車窓からみた茶褐色の河川には大型の浚渫船、橋梁を渡り、絶壁とトンネルを越え、すぐ側を農道が走り樹木が生い茂り、新駅のすぐ脇はあぜ道、舗装されていない道が農村に繋がっていた。

 ここで福建省のややこしい地形を簡単に説明しておきたい。
 日本の東北部を襲ったマグネチュード9の地震と未曾有の大津波、あれと同じ地形のリアス式海岸が福建省を南北に貫いており、むしろ隣町との連絡が悪く、交通手段は迂回路しかない。これまでは隣町へ行くのに「U」の字をひっくり返したルートに頼らざるを得なかった。一昔前まで八戸から久慈、宮古、釜石、陸前高田、大船渡、牝鹿半島、石巻の縦貫路が殆ど無く、西へルートがそれぞれ繋がっていたように。
 この典型の地形が浙江省の温州なのである。温州は三方を山で囲まれているため海へ出るルートしかない。山越えは峻険な稜線ゆえに、軍隊が攻め入るにも難しい。それでも危機が迫ると南宋の頃から海へ出た。明代がピークとなった。
 海? そうだ、かれらこそが後期倭寇の主役でもあり、また東南アジア一帯をおさえてフィリピン、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムそして台湾へ渡った華僑の源流なのである(米国への苦力貿易で渡った広東勢の華僑と福建勢の華僑とはまったく異なる)。
 日本の東北本線を頭に想い描いていただきたい。
岩手県久慈から西の盛岡を繋ぐ山田線は東西の山々を越える。そして久慈から南の石巻、気仙沼への海岸線を走る汽車は難工事、需要もすくなかった(あの震災から九年後に、三陸リアス海岸を走る列車が再通した)。
石巻は仙台との東西ルートの方が便利だった。つまり南北の交流は不便このうえなく交易は東西間でおこなわれ、手段は川を渡る船だった。これと同様な不便さが福建省の沿海部にはあり、川を挟んで明らかに文化が違った。所謂「ビン北」と「ビン南」はビン江が南北の文化をわけ、南のビン南語が海峡を渡って台湾語となった(「びん」は門構えに虫)。
 改革開放政策以後、高速道路が造られたが、南北の直線箇所は少なく、山側へ迂回するためにカーブの多いルート自動車道となった。新幹線はこれらの難点を克服した。したがって、これからは文化が急激に変化すると予測出来る。

▲「蛇頭」の拠点だった長樂の変貌ぶり

 もう一つ特筆すべき変化とは次の事態である。
 福建省北部の福州を囲む長楽、連江、福清の三大都市が、ある時期、密入国を斡旋する「蛇頭」の拠点だった。
筆者は密出国の現場をみようと十五年ほど前、クルマにガードマン兼ガイドを雇って福清と長楽へ行った。
長楽はドーバー海峡を渡った冷凍車のなかで密航者五十三人が窒息死していたという痛ましい事件が英国で発生し、世界に悪名が轟いた地である。往時、新鮮な驚きだったのは漁村に林立する「豪邸」だった。
三階建て、四階建ての農家群。ガイドに聞くと海外へ出稼ぎにいき、立派な家を建てるのが、この地方の生き甲斐であり、競って豪邸を建てて見せびらかすのが長楽や福清の習俗だと聞かされた。
 いまや四階建ては常識、なかには六階建てという豪壮な邸宅(農家)がある。そして蛇頭に大金を支払ってまでの命がけの密航はなくなり、インチキ戸籍をでっち上げたり、ニセ学生になりすまし、平然と飛行機で日本にやってくる。かれらは「故郷に錦を飾る」(中国では「老家に還る」という)という伝統的価値観を忘れ、渡航先に定住する。となると豪邸のならぶ福建省の漁村も、農村も著しいスピードで過疎村へと転落し、昼間歩くと人っ子、一人いない、犬がうろうろとするだけのゴースト・ビレッジになっていたのだ。

 福建省を南北に結んだ新幹線「和諧号」の各駅停車を意図的に選んだ。
一等車では座席の上に電源があり、携帯電話、パソコンを使用できるが、車両の設備の安直さ、リクライニングは故障のまま動かない。
乗客はといえば品がなく、お喋りに夢中、隣町へ行く客が圧倒的なため一駅、二駅だけを利用する乗客が目立つ。日本の「こだま」のように各駅でどっと乗り降りがある。客が駅ごとに変わる。

 福州市内ではシャングリラホテルの近くに毛沢東の新らしい石像が傲然と建ち、周囲を睥睨している。
ぶらぶら歩いていると日本料理屋に遭遇、ちょっと湯豆腐に焼酎をつまむ。客は単身赴任のエンジニアが多いようだ。
 「この街に常駐する日本人は二百五十人ほど電気関係で定年退職したエンジニアが中国企業に雇われるケースが多いですよ。関空と福州に直行便があるので関西出身者が多い気がします」
とたまたま臨席だった初老の某電気メーカーOBの弁。

 アモイ駅(福州からだと旧駅に着くが、上海からの新幹線に乗ると手前のアモイ南駅になる。南駅から旧駅までバスで一時間)に到着した。
 アモイでは再訪する箇所はないが観光目的で行く人なら、沖合に浮かぶエキゾチックなコロンス島がお勧めだ。
 この島にはニクソン大統領も訪問した瀟洒なホテルが残り、鄭成功記念館がある。美味な海鮮料理。砲台跡の双眼鏡から目の前に迫る金門島に台湾兵士の表情まで見える。市内最高級ホテルのひとつがマルコポーロホテルで、冒険航海の英雄に因んでいる。

▲日本の海保巡視船に体当たりした暴力船長が船出した深炉へ行った

 筆者にとって、その時の興味はアモイよりも、是非とも或る漁港を見たかった。
そう、あの尖閣諸島沖合で日本の海保巡視船に体当たりした暴力船長が船出した深炉漁港である(深炉の「炉」はさんずい)。
 福島香織さん(『中国の女』の著者)も数ヶ月前にこの地へ突撃取材したが船長に会えなかった。アモイでの取材もそこそこにしてローカルなバスを探し、晋江市の南にある石獅市へ、とりあえず向かった。

 石獅市は繊維産業の街、台湾企業の進出が顕著である。女工寮と工場が一括して同じ敷地にあるが、近年の繊維不況により石獅市内は活気がない。経済的には相当に貧乏である。
アパレル企業は中国から逃げ出し、多くがベトナムへ、つぎにカンボジアに、そして昨今はバングラデシュに工場を建てて、夥しい女工さんを雇った。

 石獅市のバスターミナルで、純朴そうな地元のタクシーに乗り換える。深炉まで往復一時間、百元でどうだ? え、ここからそんなに近いのか等と会話している裡に運転手が気がつく。

「あんた、海外華僑だとばっかり想っていたが外国人だな」
「そんなに海外華僑の里帰りが多いの?」
「みんな出稼ぎに行ってしまった。村々は死んだように静かさ。なに?日本人っかよ。日本人はこの街にいないよ。尖閣諸島へ漁に行った漁港だって? あいつらそんな遠くにまで行くのか」。
尖閣騒ぎのことを、地元の人々は何も知らないのだ。

 当該漁港の途中、海岸線に巨大なモニュメントが建っている。あれは鄭成功かと尋ねると、「あれは施浪将軍だよ」「え、台湾を軍事占領したあの将軍、施浪のこと?」「そう、台湾を睨んでいる」

 この漁港の守り神は航海の安全を祈る福建人の神様=媽祖だ。漁港のど真ん中にやっぱり媽祖観音の大きな石象があり、競りをする市場と漁業組合のビルだけが周囲で高いが、街に人がいない。
活気を失ったように静かだ。
 「そうさ、みんな出稼ぎでいなくなったのだ」と運転手が経済の貧困をまた嘆いた。
 深炉の住宅地は高台にあるが、海岸から住宅地までの一帯は、まるで津波に襲われたように瓦礫の山ではないか。嗚呼、これほどの貧困ならカネで軍事行動の走狗をつとめるだろうなぁ。

 イスラムとマルコ・ポーロの街=泉州へ立ち寄った。
 この街では、かねてから行きたいと思っていた「海外交通史博物館」を見学することが出来た。泉州はマルコ・ポーロが立ち寄ったことでも有名だが、じつは中国に於けるイスラム文化の拠点である。墓を見学するとイスラム式が多く、モスクも市内の関羽廟のとなりに残る。

 海外交通史博物館は嘗て司馬遼太郎が「びんの道」で見学を推奨した場所である。
中国沿岸部の人々がいかに古代中世から海外とかかわっていたかを一覧出来る。しかし筆者が注目したのは琉球関係の展示だった。案の定、琉球は中国領のごとく資料らしきを並べていて中華思想まるだしの展示だった。

       
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)今晩の「フロントジャパン」は、福島香織さん、宮崎正弘さんの担当です。テーマは「両極シナリオを考える」「中国の最近の動き」などです。深夜からユーチューブでも放映されます。
   (日本文化チャンネル桜)
      
6月22日発売  予約募集中!
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宮崎正弘『WHAT NEXT(コロナ以後大予測)』(ハート出版)
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 ──コロナ禍で人生が変わった人が多い
──誰もが気にし始めた「WHAT NEXT」
日本はこの「鎖国」をチャンスに活かせないでしょうか? 大きな流れとしては、
(1)グローバリズムの大後退。
(2)ナショナリズムの復権。
 (3)中国基軸のサプライチェーンが全世界的に改編され、
 (4)コロナとの「共存」時代がくる、ことです。

 長期的には思想、哲学に大きな変化があらわれ、多死社会(看取り社会)の到来に死生観の適正復帰が行われるでしょう。輪廻転生の考え方が真剣に考え直される。
 地政学的には「米中対決が最終戦争」段階へ、つまり「金融戦争」です。すでに香港への優遇措置剥奪を表明した米国は中国の「在米資産凍結」を視野に入れています。
 対抗する中国はドル基軸態勢の崩壊を企図して、「デジタル人民元」を「次のウィルス」とする気配が濃厚。
独特で伝統的な日本の文化力の回復。国風の復活があってこそ、自律自存の国へ復活することになる流れがあります。 
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月15日(月曜日)弐
       通巻第6537号       
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~EU27ヶ国のテレビ会議。「米中関係の悪化でEUは米国に同調しない」
  ポンペオ、ハワイで中国外交トップの楊潔チと秘密会談か
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 2005年にメルケルがドイツ首相に就任したときの独中貿易は691億ドルだった。
 2019年に独中貿易は飛躍的に2327億ドルに達していた。ドイツは中国重視の外交を継続し、トランプの対中強硬路線とは明確に距離を置いた。

 とはいえメルケルは人道、人権を尊重する民主主義の価値を放棄しているわけではなく、中国の首脳を会うごとに、リップサービス程度だが、人権重視、政治改革の必要性を強調してきた。
2007年にはダライラマと会見し、北京を慌てさせたこともあった。

 EUの外交責任者ジョセフ・ボレルは6月14日、EU27ヶ国と米国務長官のポンペオとのテレビ会議を前にして、「米中関係の悪化でEUは米国に同調しない」と発言した。

 中国はEUと米国の関係に亀裂を入れるという「外交努力」を続けており、習近平は年初来、四回の電話会談とメルケルとの間におこない、またフランスのマクロン大統領との電話会談は五階に及ぶ。異様な接近である。

 トランプ政権はコロナ災禍による中国の責任を追及し、民間では賠償裁判が展開されているうえ、米国連邦議会では中国制裁論がつぎつぎと、しかも満場一致で可決されているが、EUはこうした米国の動きを「強硬すぎる」として距離を置く姿勢を堅持してきた。

 このためか、どうか。サウスチャイナモーニングポストなどは近くハワイで、ポンペオ長官は中国外交トップの楊潔チと秘密会談を行う予定があると報じている。
     
集中連載「早朝特急」(2) <この連載は毎回10枚前後 80回ほど続きます
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第一部 「暴走老人 西へ」(2)    第二章 上海から杭州へ、温州へ
▲上海ー南京、上海ー杭州線は同時開通

 上海虹橋空港というのは昔の上海飛行場のことである。にじばし、と書いて「ハンチャオ」と発音する。旧飛行場を拡張したうえ大改修し、規模が数倍となって、国内線専用空港レベルから国際線のターミナルも新設し、羽田とを結ぶ便が、コロナ災禍前、一日五、六便ほど飛んでいた。
 あたかも羽田─台北松山を結ぶラインのように、この便は恒に満席に近いドル箱だった。 
 浦東に新空港ができて市内とリニアで繋がると虹橋は国内線専用となり見違えるほどに新改築され、その虹橋第二ターミナルに連結して新幹線の駅をつくり、開業したのが2010年だった。鉄道駅も新築のぴかぴかに輝いていた。

 2010年の上海万博がおわると、目に見えない変化があった。上海人に一種傲慢ともいえる、妙な自信がついてきたことである。
 (もう日本なんか相手にしていないゾ)と露骨な態度を示す上海人が増えた。
 この虹橋始発駅から上海ー南京、上海ー杭州と二つの新幹線ルートをいっぺんに開業した。その迅速さには舌を巻かされる。

 虹橋空港の国際線ターミナルは、昔の上海飛行場の古い建物を利用していた。免税店も貧弱で国内線ターミナルからバスで二十分も離れているため、乗り換えにはことのほか不便だ。しかし日本人駐在員らが羽田発、虹橋着を好む理由は虹橋地区に日本領事館があり、古くから進出したJALホテルも近いし、日本企業が虹橋地区から新古北区に密集しているからである。
 新古北区なんて、日本相手の食材店、カラオケ、古本屋。惣菜も、日本風のサラダも販売している。回転寿司も数店舗ある。
 このとき筆者は成田から上海浦東空港へ飛び、路線バスで虹橋(旧飛行場)の新幹線駅へと向かった。あとで直近の地図を買って分かったのは同ルートに地下鉄が出来ていた!(しまった、地下鉄に乗った方が早かった)
 空港間の連絡バスは二時間はかかると踏んでいたが、道が空いていて50分で着いた。バスには日本人が十人ほど乗っていて、上海から乗り換えで中国各地へ商用で行くことが分かる。かれらも郷に入れば郷に従えとばかり平気で車内でも携帯電話、大きな声で日本語を喋るからすぐわかる(最近のスマホは文字通信が主流となったので、車内は意外と静かだが。。)。
 新幹線の虹橋駅は壮大な規模を誇るのだが、ロボット世界のように冷たい印象がある。東京や名古屋や大阪駅のように洒落れた珈琲店もなく、レストランや書店は見窄らしい。
 
 この虹橋駅ですぐに杭州行きの次の列車がとれた。
 杭州行きは短距離と雖も、十六両編成。途中カーブで五度ほど傾いたが電光版をみたら216キロを出していた。座るとすぐに珈琲を売りに来た。インスタントで8元。クリープつき、おしぼりは呉れない。途中の最高速度は346キロを達成した。ちょっと怖いほどに早すぎる。
 途中の新駅の風景はといえばたんぼ道、牛馬がいる。前時代的な農業の光景があった。どの駅も旧市内とアクセスが悪い。沿線の風景といえば防音壁がない所為で車内から景色を楽しめるが、あちこちにニョキニョキと高層マンション群、ハイウェイ沿いはドライブインがまだ整備されておらず、ともかく広告塔、広告塔、広告塔!
 その後、日本からの旅客は急増し、全日空は杭州、武漢へ直行便を就航させた。


 ▲ハード・ランディングの予言を思い出した

 車窓から景色を見ながら、連想したことがある。新幹線が、意外とがらがらだったことに関連して、ルービニ教授の言葉が脳裏を去来したのだ。ノリエル・ルービニNY市立大学教授といえば、あの2008年リーマン・ショックを予告した、世界的なエコノミストだ。

 ルービニは七年前にも中国に警告した。
「中国はGDPの50%を開発に投下している。ソ連の末期と同じように、この異常な経済の構造は2013年以後にハード・ランディングをもたらすだろう」
 しかし資源企業ならびに強気のエコノミストらは反論した。「年率経済成長が10%もあり、たとえこのスピードが5%に低下したところで成長することに変わりはない。インフラ整備のため建材、セメント、鉄鉱石需要は衰えることはなく、たとえば向こう十年にあと二億人が都市部へながれこむ予測に立脚すれば、それを吸収する住宅需要があるではないか」。

 だがルービニ教授は次のように反論したのだった。
「中国が鳴り物入りの宣伝をした新幹線に乗った。上海から杭州へ50分でつながる新幹線の乗客は半分だった。新駅は三分の一が空っぽだった。平行して走るハイウェイは、じつに三分の二ががらがらだった。これは何を意味するか。60年代のソ連、97年通貨危機に直面する前までのアジアといまの中国の状況は酷似している」

 まさにその通りの惨状がコロナ以後の中国経済の実情だ。
 日本では被災した東北新幹線の沿線風景は防音壁が高いためMAXの二階に乗らないと景色がまったく見えない。
 中国ではちゃんと沿線の風景を楽しめる。しかし景観に変化がとぼしい区間では旅客は窓の外を見ないで車内テレビの映画を見ている。
著者はたまたまチャプリンの音声のない映画をみたが、著作権が切れた古い映画を上映しているのには興ざめだ。

 杭州新幹線は僅か四十三分、あっけなく到着した。北京ー天津間は30分だから、すこし距離が長いだけという感覚だ。
 となりの人と喋る時間もない。もっとも一等車内なのに乗ってからおりるまで大声で携帯電話で怒鳴っている人がいる。前席の若い女はずぅっと寝ている。通路に足を出しても誰も注意しない。即席麺をずるずると音を出して食べる人も多い。これも中国の日常風景。日本にきた中国人はバスや地下鉄のなかで携帯電話を使わない日本人が不思議だという。いまではスマホの文字通信だから大声組はめったに見かけないが。。。

 杭州から福建省までずっと南下する新幹線に乗るのは翌日に廻し、とりあえず杭州市内で一泊、駅前の高層ホテルに旅装を解いた。この杭州にはアリババ本社もあるが、駅からは随分と遠い。
 ダフ屋、旅館の番頭風、あやしげな按摩斡旋(たぶん売春)、得体の知れない飲み物を売るおっさん、他人にタバコをたかるホームレス。
 杭州は浙江省の省都だ。ましてや古都であり歴代王朝の首都だった。市内どこでも風光明媚、駅前の雑踏や繁華街の乱雑さからは想像しにくいが、あちこちに湖畔の別荘、嘗ては自然が美しかったに違いないと思う。地下鉄の工事をしていた。オペラ劇場がある。古典劇を尊ぶ風情が強い土地柄のようだ。

 翌朝、早起きして市内を散歩。新聞を買ってぱらぱらめくりながら、ホテルで食事。朝風がつめたい。杭州は三回目だったが、鉄道で市内に入ったのは初めてである。駅前の裏道は貧困、パジャマで歩いている初老の人々は饅頭、ねじりパンなどで朝飯を済ませていた。

▲一路「中国のユダヤ人」=温州へ

 杭州から寧波への特急もあるが、途中、上海と杭州湾をまたぐ35キロの鉄橋(世界最長)を眺め、寧波の手前から新幹線は南へカーブする。一路、浙江省最南端の町、温州へ向かった。
 ーーおっと。この路線はトンネルばかりではないか。
 途中、二十数個で数えるのを止めた。山岳、急な山稜、トンネルとトンネルの間、左側に海が見える。
 しかし海が見えたとカメラを向けると、またトンネルだ。
 この景色、既視感がある。大磯あたりから熱海、三島へ向かう東海道線の景色と似ている。鬱蒼とした森、竹藪、棚田。農家はすこぶる豪勢、茶畑、トラクター、過疎。そして束の間に田舎風情の景観からトンネルの闇。

 トンネル内でも247キロ、耳が痛い。台州駅通過は236キロ、メモをとる手も震えるほど。何本か河を渡ったが、海に近いため川面は茶褐色、いたるところで浚渫工事をしている。途中駅から隣席にバングラデシュ人が座った。真っ黒に日焼けして、笑うと歯が白い。たぶんベンガル系だろう。浙江省に出稼ぎにきているという。中国では英語で生活しているが、外国人の世界だけでも暮らせるので不便はないと言った。

 温州に関しては特筆しておきたいことがたくさんある。
 温州の新幹線駅(温州南駅)は新築、ぴかぴかだが、はやくもタイルが剥げおちた箇所があり駅構内の売店はない。整備が追いつけないのである。エレベーターもエスカレーターもまだ動いていない。駅舎だけは工期が間に合ったが構内の諸施設はまだ工事中だった(2011年三月の話だ)。
 コンコースから一キロ近くも歩いて、やっとこさ、バス駅。市内へ向かうバスは二元。道は全部工事中で渋滞。えんえんと車列が埃をあげて、予想した通り温州市内まで一時間かかった。

 温州市には製薬、運送業、眼鏡、鋳型、繊維工場が多い。とくに目立つのが眼鏡製造メーカーだ。バスの道沿いだけで五軒。福井鯖江の眼鏡企業、温州から誘致され、親切にも機械設備を持ち込んで工場を開き、中国人に懇切丁寧にノウハウと技術を教え、やがて彼らは独立して類似製品を半額でつくり、日本の顧客を奪った。
そのため鯖江の眼鏡産業は壊滅寸前になった。そういう阿漕なビジネスを展開するのが、温州人である。

 この乱雑で埃だらけで都市計画の美が一つもないような町が、なぜ「中国のユダヤ人」と言われるのか。温州人の町をあてどなく散策しても、いかなる場所にも富の象徴を発見できず、優雅さも豪壮さも片鱗さえないのだ。
 温州駅前の雑踏のなか、空腹でレストランを探すが、ろくなものがない。仕方なくKFCに飛び込み、適当なものを食して店を出る。温州の銀座通りの筈だが、通行人が着ている服装が野暮ったい。若い女性のファッションも田舎くさい。
 ーーそうか、温州人って実務一点張りで外見は構わないんだ。

 数年前に来たときも、あまりに乱雑な都市作りに驚愕した記憶がある。映画館、デパートのとなりに煙を上げる工場、ロータリーは舗装されておらず、濛々とした砂塵透かしてみると交差点の一角に屋台が営業している。町中に石炭火力発電があり、マスクをしても顔がまっ黒になるのに平気である。高級ブティックの隣りが怪しげなマッサージ屋。いったい都市設計という発想は、この町にはないのかと思った。
 結局、温州には泊まらず、そのまま福州へ向かうことに決めた。 

 温州南駅へ埃だらけの道を戻り、次の目的は福建省福州、切符はすぐに買えた。速度248キロ、途中駅は開発途次の開発特区が多く、工場がぼつんぽつんと建っている。地盤改良工事の現場が夥しい。塩を含んだ海浜工業地帯だからだろう。

 この区間だけ車内販売がなく、お茶も飲めず、福州市が近ずくにつれ、農家の風格が豊かに見える。六階建ての農家が目に付くので駅名を確かめた。連江だった。なるほど、この連江は密航者のメッカだったところだ。

     
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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 評判の女帝を描いたベストセラーだが、違和感があった
 今の日本に「切腹」とか「テロも名誉だ」と考える政治家はいない。政治の堕落だ

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石井 妙子 『女帝 小池百合子』 (文藝春秋) 
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評 奥山篤信

 もし誰かが、この本が選挙に致命的になると買い占めをやってるとするなら、大きな声で言って僕は千回でも1万回でも言ってやる<百合子さん心配無用 むしろあなたの政治家の資質があるという証明ですよ。何のネガティブキャンペーンにもならない>
 なんと言っても甲南高女出身(僕は男子校 甲南高校)関学を経てカイロ大学出身まさに女性の野心をひたすら持ち続け国会議員を経て東京都知事の地位を射止めた小池百合子氏には政治活動を始めた頃から多大の興味があり、この本も噂を聞いて渋谷の大書店に二日連続で求めにわざわざでかけたが在庫切れで得られなかった。
 アマゾン通販も元々気の遠くなるような配達時期で諦めていたのだ。そして書店で得られずに、長期戦で、なんと中古品扱いでアマゾンプライムに発注して(1500円がプレミアムついて2400円)にて購入したのだが、配達予定がその翌日というのが延々と遅くなり昨日到着した。
僕は選挙の関係から与党筋のどっかが買い占めを図っているのではないかと考える。マスクは違法として書物は買い占め利益は違法ではないのでしょうね。余談だが・・
 さて一気に読んだこの本 石井妙子氏という1969年生まれ白百合女子大・大学院出身ノンフィクション作家(大宅壮一賞までもらったことのある)は白百合だからカトリックかもしれない。
 だからか知らないが政治とは権力欲や支配欲や動機の不純に殊更<正義の怒り>を発散する、あのカントの純粋理性批判を地でいくような<正義感と倫理感>の強い、まさに自分が偽善者であることすらわからないキリスト者のようなタッチで、まさに<何かの目的か嫉妬心を持って小池百合子を暴いてやろう>という意図で書かれたような気がしてならない。
 ある意味で表現の自由のタブーである、身体的欠陥を公にして(小池氏の場合右頬に痣があり女性としてのコンプレックス)始まるこの書物は、実は石原慎太郎氏が<あの厚化粧が!>と揶揄した際に彼女が<痣の存在を告白>したという公の発言があったとしても、それでも僕が著者ならその先天性の自分の力ではどうにもならないファクターについて表現の自由があってもタッチしないのが良識と考えるが・・
 そんなコンプレックスから必然的に<嘘で固まった彼女>を次から次と暴いていく彼女には:
 元来政治など古今東西に、純粋培養の潔癖性などあり得ないし、またそんな人間は政治家として相応しくないという経験則が理解できないのだ。政治家とはそれを求める各自の夢と情熱であり、善悪の中で清濁あわせ飲む力量はもちろんのこと、処世術や謀略あるいはマキャベリズムが最も大切なファクター、もちろん僕の持論である<愛国者であること>だけはどんなに泥に塗れても最低限の条件だと考える。
 
 そんな意味で著者が批判する小池女帝の手口や習性というのは、僕にいわすれば政治家の適正条件を満たしているということだ。政治家にキリスト教倫理やカント の純粋理性批判を求めても何の意味もない。政治家とは泥に塗れ牢獄の壁の外か内かに落ちるリスク、さらに命がけでテロにて暗殺される生命リスクなど これらのリスクに二の足を踏むような人間は政治家になるべきではないということだ。
 現代の政治家の堕落は、単なるサラリーマンとしての安定収入のための安定雇用としての議員、さらにそのためには綺麗事と甘い餌を愚民にばらまく<いいカッコしいの偽善者欺瞞者>だけであり、いつもポリコレだけを気にしているのだ。今の日本の政治家だ切腹するとかテロも名誉だと考える人間など1人もいない。これこそ政治の堕落でもあることを忘れてはならない。
 小池氏が理念と倫理観に満ちて<愛国者としてそこまで立派な>政治家とは、僕は言わないが(甲南出身阪神間出身という親しみはあっても基本的には中立だ)<大した度胸と玉>であることは事実だ。政界の領袖を次から次と手玉に取るセンスの良さとその実力は、女性ジョゼフ・フーシェ的と言えるかもしれない。
 今回も再選されると思うが、次は天下国家を取る方向に彼女の野心は限りなく進むだろう。
 政治に面白さがなくなったら国民の楽しみもない。そんな意味で将来も激動のきっかけになりうる立場にあるだろう。こんな人材こそバカのような適正もないサラリーマン議員に喝を与えることになると期待するのだ。
          
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(読者の声1)宮崎先生の新刊『WHAT NEXT』の紹介記事に、「日本はこの『鎖国』をチャンスに活かせないでしょうか?」とあります、そこで私は身近の事で「WHAT NEXT」はどうなるかを考えてみました。
 6月13日の日経新聞では「欧州、在宅勤務が標準に」「米国、民間主導で定着へ」と書かれているので、私は欧米がそうであれば日本もそれが定着するに違いなと思いました。「東京は『密集』が価値を生んだようなもの」と考えれば、銀座など地価が高い地域での飲食・接客業は大きな打撃を受けるであろうし、オフィスもホテルもそれほど必要にならないのではないか。
また都内の住宅物件価格も下方傾向に向かうような気がします。
それに反して小ぶりの地方都市や街は、在宅勤務でヒトが集まり、経済的恩恵が及ぶようになり、飲食業や総菜業は存在感が増すと思うのです。スポーツジムなどはいま言われていることとは違い、通勤地獄から解放されテレワークで家に引きこもりとなった人は逆にジムで運動をしたがるのではないでしょうか。
 つまり東京一極主義的が大々的に分散化するということ。すると地方では足の確保のために、車がより必要になるかも知れません。
 6月14日の日経記事は「観光苦境 各国支援急ぐ 損失130兆円 各国とも国内力に支援策導入」とあります。
 また日本政府も観光業のてこ入れ策として、旅費を半額まで補助する「GO TOトラベル」キャンペーン実施に1.3兆円を計上し、旅行客に直接半額まで補助
するそうです。
リーマンショックなどの時は「民間の銀行支援に税金を使うのはモラル・ハザードだとさんざん苦言を呈していた人達は、今はなぜかだんまりですが、私はそのこと
より、これらはあまりに安直な「企画」ではないかと感じています。もっと国全体の将来のニーズに長期的に寄与できる振興・支援策はあって然るべきだと思うの
です。例えば(1)地震・洪水などの大災害に備える為には、リスク分散が最も効果的なことは常識でしょう。それ故日本人も「セカンドハウス」を持つべきという
意見が3.11の後に盛んに言われました。避難用の仮設住宅を各自治体が被害に遭ってから大急ぎで建てるよりも、全国に散らばっている旅館・ホテルと緊急避難時
用に事前に各家庭が「セカンドハウス契約」を結ぶほうが実効性が高く、旅館・ホテルの活性化に繋がりますし、仮設住宅をつくるより経済性に優れていることは間違いありません。それに提携した家庭は非災害時にはレジャーの為に、そして互いの信頼感・安心感の醸成のために使う機会も増えましょう。(2) 農家はヒト手不足で農作物が生産・出荷できない。一方都会の飲食・サービス業などは失業で苦しむなどのアンバランスがおきています。それならこれを「連結」すればいいはずです。
そのためには失業者を農作業に従事しやすくするために、農家・耕作地に近い地域の旅館・ホテルで宿泊(温泉で休息する)できるような仕組みを整えれば、両者とも喜ぶことでしょう。
 単に旅行客に補助金を与えるなどと言った「モラルハザード的な方策」より、以上のような仕組みを作ることがこれからの観光庁の「WHAT NEXT時代」の任務であってほしいものです。
(SSA生)

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 令和2年(2020)6月15日(月曜日)
       通巻第6536号       
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~北京で二次感染。中国人の不安、恐怖反応は過剰か?
  学校閉鎖、またも北京は都市封鎖を強行するか
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 北京の新発地野菜卸し市場から46名の感染者がでたことで北京はふたたび都市封鎖の可能性を帯びてきた。米国でもウォールストリートジャーナル、NYタイムズなどが大きく報じている。

 アメリカは例外的な中国便が二便ほど西海岸を結んでいる。中国と航空機が行き来している少数の航空会社があり、またギリシア政府は「中国からの観光ツアー歓迎」と早くから意思表示してきた。

 日本の親中派とインバウンド業界は中国便の再開を待ち望んでいるようだが、二次感染勃発で、航空便の再開はまた遠のいた。習近平の国賓来日スケジュール再調整もジェスチャーだけで、年内の訪日はあり得ず、出来れば中止と決まることを望む声が大きい。

 ともかく各国の反応はばらばらで、国内にも賛成反対が渦巻いた、矛盾を突出させている国が多く、その典型はフィリピンだ。米国との地位協定を破棄するといい、すぐに180日の猶予を与えると言い、先週には「破棄といったことを破棄する」というジグザグを描いた。中国の領土侵略への抗議では、ベトナムと共同歩調をとるように方向転換だ。

 豪は決然と中国に距離を置き、インドと軍事的は協同路線を鮮明にした。
ところが、内情は中国との交流を郭際している自治州があり、また留学生受け入れが激減して悲鳴を挙げている語学学校や留学生の多い大学などは、モリソン政権の対中政策はやり過ぎと批判的なのである。
    
新連載 早朝特急(1)<この連載は毎回10枚前後 80回ほど続きます>
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第一部 「暴走老人 西へ」(1) 
第一章 北京から中国「新幹線乗り尽くし」の旅を始めた 

 ▲大動脈の北京ー上海は四時間四十八分
 
 2011年、北京ー上海間の新幹線(北京南駅ー上海虹橋)が開通した。中国にとって世界に誇る「夢の超特急」の実現である。
 一番乗りの切符を何時売り出すのか、二ヶ月も前から北京と上海では鉄道マニアに熱気が迸っていた。
 2011年5月11日に実験的な試走の結果、最高時速380キロ。北京南駅を九時二十分に出発した一番列車のCRH380型「和諧号」は予定通り午後二時八分、上海虹橋駅に到着した。1318キロを四時間四十八分。平均時速275キロである。
 従来線だと寝台特急でも北京南ー上海虹橋間は九時間四十九分かかった(一等寝台は977元)。だから五時間もの短縮になる。
 米国で言えばニューヨークからアトランタ。米国アムトラックの特急便で十八時間かかる。日本の新幹線にあてはめると東京から熊本の距離、ちなみに東京ー熊本の最短は「のぞみ」を博多で「さくら」に乗り換えて五時間五十一分かかる(所要時間は2011年時点のデータの基づく)。
 中国の「新幹線」の定義となると曖昧で、時速250キロから350キロのAクラス。
 200ー250キロのBクラスに別れる。いずれも新幹線とは呼ばず「高速鉄道」である。

 当時、中国政府は「2020年には高速鉄道が主要な五十万人都市の90%を連結する」と宣言していたが、2020年5月現在、営業キロはじつに二万五千キロを突破し、日本の八倍強である!

 その昔、田中角栄が日本列島いたるところに新幹線をつなぎ、市電のようにすると豪語した頃、日本のバブル経済はまだ上昇カーブを描いていた。その後、整備新幹線は遅れたが、東京ー長野をむすぶ新幹線は金澤まで延び、現在は敦賀まで工事中。北海道新幹線も2020年時点で新青森から新函館を繋いだ。

 ▲乗ってみなければ何も語れないではないか

 ともかく試乗に行った。
 北京─上海間の新幹線、中国では「京滬高速鉄道」と呼称される。
 日本の東北新幹線グランクラスのように特等車が設けられ、リクライニングは寝台にもなるシロモノ。ただし、このクラスに乗ると往復3500元(邦貨四万五千五百円)もかかる。往路だけ、この豪勢な車両の旅を試みた。週刊誌に原稿を頼まれていたので張り込んだのだ。(結局、この試乗記は『週刊現代』と『WILL』に書いた。
 北京南駅を出発し、天津の西側を抜け、河北省、山東省、安徽省から江蘇省の南京を経て最終の上海市まで途中駅は23.これで「環渤海地域」と「長江デルタ地域」の二大経済圏が連結した(「CRH」とはCHINA RAILWAY HIGH SPEEDの略で、すべて「和諧号」と呼ばれる。「380」は時速380キロを意味している)。

 通常編成は二等車両が10両、座席数838席。一等車は4両、座席数162席。くわえて24席の「ビジネスクラス」(日本のグランクラス)が1両、食堂車が1両、合計16両編成となる。これが北京ー上海間を一日90往復する。
 新幹線のVIPは時速300キロメートルで走る「G」ナンバー列車の一等席以上の座席(ビジネスクラス席、観光シート席、一等ボックス席を含む)を利用する乗客を指す。
 北京南駅から上海駅まで一等席の料金は935元、ビジネスクラス席が1750元。二等は555元。飛行機の格安チケットは550元前後だから新幹線がいかに高いか。
 VIP乗客に提供される特別サービスはなかなかのものがある。まず駅では一等席以上の座席を取り扱う専用窓口がある。待合室に専用席もしつらえ、列車を待つ間にはカウンターから飲み物や軽食をセルフサービスで摂取できる。
新聞の閲覧、無料のインターネット接続、荷物の無料搬送といったサービスがある(一部有料)。列車内では毛布、クッション、アイマスク、タオル、スリッパ、靴収納袋、ヘッドフォンなどの備品があり、飲み物、朝食、昼食、夕食、スナック、新聞が無料で提供される。備品の料金基準は18元、使い捨てスリッパ、アイマスク、ヘッドホン、タオルが含まれる。

 中国新幹線はほとんどが「和諧号」と命名された。
 なだらかな流線型の車体は華麗であり、なんとなくわが東北新幹線の「はやぶさ」に酷似している。
 鳴り物入りで喧伝され、初日の式典には温家宝首相(当時)が列席し隣の駅まで試乗した。上海まで二十四の駅が新設された。ただし新駅はどの都市でも市内へは遠い。新横浜から横浜の中心街へ行くアクセスを連想するとよいが、あの二倍から三倍の距離がある。

 ▲笑顔は満点、弁当は最悪

 美人の乗務員がにこにこ笑いながら運んできたのはおしぼり(紙タオル)、スリッパ(飛行機のビジネスクラスと同等)、スナック(安物)、弁当も無料とはいえ、食事メニューは選べない。味は最悪。とても高級車両で配るモノではない。ご飯のうえに豚肉だけ。ビールは一種類しかない(前鉄道部長の劉志軍の汚職で賄賂を業者に要求し、とくにビール業者、ミネラルウォーター業者とも結託していたために手抜きとなった)

 時間比較では飛行機に軍配があがる。
 北京の市内から飛行場まで平均で一時間かかる。空港での待ち時間と飛行時間で二時間半。上海空港で荷物待ち三十分、それから市内まで一時間。合計すると五時間である。宣伝通りだと新幹線が五時間弱だから時間競争で言えば、新幹線が速いことになる?
 実態は異なった。東海道新幹線の「のぞみ」「ひかり」「こだま」と三つに分けて考えてみると分かりやすい。

 中国新幹線「のぞみ」型は四時間48分の超特急だが、これ、じつは一日に二本しかない。筆者が乗った和解号は「ひかり」型で、途中駅の済南、徐州、南京などに停車する。だから上海まで五時間半かかった。各駅停車「こだま」型の和解号に乗ると六時間以上かかる。
 直後に「事故」が起きた。2012年7月23日の温州での新幹線事故直後から時速を50キロ減速した。その上、列車本数を25%削減した。 

▲切符と買うのに一苦労だった

 中国の新幹線は次のような問題点がある。
 第一に中国新幹線の目玉である北京─上海は工期を2年も短縮、驚くほどのスピードで完成したため安全の側面から将来の事故がまだ懸念されることだ。
開業から4日間だけでも3回、エンジンのトラブル、原因不明の煙、豪雨による立往生による大幅な遅延があった。
 測量しながら、設計しながら、工事をおこなうという「三ながら主義」は全体主義独裁でないと出来ない芸当である。そもそも日本のように用地買収の手間がかからず、これだけでも工期を数年短縮できたのだ。
 
第二に駅舎やインフラが同時並行的に工事されていない。新幹線は開業しても駅舎の工事はまだ普請中、駅前広場はこれからいう場所が上海近郊の駅に目立つ。外交、軍事、政治の総合的整合性を欠く中国を象徴するかのようである。
 
第三に途中駅すべてが新駅だが、旧市内とのアクセスが極端に悪い。たとえば西安新駅、武漢新駅、広州南駅、重慶北駅、福州南駅など旧市内へバスで1時間かかる。乗客はこのことも頭に入れて旅行計画を立てなければいけない。おまけに北京の出発駅にしても北京北駅、同南駅、同西駅はそれぞれが新築。こちらも市内のホテルからタクシーを飛ばして1時間近くかかる。

 第四にサービスが不便で外国人観光客の評判が悪い。たとえば駅のセキュリティ・チェックに20分を費やす上、外国人はパスポートがないと切符も買えない。また待合室からプラットフォームにかけてキオスクがない。時刻表を売っていない。駅員はつっけんどんである。
 だから開業から三ヶ月経っても北京─上海間の乗客は2割か3割しかなかった。一等車両はガラ空きだった。

 なにはともあれ、北京ー上海間の新幹線に乗るために北京の定宿に二泊した。理由は、その時点で新幹線は人気沸騰、二日後にしかチケットは取れないというのが事前の噂だったからだ。
外国人はパスポート提示でしかチケットは購入できないため日本から中国の代理店に予約出来ないシステムだった。
最初に宿に近い建国門外の切符売り場に行くと、「パスポート読み取り器械がないので北京駅へ行け」と言われた。北京駅で新幹線切符専用窓口を探し、三十分並んで、やっとこさ翌々日のチケットを購入した。
 翌日は情報通と会う予定だったが、電話すると急用でふさがったという。そこで友人と北京ダックをたべに全聚徳へ行った。行列一時間。超満員である。市内ではタクシーがつかまらない。行きも帰りもすし詰めの地下鉄。なぜ景気が良いのか、不思議だった。

 不動産価格は下降に転じており、株式は低迷のまま。しかも北京のホテルはつくりすぎて何処もダンピングの最中というのに、北京の市民は景気がよさそうだ。
 昼は前門も王府井も見飽きたので、新名所の后海へ行った。中南海につながる人工湖、その周辺に風情あるレストランとバアがぎっしり、デートコースでもあるが、外国人がとくに喜びそうなアミューズメント・センターの趣がある。人力車が走っている。レトロなおみやげが並び、写真屋がいる。この町野外れで「文豪」といわれた郭末若の旧居が「文学館」となっていて、一見の価値がある。郭が激動期をいかに狡猾に世渡り出来たか、贅沢な暮らしが出来たかの謎が、ここの展示を見ると解けたような気がした。

 ▲旅はいつも「早朝特急」から始まった

 試乗日は早起きして午前七時には食事を済ませ、タクシーに荷物を積んだ。早朝だとタクシーはつかまる。

 だから小生の旅はいつも「早朝特急」から始まる。北京南駅まで四十分で到着したので構内の上島珈琲でコーヒー、嗚呼、まずくて高い。
 上海までの新幹線は左右見慣れた風景が連続し、「これっ!」という新景色はない。窓の外をスケッチしながら時折、電光掲示板を見入る。北京から上海まで300~310キロを維持して見せた。
 グランクラスの乗客は企業幹部のようで(といっても二十四人定員に八人しか乗っていないが)、なんとなくムードも贅沢になれた人たち。携帯電話もせわしなくない。悠揚迫らぬ態度で新聞を読んでいたり、列車が停車するとプラットフォームに降りて煙草を嗜んだりしている。
 途中、やることがなくなったので座席をベッドにして昼寝を試みた。上海虹橋駅に予定通り一分の遅れもなく到着。ただし、この駅から宿舎のホテルへタクシーで一時間かかった。高速道路が渋滞表示、下の一般道へ降りたのが失敗だった。

 上海では産経新聞の河崎真澄・上海支局長(当時)と夕食の約束。シャワーを浴びただけで約束の時間となりロビィで一年ぶりの面談。蒋介石の幹部だったという有力者の屋敷跡が瀟洒なレストランに改造されたというので、そこへ行くことにした。
 すばらしい庭、丹誠込めて作った形跡がありありとしている。ボーイ、ウェイトレスも洗練されている。往年の上海租界の再現か、という雰囲気である。
料理もなかなか、紹興酒も上等なものをそろえていた。値段を心配したが、定宿のレストランの半値で済んだ。

 こういう穴場が上海にたくさん開店しており、上海に中国人の知り合いが居ないとなかなか情報が入らない。『地球の歩き方』の情報は一、二年遅れである。
 外国人に人気のある田子坊(浅草と表参道を混交したような観光スポット)にも行ったが、最近どうやら日本のガイドブックで紹介があったらしく上海の街では見かけなかった日本の女性ツアーがやけに目立った。
     

アマゾン、ベストセラー一位!
https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/554192/ref=zg_b_bs_554192_1
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林房雄『神武天皇実在論』(ハート出版。解説・宮崎正弘)
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 嘗て日本を震撼させた『大東亜戦争肯定論』の著者・林房雄が挑んだ日本人の起源!
「本書の復活は、日本史の謎の究明にいどむ一方で、戦後の歪な偏向歴史教育の是正にも繋がり、様々な文脈において意義深い」(宮崎正弘・解説)
 2000年以上続く世界最古の王朝の謎を探る。今なお、色褪せない珠玉の歴史評論。科学は全て真実ではない。3分の1の事実をもとに3分の2の仮説で成り立つ。偽書として封殺された『富士古文書』や上記(うえつふみ)』なども駆使しながら、なぜ日本に天皇という存在が生まれてきたのかを探る。決して上か目線で言い切らず、数々の傍証を提示し、読者の熟考を促す。
 天皇とは何か、日本人とは何か、を考える国民の必読の書である。
  ●定価1650円  (キンドル1320円)
半世紀前の名著、ここに復活!!

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(読者の声1)友人より(元々ドイツ駐在だったのでドイツ語もできる男)下記ご参考まで:そのままお伝えします。
 ドイツの有力中道誌である Weltによる対中関係のコメント。漸くドイツ産業界も分かり始めてきた様だ。
 今年9月にライプチッヒで予定されていた EU理事会議長国(輪番制)のドイツと中国との首脳会談はコロナウイルスの為に急遽キャンセルとなった。
 両国間の経済的結びつきは、例えばVWは毎秒一台の車を中国市場で売るというほど深まり過ぎて、ドイツ企業にとっては米国政府からの対中デカップリングの要請圧力に従う事は悪夢の結果につながると恐れている。それによりドイツ企業の幹部は中国の少数民族問題や香港問題についての政治問題には一切口を閉ざすという傾向が見られて来た。
 しかし現実的には中国に進出する外国企業が中国企業との合弁なしで中国に進出する事は不可能な事から、合弁相手の中国企業に技術が盗用され、競合企業を作られてしまうという結果を多くのドイツ企業が経験している。
またドイツ企業の中国での事業活動はドイツ国内の雇用状況や税収に貢献していないという面もあり、結局はメリットを享受しているのはドイツではなく中国だという事となり、最早「中国の為に何もかも我慢しなければならない」という状況ではない。
 https://www.welt.de/wirtschaft/article209346567/Globalisierung-So-abhaengig-sind-wir-wirklich-von-China.html
  (AO生、世田谷)

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(読者の声2)朝夕の電車も通常の8割くらいまでの混雑、土曜の夕方の道路は以前と変わらぬ渋滞で日常が戻ってきた印象。
 アメリカのデモの背後に中国がいるというのはほぼ間違いないのでしょう。日本でもクルド人やら黒人を使って差別反対デモを画策している。
「もえるあじあ」というさいとで渋谷のデモを取り上げていました。
https://www.moeruasia.net/archives/49664386.html
 そのなかに名古屋で行われるデモの告知ポスターがあります。使われている漢字の字体が日本とは微妙に異なるので中国製の偽物とすぐにわかるアジアの偽日本製品と同じ。
https://www.moeruasia.net/wp/wp-content/uploads/2020/06/index_5-31.jpg
 差、反、曜、所、後の字体が中国のもので丸わかり。沖縄の辺野古の反基地連中もハングルを隠していませんがこんな雑な工作に引っかかるのはよほどの左巻き。左翼界隈には中韓の帰化人や在日が多いのでしょう、日本人の感性とはかけ離れたデモばかり。特定アジア(中朝韓)とは縁を切るのが正解のようです。  (PB生、千葉)

      
6月22日発売  予約募集中!
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  ▲
宮崎正弘『WHAT NEXT(コロナ以後大予測)』(ハート出版)
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 ──コロナ禍で人生が変わった人が多い
──誰もが気にし始めた「WHAT NEXT」
日本はこの「鎖国」をチャンスに活かせないでしょうか? 大きな流れとしては、
(1)グローバリズムの大後退。
(2)ナショナリズムの復権。
 (3)中国基軸のサプライチェーンが全世界的に改編され、
 (4)コロナとの「共存」時代がくる、ことです。
 長期的には思想、哲学に大きな変化があらわれ、多死社会(看取り社会)の到来に死生観の適正復帰が行われるでしょう。輪廻転生の考え方が真剣に考え直される。
 地政学的には「米中対決が最終戦争」段階へ、つまり「金融戦争」です。すでに香港への優遇措置剥奪を表明した米国は中国の「在米資産凍結」を視野に入れています。
 対抗する中国はドル基軸態勢の崩壊を企図して、「デジタル人民元」を「次のウィルス」とする気配が濃厚。
独特で伝統的な日本の文化力の回復。国風の復活があってこそ、自律自存の国へ復活することになる流れがあります。 
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七週間連続ベストセラー第一位(アマゾン、中国経済事情分野)
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宮崎正弘『「コロナ以後」中国は世界最終戦争を仕掛けて自滅する』(徳間書店)
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 「中国を放棄せよ」というのが本書の基調です
 嘗て石橋湛山は『満洲放棄論』を訴え、世間から総スカンだった。当時の日本は満洲、朝鮮、そして台湾に莫大な投資をなし、開拓団から満鉄、既存の秩序、利権、人員配置などにとらわれすぎて、撤退どころか、泥沼に嵌り込んでいた。ソ連が攻め込み、大虐殺のはて、日本の投資はすべて放棄されられた。
(似ていませんか?)トヨタ、ホンダ、日産等々。
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宮崎正弘 v 石平『ならず者国家・習近平中国の自滅が始まった!』(ワック)
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 宮崎「『中国は猛毒を撒き散らして自滅する』という本を13年前に書いた。その予測は不幸なことに的中。日本よ、一刻も早く中国という『泥沼』から脱出せよ」
 石平「『消防士のふりをする放火犯』=習近平は『裸の王様』だ。世界中から損害賠償を請求されて中国は潰れる。今年は中華帝国の本格的崩壊が始める年となろう」
 https://www.amazon.co.jp//dp/4898318207

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<歴史評論シリーズ >
下記二冊は在庫なし、キンドル版でお読みいただけます。
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『神武天皇以前 (縄文中期に天皇制の原型が誕生した)』(育鵬社、1650円)
https://www.amazon.co.jp/dp/459408270X/
『明智光秀 五百年の孤独』(徳間書店 定価1650円)
 https://www.amazon.co.jp/dp/B07PWLGXRS/

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『吉田松陰が復活する』(並木書房、1620円)
『西郷隆盛 ──日本人はなぜこの英雄が好きなのか』(海竜社、1650円)
『取り戻せ! 日本の正気』(並木書房、1650円。在庫一冊のみ)

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<宮崎正弘のロングセラーズ> 
『新型肺炎、経済崩壊、軍事クーデターで、さよなら習近平』(ビジネス社)
https://www.amazon.co.jp/dp/4828421769/
『CHINAZI(チャイナチ) 崩れゆく独裁国家・中国』(徳間書店、1540円)
https://www.amazon.co.jp/dp/4198649871 (在庫僅少、キンドル版もあります)
『世界から追い出され壊れ始めた中国』(徳間書店、1430円)
『地図にない国を行く』(海竜社。1760円)
『「火薬庫」が連鎖爆発する断末魔の中国』(ビジネス社、1540円)
『日本が危ない!  一帯一路の罠』(ハート出版。定価1650円)
『AI管理社会・中国の恐怖』(PHP新書。967円)

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<<宮崎正弘の対談シリーズ>> 
渡邊惣樹 v 宮崎正弘 『戦後支配の正体 1945-2020』(ビジネス社)
姉妹編 宮崎正弘v渡邊惣樹『激動の日本近現代史 1852-1941』(ビジネス社)   
  ♪♪ 
宮崎正弘 v 渡邊哲也『コロナ大恐慌中国を世界が排除する』(ビジネス社)
宮崎正弘 v 田村秀男『中国発の金融恐慌に備えよ!』(徳間書店)) 
宮崎正弘 v 高山正之 『世界を震撼させた歴史の国 日本』(徳間書店) 
宮崎正弘 v 大竹慎一『中国大破綻』(李白社)
宮崎正弘 v 河添恵子『中国、中国人の品性』(ワック)  
宮崎正弘 v 宮脇淳子『本当は異民族がつくった虚構国家 中国の真実』(ビジネス社) 
宮崎正弘 v 西部 邁『アクティブ・ニヒリズムを超えて』(文藝社文庫)  
宮崎正弘 v 藤井厳喜『米日露協調で、韓国消滅!中国没落!』(海竜社)
宮崎正弘 v 室谷克実『米朝急転で始まる中国・韓国の悪夢』(徳間書店)
宮崎正弘 v 福島香織『世界の中国化をくい止めろ』(ビジネス社)
宮崎正弘 v 馬渕睦夫『世界戦争をしかける市場の正体』(ビジネス社)
宮崎正弘 v 小川榮太郎『保守の原点』(海竜社)
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