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ストイックなのに怠け者

周りと比較してみると、私は自分から進んで妥協できないということに気づいた。それは恋愛だったり、商品選びだったり、さまざまなことにおいて当てはまるのだが、今回は大学院生らしく論文の執筆過程を例にとろうと思う。

例えば論文を書くとき、禿げるまで悩んで辿り着いた暫定的な論文の結論(プロの研究者もそこに落ち着いているような)に全く納得できず、さらなる高みを目指してしまう。それ以上を望める能力も資質も備わっていないのに。気づけばまた無謀な旅に出ては自分の能力に絶望する。繰り返される無限ループ。

しかし困ったことに悩んでいる時間はかなり苦しいけど、閃いてからノリノリで書けてるときは楽しい。自分はいつもこの論文執筆のジレンマに「ハマる」。とはいえやはりどうにも論文の原稿執筆過程が苦しく、このままだと精神が侵されそうなので、自分の執筆過程を分析して効率化を試みようというのが本稿の目的である。

1. 諦めるということの難しさ

「制限が書くことの支援となる」

これは哲学者であり小説家の千葉雅也さんの言葉である。彼はTwitterの字数制限や原稿の締め切り、workflowyといった有限性の高いツールなど外在的な制限の要素によって引き起こされる一種の諦めによって執筆を区切るという書くことの方法論化を試みている。

私が目をつけたのもここである。思うに、書ける、ノっているという事象の裏にはこの諦めが存在している。私の場合、ノっているときはいつも締め切り直前である。ノるまでは本や論文、webページを用いて必要以上の調べ物をしたり、ギターを鳴らしてみたり、お菓子をつまんだり、一服したりと始終気が散りっぱなしなのだが、いよいよ締め切りが目の前に迫ってくると様子は一変し、切迫した面持ちでパソコンの画面に向かうのである。ノっているときは毎度のことながら自分はなんて怠け者だったのだろうかという後悔を噛み締めながらひたすらキーボードを撃ち続ける。そして多く場合少しだけ締め切りの時間をオーバーして6,7割の完成度の原稿を提出することになる。

「もう少し早い段階からこの集中モードに入っていればもっとすごい原稿が書けたのではないか」

と、原稿を提出するときにいつも思う。でもこれは毎度のことなので自分はどうしても締め切り直前にならないと執筆が捗らないのだろう。そういう性格なのである。

なぜ同じような後悔を繰り返してしまうのだろうか?おそらく初めから素晴らしい論文を書こうと意気込み過ぎているのである。学習能力の無い私はいつも執筆が始まる頃には実力の120%の原稿が書けるだろうと過信し、情報収集に明け暮れる。
そうして情報収集が行き過ぎて、とっ散らかった頭で締め切りの前日を迎えるのである。ここからようやく本格的に構成を練り始め、実際の執筆段階は1日だけという割と鬼のようなスケジュールでこれまで原稿を出してきた。

ここで重要なのはやはり諦めなのである。勇気ある撤退である。情報収集も今回はこれくらい情報を集めたら中断しようという諦める強い意志が必要である。しかし先ほども述べたように、意志といった抽象的で不確かな内在的要因だけに頼るのでは心許ない。実際、私は私の弱さ上に幾度も自分の意志に裏切られているのである。

2. 外在的な要因

ではどうすればいいのだろうか?そこで外在的な要因の登場である。この場合は、嘘の締め切りを自分に設定して自分を騙す。つまり本当の締め切りよりも前に設定した嘘の締め切りによって、執筆過程の終盤で生じる諦めを早めに持ってくるという試みである。例えば、論文の締め切りの1週間前に嘘の締め切りを課しておいて、それまでに原稿を完成させる。そうすると私はこれまで通りの切羽詰まった様子で6,7割の完成度の原稿を仕上げるだろう。とりあえずの原稿を仕上げたら、1週間かけてその原稿を推敲し完成度を引き上げていくという方法である。

この方法は上手くいけば御の字だが、正直嘘の締め切りによって自分自身を騙せるのだろうかという不安はある。嘘の締め切りとは自らが作り出した幻であり、嘘ということを自分がすでに知ってしまっているので、いつでも嘘の締め切りを自身の手で抹消することができるのである。これが内在的な要因を軸にすることによるリスクであり、弱さである。それは自分の意思の弱さと地続きである。

こうしたリスクを回避するための対策として
①自分の嘘の締め切りを周りに公言することによって後に引けない状況を作り出す
②別の仕事の締め切りを重ねて詰め込んで、自らを極端なまでに追い詰める
という上記2つの方法がある。これは実験上、ある程度の効果が期待できることが分かったが、精神的・肉体的にかなり追い詰められるためできれば別の打開策を見つけたいところでもある。

今述べたようなことは、外在的に後に引けない環境を設定することで自身に執筆を促す方法である。しかし外在的な要因も万能薬ではない。あくまでも一時的な効率化を促すカンフル剤である。ただ意思の弱い自分にはまだカンフル剤が必要になりそうだ。

そう思った私はtak.著の『アウトライナー実践入門』を読み、アウトライナーという「有限性の装置」を使用することにした。アウトライナーの機能と有用性についてはtak.の著書を参考にして欲しいが、私が使用しているworkflowyというツールは書くという行為の敷居をかなり下げてくれた。しかし、やはり論文についてのアイデアは煮詰まるし、締め切り直前まで執筆が捗らないという問題は依然として残されたままである。workflowyを使うことで論文の質が上がったのは事実だが、根本の解決には至っていない。苦悩に終わりはないのだろうか。

3. ロールモデル:村上春樹

そこで私は気分転換に目指すべき執筆のロールモデルを探してみた。多数あるなかで理想に近い方法を実践していたのが村上春樹の執筆方法である。彼は毎日同じ時間に起床し、起床してから間もなく机に座り、凄まじい集中力で一定の量の原稿を午前中に書き上げる。執筆が終わると、午後は散歩に出かけたり好きな音楽を聞いたりして仕事を午後に持ち込まない。こうした慎ましやかな生活をコンスタントに続けるという執筆方法である。彼はこの方法をルーティン化させることによって第一線で作品を生み出し続けている。

気負わず、淡々とやるべきことをやる。習慣化の力は絶大である。しかし習慣化は自身の意思の弱さを強化してくれるシンプルな取り組みである一方で、意外とハードルの高い取り組みでもある。多くの人が挑戦しては、習慣になる前に挫折してきたのだろう。私自身3日しか持たなかった。しかし同じような取り組み方を部分的に設けることは可能なのではないか?まずは自分にできそうなレベルのことからはじめてそれを継続してみればいいのではないか?

そう思った私は今朝から1日のいいスタートを切るために午前中の時間を使ってnoteを書くことを始めた。しかし、私は朝が苦手なので早朝には起きないし、執筆しているものはまだヘビーな論文ではなく、よりライトなnoteである。村上春樹の方法論をかなり自分に合わせて変えている。まずはここからはじめる

4. 「煮詰めていこ」

実は今から約2週間後に新たな原稿執筆の締め切りがある。そして私は1週間後に嘘の締め切りを設けている。先に述べた外在的な要因である。これはもう変えられない原稿の締め切りだと毎日自分に言い聞かせている。今回は不思議と何の差し迫ったタスクにも追われていない現在の段階から本格的に取り組もうという意欲が湧いている。このまま順調に進められるかはわからない。しかしこれまでとは異なる執筆になる予感がするのである。今の自分はこれまでの自分とは違う。こうした自分の状況は、これまでの分析を無に帰すものだと読者の方々は考えるかもしれない。どうせ今回も自分の弱さに打ちひしがれて、中途半端な原稿しか生み出すことができない。このバカは分析まがいのことをしてみながらも、何の学習もせずにまた同じことを繰り返すんだ、と。それでいいのである

私は気づいた、というか開き直ってしまった。結局は外在的な要因も大事だが、失敗を重ねて少しづつでも学習し成長する内的な自己が重要であるのかもしれないと。毎日執筆できないと悩み、弱い自分を恨む時間がよりよく毎日を生きるための狡知を少しづつ形成してくれる。今なら実感を持ってそう断言することができる。

私はこれまで理想だけが高かった。でも理想が高いということには積極的な意味も見出せるのだ。そもそもの理想が高くなければ、怠け者の自分は何かで達成感を得られることなんてあっただろうか?達成感からくる感動を覚えることはあっただろうか?あまりなかっただろう。自堕落な生活で落ちぶれて、そのことに何の不満も持たず、それを当たり前として生きていただろう。理想だけが高い自分としてはそれは耐えられない。でもそもそも理想が高くないからそういうことに問題意識を持たないだけであって、問題意識がもとよりなければその人の主観的には全く不幸ではない。むしろ幸福なのかもしれない。そんなことを毎日ウダウダと考えている。自分を正当化しようとしているだけなのかもしれないが、確かにもがいている。

どんなに惨めで苦しかったとしてももがくことが大事である。どうにかやろうともがくことが、やれるようになることへの僅かな前進になっている。つまり、もがかなければ前には進めない。僅かでも進むことができたなら少しづつ改善することができる。

これまでの私はアウトプットする術を知らず、無謀にも完璧主義的に能力を出し切ったものをアウトプットしようともがいていた。そして自分の意思の弱さを思い知り、諦めることの重要性を認識し、そのために外在的な要因を取り入れることを学んだ。しかし外在的な要因で自分を奮い立たせることも一つの方法論的な技術に過ぎない。全てのことはそうした取り組みを悩みながら考え続けることで少しづつ成長する内的な自己が促すのである。根本的な自分の怠け者という性質は治らない。しかし、もう根治しようとは思わない。何もできない日もあるだろう。上手くいかない日のあるだろう。そうやって自分をそういうやつだと受け入れてあげる。結局、自分の厄介な性格を自覚してそれと向き合ってどうにかこうにか生きていくしか無いのだ。そう考えると、生きていくって大変なことだけどどうにもやめられない、病みつきになる楽しさを秘めているもんだなと。当初の目的から飛躍して別の位相に着地してしまった感はどうにも否めないが、自分らしく不恰好な結論で終わりにしたい。


最後に、友達から言われた一言を悩める同志たちに贈りたい。私はひとりもがいていた夜に、「煮詰まってる」と友達にメールを送った。しばらくすると友達から返信があった;

「煮詰めていこ」
「砂糖は煮詰まると固まるんやで」


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