第13話 第2次日韓協約のご都合主義(授業7回目)
(表紙の画像はAIによって作成された)
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で吉田松陰が伊藤博文を「周旋の才あり」と評したそうです。元ネタは何かな、と思いましたが、そういう趣旨を松陰が書いた手紙があるそうです(伊藤之雄、『伊藤博文』)。後世から見れば、伊藤のキャラクターを決定づけるほど的を射た評価です。しかし、第2次日韓協約ほど、この才能が痛惜な結果をもたらした例はなかったろう、と後世に生きる私は感じます。
教科書での関連する記述
保護国化のご都合主義
日本史教科書を読んで分かるように、保護国化=第2次日韓協約=韓国保護条約だ。その条文を『日本外交年表並主要文書』で確かめよう。
保護国化とは韓国から外交権を奪ったことだった。日本史教科書は親切にも、米英も協力したことを、桂・タフト協定と第2次日英同盟に触れて教えてくれる。事実だけを淡々と伝えて、「自虐」にならないよう気をつけているのだろう。自虐と自省は違うと思うのだが……
あるいは、保護国化と直接統治とでは大差があるという考え方もあるかもしれない。保護国化の影響は対外関係中心にすぎず、現地の制度や文化を根絶やしにする直接統治とは区別できる、とみなせばだ。モロッコやトンガの王室のように李朝が存続していたら、創氏改名もなかったろう。
しかし、保護国化から併合まで短期間で進んだことを考えると、李朝の存続に意義があると日本政府が見ていなかったことは明らかだ。軍部にとって、満洲の植民地を守るため、他の列強を排除した橋頭保が絶対に必要だった。他方で、英米はじめ列強は日本の経済的独占を許さないし、直接統治は韓国の民衆を立ち上がらせ、治安を悪化させてしまう。落としどころが保護国化だったのだろう。
伊藤博文個人は伊藤之雄氏の言うように理想の韓国統治を目指したかもしれない(『伊藤博文をめぐる日韓関係』)。しかし、自力で韓国をわが物としたと考えた陸海軍と内閣は、保護国化をゴールとは思わなかったろう。
伊藤博文の説得
韓国側は、なぜこんな保護国化を受け入れたのか? 受け入れてない、という答えが一方にある。協約の無効論には、強制があったという説と締結手続きに瑕疵があったという説がある。日本側では有効論が強いので、ナショナリズムとともからんで、論争は尽きない。国際法の論争については海野福寿氏の『韓国併合史の研究』が詳しい。
韓国の皇帝と大臣は保護国化を甘く見て、挽回できると考えたかもしれない。これは亡国への道だ、と察して協約への署名に抵抗した大臣もいたが、それほど思いつめずに同調した「親日派」が多数いた。実際、日本に内緒で外交を取り戻そうとしたハーグ密使事件が1907年に起きた。
国際法の論争は世界法廷に訴えないかぎり解決しないし、韓国側の腹の内は今からのぞくことはできない。
署名の説得が実際にどう行われたかを知っておこう、というのが今回の話の趣旨だ。
説得の役割をかってでたのが、周旋の才があるとされる伊藤博文枢密顧問官だった。説得の様子が『日本外交文書』第38巻第1冊の番号249附記1第4号「日韓新協約調印始末」に記録されている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0005/0001/0038/0778/0353/index.djvu
(私のPCでは、なぜかEdgeに「Google Chrome エクステンション DjVu.js」が導入できた)
私には伊藤の説得が緊迫感を作りだし、署名を急かせようとしたものに感じられる。皆様の感想を伺いたい。
言葉も文化も違う外国人に彼の周旋テクニックが通じたとは思えない。よしんば大臣たちへの説得が成功だったとしても、外交は相手の国民を説得しなければならないものだ。その後、頻発することになる民衆の抵抗運動は保護国化の計画がそもそも実現不能だったことを証明する。
イギリス外交官はどう見たか
第2次日韓協約をアジアに駐在するイギリス外交官はどう見たか? イギリス国立公文書館(TNA)の外務省文書FO 881/8703で追う。
伊藤はソウルに出発するまえ、イギリスの駐日大使に自らの役割を語った。保護国化の手本はイギリスだ、と言ったのだ。それを聞いたクロード・マクドナルド大使は有能な植民地経営者だった。 まるで、冒険をともに楽しむ仲間のようだ。エジプトでイギリスがどれだけ血を流してきたかを伊藤は知っていたのだろうか。知っていたとしても、関心外だったのだろう。
調印までの経過については、ジョン・ジョーダン駐韓弁理公使の報告がある。「日韓新協約調印始末」に対応する箇所を引用する。こちらの情報源は主に韓国側だという。
これを強制と呼んでよいのか? 宮殿と街が軍隊に制圧されていたのをどう評価するか? 皇帝に謁見してはなぜいけないのか? 必ず意見が分かれる論点なので、私自身は判断しない。ソウルという街は数十年間、政争ですさんでいたので、一触即発の何かがあったかもしれない。
アナロジーを使えば、王政復古の大号令を発した京都御所と同じ状況だった。雄藩の兵隊が、幕府に温情を求める松平春嶽と山内容堂を黙らせた。「玉」すなわち君主を手中に収めてしまえば、重臣たちは言われるがままだ。体のいい人質になるだからだ。言うまでもなく、主権国家を相手にした政略ではない。
外交権の東京への移動にともない、ソウルにあったイギリスの公使館は撤収し、同国は領事館を残すだけになった。イギリスは日本政府の方針に当然のごとく従っている。本当は、第三国と韓国との紛争でイギリスは周旋の労をとる、という条約が19世紀に結ばれていた。なんでそれをしてくれないのか、という韓国側の抗議は黙殺された(FO 881/8703, pp. 35-37)。
まとめ
「日韓新協約調印始末」では、協約の署名に反対した韓国の首相を、伊藤は南宋の政治家、文天祥、の名を挙げて慰めた。モンゴルの侵略に最後まで抵抗し、殉じた愛国者になぞらえたのだ。文天祥の「正気の歌」を愛吟したのは幕末の志士たちだった。愛国心に異なるところがあろうか? 雲の上の高みから見下ろす伊藤に、坂の下で斃れた攘夷の同志たちはいかに見えたろう。文明化が激しく非難される時代が来るとは想像もしなかったにちがいない。
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