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全然乗り気じゃなかったnoteを書く理由

最近やっと重い腰を上げてnoteを書き始めたので、なんで始めたのか?書いてみてどうだったか?を言葉にしてみます。

私と同じように乗り気じゃない人が、「ま、やってみっか」と1ミリでも思ってもらえたらいいなという気持ちと、せっかく書き始めたんだから継続できるようにここに理由を書き留めておこう、という気持ちで書きます。

「目立ちたがり屋が書くブログ」みたいなものだと思っていた

「note始めました」の声を周りでよく聞くようになったとき、正直自分には関係ない世界のものだと思っていました。昔からある、いわゆるブログサービスみたいなものだと思っていたので、著名な経営者や作家、色々語れることのあるスゴイ人たちが発信する場所なのかなと。そう思っていた私は、スゴイ人たちのありがたい情報を受け取るという立場で利用をしていました。

書くことは嫌いではないけれど、自分に何か語れることがあるようには思えなかった・・・こういうのは「目立ちたがり屋」の人たちが自分を主張したくてやるものだとすら思っていたのです。「私はどこにでもいる会社員で、フツー過ぎる人生を送っているし、全世界に向けて発信することなんてない」と。

だから、社内で勇気ある若者たちが率先してnoteを書き始めたときも、その姿を見て「すごいなあ」とただ眺めているだけでした。「言語化の練習になる」「ライティングスキルが磨ける」とメリットそうなものを聞いても、なかなか書こうと思えない。要するに、食わず嫌いをしていました。

ビックなことを語れなくていい。等身大の気づきこそ、価値があると思えた

そんなある日、マネージャーとの1on1でふとこんなことを言われました。

「未経験で採用を2年間やってきたこと、書いてみたら、いくみんにしか書けない記事になるんじゃない?」

実は以前にも同じようなことを言われた記憶があるのですが、全然乗り気でない私はイマイチ腑に落ちず、「そんなものだろうか」とその言葉を頭の隅っこに追いやってしまっていました。素直じゃないですね。笑

しかし、ここ最近で次々とnoteを書き始めた後輩社員たちが、日々のちょっとした気づきや個人的な体験談を発信している姿をみて、私は薄々と思い始めていたのです。「等身大の想いや個人的な体験」こそ「自分にしか書けないこと」で、それだけでも価値があるのかもしれない、と。これまでずっと、「人に見せられる素晴らしいもの」でなければ、恥ずかしくて出せないと思っていたけれど、「等身大の気付きを、ただ言葉にしてみる」こと自体が、大事なのではないか。行動に移せずにいた間にも、実際に後輩社員のnoteや流れてくる記事を読んでいるうちに、ますますそう思えてきました。

そんな時に言われた、マネージャーの一言。
そうか、じゃあ改めて自分なりの目線で書いてみよう、という気持ちになったのです。
さらにそんな矢先、私の気持ちを後押しするような形で、準MVPの受賞という出来事も起こります。運に背中を押された感はありますが、今こそ自分の「等身大の気づきや学び」を書いてみようと、重い腰を上げることにしました。

その時書いたnoteがこちらです。

実際に書いてみて、とても疲れました。意気込んだものの、結局はすごく普通なことしか書けなかった。すぐに「こんなんでよかったのか?」という気持ちになりました。でも、記事を読んだマネージャーから「すごく良かった。最後のパートがグッと来ました」と言われたことや、知らない方からのスキや Twitter での反応をもらえたことで、「等身大の発信でも、少なからず誰かの心に届く」と体感できたように思います。

この記事ではないですが、こんな反応をいただくこともできました。社内の人はよくツイートしてくれたりするけれど、面識のなかった方からもリアクションをいただけるのはとても励みになりますね。


「書く」ことで気づいた、アウトプットの先にあるもの

初めて腰を据えて書いた記事をとおして「等身大でいいんだ」と思えたことは、すぐに次の記事を書く理由になりました。「こんなのでよければ、もっと書けることあるぞ。」とすら思えるほどに、アウトプットしてみることへのハードルが下がったと思います。

そんなこんなで2つ目の記事を書いた時、ふとこんなことに気づきました。「書く」ことは、ただ単に「アウトプットする」だけではない。「書く」ことで得られるものがあると。

1つ目は、「思考のケリ」を付けられること。「思考のケリ」とは、頭の中にふわっと広がっている漠然とした思いや感覚が、言葉を選ぶ過程をとおしてくっきりと浮かび上がってくることです。書いているうちに、「自分はこう思ってたんだ」「この感覚ってこういうことだったのか」と、思考の過程にあったものが、「書く」ことで形になって見えてくる。そうやって「思考のケリ」がついていくような感覚がありました。心の中ではあれこれ考えているつもりでも、目に見える言葉という形にすることによって、もう一歩深いところへ降りていけるのかもしれません。

2つ目は、自分を客観視できること。自分が書いた文章を読んでいると、言葉の選び方や語り口からなんとなく自分の存在感みたいなものを感じます。その自分の文章を読むことで、言葉となって自分から切り離された「自分」を垣間見れるような気がするのです。だから、読んでいるとふと「あれ、これってこういう意見もきっとあるよな」とか、「ちょっとここは視点が偏っているかもな」という考えが浮かんでくる。言葉にしてみることで、違った角度から自分の考えを見れるような、そんな感覚です

どちらも、今すぐ成功につながるようなスキルや力ではないかもしれません。ただ、続けていくことで、抽象的な物事を的確に言葉にすることができたり、多角的な視点で考えられるようになったりするんだろうなと思うことができました。逆に、他の方法ではなかなか鍛えられないことなのではないかとも感じます。
他にも、書いた記事のエンゲージメントを目標にして「伝わる」文章スキルを磨いたり、タイムリーなネタで狙ったインパクトを与えられる仕掛け力を鍛えたり、色々得られるものはあると感じます。ただ、個人的にはそこをいきなり狙うのはハードルが高すぎるので、書くこと自体で鍛えられる力があると感じられたことが収穫です。(笑)

やってみないと、わからないことがある

長らく食わず嫌いで「書く」ことへの扉を閉ざしてきた私ですが、まずやってみたことでそれなりの収穫がありました。面倒くさいし、何を書けばよいかわからないし、目や肩も疲れる…。だけど、自分のために続けてみようと思えるほどには、1記事目を書いてよかったです。

過去のこと、現在のこと、未来のこと、なんでもいい。
何者でもなくていい。
等身大の気づきや想いを、まずは言葉にしてみる。

私は究極の面倒くさがり屋なので、こんなスタンスでこれからもゆるりと頑張ってみようと思います。

読んでいただきありがとうございました。

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