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「文を書くこと」を虫眼鏡で見てみる


私は文を書くのが好きだ。

自覚したのは最近だ。
(私は30代後半)

「書く」ことは、今の私にとって、
「自分を救う手段」である。


だからこそ今、
「書くこと」が好きになったきっかけは何だったのかを分析してみたいと思う。


この記事は、後に、加筆・修正して
編集者|藤原華さんのコンテスト「なぜ、私は書くのか」に提出しました。
そちらの記事の方が、想いを掘り下げて書くことができました。

↓こちらをお読みくださると嬉しいです。


今思い出せる、最も幼い頃の「文を書く」記憶


それは、小学生の頃の「手紙」だ。

「手紙」といっても、投函はしない。

近所に住む幼馴染の友達と、机に向かって2人で座り、
小さな小さな手紙を書き合っこするのだ。


当時、我が家には、藁半紙がストックしてあった。あの、すこし茶色っぽい、ざらざらした紙。(藁半紙って、今見なくなりましたね。)

6×4㎝くらいのミニサイズに、沢山切り分けておく。

当時流行っていた、たまごっちのキャラクターを描いて、吹き出しを描いて、ひと言書いたりして。

その、”ちび手紙”を、隣に座る友達に渡す。すると、友達はお返事を書いてくれる。

そのお返事に対して、私がまたお返事を書く。

これが繰り返される。
そういう、やりとり。


その手紙は、一言ずつのやりとりだから、
1度やると、読み終わったミニサイズの手紙が沢山出る。

それを保管するわけでもなく、
終わったら捨てる。

友達は隣に居るんだから、口で喋ればいい。

だけど、敢えて「書く」やりとりが楽しかったんだと思う。



”敢えて「書く」やりとりが楽しかった感覚”って、なんだろう?


ここを、虫眼鏡で見てみようと思う。

最近、私は、生活を「虫眼鏡で見る」ことにハマっている。

「虫眼鏡で見る」とは、生活の中の一部に焦点を当てて、つぶさに見てみることを指している。

「文を書くのが好きだった」と、たった一言で言えてしまうことを、その背景や、そこに紐づく想いまで、じっくり観察してみる。

例えば、なぜ好きなのか、どうやって好きになっていったのか、どんな文を書くことに心が躍るのか、文を書くことで自分が何を感じているのか、等を丁寧に見ていく。

そうすることで、
自分自身の特性を大切に感じるようになったり、
生活の中のちょっとした自分の悩みを解決するオーダーメイドな具体策が見つかったりする。

だから、私は「虫眼鏡で見る」ことにハマっている。

(↓他の虫眼鏡シリーズはこちら)


敢えて「書く」理由1

さて、話を戻そう。

小学生の私が、隣にいる友達と口頭でお喋りしたって良いものを、
”敢えて「書く」やりとりが楽しかった感覚”って、なんだったんだろう?

まず、
「私の言葉1つ1つを、大事に扱って貰える嬉しさ」かなぁ、と思う。

口頭の会話なら、言葉が一瞬で流れてしまうことも多いけれど、ちびお手紙なら、一言ずつ、相手に取り上げて貰える。
しかも、一言ずつに、いちいちお返事を貰えるのだ。

口頭の会話なら、話す時、感情が高ぶっていたりすると、私の言葉と相手の言葉が、重なることも、よくある。

例えば、お互い、何を言っているか隅々まで聞き取っているわけではないけれど、なんか面白くて爆笑、みたいな時。
例えば、腹が立っていて、相手の言い分を聞くよりも、自分の想いをわかって欲しくて、言葉を勢いよく相手にぶつけ合う時。

ちび手紙なら、私の言葉を、単体で、確かに受け取って貰える。


敢えて「書く」理由2

”敢えて「書く」やりとりが楽しかった感覚”
2つ目に、
「相手の反応を受けとれる、という面白さ」があったと思う。

例えば、ちび手紙に、私が、ひとこと”質問”を書く。
(この時点で、私の想いを伝えることは完了しているので、ここからは、私にとって余裕のある時間。)

それを隣の友達に渡す。
(余裕がある私は、ちび手紙を受け取る友達の”表情”をじっくり見ることができる。)

友達が、「ニヤリ。ちょっと恥ずかしいけど答えてみたい…(笑)」という表情を浮かべることもあれば、
「うぇっ…!難問…!(苦笑)」と顔をしかめることもある。

私が書いた質問を、友達が確かに受け取ってくれて、その上で反応してくれる、それを味わえる感覚が、面白かったのだと思う。

口頭の会話なら、流れるように言葉が通り過ぎていくので、友達の表情が、どの言葉に対する反応なのか、確かに把握することは、私にとって難しい。受け取りそこねることがある。


敢えて「書く」理由3

”敢えて「書く」やりとりが楽しかった感覚”
3つ目に、
「明確に、”私に向けて”くれた言葉だ、と分かる嬉しさ」が、あると思う。

唐突にプチトラウマ話を書くが、
私は小学生の頃、「お前に言ってねーよ」という言葉に打ちのめされたことがある。

私が小学生の頃、給食は、グループ6人で机をくっつけて食べるシステムだった。

当時、私は人からの見られ方を異様に気にする気質だったので、グループみんなと気軽にお喋りできるタイプではなかった。仲の良い友達とは喋るけれど、少し距離を感じる相手には、緊張する。

ある日の給食時、グループのとある男子が、グループみんなに向けて質問を投げかけた。
「みんなに向けて」というのは、私の主観である。笑

私は、緊張もしたと思うが、なぜかその時、私なりに返事をしてみた。
「みんな」には、私も含まれていると思ったから。

私の返事を聞いた彼は、
イラっとした表情でこちらに一瞥をくれて、「お前に言ってねーよ」と短く言った。私は凍りついて、何も言えなくなった。

(彼が、私に対してその反応を示した背景には、何か理由があったとは思うが、私には、それを想像するのは無理だった。笑)

その体験以降、私は、集団の中で「みんなに向けて」投げかけられた言葉に出会った時、「私に投げかけられたものでは無い可能性」を肝に銘じるようになった。

そんな訳で(笑)、
ちび手紙のやりとりは、私にとって「明らかに私に向けてくれた言葉」という嬉しさ・安心感があったのだと思う。


「ちび手紙」のエピソードからわかった、私が「文を書く」のが好きな理由


以上、
私が今、「ちび手紙」のエピソードを振り返って思うこと、でした。

私にとって、「書く」ことが好きな理由には、
この原体験に大事な要素が含まれていると思ったので、書いてみた。

まとめると、下記の3つである。

1、「私の言葉1つ1つを、大事に扱って貰える嬉しさ」
2、「相手の反応を受けとれる、という面白さ」
3、「明確に、”私に向けて”くれた言葉だ、と分かる嬉しさ」


この
「書く」を通じて人と健全に繋がれるようになったおかげで、
私は、心からの友人ができて、パートナーと一緒に生きて、子どもと一緒に成長していると言える。


私はこれからも書き続けます。



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