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田中元子「マイパブリックとグランドレベル」

第1章を読み終えた時、ぐりとぐらを思い浮かべてしまった。
「ぼくらのなまえはぐりとぐら。このよでいちばんすきなのは、おりょうりすることたべること」
たぶん著者とその夫とのやりとりが、ああでもない、こうでもない、と仲がよいこと、そして、試しにオフィスにバーカウンターを設置して色んなカクテルを作ってみるところが、大きな卵を見つけてそれをどう料理するかという冒険に似ていること、そして、友人たちにふるまう様子が、森の動物たちに大きな卵焼きをふるまうところと似ているからだと思う。

マイパブリックとは、著者の作った造語で、自分自身が「公共」であり、自分で「公共」はつくれるという考え方だ。「公共」とは「与えられるもの」「みんなのもの」というイメージが強いけれど、実はそう決まっているわけではないと提言している。確かに、もちろん行政にしかできないサービスもあるけれど、行政が提供しているけれど民間でもやっているものというのもたくさんある。ここのところ、本当にこれは行政がやった方がうまくいくのか、行政がやるべきことなのか、ということを考えていたので、マイパブリックという言葉はすとんと落ちた。

バーカウンターに始まったマイパブリックをめぐる冒険は、野点より大きくて屋台未満みたいなところを探るところに行きつく。そして、建築家の助けを借りつつ9カ月かけて、パーソナル屋台ができあがる。その屋台で、無料コーヒーを配るという試みが始まる。バーカウンターの時もそうだったけれど、代金を取るわけではない。ふるまうことで、コミュニケーションという楽しみを得ているのだ。そして、代金をいただかないからこそ、無理のないふるまいができるということなのだと思う。最初は遠巻きに眺めていた人たちも、徐々に近づいてきて、あっという間にひとだかりができる。「こんなににぎわったことはない、また来てよ」と言われると、「次はあなたがやってみてください」と答えるそうだ。

面白いのは、このふるまいは、彼女にしかできないというのも違うらしい。それぞれが自分がやってみたい屋台について考える屋台ワークショップの紹介が出てくる。最後に一人ずつが発表すると、誰もがとても面白いアイデアを出すというのだ。依頼されてワークショップを開催したときに、主催者側はグループワークで、と提案したそうだけれど、これは一人一人が考えるからこそ、面白いものが出てくるのだという。自分がやりたいと思うものをひねり出すからだ。

著者の目は海外に向けられる。世界中で様々なマイパブリックの取り組みが行われている。遠く離れていても、その考え方は同じだ。そして、世界では、ビルの地上階部分は、グランドレベルと呼ばれ、まちに開かれていることが多いのだという。目線の高さであり、開かれていれば、吸い寄せられるように入りたくなるしかけ。一方で日本はそういうところは少ない。要は、彼女のが書いてきたグランドレベルの大切さが、すっぽりと認識から抜け落ちているからなのだという。こんな風に書いている。

しかし、もうこれからの時代は、1回のつくられ方を無視することはできない。少子高齢化や貧困など、さまざまな問題が集積する日本社会の再生は、グランドレベルから変えることが必須だ。さまざまな施設のエントランスがただ連なるグランドレベルの風景が、これ以上広がり続ければ、日本の生活、観光、経済などにおける人々のアクティビティが下がる一方だろう。
だからこそ、世界には遅れてしまったが、これからの日本に必要なグランドレベル、1階づくりのルールを、まずは自分達で考えてみよう。

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