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日経xwoman編「早く絶版になってほしい#駄言辞典」

またしても、読みたくない本を読んでしまった。3分の1くらい読んだところで、書かれていた言葉と、今までに自分が受けた色々な嫌な言葉がまじりあって、どんよりとした気持ちになった。
この社会において、周囲の人たちみんなが、自分の考え方と同じようなわけではないということは分かっている。誰しも少しの違和感を持ちながら、合わせていかなければいけないのだろう。もちろん考え方の違いを楽しめるような状況もある。けれども、そうではない時もある。ぶつかり合うところもあれば、納得できないこともある。けれど、どうにか許容範囲に収まっていれば、それを仕方がないと思いながら、毎日を過ごしていくものだ。いちいちそこに引っかかっていては、心がもたない。けれどこの本は、これまでの引っかかりを全部引っ張り出して、明るいところでむき出しにするような本だった。これまで嫌な気持ちになりながらも、仕方ないかと思いなおして受け流してきた言葉が次々とよみがえってきた。
見ないようにしてきたけれど、そうだ、本当は受け流してはいけなかったのだ。だから、そのツケが今、こうやってきているのかもしれない。
この本で集められているのは駄言。次のように定義されている。

【駄言・だげん】とは
「女はビジネスに向かない」のように思い込みによる発言。特に性別に基づくものが多い。
 相手の能力や個性を考えないステレオタイプな発言だが、言った当人には悪気がないことも多い。

2020年11月、日経新聞の紙面で駄言の募集を呼び掛けたところ、想像を超える数の応募があったという。それらには、その言葉を受けた時のエピソードとともに、怒りや悲しみにあふれていたという。その一つ一つが、似たような言葉を言われた経験があるもので、その気持ちも共感できるものだった。女性からのものばかりかと思いきや、逆に、男性による応募もあったという。それは「男性らしさ」という章に収められている。
「男性らしさ」というところを読んでいるうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。仕事社会においては、男性がほとんどだから、性別がどちらかということだけで、いやな思いをする経験なんてほとんどないだろうと思っている。最近は家族を、子育てを大事にする男性もいるだろうけれど、そこを理解されないがために言われることなんて、女性がこれまで苦しめられてきたことに比べれば大したことはないだろう、と思った。
でも読んでいるうちに気付いた。これは全て、自分らしく生きることを否定されることなのだということに。そういう観点で見れば、男性も女性も関係なく、自分の型にあてはまらない生き方への理解不足による駄言に苦しめられるということなのだ。

私はふと、ここ数カ月、話をすると時折嫌な気持ちになる人のことを思い浮かべた。仕事もできて、論理的な話し方をする人だから、何だか自分が間違っているような気持にいつもなり、全般的に自信を失っていた。いつも常に否定的なわけではなかったから、なかなか認めたくなかったけれど、それは、決定的に関係を悪化させないようにと気をつけているからであって、どう考えても、うっすらとした攻撃のように思われることがあった。
その中で、明らかに、ここでいう「駄言」に分類されるような発言があったことを思い出した。「ほとんどの女性は旦那さんの稼ぎがあれば働きたいとは思わない」というもの。もちろん前後の話の流れで出てきたことは理解していたけれど、試しにその部分だけを切り取って、Facebookに書いてみることにした。
すると、色んな方から、その考え方が偏っていること、また、否定的な発言は、自己肯定感の低さや、劣等感の裏返しであるという意見をもらった。
そこからこんな可能性を考えた。私の考え方は、彼が人の考え方はこんなものだろう、と考えている枠組みを超えていて、ちょっと落ち着かないから、否定し、私が納得したりひっこめたりすればよいと思っているのではないか。まあそこまで深く考えて発言しているとも思えないけれど、少しあたっているかもしれないと考えた。というか、そう考えれば気にしないですむかもしれない。
そしてひょっとすると、この本に書かれた数々の駄言は、もしかしたら、自分の考える女性の、妻の、母親の、父親のイメージを飛び出している状況をけん制するために、言っているのではないか、という気になってきた。駄言の主は、世の中が自分の思うとおりになっていないと落ち着かない人間なのかもしれない。少なくともそう考えれば、引っかかることなく、ああ、こういう私みたいな考え方が理解できない、古くてかわいそうな人なのね、と本気で流すことができるのかもしれない。

数々の駄言を浴びて、自分の言われた駄言を思い出して暗くなった後で、キーパーソン6人へのインタビューによる、なぜ「駄言」が生まれるのか、について書かれた第2章は、どっぷり浴びた駄言を吹き飛ばす爽快感がある。それぞれのエピソードを踏まえ、駄言についての考え方、今後駄言がなくなるか、などについて話題にしている。個人的には、生理マシンというものを芸術作品として作ったスプツニ子!のインタビューがとても共感を覚えた。ジェンダーという狭い領域ではなく、もっと広がりのある分野をテーマにしなさいと言われてもやもやしたこと。そして改めて考えて、世界の半分が女性である以上、狭いテーマではないということに気付いたということが、とても共感を覚えた。
駄言を駄言として認識できたのは、そこに、受け止める人がいたからだ。だから駄言は結果ではない。それを認識することは、新たな認識の始まりということになるのだと思う。逆に言ってしまった方にとっても、実は、相手の考え方が自分のイメージからはみ出ていることに気付いたからこそのものだ。でもその気付きをどう表現するか、自分の枠に収まらないものを否定せずに、新たな考え方との出会い、という認識でとらえるかどうか、が大事なのだと思う。
悪いのは人ではなく、育ってきた環境や教育などによって植えつけられたステレオタイプであると書かれている。私も時折、自分も片足踏み入れてるくせに、高齢者は、みたいなくくりをよくしてしまうから、省みるとともに、駄言を駄言で終わらせない思考にもチャレンジしてみたい。

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