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【引退は惜しまれるうちに】

 損な役回りだ。

 雲内(うんない)ヒトヨは院内会議で新たに任命された役職にうんざりした。暗雲たれこめる胸中で患者の診察を済ませ、帰宅する。

 夫は専業主夫だ。いいや、在宅ワーカーと呼んだほうが正確なのかもしれない。夫がどのような経済システムで小遣いを稼いでいるのかをヒトヨは知らないままでいる。

「ヒトヨさんは興味ないだろうからね。患者さんのことだけ考えてたらいいよ」

 嫌味なくそのように言い切る夫とは、夫婦というよりも、共に生活の至らない箇所を埋めあう相棒のような繋がりを維持しつづけている。

「きょうも疲れてるね」

 顔を合わせると開口一番に夫はいつもそう言う。だがきょうはそのあとで、「浮かない顔でもある」と付け加えたところを鑑みるに、じぶんで自覚している以上に重い責務を背負わされたのだと、ついたばかりの肩書きに、否応なく拒否反応がでる。

「じつはきょう」

 ヒトヨは語った。

 夫は料理の途中だったのか、いちどキッチンに戻り、加熱中の鍋を止めてから、冷蔵庫から缶ビールを持ってくる。こちらにカップを構えさせ、トクトクとそそぐと、じぶんは一口も呑むことなく、黙って話に耳を傾けてくれる。

 ひとしきり話し終えるころになるとヒトヨのカップはカラになった。お代わりの缶ビールを持ってくると夫は、つまり、とヒトヨの話を要約した。

「偉大なお医者さまの一人に引導をくれてやる仕事を引き受けたってことでいいのかな」

 じつに的を得たまとめで、そうそうそれが言いたかったのだ、とヒトヨは夫の簡素な聡明さに感心する。

「前にも話したかもだけど、医者ってさ、免許更新がないでしょ。いちどとったらあとは免許を返却するか、剥奪されるか、あとは死ぬ以外ではずっと医者でありつづけられるんだよね。しかも医師免許一つでどんな分野の医師にもなれる。産婦人科も外科も内科も全部おんなじ医師免許なわけ」

 へえ、と夫はひとつ相槌を打つ。

 興味なさ気でもないし、興味津々というほどでもない心地よい反応だ。

「もちろんメリットはあるよ。たとえば、同じ病院内で、ほかの医師の補助ができるし、その過程で、得意分野以外の技術や知識が蓄えられる。カンファレンスなんかまさにそれだよね、患者さんの治療をどうするか、ほかの医師たちと話しあったりして。そうやって共有された知見は、医師全体の質を高めるし、病院の運営もより柔軟に行えるようになる。回り回って、患者さんは平等に誰もが安全な治療を受けられるようになるから、やっぱり医師免許が一律かつ更新なしだからってわるいことばかりじゃないんだけど、でもそのせいで、じぶんの腕の衰えを自覚できない医師がでてきちゃうのもじっさいやっぱりあるわけで」

「それが院内で誰もが一目置く、偉大なお医者さまだったら誰も文句が言えないね」

「文句は言えないよ。だってじっさいすごいひとだし。でも、指摘すらできないのは、どうなのって」

「そのお役目を一介の若手医師に任せるのも問題だね」

「そうそう」

 夫はこういうとき欲しい言葉をちょうどよいやわらかさでそそいでくれる。こういうところに惹かれたのも事実だが、そうしたやさしさに甘えるじぶんのことは都度、嫌いになる。だからいざというとき以外に夫に愚痴は零さないようにしてきたが、いまはまさにその「いざ」と言えた。

「医師免許を返却してください、とはさすがに言えないから、意見役とか、ほかの医師の監督役に回ってもらうのが無難ではあるんだけど」

「きみが言っておとなしく頷いてくれるようなひとなの?」

「だとしたら私なんかに押しつけないでしょ。わざわざ専門の役職までつくってさ」ヒトヨはお代わりのビールを飲み干す。「院内の医師の人事評価最終監督って聞こえはいいけど、要するに王冠争奪係なわけじゃない? 王さまから冠を取り去って、一介の、単なる従業員にしてしまう」

「どうして局長やら院長やらがそうした指示をしないんだろ」

「できないんでしょ。いろいろあって」

 そのいろいろが、じぶんで言っていてもピンとこない。おそらく恩やら縁やら、そういった目に視えない超能力じみた魔法で以って築かれている均衡があるのだろう。それを断ち切れるのは、それが視えない者だけなのだ。

「たいへんだね」

 夫の言葉に、たいへんだよ、としみじみ頷いてしまう。

「でも考えようによっては、ヒトヨさんの言うことなら納得してもらえると考えてくれたってことだよね。上のひとたちは」

「適任だって感じではなかったけどなあ」

 じぶんでも適任だとは思わない。どちらかと言えば誰もが嫌がる雑用を押しつけられた、といった感がつよい。「私はたぶん、製薬会社との窓口もやってるから、その関係で院内での力関係のそとにある感じではあるのかなとは思うけど」

「え、そうなの」夫は口周りの泡を舐めとると、すごいんだね、と眉を持ちあげる。

「すごくないよ。単なる雑用。旨味なんてなんもないもの。むかしとは違うから」

「癒着とかはないんだ」

「賄賂とか? ないない。いまそういうのすごい厳しいし。ああでもどうだろ。新薬の説明会とかだと豪華なお弁当用意してくれたりするかなぁ。見ようによってはそれも賄賂の一部と捉えられないこともないか」

「ヒトヨさん一人だけ豪華なの?」

「違う違う。みんなだよみんな。医師も、看護師も全員。病院って新しい薬が入るとそうやって説明会開いて、知識を共有するの。じゃないと危なくて導入なんてできないでしょ。ただ、やっぱりそういうのとは違う、個別の接待みたいなのはたぶん、いまもまだあると思う。私は全部断ってるから知らないけど、未だに誘われるってことはあるんだよねきっと」

「法律で禁じられてはいないの?」

「規制はされてるよね。でも抜け穴なんていくらでもあるし。講演を依頼して、その正式なお礼だったら構わないわけでしょ? たった三十分の講演でその打ちあげと称して豪勢なお店でご飯食べたりして。医師じゃないけど局長なんかしょっちゅう飲みにお呼ばれされてるみたい。なんの会合かは知らないけど」

「製薬会社の人と?」

「さあ。ほかの病院の局長とか、医師とかじゃないかな。ほら、病院って新しい医師を雇い入れるのに結構たいへんなわけじゃない? いつだって人材不足なわけで。製薬会社とは別だけど、そういう手札の確保って言ったらあれだけど、あるよね、やっぱ」

「人によってはじゃあ、賄賂みたいなのをもらって特定の製薬会社を優遇してるひともいるんだ?」

「いないとは言い切れないよね。じっさい、うちの病院はそれを問題視して、私に窓口を一任しているわけで。ほかの病院だと一人一人のお医者さんが製薬会社の人と懇意にしたりしてるよね。独立したときのこととか考えてる医師はとくに」

「ああ、独立か」

「うちはそういう野心ある医師がすくないからなぁ。人を救えたらそれでいい、研究できればそれでいい、そんなひとばっか」

「見習いたい精神だね」

「そんないいもんじゃないけどね。したいことを自由にしたいだけだから」

 しばらくカップの底を見詰める。いったい何を話していたのかがぼんやりしてくる。

「その問題の大御所さまは、いまの話で言うとどこに属するの」

 夫はゆびを一つ、二つ、と折りながら、

「接待を歓迎するひと、独立したいひと、医療行為ができればいいひと、権威がほしいひと、あとはえっと」

 ヒトヨは笑いながら身を乗り出すようにして、夫の手を払いのける。「もういいよ。大御所さまはどれでもない。ただただ一生懸命に、目のまえの患者さんのことを考えてる。ただ、さいきんどうも、ミスが連発してて。人望がある手前、みんな陰で気づいたらそっと尻拭いしてるってのが積み重なって、あるときを境に、医療行為をさせて大丈夫なのかなって議題にのぼりはじめたところ」

「医療ミスが起きてからじゃ遅いもんね」

「そうそう。ただ問題は、腕が衰えたと誰が判断し、誰が事実上の引退を告げるのかってこと。だっていずれはじぶんが告げられる側になるかもしれないのに。ヘンに因縁ができたら、困るでしょ」

「イチャモンで辞めさせられたら堪らないね」

「でもそういう確執がないわけじゃないから。やっぱり医師も人間だしね。病院内の上下関係は意識してなくすようにはしてるけど、医師と看護師のあいだにだって、そういう差別構造がないとは言い切れないし」

 とはいえ、働き方を比べれば、医師のほうが劣悪ではある。看護師は基本的に当直(夜勤)のつぎの日は休みだが、医師は違う。看護師には手当される残業代もでない。

「そこでヒトヨさんの出番なわけだ」

 ヒトヨはすこし迷ってから、眉根を寄せ、口元を吊るす。「穿った考えだけど言ってもいい?」

 夫は手のひらをうえに差し向ける。そこに言葉を一枚一枚重ねるように、ヒトヨは零す。「たぶん私は院内で、いつ辞めてもいいと思われてる人材だから、そういうイザコザの起きそうな役職にばかり抜擢される」

「そうなの?」

「と、私はどうしても考えてしまうんだけど」

「それが正しいかどうかは僕にはわからないけれど」夫はじぶんの意見を言うとき、いつもこんなふうに前置きをした。「結論をだすには早すぎるってことは、ヒトヨさんが一番よく解かっているんじゃないかな」

「そう、だね」

「これは僕の穿った考えになるけれど」

 目で、どうぞ、と促す。

「病院の経営陣はヒトヨさんが思うほど愚かではないし、ヒトヨさんのことだって、ヒトヨさんには見えていない部分をちゃんと見てくれていると期待するとして」

「仮定を積み重ねすぎじゃない?」

 夫はこめかみを掻きながら、

「たぶん本当にヒトヨさんの判断なら納得してくれる人が多いんじゃないかな。ヒトヨさんの肩書きの有無に拘わらず」

 単なる慰めでしかないと分かりきっているそれに、ヒトヨは自分でも情けないと思うほど、胸の内が軽くなるのを感じた。

「だといいんだけど」

 夫は席を立つと、そのままキッチンで料理を再開させた。

 着替え、お風呂の湯を新しくしがてら顔を洗い、戻るころには、テーブルのうえに夕飯が出そろっている。きょうはシチューに、パスタだ。パスタは細い麺ではない。大きなマカロニだ。

 いただきます、と二人揃って食べはじめる。

 料理の味については言わない約束だ。レストランでも開けばいいのにと思うくらいの腕前だが、結婚当初から美味しかったわけではない。新婚時に投げかけた辛辣な所感がトラウマになっているらしく、またこちらの本心からの褒め言葉も歯がゆく感じるようで、黙って料理をたいらげるのが一つの礼儀と化している。

 食事を済ますと夫は作業があるらしく、自室に引っこんだ。居間でメディア端末を広げ、作業していることもあれば、自室に引っこんだきり、翌朝まででてこないこともある。

 ヒトヨはヒトヨでやることがある。

 来月に組まれた手術のアプローチを考えはじめると、あっという間に零時を回った。

 あすは当直なので、寝る時間をズラしておく。

 コーヒーでも淹れて、練り直そう。

 電子カルテから目を離し、居間に顔をだすと、夫がキッチンに立ち、包丁を構えながらなにやら独り言を並べている。

 いっしゅん、ぞっとしたが、夫の視線の向かうさきに三脚に乗ったカメラがあることに気づき、ああ、と肩の力が抜けるのを感じた。遅れて、陽気がのど元まで競りあがる。

「凄腕主夫のシェフときましたか」

 夫がどんな経済システムで小遣い稼ぎをしているのかは知らなかったが、ヒトヨはひとまず、物音をたてずに自室に戻り、ベッドにもぐりこむと、すこし早いが、あすに備えて眠ることにした。

 こっそりインターネットで夫の動画を探してみようかな。

 妄想していると、スルスルと夢のなかへと落ちていく。同僚や先輩のひたいに、「降格」のラベルを貼りつけて歩くじぶんの姿を俯瞰しながら、そんなじぶんのひたいにも「降格」のラベルを貼りつけるじぶん自身を認識し、それはそれであるべき姿のように思えた。これが夢であることを自覚しながらも、うふふ、と頬が緩むさまを愉快に思う。

 夫と肩を並べカメラのまえに立つじぶんの姿を思い浮かべる。やさしく手ほどきを受けるじぶんがどんな表情を浮かべているのかと覗きこもうとしながらヒトヨは、夢の輪郭のそとから漏れ聞こえてくるスズメの追いかけっこをすこし煩わしく、妙にうらやましく思うのだった。

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掲載元:カクヨム【零こんま。130話
電子書籍:短編集【千物語(桃)

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