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僕らはなぜドラえもんを待ちわびるのか

携帯を無くした。
よく周りの友人が携帯を無くして困った話をしていたが、いざ自分が無くしてみると思いの外不便なことはなかった。

もう10月も終わり、11月が始まる。
今月の初めなんて半袖で汗をかいていたのに、最近はパーカーに身を包み月末の営業数値に追われて冷や汗をかいていた。

今日は土曜だ。
とくに仕事の連絡が来ることもないので、携帯も「どっかにあんだろ」と変に落ち着いている。

しかしまあ、携帯がないだけでこんなに時間を持て余すことになるとは思わなんだ。
日頃、どれだけの時間をメガネ坊主タートルネックが世界に広めた機械に費やしていたのかがよく分かる。

僕は気の向くままに散歩に出ることにした。
外は羊雲が泳ぐ秋晴れで、靴を履いているときにゆっくりとした空気と時間の流れがお隣のお昼ごはんの匂いを運んできた。

そういえば家には何もないし、買って作る気力もないからどこかで食べようとご飯屋さんが立ち並ぶ通りまでを一旦の目的地にした。

通りまでの道すがら、小川が流れている遊歩道がある。
小川の脇の花壇には秋の花が立ち並び、空との色の対比がより秋の柔らかく儚い雰囲気を際立たせた。

通りに着くとすごい数の嗅覚への誘惑が襲ってきた。

魚の匂い、秋だからサンマだろうか。焼肉屋特有のあのダクトからの匂いだけで飯が食える匂いも捨てがたい。
そんな中、僕の足が止まったのは中華屋のごま油の匂い。オススメのエビ焼き飯を注文した。

中華屋でお腹を満たした僕はさっきとは違う道で家に帰った。

いつも通る時は夜で誰もいないのだが、昼間に通ると部活動で高校生たちの活気に満ち溢れている。

「自分にもそんな時代があったなぁ」と思いながら瞬きをしたのは、若さという眩しさゆえかグラウンドの砂ぼこりによるものかは僕だけが知っている。

のんびり散歩を済ませ家に帰った。
何しようかなとポケットに手を伸ばしたが、そういえば携帯を無くしていたことを忘れていた。
散歩してる暇があるなら取りに行けばよかったのに。

ただ、のんびりまったりした僕にもう一度立ち上がる気力はないので、普段目覚まし代わりに使うことのないテレビをつけた。

するとどうだ、「ドラえもん」が流れているではないか。
部屋で1人、「え?金曜じゃねえの?」の声がこだましたが、それは誰が見てもあのドラえもんだ。

なつかしさからかそのままドラえもんを流しながらボーッとしていた。
小学生の頃によくドラえもんの道具で1番欲しいのは何か、なんて話で盛り上がったものだ。

ドラえもんがホントに登場する頃には世界はどう変化しているのだろうか。
実は散歩で自宅の周りの小さな情景に目を向ければ向けるほど、不安になっていくことがあった。

「ここに住んで3年も経つのに、こんな心が動く素敵な場所だって今まで気づけてなかったのか」

僕が生まれてからの25年間、世の中は一気に便利になり、僕たちはできることが増えた。

知らないことは大抵ネットで調べれば誰が知っていて、顔も知らない誰かと議論ができるし、テレビに出れなくても自分が考える面白いことを世に発信できるようになった。

でも、その反面「見たい」や「やりたい」よりも周りについていくための「見なきゃ」「やらなきゃ」が増えて、ちょっと疲れやすくなったのかも知れない。

「既読をつけたら返さなきゃ」
「話についていくためにこのアプリ入れなきゃ」
「ここ行ったってストーリー上げなきゃ」

できることが増えた分、できて当然の基準が上がって、上がり続ける基準についていくことに頭を使うから、どんどん小さな幸せは取りこぼされていく。

僕らは知らない方が幸せだったことを知りすぎてしまったのかもしれない。

さて、ドラえもんも終わったし、携帯を取りに行くことにしよう。

ドラえもんが世の中に出てくる頃に僕たちは、どれだけのことができるようになり、どれだけの基準を自分に課し、どれだけ小さな幸せを拾えるのだろう。

50年後に老害と言われようが、小さな幸せを拾える人でありたいと思いながら、重い腰を上げ、画面いっぱいのドラえもんを消した。

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