象は静かに座っている

日頃そんなに長い映画を観ていないので、4時間の映画に率直な感想を言うのは難しい。長い小説を読んだときもそうだけど、そのために費やした時間や労力、そしてある種の愛着が影響して簡単に面白いとか面白くないと言えなくなる。

この映画は四人の登場人物の群像劇として描かれる。彼らの置かれた境遇や、身に起こる出来事が少しずつ重なりあい、全体として一つの絵になるような作りをしている。

比較されるであろう牯嶺街少年殺人事件はいくつものエピソードや時間が圧縮されて上映時間以上の密度を感じる映画だった。一方こちらは映画の中の4時間がそのままこちらの現実の4時間として表れているように感じた。それは単に作中で経過している時間が短いというだけなのか。

何の本に書いてあった言葉なのかどうしても思い出せないのだけれど、短編小説とは闇の中から現れてまた闇の中に消えていくものだとどこかで読んだ。暗闇の中で一瞬灯がともり、また元の暗闇に消えていくように、人生の一断片が映し出され、またスクリーンの向こう側へ去っていく。上映時間の長さにかかわらず、この作品から受ける印象は短編小説を読んだときのものに近い。

名もない登場人物の発した「世界は一面の荒野だ」という台詞が記憶に残っている。少年は父親に罵られ、少女は母親に詰られる。青年は友人を死に追いやり、老人は家庭を追われる。いじめっ子に抵抗した拳で人生を失い、教師との交際が晒され、心の拠り所だった飼い犬を殺される。「世界は一面の荒野だ」この台詞の主は教師の虐めで笑いものにされる。この世界は荒れ地だ。この世界はクソだ。映画を観ている間、そんな言葉が何度も頭に浮かんだ。

そんなクソみたいな世界は壊してしまいたい。しかし世界はあまりにも堅固だ。

『ジョーカー』に『天気の子』と、今年は“世界を壊す”映画が大ヒットした。どうにもならない現実を、叩き壊したその先の光景を、はっきりと映像にしてしまっていた。『ゴジラキングオブモンスターズ』も、話としてはキングギドラを倒して秩序を取り戻すものだけど、作中の世界は怪獣出現以後として決定的に変化している。

とはいえこれらの映画はファンタジーだ。私たちの住む世界は、少なくとも誰かの願う通りには、変えることも壊すこともできない。こちらの現実に近い水位で進行する『象は静かに座っている』も同様だ。だからこの映画の主人公たちは”ここではないどこか”へ行こうとする。満州里の動物園の座る象。どうして彼らはそんなものが見たいのか、作中で理由は語られない。神の隠喩だとしたら、終盤の動物園へ向かう夜行バスは巡礼の旅か。いやむしろ、どこかに行けば何かが変わるというような当てさえ無く、ただただこのどうしようもない”今、ここ”から消えてしまいたいという絶望した願いに思える。

この映画は撮り方がとても独特だ。被写界深度が非常に浅い。場面の主人公の顔だけがアップでくっきりと映されて、その向こう側はぼやけている。何かをしているシーンでもカメラは顔に固定されて手元は映さない。隣にいて喋っている相手の姿すらぼんやりしている。固定された対象の周辺で、ぼやけたまま(時には重大な)出来事が同時に進行している。俯瞰の描写が全くと言っていいほど無い。
日光は射さない灰色がかった画面の中、人物の肩越しに見える世界は常に不透明だ。世界が狭いとは感じないが閉塞している。どこにも行けない感じがする。

だからこそ、ラストシーンが印象深い。
夜行バスが停車する。満州里はまだ遠いが、主人公たちが降りてくる。この映画でおそらく唯一のロングショット。しかもそこに映っているのは3人の主人公だけではない。無関係であろう乗客たちも意外なくらい大勢下りてくる。どこかを眺めたり羽根蹴りに興じたりする彼らの姿がくっきりと見える。肩越しの不透明な世界ではない。この光景は何かの救いを表しているのか。

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