『スパイの妻』について

シネフィルの人たちが語った方が絶対に面白いけど一応感想を書いておきます。

まず、この作品には映画(フィルム)に関係する場面がよく出てきます。
最初は福原聡子(蒼井優)と福原優作(高橋一生)とその甥の竹下文雄(坂東龍汰)が映画を撮っている場面です。仮面をつけた聡子が金庫のダイヤルを回している。錠が開いたところで文雄に取り押さえられ、素顔が明るみに出る。古風なサスペンス映画といった趣の1シーンを、優作が撮っています。

続いてその撮影したカットの試写が彼らの邸宅で行われます。この時スクリーンに映される映像は昔の白黒映画のような画質に加工されています。黒沢清のモノクロ・サイレント映画が見られるという意味でも面白いです。
後述する日本軍の記録フィルムもそうですが、映画内映画として凝った加工をされた映像が見られるのもこの作品の特徴です。

映画に関わる・映画に言及する場面を他にも挙げていくならば、この後の満州へ旅立つ優作と文雄を見送る場面があります。ここで優作は先述の自主製作映画に使うため、文雄の役がソ連のスパイだと明らかになる場面を撮ると言っています。ちなみに、劇中で流れた映像にここで言っている場面らしいものは無かった気がします。観客に見せていないだけなのか、撮れなかったのか、最初から撮るつもりがなかったのか(日本軍の研究所の事を渡航前から知っていた?)気になります。単に私の見落としだったらすみません。

憲兵の津森泰治に呼び出されていた聡子は、溝口健二の新作を見に行ったと嘘をついていました。聡子と優作が映画館にいる場面では、戦意高揚を煽るニュース映画の後に山中貞雄の『河内山宗俊』が上映されます。二人が亡命のために貴金属類を買いに来た神戸の街では至る所に映画宣伝の幟が立っていました。こういった大小さまざまな描写で、映画が彼らの生活に溶け込んでいるのが感じられます。

そもそも、この夫婦がなんというか「映画っぽい」人物です。
聡子(演じる蒼井優)も優作(を演じる高橋一生)も時代がかった印象的な台詞回しをするのですが、それは当時の日本というよりも当時の日本映画を再現しているような、フィクション的に誇張された喋り方に思えるのです。
そしてそれが魅力的なのです。
画面の彩度がNHKのドラマみたいで(実際にNHKのドラマなのですが)作品に入り込めなかった映画の序盤も、この二人の声を聴くだけで楽しかったです。
『散歩する侵略者』では東出昌大が主役を食いかねない異物感を見せていましたが、この作品では反対に、東出の存在感を蒼井優と高橋一生が上回っていました。

この作品のプロットには2本のフィルムが登場します。
一つ目は先に挙げた、聡子と文雄が出演し優作が撮った自主製作映画です。
そしてもう一つは優作が満州から持ち込んだ日本軍の細菌兵器研究の記録映像です。
この記録映像が主人公たちの動機、そして守るべき目的になります。

これら2本のフィルムを取り巻く出来事は映画というジャンルの性質を象徴しているように思えました。

まず、嘘、もしくは虚構について。映画はフィクションです。役者が演じる作り話というだけではなく、たとえドキュメンタリーであったとしても現実を素材にしてスクリーンに投影される映像に加工している以上現実そのものではありません。平面上の光と影でしかないものを1つの現実と錯覚させ、そしてそれを見る観客は自分から錯覚しようとする。騙し騙されることは見ること自体について回ります。
スパイの妻という作品ではフィルムをめぐってさまざまな嘘が生まれます。聡子と優作が官憲を欺こうとするだけではありません。この二人の間でも真実を知ろうとする者と隠そうとする者に別れて騙し合いが繰り広げられるのが面白いです。

また、映画を見る時の状況について。当たり前ですが、映画を見るとき人は部屋の中、そして暗闇の中にいます。箱の中から外の景色を覗くように、スクリーンに映る映像を見ています。
そこには何か隠し事、というか覗き見る・盗み見るという感覚が混じっているのではないかとこの作品を見て思いました。
聡子が細菌研究所の記録映像を初めて見た時は、金庫からそれを盗み出し、一人でこっそりと見ています。
最も象徴的なのはこのフィルム(実際には違いましたが)を国外へ持ち出そうとした聡子が、密航した船の貨物箱から外を覗き見る場面です。
暗闇から光を覗く、という映画を見ているような状況。しかし見える光景はスクリーンの上の光ではなく本物の危害です。

フィルムに定着された映像は何度でも再生できるように、2本のフィルムを上映する場面が数回にわたって繰り返されます。
自主製作映画は身内での試写、会社の忘年会、逮捕された聡子と憲兵たち(細菌研究所の記録と誤解しているが)という風に状況を変えて3度上映されます。
また、日本軍の細菌研究所の記録映像は、聡子が一人で密かに見る場面(この時映像そのものは映らずそれを見る聡子の顔だけがクローズアップされる)と、聡子と優作の二人で見る場面(ここで初めてフィルムの内容が映し出される)の2回上映されます。
聡子と憲兵たちはフィルムが研究所の映像だと思って見ていたのだから、この場面は2つのフィルムの反復の合流点でもあると思います。
ついでに、自主製作映画で金庫のダイヤルを回す場面は、細菌研究所の資料を盗もうとする聡子の姿として反復されます。
繰り返されるものには何か言いようのない不気味さがある、と思います。同じことが繰り返されるほどに、次の時には違うものが、あるはずのない変化が現れるのではないかという不安が生じてくる(フィルムにまつわる怪談の定番として後ろ姿だけの人物がだんだんと振り向いてくるといった話があるように)。
この作品では繰り返し再生されるフィルムのようにフィルムを見る場面が繰り返され、反復の最後に変化が起きました。こじつけ以外の何物でもないですが、反復の不安が現実になるドラマ、と思いました。

こういった状況のことごとくに福原聡子が居合わせています。
全体を通して彼女は映画に関わりの強い登場人物です。映画に出演して、見て、(出演した自分を)見られる。
そして上映が終わり真っ白なスクリーンが残る。
映画を体験する彼女の物語が一つの映画だと言ってみたくなりました。

《そのほか思ったこと》
・冒頭の白スーツと黒スーツが拳銃を構えて向かい合う画が好きなのですが、正直彼らが何者なのかよくわかってません。
・サスペンスとしては聡子の「お見事」で終わらせるべきで後は蛇足、という意見はよくわかるのですが、二人が呼び起こした地獄をわざわざ描写することに意味があるのかもしれないと思えて、これもよくわかりません。<私とあなた>が日本の運命に直結する(本当はそんなことないのかもしれませんが)のがセカイ系っぽいと思いました。
・列車の場面でCUREを思い出しました。さすがにこちらのは幻想ではないでしょうけど。外の景色を映さないところが好きです。
・『回路』のラスト、『散歩する侵略者』のラスト、そして『スパイの妻』のラストでカタストロフを描く黒沢清にはやっぱりゴジラを撮ってもらいたいです。

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