天気の子

 何もかもが間違っていて、それゆえに正しいと思わせる映画だった。平成最後の夏も過ぎた後にこんな堂々としたセカイ系をぶつけられるとは思わなかった。最初から最後まで瑕疵が目につくのに不思議と嫌いになれなかった。

 そもそもの印象はマイナスから。元々新海誠の作品は好きではなかった。甘い感傷に浸っているように思えたし、東京(都会)の過度な美化にいちいち引っかかってしまった(特に『君の名は』に出てくる高めの価格設定のカフェで駄弁る男子高校生たちの描写が嫌いだったのだけど、これについては他人から賛同を得たことがないので私の感覚がおかしいのかもしれない)。
なので『天気の子』についても最初は「また東京に出てくる話かよ・・・」と思っていた。
 あと非常にどうでもいいことだけど少年を「少年」呼ばわりするフィクション特有のアレも居心地が悪かった。オタク的なサービスシーンのあれこれも一般向け大作で良くやるなあと感心もしつつ気恥ずかしくなった。

 しかし、にもかかわらずこの作品は面白かった。
 一言で言えばそれは開き直りだ。世界を壊してしまっても構わないという開き直り。プラス、壊れた世界を受け容れること。
 ヒロインが異能を持ち、その力が世界の命運に直結し、逃避行があり、世界と彼女を天秤にかけた決断を迫られる。セカイ系の定義をそのままなぞったような展開に、今時こんなベタな話をやるかと驚くが、そのベタは一周回ったベタである。

 この作品に対する印象が変わったのは夏に降る雪や、東京を襲う異常気象を見てからだ。
 この作品は『君の名は』をひっくり返していると感じる。主人公は離島から出てきた男の子で、東京に住むのはヒロインの方。そして東京は(ストレートな意味では)憧れの都会ではなく、そのうえ、主人公たちの選択によって最期は水に沈む。
 新海誠の背景画に関心はしないのだが、この作品で描かれる東京の景色はあまりにも今ここを再現していて、クライマックスでそれらが失われることを考えると、地誌的な価値が、やがて失われる現在の記録としての価値が浮かび上がってくることに気付いた。
(思い返してみると『君の名は』の時点ですでに東京もいつか天変地異で失われてしまうかもしれないと示唆されていたのだが、観た当時は東京だけ無事なのに何言ってるんだと思ってしまった・・・)

 ヒロインを空から取り戻したことで、天気を鎮める巫女という物語が断ち切られた。選択の結果、元々あった世界は壊れてしまうが、それすらも是としてこの映画は受け入れる。
 作品の終盤、水没した東京で、江戸時代は海だったという話を主人公は聞かされる。誕生以来地球の姿は何度となく変わっていて、宇宙的な時間の中では地球温暖化も東京水没も些細な問題とする観点。恋愛のために世界を壊して何が悪いと開き直られたようで清々しかった。
 神話とセカイ系という二つの物語の底が抜けていると思った。

 世界を選んで喪失感に浸るのではなく、世界より自分たちを優先した代償の苦さを味合わされるのでもなく、世界よりも自分たちの関係性を選ぶことを、その結果を含めて作品が全力で肯定している。
 世界の形を変えてしまうこと、(今ある形での)世界の終わりを本当に起こしてしまったこと、そしてそこに突き進む視野狭窄にむしろ救いを感じた。



 村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の意味がいまいち読み取れなかったのだけど、「キャッチャー」が見守るライ麦畑を映像化したら劇中描かれる雲の草原みたいになるのかなと思った。

 気候に対する人類の責任とか人新世とかアースダイバーとか現代思想を匂わせる要素がけっこう目についたので、そういうものを齧っていれば色々ツッコミができたかもしれない。


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