『チュルリ』東京国際映画祭で それと『ジャッリカットゥ』のこと

東京国際映画祭、実は今まで行ったことが無かった。今回見たのは『チュルリ』。あの『ジャッリカットゥ 牛の怒り』の監督リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリの作品だ。
インド映画に詳しくない身としては歌も踊りもない、更には華やかな大スターも登場しない、そんなインド映画があることが驚きだった(もちろんそういう作品だっていくらでもあることは承知しているが)。
『ジャッリカットゥ』のジャンルをなんといえば良いのだろう。土着的で野蛮なのにスタイリッシュ。話はいたってシンプルだ。ケーララ州のとある田舎の村で一頭の牛が逃げ出す。その牛の追跡が村全体を巻き込んだ大騒ぎになる。
ただひたすら牛を追いかける。ドタバタ騒ぎのうちに共同体に渦巻くエネルギーや感情が噴出する。
そういえばインド映画には喜怒哀楽がそれぞれ過剰だ。一つ一つの感情を誇張して観客を楽しませるエンターテインメントだ。そういう一般的なイメージに比べると、『ジャッリカットゥ』は「怒」で占められている。登場人物がひたすら怒っているか暴言を吐いている気がする。
とにかくそこに現れているのはプリミティブなエネルギーだ。逃げ出した牛は怪物でも何でもない。元々はおとなしい生き物だ。むしろそれを追う人間の方が常軌を逸している。徒党を組み、罵り合いや掴み合いを繰り広げながら牛を追いかける村人たちはだんだんと人よりも獣じみてくる。そこにいるのは個々の人間というよりも群れだ。これは、こちらがインド人の顔を見慣れてないからだけでなく、意図的に登場人物の見分けを付けにくくしているからではないかと思うが、果たして。
CGを一切使っていないらしいのだが、これをどうやって撮った!?と言いたくなるショットが続出する。牛を落とし穴から引っ張り上げるシーンで怪我人は出なかったんだろうか。圧倒されるのはラストの泥と血に塗れた組体操だ。ここではもう完全に人が人でなくなっている。
ひたすらに地に足の着いた世界。それも動物や植物といったレベルで。それが、地上を離れるどころかぬかるみに足を取られながらもがいているうちに神話的な光景へと飛躍する。
舞台となる村がキリスト教を信奉しているのもポイントである(これは『チュルリ』にも共通する)。貧しい山村に黙示録の光景が出現するラストに、諸星大二郎の『生命の木』を連想した。

そして『チュルリ』である。お話はまあ、冒頭のアニメーションでだいたい要約されている。予告からも予想される通り。謎を追うものが謎に絡めとられる不条理探偵ものだ。
逃亡犯を追う二人の刑事が、身分を隠して山奥のチュルリという村にやってくる。気の荒い村人たちにドヤされながらも少しずつ村に馴染んでいく二人。だがそのうちに夢とも現実ともつかない奇妙な現象が起こるようになる。
撮影現場が気になるシーンは今作にも多々ある。冒頭で山中の丸太橋を渡るジープは、妙に尺が長いことも含めて興味深い。道中でおとなしかった村人たちがチュルリに着いた途端に態度が悪くなるのも笑えた。
とはいえ、物語の起伏よりもその中で起きる光景の奇妙さでつなぐ作品なので、120分は少々長いと感じてしまった。
どうやって収拾を付けるのかと思っていたら、唐突に『未知との遭遇』と『E.T.』が始まった。いや、本当に『E.T.』としか言いようがないのだ。
幻想的な映像表現と土着的な作品世界の混血は『ジャッリカットゥ』に通じる。共同体と宗教の関係で言えば『ウィッカーマン』や『ミッドサマー』を連想するが、リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリの作品は土や木、自然物の表現で異彩を放っている。一番の特徴はなんといっても四方を樹木に囲まれたロケーションだろう。森が人を化かす。幻想の材料であると同時に、作り手の作為から逸脱した画を生み出す外部である。
自然光を活かしたショットを多用し、風景の中の人間を描くという点で、先日見た『エターナルズ』の(そして『ノマドランド』の)クロエ・ジャオを連想する。ただし両者が描いているものは対称的だと感じる。クロエ・ジャオが表現するのがどこまでも開けているがゆえに人に定住を許さない風景だとすれば、『チュルリ』にあるのは人を取り込んで逃がさない迷宮としての風景だ。

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