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イナゴを食べれたときの自分

近々、コオロギせんべいというものが発売されるらしい
長野県出身だと言うと、昆虫食のことをよく聞かれるが、残念ながら私はイナゴしか食べたことがないし、実際ほとんどの長野県民はイナゴくらいしか食べたことがないと思う
(長野県の昆虫食は蜂の子、ざざ虫などもあるらしい)

保育園の頃、近くの草原でイナゴを取りに行く日があった
その日の給食の時間に、さっき取ってきたイナゴの佃煮が並ぶ
取ったイナゴがビニール袋に何匹入っていたかは忘れたが、私は別にイナゴを取りに行くのは嫌じゃなかったし、味もまずいと思ったことがない
イナゴの佃煮は、パリパリした黒蜜味のスナックみたいな感じだったことを覚えている

当時は虫がかなり好きで、カブトムシも取りに行ったし、幼虫から育てたこともある
家にトンボがよく止まる木があって、学校帰りに1人でトンボを取った
人の幼少期の虫エピソードをよく残酷な話を聞くが、私は虫にいじわるはしなかったし、正義感よりもまずその発想には至ることがなかった

小学校二年生くらいのある日、石の上にいたカマキリと目が合ってから、虫という存在が突然理解できなくなってしまった
ある意味では理解できてしまった

犬や猫などの動物は、まだ自分と同じくらいの大きさだし、柔らかいし温かいから、自分とあまり大差がないような感じがした
けれども虫は、小さいのにハイテク機械のように精巧で硬いし、形がどんどん変わっていく

自分とあまりにも違うその存在を理解しようとしたが、理解できず、子供ながらに恐怖を感じたその日以来、急に虫がダメになってしまった
一昔前は食べてすらいたのに、ある日突然気持ち悪さを感じてしまった自分に対しても、なんだか少し悲しい気持ちになった

虫が好きだった時期は、虫を理解できていたから好きだったわけじゃなくて、自分とのつながりや文脈を考えずに接することができていたから、大丈夫だったのだと思う

何かと何かは繋がっているとか、自分という存在や相手のことがだんだんと分かってきたからきっと虫が苦手になってしまったのだと思う
今でも虫のことを怖いと感じてしまうのは、自分とあまりにも違うからだし、思考や動きが読めないからだ

コオロギは理解できないけど、見た目がせんべいとなったコオロギせんべいは多分食べれるし、食べたことはあるし、美味しかったけど、見た目がイナゴそのものであるイナゴの佃煮はたぶんこれからも食べれないんだろうなと、ふと思った

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