見出し画像

ひとり懺悔のススメ。 〜自分のダークサイドに触れること〜

懺悔。

私はなぜ、自分のことをなぜオープンにするのか。オープンにすることは、マス○ーベーションだという人もいる。たしかにそうだ。

ある意味、心の露出狂である。

吐き出した投稿は、私の排泄物でもある。ところが、心の吐露ができない便秘気味の人にとっては、私の排泄物によって、お通じがくることがある、読者の気持ちをいっしょに絡め取って出してあげるサポートができることもある……ということが、ネット歴20年以上のなかで何度もあった。

心の排泄物は、読んだ人の感情の排泄を促す……のかもしれない。

心理学者ユングは、「心理療法の4ステージ」として、
①告白(告解)
②解明(解釈)
③教育
④変容

という4つのステージがあるとしています。

なるほど、よく分析されているなと(上から目線じゃないよ)。というのも、私自身、子どものころからこれを繰り返すことで、自己を受け入れられることを体感してきたからなのです。

この「告白」には、私の中では3つのルールがあると思っています。


①嘘のないようにちゃんと出す

鍋の底をこそげるように。その時点でわかるレベルでいいので、しっかりと掻き出すことが大切。すべてを吐き出すのは怖い。だから半分嘘をついてごまかす人も多い。でも、ごまかしている分量だけ、のちの人生にまだ闇が差し掛かることを私は知っている。

なるべく明らかにしたほうが、どんどん人生は身軽になるのだ。でも、一番見たくない自分を、しっかり見つめる人は想像以上に少ないらしい。もったいないなぁ……。

本当のダークサイドを見つめているかどうかの見極めのポイントは、①人を責める心がある②人に◯と言ってもらわないと不安な心がある……といったこと。

心がまだ不安で揺れるのなら、まだ残っているのです。

見つめるべきことがまだ残っているのに蓋をする。それを隠すために嘘を重ねる。すると、「不安ループ」からは抜けだせない。本当にしっかり向き合えば、ループから抜け出せるのに……。

②一人でできる

告白するだけでいい。相手がいなくていい。人に言わなくても、こんなウェブ上に書かなくてもいい。ひとりだけのノートに書くだけでいい。

ただ、「告白」して自分で自分のダークサイドを認めて需要するだけでいい。決して、だれかに聞いてもらう必要も、だれかに許してもらう必要もない。

③反省が目的で自己批判は不要

なのに、どうもそこに「自己批判」してムダに自分を傷つけてしまう人が多い。自分で罰する必要などないのに。

そもそも「罰する」というのは、なんらかの「こうあるべき」という基準やルールを決めているわけであり、でも、それってだれが決めたのでもなく、自分で決めているわけで、だったら自分で変えることができるはず。

クリアする基準を高く上げているのは自分で、その基準に届かないのは、世界記録保持者の棒高跳びを、素人の私たちが「跳べない!」と泣いて何度も挑戦しているようなものではないのかな。

なんで、跳べもしないハードルを自分で据えるのか。

むしろ、それを「跳べるはずなのに」「跳べるべきなのに」と思っている時点で、ある意味、すごい自信家ではないかと、思ってしまう(私の母がまさにそういう人だった)。

私から見たら、「完璧主義な人」って、すごい自信家だ。

最初から自己評価が低くて、本当に「私にできるわけがない」と思っていたら自分を責めなくて済む。でも、「もっとできるはず」と思っているんだもの。すごいよ! その自信はどっから来たんだ? それって自己肯定感高いってことなんじゃないのかと思ってしまう。

でもね。
人って「できない部分をサポートし合うためにつながる」のではないだろうか。

「一人で完璧でありたい」という人は、「人とつながれなくていい」「人より優位でいたい」と思っているっていうことにもなると思う。無意識であっても。意図的ではなくても。結果としてそう思っていることになると、感じてしまう。だから、どんどん一人になっていく。

何が言いたいかというと、ね、自己批判なんてMなことする暇があったら「反省」だけして「次につなげたらいいのに」と思うのです。

私たち人間は、いつも変わっていく存在だし、成長していく存在。完璧じゃなくていいし、ダークサイドな心があって当然だし、弱くてズルいところがあって当然。それが人間だもの。

だからこそ、「告白」して自分のずるさや汚さ、滑稽さを見つめる。そうして「解釈」へと進む。

私は、それを中学生のころから欠かさずやってきた。見たくないほどの自分の狡さ、弱さ、滑稽さ、無力さ……。ダークサイドを見てきたから、どんどん吐き出せる自分になっていった。

それを元に人生の課題を丁寧にクリアしてきたから、いま、とても心が楽になっている。この軽快さは、ドロドロとしたカオスを体験してきたからこそだ。

「告白」して「解釈」していくなかで自分なりの「学び」が見つかる。あ、ここではこんなことを学ばせてもらったんだな。それが「教育」のステージだと思う。すると、おのずと「変容」できる。

これを繰り返して、さなぎになっては脱皮して、さなぎになっては脱皮していくのが、人間の魂の成長ではなかろうか。

という「変われる楽しさ」を知れば、自分のダークサイドを見つめることは本当は怖いことじゃないってわかるのだ。

自分が「生きていてはいけない存在」ではないと思っていたころの私は、ずっと毎日、アスファルトばかり見て歩いていた。人の目が怖かった。嫌いだった。人がじっと見てくると「変な人間だと思って見られている」「根暗なやつだと思われている」「嫌われ者だと思われて見られているのだ」と思い込んでいた。「◯◯くん、私のこと見てくる〜 気があるのかな💕」なんて、ポジティブ解釈をする友人を、羨ましくも蔑視していた。それほど、私の心は歪んでいた(汗)。

人と話すときにはいつも小さく手に握ったハンカチを持っていて口元を隠していた。口にコンプレックスもあったし、口臭があって嫌われるのではないかという妄想というか、潔癖症のようなところもあった。人の匂いも自分の匂いも気になるので話をしたくないほどだった。

それほど自分を否定していた自分だったからこそ、どん底から一歩ずつ歩いてきたからこそ見える景色がある。着実に変われるという自信もある。

そのために、私はいつも、丁寧に丁寧に、自分の心の底を覗く。覗き続けて、告白し続けるのだ。だれにリクエストされなくても。

次回は、ここ2〜3年の懺悔を書いてみようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?