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海の上の学校

 ぼくの学校は海の上にある。海の上にぽつんとある。まわりにはなんにもない。3階建ての校舎が、海の上にぽつんとあるのだ。


 学校には船で行く。港から、「はんせん」という風で進む船に乗る。カイゾク船みたいにかっこよくはないけれど、ぼくはこの船からながめる海がとても好きだ。運良く一番乗りできると、カイゾク団の見張りが立ってる、船の柱に登れる。そこは、上も下も真っ青の世界で、風がびゅーっと吹いてて気持ちがいい。まるで海の王様になったみたいだ。
 「ヒロシぃ、そろそろ交代しようぜぇ」
 見張り台のふちから顔を出すと、カイトがこっちを見上げていた。
 「あといっぷぅん」
 「おまえそれさっきも言ったぁ」
 見張り台には一人しか入れないから、船に乗るのが遅くなったときは、順番待ちになる。学校につくまでのだいたい30分くらいに、4,5人交代するのが普通だ。でも、それも同級生か下級生が上にいるときの話で、上級生が登ってしまったら諦めるしかない。
 「はい交代ぃ!」
 おっきい雲から目線を落とすと、カイトの顔が目の前にあった。
 「なに勝手にのぼってきてんだよ」
 「おまえが遅いんだ、よっ」
 言いながら、カイトが見張り台に入ってくる。1年生ならまだしも、4年生ふたりだとだいぶ狭い。
 「先生に怒られるぞ」
 「そんなの、むしむし」

 カイトは家が隣で、小さい頃からつるんできたやつだ。それこそ、生まれたばかりの小さい頃から。
 カイトとぼくは、同じ日に、同じ病院で生まれた。母さんとおばさんはカイトとぼくを双子かなにかと思っているらしく、なにもかもが一緒だった。服も一緒だし、髪型も一緒、おもちゃも一緒で、もちろん誕生日も一緒に祝われた。さすがに嫌気が差したぼくらは、おそろいのケータイで密かに計画を立て、小学校に進学した年、つまり1年生のときに、「きょうどうせいめい」を出した。ぼくらはそこで「じんけん」を手に入れて、ようやく一人の人間として生きられるようになったのだ。
 「学校、見えてきたな」
 「うん」
 他の子よりも、10倍くらい日焼けしたカイトの顔の、絵の具みたいに白い瞳に、水面のキラキラが反射してまぶしかった。

 4年生は3年生と同じ2階に教室がある。クラスはA組とB組のふたつで、カイトとぼくはB組だ。2学年毎にクラス替えがあるけれど、ぼくらは3年連続で同じクラスだ。そして、4年目に突入している。ここまでくると、神様までぼくらのことを双子と間違えてるんじゃないかと思ってしまう。
 B組の教室は2階の一番奥だ。今日は最後の船に乗ったから、みんなもう教室に来ている。おはよぉ、と周囲に声をかけながらランドセルをロッカーに突っ込み、席にどすんと座った。
 「算数の宿題」
 カイトが横から声をかけてくる。そう、ぼくらは席も隣同士なのだ。
 「なに?」
 「みして」
 「やぁだ」
 カイトは算数が大の苦手だ。算数の時間は、基本的に寝ている。寝ているから苦手になるんじゃないかとぼくは思うけど、そういうことでもないらしい。人にはできることとできないことがある、というのがカイトの口癖だった。
 この会話は、歯みがきみたいなものだ。毎朝の習慣。しないと、どこか気持ち悪い。
 「毎日よく飽きないよな、その返事。どう育てられたらそうなんだ」
 「おまえと一緒に育てられたら、だよ」
 カイトに向かってノートを放り投げると、カイトは白刃取りみたいにそれをキャッチして、さんきゅっ、と言った。

 1時間目は理科の授業だった。理科の先生は水澄先生。B組の担任もやってる。だから今日は、朝礼はやらずに、1時間目のはじめに朝の連絡があった。
 水澄先生は、いつも糊の効いた真っ白の白衣を羽織ってる。汚れてるところを見たことがないので、きっと何着も持っているんだろう。今日は白衣の下に、クリーム色のブラウスとインディゴのデニムを着ていた。
 「雲には様々な種類があります。高さや形によって分けられていて、10個の雲が基本になっているんです」
 水澄先生は雲の大きな写真を黒板に貼っていった。10枚目を貼り終えると、こちらを向いて、
 「うぅんと、大瀬戸君、知っている雲はある?」
 呼ばれて、ビクッとした。机を蹴って、派手な音が鳴る。
 「ん、えぇっと、知ってるのはぁ」
 カイトが横でにやにやしているのがわかる。あいつ、休み時間覚えてろよ。
 「うぅん。あ、それ、さっき見たやつ」
 ぼくが指差したのは、向かって左から2番目のやたらもこもこした雲だ。
 「これね。うん、積乱雲か。さっきっていうのは、教室から見たの?」
 「いや、船でみたんです。でっかい雲だなぁって」
 「うんうん、そっか。この雲はね、あったかくなった空気がぐぅんと上昇していって、空で冷やされてできる雲なんですよ」
 写真の下にチョークで図を描きながら、水澄先生は説明を続けた。
 「こんな感じにね。積乱雲っていう名前で、雲の中では低い位置に発生するものなんだ。入道雲って、みんな聞いたことあるかな。入道雲が成長した姿が、積乱雲なんです」
 水澄先生は説明を終えると、キャンパススニーカーできゅっと音を立てながら教壇を降り、窓に寄った。白衣がふわりと風をはらむ。
 「いまは雲、見えないね」
 夏の日差しに目を細める先生の横顔がとても綺麗だった。

 水澄先生はとても美人だ。すっと引かれた眉の下に深みを持った瞳があって、その目で見つめられると、なんだかすごく恥ずかしくなってくる。
 母さんは先生のことを、品のある人、と言っていた。たしかに、いつも餌を待ってる鯉みたいにひっつき合ってる女子と違って、水澄先生は知的で、大人で、素敵だった。
 昼休み、水澄先生は鯉女子たちに餌をねだられていた。
 「あいつらも飽きないよなぁ」
 カイトが左足で上履きをぷらぷらさせながら言った。水澄先生は女子からの人気が高く、空き時間という空き時間はずっと女子に囲まれているのだ。気のせいか今日は、特別人垣が厚いように思える。
 「ほんとにな」
 「おなえもな」
 「なんだよそれ」
 カイトは、ぼくが先生のことを好きだと思っている。ぼくは何度も否定しているんだけれど、そのことでかれこれ1年以上はいじられているので、近いうちにガツンと言ってやったほうがいいかもしれない。
 今日のカイトはあまりしつこくなく、立ち上がってこう言った。
 「ヒロシ、階段行こうぜ」
 階段、というのは非常階段のことである。この学校は海の上にあるけれど、なぜか普通の非常階段がある。普通の、というのはつまり校舎の外側についているということで、海の上にある学校だから、階段を降りきった先はもちろん海だ。非常階段として意味がないようにも思えるけど、日陰になって涼しいので、ぼくらはよくそこに行った。
 「うん、行くか」
 ぼくも立ち上がって、カイトの後について行った。

 「先生、学校やめるんだってな」
 唐突に、カイトは言った。波がちゃぷんと校舎にあたり、水面のゆらぎがぼくらを包んでいた。一階まで降りてきたので、足先にはすぐ海がある。ちゃぷん、ちゃぷんと何度も波が打つ。ぼくは、カイトの言ったことがうまく理解できなくて、聞き返した。
 「水澄先生、学校やめちまうんだって」

 夕礼で、水澄先生は学校をやめることを話した。学期末で退職して、新学期からは担任が変わるらしい。知らなかった人のほうが少なく、おおきな騒ぎにはなることはなかった。ぼくが鈍かっただけで、ずいぶんと噂が広まっていたらしい。
 簡単な挨拶をして、学期末までよろしくね、と先生は言った。

 放課後、ぼくは屋上にいた。屋上は校庭になっていて芝生が植わっている。ぼくはその隅っこに腰を下ろして、ぼーっと海をながめていた。
 放課後はずっとそうしていたので、お尻の感覚がなくなってきていた。それでもかまわず、ぼくは海を見ていた。海は夕焼けに染め上げられ、水面がキラキラと輝いている。周りにはなにもない。海ばっかりだ。難しい話はよくわからないけれど、船は潮の流れの影響とかでかなり遠くまで行くらしく、港などは一切見えない。世界が海に沈んでしまったと言われても、信じてしまいそうなくらい、ぼくはひとりだった。
 「ひとり?」
 振り返ると、水澄先生がそばに来ていた。
 「そうだと思います」
 「隣、いいかな?」
 ぼくがうなずくと、先生はぼくの横に体育座りした。
 「相棒君はどうしたのかな?」
 「家の手伝いがあるから、先帰りました」
 「そっか」
 水澄先生はそれきり黙ってしまい、ぼくと同じようにずっと海をながめていた。 
 夕日が沈んでいく、ずーっと海の向こうを見ていると、すーっと吸い込まれそうになる。ぼくらはここにいて、ここは自然のひとつなんだと思った。太陽が沈んで、雲が流れて、海がきらめいている。遠くを渡る数羽のかもめの鳴き声が聞こえてきた。
 「私ね、この学校好きなんだ」
 水澄先生は夕日を見つめながら言った。
 「この学校、海の上にぽつんとあるでしょ。周りにはなにもない。すごく寂しいように思えるけど、でもそんなことない。空があって、雲があって、風があって、太陽があって、星があって、月があって、海があって。たしかに世界は生きていて、私はここにいるんだって、わかるから。放課後、職員室にいるとね、みんなの声が聞こえてくるんだ。遠くの方から。海鳥の声とか、波の音も一緒になって聞こえてくる。私は、それが好きなんだ」
 水澄先生はぼくを見た。先生の深い瞳がぼくを見つめていた。ぼくはそれを見つめ返した。先生の瞳の色は翠色だった。
 水澄先生は立ち上がって白衣に付いた草を払った。
 「戻ろうか」

 帰りの船は一番乗りだった。ぼくは見張り台に登り、学校を見ていた。水平線に隠れて見えなくなるまで、学校を見ていた。



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