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2022年に読んだ本・印象に残った本

2022年も終わろうとしているので、今年読んだ本について振り返ってみようと思う。

基本的にkindleで買っているのでそれを雑に数えてみると125冊。ただしここには漫画や雑誌、網羅的に読むわけではない技術書、資料集的なものも含まれている。それらを抜いてみると102冊。ちょうどギリギリ100冊クリアというところか。不思議とキリがいい数字に近くなっていて面白い。

本いっぱい読んでますね、すごいですね、などと言っていただくことがしばしばあるのだが、実際のところ凄くもなんともなく、単に読書の質を落としているだけである。もちろん単に量においてももっとたくさん読んでいる人がいる。

質を落としている、とはどういうことかというと、ここ2年ほどの自分の読書は、そもそもとある案件がきっかけで始めたものだ。その際に、広く浅く触れたいという目的があり、基本的に「きちんと細部まで読む」「覚えるまで繰り返し読む」ことを目的としていない。速度をあげても全部覚えているような天才ではもちろんないので、極端にいえば読み終わった時に1センテンスも覚えていないこともあるかもしれない。

けれどもそれはそれでそのタイミングの自分にとってはそういう本だったのだなということだし、100%の確率でその時の自分にとっていい本を当てるなんて無理なので、別にいいということにしている。そしてもしもちょっとだけ印象に残っている部分があればそれで十分。もっといえばその時には内容を覚えていなくても後で誰かと話している時にそういえばこの間読んだ本でこういうことが書いてあって、と記憶が蘇ることは割と多々あるので、それでいいという考えだ。

そんなわけで、以下は今年読んだ本の中で「印象に残った本」10冊を選んでみた。これはタイトルを見たら「ほんのちょっとだけ内容を思い出した、印象を思い出した」のであって、「内容をきちんと覚えている」わけではない、つまり内容についてあまり説明はできない、ということを言い訳として書いておく。そして同時に、添えている一言メモも、もしかしたら記憶と事実が違うかもしれない、ということを書いておく。

ディズニーランドの社会学 脱ディズニー化するTDR

東京ディズニーランドはもはや本家のディズニーランドとは全く異なる存在として良くも悪くも進化しているという話。そもそも日本とアメリカではディズニーランドに行く意味合いが全然違う。だから提供する体験も自然と違ってくる。僕はディズニーランドに実は行ったことはないのだがこれを読んで行ってみたくなった。

機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ

最近の将棋の棋士はAIから学ぶ方法を取り入れている方も増えつつあり、そういう方々の中には、今までではあり得なかった打ち手を打つ人もいるという話。例えば(僕は将棋に詳しくないので説明がうまくできないが)「囲い」を完成させるまでもなく、もっとずっと前の手の状態で囲いの完成を見越して展開するような手は今までになかったとか。

K-POP 新感覚のメディア

K-POPも全然詳しくはなくて、一部の美男美女を眺めている程度なのだが、K-POPの包括的な歴史や現状について客観的にまとめた本。その始まりや隆盛、現在抱える問題、などにも触れている。

恋愛制度、束縛の2500年史~古代ギリシャ・ローマから現代日本まで~

恋愛から話が始まって入るものの、社会倫理全般の話、いかに宗教や戦争や政治という当時の社会状況から倫理規範が、そしてそれを内在化した恋愛観が、あくまで結果的に時代時代に生まれていったのか、という話が面白かった。そういった比較文化論的な、相対化することで自分の社会のこともより分析的に見えてくるよね、という話から、ジェンダー規範の批判に序盤話が行くのだが、「スカートを履くのに抵抗のない男性はどれだけいるでしょう?丸刈りに抵抗のない女性はどれだけいるでしょう?」って書いてあって
いやいや男性は丸刈りに抵抗がない、というのも全然そんなことないし、その比較は適切なのかな(笑)って内心突っんだが、そこに目を瞑れば書籍全体としては変な思い込みや偏りは別になくて歴史を追いかける感じでよかった。

映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~

ファスト映画やネタバレサイトはもちろん適切に著作権をクリアしない限り悪しきものである。しかしここではそのような善悪は一旦横においておいて、なぜ彼ら彼女らがそれを利用するのかについて触れている。興味深いのはそれらが必ずしも節約のためやいわゆる「タイパ」のためだけというわけではなく、例えばホラー映画を観たいが怖すぎて見れないけれどもファストなら怖さが減って観れるとか、ネタバレを読んで心の準備をしてからちゃんとお金を払って映画を見に行く方が準備ができていて十分に楽しめるという人など、そういう考え方もあるのか、と目から鱗だった。

チームが機能するとはどういうことか ― 「学習力」と「実行力」を高める実践アプローチ

心理的安全性という言葉を作り出した人(?)による本。この人の本を読むのは2冊目。1冊目は心理的安全という言葉がまだ浸透していなかった時代に、それは何か、について書いた本だった。この2冊目は、みんなが心理的安全という単語については一応知ってる時代になったが、でもまだみんな大きな勘違いをしていて、それゆえうまく機能していないよね、という事例をいろいろ挙げてくれている。今関わっているチームは心理的安全性をかなり実現できていると思う。それでも、こんなアホなことを言ったらアホだと思われるのではないか、という懸念というのは、周りのレベルが高いほどやはりどうしても頭をよぎってしまう。一方で、これは心理的安全の議論から抜け落ちがちだと思うのだが、受け手のみの問題と考えるのではなく、自分の言い方や切り出し方の工夫で周りの空気を作っても行けると思っている。

完全教祖マニュアル

新興宗教を作ろう!というハウツー本。という体裁を取りつつ、新興宗教と伝統的宗教の違いや、今は大成功している伝統的宗教の成り立ちについて、非常に読みやすく面白おかしく紹介してくれている。伝統宗教の方々からはちょっと怒られてしまいそうなくらい、その教祖たち、例えばブッダやキリストやムハンマドなど、についてカジュアルに解説してくれている。自分は手塚治虫のブッダなどでかろうじて仏教については知識がまだ多少はあるが、その他についてはどうしても知識がそれ以上に薄いので、それらの共通点や相違点についての比較は学びがあった。

女のいない男たち

実は村上春樹は読んだことがなくて、ノルウェイの森を映画で観ただけ、という究極のニワカなのだが、村上春樹が好きな友人にとりあえず何読んだらいいかな?と聞いて教えてもらった。短編集なので読みやすく、またタイムリーにこの短編に含まれていた「ドライブ・マイ・カー」が映画化したので、印象に残っている。

ブルシット・ジョブと現代思想


ブルシットジョブは肉体労働などのことではない。それはシットジョブである。ブルシットジョブは、知的とされている職業で、収入も多いこともあったりして、でもやってる当人は「自分がやっていることには本当は意味なんてないんだ」と感じながらしているような仕事をさすとのこと。それはそう感じていつつも資本主義の上で快適に暮らす自分の生活を捨てられなかったりなどいろいろ理由はあると思う。自分の仕事は好きだしブルシットジョブだと感じてはいないが、一方で細部を見たり引きで見たりするとほっておくとブルシットジョブに徐々になっていく危険性の萌芽が見えたりする。時々、「今自分のしている仕事はブルシットジョブになっていないか?」と振り返りたいし、きっと多分、どきどきなりかけている時もあると思うのだ。

この部屋から東京タワーは永遠に見えない

自分にも輝かしい成功を送る煌びやかな人たちを羨んでしまう瞬間はあり、しかし京都という街は伝統があるので非常に強いヒエラルキー構造を持っているもののそれが積極的に表には出てこない傾向にあるが、東京という街は非常に可視化されてしまっているように思う。欲望駆動の巨大なピラミッド構造。そして格差についての本を最近よく読んでいて、新自由主義的な自己責任で自由競争という名の下に皆が平等であるという幻想の嘘にはもう皆が気付きつつあって、学術的にもそれが証明されつつあるわけで、では格差をどうしていくのよ、というところに本当に社会全体、というか富裕層が真剣に取り組まなくてはいけないと思うのだけどね。最近読んだ別の本でも、平等性が高い社会の方が富裕層のストレスも少ないという研究があるらしいと書いてあったし。それがなぜかについては記述はなかったが、個人的な考えとしては、それはセーフティネットの安心感と一緒で、自分だってもしかしたら事業に失敗したり、もしくは怪我や病気や障害で収入が落ちてしまうかもしれないし、そういうことは誰にでもありうるわけで、そう言った時の安全度が高ければ今満たされている人でもより不安が減るということではないかと。

3億人の中国農民工 食いつめものブルース

皆、貧しい自分の生活を投げ打って、自分の子供には自分より成功してもらおうと学費をなんとか捻出する。それに背中を押されて強く階級を登っていく子供たち世代。貧しいが強く逞しい、中国を支える農民工の姿に心打たれた。そしてその農民工たちの我慢強さは、いつか中国成功や成長の恩恵が自分達にも回ってくる番が来る、と信じているということでもあり、いわば日本でいうトリクルダウン的なものに近いと思うが、それは日本でのトリクルダウンが幻想でしかなかったことが露呈してしまい諦念と倦怠と怨嗟が生まれてしまっているのと同様に、農民工たちももしかして自分達の番が回ってこないんじゃないのか?と不安に感じ始めている様子が描かれている。そしてもう一つの話として、開発のための国による土地買収によりあたりくじを引いたように大きなお金を手に入れることができてしまっている現状があり、人生において何かを手に入れることを、自らの努力によるものではなく、そのくじが当たるかどうかのみに賭けてしまっている、という諦めのを生んでしまっているということも書かれている。

遠くへ行きたければ、みんなで行け ~「ビジネス」「ブランド」「チーム」を変革するコミュニティの原則

コミュニティ作りの話が主眼ではあるのだが、コミュニティというともすれば不確実性の高い抽象的な話を扱っているので抽象的で感情的で理想的な側面の本なのかなと思ったが、内容としてはある意味で全く逆の「目標を立てて、分割して、計画して、実行し、定期的に計画を修正する」というあらゆることに適用できる様な部分も多いかなり具体性のある(例えば計画づくりなど)本だった。自分も目標を立てて計画して実現したい。

不平等の進化的起源: 性差と差別の進化ゲーム

性別役割分業はなぜあらゆる文化に存在するのか。それはゲーム理論における、相関的協調ゲームと、補完的協調ゲーム、で説明可能である。もしジェンダー(性別)を完全に認識不可能にしたとしても、別の認識可能な社会的カテゴリーが分業に活用されるだけかもしれないよ、そしてそこには合理性があるんじゃないの、という話。

格差という虚構

格差についての、都合の悪い真実たち。勉学の機会を均等にしても家庭環境の違いにより学力の差が現れ、東大生七割以上の父親は大企業や官公庁の管理職・会社経営者・大学教員・弁護士・医師度であるということ。学校というのは実は格差固定装置として働いているということ。あとは贈与の話。贈与とは交換とは違う。未来志向の不安定なシステム。

性表現規制の文化史

そもそもなぜ性表現はなぜダメだとされるようになったのか?ということについて古代から語った本。あらゆる時代において政治や権力の拡大の欲望と結びついているという話。古代ローマにおいては夫と妻の間に恋愛感情があることはむしろ珍しく、結婚とは財産の継承に関する制度とか。古代においては父親と子供の血縁関係は母と子のそれよりも確実ではなく、財産は母から娘に継承される方が自然だったという話。とか。これと、あと上に紹介した恋愛制度の本、あと千葉雅也の「欲望会議」も面白かった記憶。

まとめ

——以上終わり。結局10冊以上になった。最近はめっきりテキストのアウトプットはしていなくて、見返したら3/22にSubstackに書いたのが最後。どこに書くのかがしっくりこなくて、手が止まってしまった。今回はsubstackがamazonのリンクを展開してくれないのでnoteに。


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