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広告クリエイティブ職は聖書も分かりやすく語れるのか? その20。

広告クリエイティブ職をしながら教会で子供達に聖書の話をするお役をいただいて話をしています。その原稿をここで晒す試み。
あなたの隣人を愛せよという言葉、めちゃんこ有名ですよね。その中でも有名な親切なサマリア人というお話。上記の絵はこの箇所のドラクロアの絵。この箇所は単なる道徳律として捉えるのではなく、人間の愛の限界をつきつける箇所だと捉えます。読むたびに味わいのある箇所です。おとなの言葉でいうとテーマはさしずめ「限界を超える愛、その範囲と、量について」ぐらいでしょうか。

ルカによる福音書10章25節から37節 25:すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26:イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27:彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28:イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29:しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30:イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31:ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32:同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33:ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34:近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35:そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36:さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37:律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 Copyright: 日本聖書協会


みなさんは、あいさつはしますか?朝起きて、おはようといいますか?ご家族の方にいいますか?いいますよね。じゃあ、学校の友達には?学校の先生には?マンションの管理人さんには?学校の給食の方には?バスの運転手さんには?スーパーのレジのおばさんには?どこまで挨拶しますか?どこまで、どれだけ、挨拶しますか?そしてさらにどこまで優しくできますか?ということが今日のテーマ。

あるときイエス様がお話していたら賢い人がイエス様を試そうとして言いました。試そうというのは、その当時のイエス様は人気がありましたから、どんな人なのか興味があったんですね、そしてできたら、何か間違ったことを言わないかな〜と思って質問したんですね。

その質問は25節「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と。永遠の命、それは簡単にいうと天国に行くということ。どうすれば神様に喜ばれますかね?何をすれば天国いけますかね?という質問。これ、みんな知りたいんですね。シンプルな質問です。先生というのもちょっと嫌味なんですよね。先生だと思ってないんですよ。意地悪な感じが出てます。そういう意地悪い質問に対してイエス様は「あなたの専門の律法、昔からのルールにはなんて書いてあって、あなたはそれをどう解釈、どう考えていますかー?」と聞いたんですね。あなたその専門家ですよね、と。そうするとその賢い人は「神様を愛しなさい、そして隣人を愛しなさい。」と答えたんですね。聖書に書いてあることを言ったんです。律法のテストだったら100点です。律法のテストだったら。永遠の命を得るなら何をすればいいですかと書かれていて、答えを書きなさいだったら正解。その賢い人は、どや!だったと思います。正解やろ!と。

イエス様はお答えになりました。28節に、それ、実行しなさい。と。ちゃんとやりなさいね。神様を愛し、隣人を愛しなさいとね。隣人とはとなりにいる人、そばにいる人ということです。そこで賢い人は言いました。29節、自分を正当化しようとして、と書いてあります。正当化、難しいですね。さっきの答えが100点だったし、私もそれ実行できてるって言いたかったんですね。神様を愛してるし、隣人、近くの人を愛してるって答えたかったんですね、僕できてます!って言いたかった。そこでした質問は「わたしの隣人ってだれですか?」と。さっきみなさんに挨拶のどのぐらいのしますか?とききましたよね?どこまで挨拶するのが正しいんですか?と聞くようなもんですね。この賢い人はイエス様の答えを決めつけてました。ユダヤ人が隣人ですと、予想してたんですね、それくらいの範囲、同じ民族どうしぐらいの範囲だと。その答えだったら「わたし、やってます!愛してます!」と言う気満々でした。そんなイエス様の答えを待ってたらいきなり有名なあのお話が始まったんですね。あれ?と思ったと思いますね。その賢い人。

イエス様はお話を始めました。30節、エルサレムからエリコへ下る途中とあります。30キロぐらいの道のりで岩だらけで途中に人があんまりいません。だから危険だったんですね。そこである人、おそらくユダヤ人だと思いますがが追い剥ぎという強盗にあったんですね。ひどい強盗でその人は服をぜんぶ取られてしかも殴られて倒れてしまいました。そこに祭司というユダヤ人の信じているユダヤ教の偉い人が通りかかりました、が道の反対側をとって行ったと。見て見ぬ振りですね。倒れている人に何もしませんでした。さらにレビ人というその当時神殿に勤めている、宗教的に偉い人だったんですが、この倒れている人をまた見て見ぬ振りをして通りすぎてしまいました。

そこにサマリア人が通りがかりました。サマリア人というのはユダヤ人と仲が悪かったんですね。宗教的にも違っていたし、これまでもいろんな揉め事がありました。そんな通りがかったサマリア人は何をしたか、見て見ぬ振りをせず、憐れに思って、これは倒れた人の身になって、一緒に悲しんでという意味です。一緒に悲しんでという意味です。そして手当をしてあげて、自分のロバに乗せて、宿屋に一緒に行ってそこでも手当をして、なんと一緒に一泊して、さらに次の朝にデナリオン銀貨2枚を取り出して、この人の面倒を見てあげてくださいと、この2枚であと24泊できるだけのお金だったそうです。すごいですね。このサマリア人。傷ついた人の気持ちになってできるだけのことを全部してあげたんですね。

イエス様はそこで賢い人に聞きました。司祭、レビ人、サマリア人、誰が襲われた人の隣人になったかと。賢い人は答えました。その人を助けた人。サマリア人と言いたくなかったんでしょうか。賢い人は本当は「僕はできてます!」って答えたかった。でもイエス様のお話した隣人、という言葉の広さ、深さにこの賢い人はびっくりしてしまったんですね。えー、そこまでですかと。そこまでの範囲の人を愛して、そこまで深くその人の気持ちにならなければだめなんですか?と。民族を越えて、このサマリア人ぐらい傷ついた人の気持ちになって愛することができる人がいるのか?と。私もこのサマリア人ぐらいできます!と自信を持って言える人間がいるのか?と思ってしまいますよね。

ここまでできる方、それはイエス様なんですね。イエス様はどんな人傷ついた人にも愛をくださいます。その範囲は人間の想像を超えます。となりのとなりのとなりのとなりのとなりの、そのとなりの人にまで。いやさらにとなりの人。そしてその愛の深さは、そこまでやりますかというところまで人間の想像を超える深さの愛です。全ての人の罪を背負って十字架に掛かる、自分で痛みを背負う方なんですね。

それがイエス様の考える、隣人を愛しなさいということ。さてそんなこと、私たちにできるんでしょうか?そこまで愛せるでしょうか?んーー。難しいですね。でも私たちにもできるぐらい、イエス様から愛はいただいています。十字架にかかり復活してくださって、そしてペンテコステで聖霊をいただいて、それだけのチカラをいただいています。さて、私たちにできることってなんでしょうか?神様を愛して、そして自分の周りの人をどの範囲まで愛せるのか?どこまで深く愛せるのか?挑戦してみましょう。イエス様はその挑戦を必ず応援してくださると思います。あなたの愛する人の範囲はどこまでですか?どこまで深く愛せますか?とイエス様はいつも私たちに問いかけています。それに答える努力を忘れない人生であってほしいと思います。

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