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出世のためのツールとしての勉強ではない、そんな勉強

昭和の時代に小学校に通っていた。私は勉強は必要だと教わって勉強してきた。なんとなく将来に対して、そりゃあ勉強は必要だよなぁと思いながら勉強していたと思う。

また、世の中はいわゆる高度経済成長時代で、良い学校に行き、良い会社に入れば良い人生が待っているということは、社会全体として共有されていたように思う。

ところが、教師になってこの共有されている感覚が少しずつずれてきていることを感じるようになった。

そして、いわゆる落ち着かないこども、勉強が好きではない子供と出会ったときに、これは決定的になった。勉強なんか必要ねぇという子供たちがたくさん存在したのだ。

実際のところ、勉強が必要なんだろうけども、世の中が成長の時代から停滞の時代、または成熟の時代に変わっていったことの証であったのかもしれない。

良い学校に入って良い会社に入れば良い人生が待っているということも、もはや幻想でしかないことを子供たちはわかっていた。
銀行が潰れ、証券会社が潰れ、政治家は逮捕される。勉強したって何か意味あるの?いい会社に入ったって何か意味があるの?必要なの?という考え方が出てきたのではないかと思う。

しかし、勉強は必要だ。将来生きていくためにいろんなことができるようになっていくことを知っておくことは必要だ。教師はそう思って勉強を教えていく。ところがこれが通らない。

そこで私がとった作戦が、勉強が必要だから勉強するのではなく、勉強が面白いから勉強するというものである。

教師は、勉強を教えるときに面白さとしてインタレスティングの面白さを追求しようとしがちだ。しかし、子供たちはファニーやエキサイティングの世界にいる。だから、ファニーやエキサイティングも含めた上でインタレスティングに導いていかなければならない。

この方法として手に入れたのが学習ゲームである。ゲームの中に学習すべき内容が含まれている。だから、ゲームをすればするほど学習になるというシステムだ。

これはある程度うまくいったと思う。学習ゲームを通して勉強することは楽しいというところに、とりあえずその入り口に立たせることはできたのではないかと思う。

ところが問題はここで終わらない。生成AIの登場である。

ここに来て、高度な勉強は本当に必要なくなってしまった可能性がある。もちろん、研究者としてバリバリやるためには高度なものは必要だ。しかし、本当に微分積分が必要なんだろうか。すべての高校生に必要なんだろうか。統計だって、自分でやらなくたってその概念さえわかっていれば、後は全部生成AIがやってくれる。解説までしてくれる。

確かに基礎的な勉強は必要だ。だけど、それは、多分中学校のレベルまでみっちりやればかなりいいような気がする。少なくとも今のカリキュラムのままの学校だと、もう対応できないのではないかと思う。

勉強なんか必要ないじゃん。

これをあの時の中学生以上に、多くの中学生高校生が思っているのではないだろうか、感じているのではないだろうか。
そうだとすると、なんで勉強するのか?この答えは、楽しいからする。面白いからする。興味があるからする。趣味道楽として勉強するといったところにたどり着くのではないかなと思う。

出世のためのツールとしての勉強ではない、そんな勉強がもう一度生まれるのかもしれない。そして、この勉強は、実は勉強の本質なのかもしれない。

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