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世界のリベラルの「歪んだ進歩」に待ったをかけるのが日本の役割だ。

進歩を履き違えるリベラルの暴走。しかもそれを「歪んだ」と言うほかないのは、世界のリベラルの趨勢が「無垢ないのち」を徹底的に置き去りにするからだ。「無垢ないのち」に人権・人格を認めないどころか、リベラルは「無垢ないのち」がむしり取られることに冷淡だからだ。リベラルが至高の原理とする自己決定する権利の拡張とは、「無垢ないのち」のさらなる置き去りを推進することと同義である。置き去りにされた「無垢ないのち」をむしり取る行為が、すなわち堕胎である。

堕胎というのは難しい問題だ、と多くの日本人は思うだろう。意図せぬ妊娠をした女性や家族のことを考えれば一概にやってはいけないと言うことはできないかもしれないが、とはいえせっかく授かったいのちなのだから、できればしないに越したことがない、と思うのが大方の普通の日本人の堕胎に対する見方であろうし、いや、それが正常な国民感情というものだろう。ところがこのご時世に、国民感情に左右されるのどかな社会は先進国では日本ぐらいのものかもしれない。もはや世界は「歪んだ進歩」の袋小路から抜け出せなくなっている。

たとえばニューヨーク州は昨年、妊娠全期間における堕胎を合法とした。それまでニューヨーク州では堕胎可能時期の上限が妊娠25週だったが、新法の導入により上限が撤廃され妊娠全期間の堕胎が可能になったのだ。臨月を過ぎでも親は合法的に3000gを超えた子どものいのちををむしり取ることができるというのである。これが進歩の勝利だ!とニューヨーク州知事は拳を突き上げ、自身の偉業を祝して摩天楼をピンクに灯してみせたのだ。喜びを爆発させたクオモ知事に共感できる進歩的な日本人はどれだけいるだろうか?

「クオモ知事殿。日本人はそれを進歩とは思いませんがね。むしろ堕胎可能時期の上限が妊娠20週に引き下げられたのだとしたら、そのほうが進歩的だと多くの日本人は納得したことでしょう!」

体外生存可能性という考え方がある。かつて日本では事実上の堕胎ができる時期の上限が妊娠24週だったのが、今日では21週に引き下げられている。それ以降に産まれた子どもなら医療補助によって生命を保持することが可能であるという判断によっている。この先さらなる医療技術の向上によってその上限が妊娠20週以下に引き下げられる日が来たとしたら、多くの普通の日本人はそれを進歩の勝利と讃えるだろう。 

世界のリーダーの中には、リベラルが陥った袋小路の打破を試みる「無垢ないのち」の味方もいる(それをPro-Lifeという)。しかし彼らを取り巻くリベラルの包囲網は凄まじく、理不尽極まりない壮絶な戦争が日々繰り広げられている。この状況は、のどかな日本にいるとなかなかピンと来ないかもしれない。リベラルの矛先がそこまで極端に偏ってしまった現実を知らないひとがほとんどだろう。リベラルこそ多様な価値観を認める自由な立場だといまだに思い違いしているひとも少なくないかもしれない。

自分はリベラルだが「無垢ないのち」はやっぱり守られるべきだろう、と宣うような立場を世界のリベラルは断じてゆるさない。リベラルであるならば社会的弱者である女性の性と生殖に関する権利のみを追求せねばならず、さらなる弱者であるはずの産まれる前の子どもの生きる権利など微塵も考慮してはならないのだ。ジェンダー平等を支持する者は容赦なく「無垢ないのち」を置き去りにできなければならないのである。それがリベラルの鉄則である。自分は同性愛者だが女性の生き方と同じように産まれる前の子どものいのちも大切だと思う、といった声が上がろうものなら、リベラルはただちにそれを封殺するだろう。同性愛者はもれなく堕胎推進主義者でなければならないのだ。それがリベラルの掟である。そんな馬鹿な、と思うだろう。ところがそんな馬鹿な世の中が、リベラルであることを金科玉条とした西洋近代主義の成れの果てなのだ。

もし「近代の超克」があり得るとすれば、それは「無垢ないのち」の側から展望を始める以外に道はない。もし「近代の超克」があり得るとすれば、それは先進国でありながらリベラルの歪みをどうやら免れているのみならず、「いのちは授かり物」であると受けとめる文化が奇跡的に根づいている日本から始める以外に道はない。

◎Trump for Life Unborn「私は子どもがむしり取られるのを望まない」
〜トランプ大統領がすすめる「無垢ないのち」を守るための政策について〜 
★10月末 ライブ配信予定

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