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Youth for Life 〜 「若者に、いのちを」

東京大司教への提言

 
 教会に若者がいません。滞日外国人は増え続けているので、正確には、日本の教会に日本の若者がいません。今に始まったことではないし、それはもう仕方がないことだからと多くのひとはあきらめているかもしれません。でも、若者が戻ってきてくれなくては日本の教会に未来はありません。教会が直面するいちばんの問題は高齢化ではありません。若者の教会離れです。若者を取り戻すことは、吃緊の死活問題です。人材として組織維持のために不可欠というだけでなく、若者は教会の霊的な活力源です。霊的に満たされた若者の存在は、これからも教会が生きるために不可欠です。

 昨年4月に<第15回通常シノドス「準備文書」に対する日本カトリック協議会の公式回答>が出され、その冒頭で統計資料が示されていました。出生率、16歳から29歳の若者の人口比、結婚平均年齢について国のデータが引用されていましたが、同じ項目に関して教区における信者の実態を数値として把握する必要があると思います。信者の家庭の出生率は国のデータと比べて高い数値になるのでしょうか?変わらないのでしょうか?あるいは下回る結果になるのでしょうか? 教皇庁の強いはたらきかけにより、日本の教会が「家庭」と向き合う必要に迫られている今、まずは客観的な状況認識から始める必要があると思います。あわせて16歳から29歳までの若者層がどれだけ教会に定着しているか、各教会で調査をおこなってみる必要もあると思います。月に2回以上ミサにあずかっているその年代の若者がどれだけいるでしょうか?残ってくれている若者はどんな思いで教会に来ているのでしょう?教会の若者はどこに希望を置いているのでしょう?どんな不安を抱いているでしょう?彼らの信仰はなにを拠り所にしているのでしょう?教会に残ってくれている貴重な若者の生の声を引き出すアンケート調査の実施が望まれます。

 性とカトリック。そんな刺激的なタイトルで、昨夏シグニスジャパン主催のイベントがおこなわれていました。性とカトリック。それは青年司牧にとってもっとも重要なテーマのひとつにちがいありません。“障害者と性”の問題を扱った映画の上映会にひきつづいておこなわれたというトークイベントの内容について詳細はわかりません。「いのち」と切り離されたところで性を捉えようとする世の中の価値観と“律法主義的な”教会の教えのあいだで右往左往させられている若者の様子が垣間みられるようですが、まずは「性とカトリック」というテーマで語り合う機会を若者のために設けられた関係者の勇気を称えたいと思います。これが今後は教区の取組みとして継続され発展していくことが望まれます。

 若者が教会を去る理由は、性に関する躓きがもっとも大きな理由ではないでしょうか。そして、性に関する教会の正しい教えを体現できていなかったことがその根本原因ではないでしょうか。残念ながら、「結婚」と「いのち」から切り離されたところで性を処理する世の中の風潮に、カトリックの立場から妥協しようとする傾きがあることを司教団みずから認められているようです。2014年に出された<シノドス第3回臨時総会 準備文書への日本司教団回答>(以下、<司教団回答>)から、否応無くその傾きを読み取ることができます。

 <司教団回答>は、性の問題、および結婚と家庭の問題に対して日本のカトリック教会があまりに無力で無策であったことを端的にあらわす貴重な資料です。「結婚」と「家庭」を、日本の教会が徹底的に苦手科目にしていたことがよくわかります。<司教団回答>がもしテストの答案だったなら、落第まちがいなしでしょう。信仰生活におけるもっとも大切なテーマについての普遍教会からの求めに対して、これほど残念な答案を返した司教団が他にあるでしょうか。もちろん司教様方ばかりに責任があるわけではありません。これが、わたしたち日本のカトリック信者の、もはや悲しみや呆れを通り越して開き直るしかない、おそらく半世紀にわたって積み上げてきた偽らざる現実です。

 「結婚」と「いのちの誕生」の素晴らしさを性の問題として世の中にアピールすることがカトリックの社会的使命であり青年司牧における福音宣教の意義であることを普遍教会は深く認識しているはずです。そんなことこれまで日本の教会ではまったく強調されたことがなかったというのなら、今からでも遅くありません。開き直って取組みを始めてみるべきだと思います。

 <司教団回答>の中で、第2回福音宣教推進全国会議(NICE2)の開催と『いのちへのまなざし』の出版が近年の日本の教会における「家庭」と「いのち」への取り組みの成果事例として特記されています。そこにかけられた労力と時間の大きさから考えてそれらが立派な成果物であるのは言うまでもありません。しかしながら、普遍教会が期待する「家庭」と「いのち」を励ますという意味の前向きな成果は、ほとんどそこに見出せないのではないでしょうか。むしろこの2つの取り組みが、日本の教会を「家庭」と「いのち」からさらに後退させる残念な結果を招いている気がしてなりません。NICE2が実施されたのはもう四半世紀も前のことですが、その報告書の中に記録された以下の2つの信徒からの意見が、今日の日本の教会において「家庭」がどう位置づけられているか如実に示しているのではないでしょうか。ご紹介します。

ひとつは会議の前に出された「家庭というテーマへの疑問」の中での意見;「家庭」というテーマで、夫婦や親子の問題を一般化して共通の問題として出すと、家庭生活がうまくいっている人たちが、勝ち誇ったように語るだけで終わってしまう危惧を感じる。

そして会議後の「報告」での、まさにこれに対する応答となるような意見;
司教団からのおりおりの要請にそって取り組みを進めていきましたが(…)家庭に対して「苦しみ、痛み、悲しみ」など暗い印象しか感じられない形容詞だけが使われており、曲がりなりにも家庭生活を送っている人たちにとっても、これから家庭を築いていこうという若い人たちにとっても、受け入れ難いものでした。

 喜びに満ちた家庭への招き。NICE2にはこれが決定的に欠落していたことが明らかです。幸せが奪われたうえでの「家庭」についての議論は不幸であり不毛です。成果どころか、答申も出されないまま紛糾のうちに終わったNICE2の失敗が、それ以降“トラウマ”となり、日本の教会は無意識のうちに「家庭」をアンタッチャブルな領域とみなすようになっていったのではないでしょうか。<司教団回答>から、それは容易に確認できるでしょう。

 他の宗教やNPOや様々な地域のセクターのうちで、カトリック教会ほど「家庭」に対してネガティブな共同体はないのかもしれない。そんな疑いをもってしまうこと自体、普遍教会の一信徒としてにわかに信じ難いことです。普遍教会であるはずの日本の教会は何処に行ってしまったのでしょうか?また何処へ行こうとしているのでしょうか?

 そもそもカトリック信者であることが喜びなのかどうか、カトリック信者として幸せに生きていくことができるのかどうか、若者はつねに半信半疑で手探りしている状態にあると思います。教会に軸がないからです。自信がないのです。信仰が自信を与えてくれるはずですが、その拠り所がありません。世の中に答えを見出そうとして、ますます軸がぶれる悪循環に陥ります。信者の結婚平均年齢が国のデータより高い数値になることも予想の範囲です。日本の教会では「結婚」と「いのち」に前向きに開かれた若者が存在することがほとんど不可能に近いことを、<司教団回答>から読み取ることができるでしょう。

 「結婚」と「いのちの誕生」によって育まれる「家庭」という場を前向きに捉えることができなかったこれまでの司牧のあり方を、根本から見直すべきときが来ていると強く思います。なにより若者を取り戻すためにそうしなければなりません。若者には、カトリック信者として幸せな家庭を築く権利があります。罪をおかしてはならないと義務ばかり負わされているように感じ、性や結婚に関して世の中の若者以上に戸惑いがちになる彼らは、ほんとうは誰よりも「いのちの喜び」に飢え渇いていないでしょうか。真理に出会う機会を求めていないでしょうか。教会の未来と教会の未来を担う若者のために、買い戻しができる可能性のあるうちに今すぐ行動を起こさねばならないと思います。

 カトリックは「いのち」を守る砦です。その砦の内側にいる者としての自覚が自信を回復させるでしょう。それが信者であることの喜びであり、幸せに生きる条件でしょう。カトリックが「いのち」を守れなければ、その社会は「死の文化」の淵に沈みます。日本は、聖フランシスコ・ザビエルら宣教師たちが初めて訪れた当時から「死の文化」が支配する国です。間引きや堕胎があまりにも当たり前におこなわれていることに聖ザビエルたちは衝撃をおぼえました。その意味でキリシタンになることは、「死の文化」の闇を照らす「いのちの光」となることだったでしょう。その状況は今も変わりません。むしろ悪化しているでしょう。わずか人口の0.35%にすぎないカトリック超弱小国において、ますます闇が深くなる「死の文化」の中で、信者たちは一致して一丸なって世の中の一条の光とならなければなりません。もうこれ以上「死の文化」との妥協点を探ることに労力をとられる必要はありません。もし教会の中が「死の文化」に侵されているのなら、その浄化につとめなければなりません。

 若者にその役割を期待しましょう。最初の光になってもらいましょう。若者に「いのちの文化」の担い手になってもらいましょう。小教区における「いのちの文化」の担い手となることで、“これから家庭を築いていこうという若者”は確たる希望を見出し、カトリック信者本来の自信を回復することができるでしょう。そして自信を回復した若者に引っ張られながら、活力を失い澱みのなかに喘ぐ日本の教会は浄化され、刷新されていくでしょう。「フマーネ・ヴィテ」を無視してきた先行世代は、覚醒した若者によって足下を見直すよう促され、中には信仰の新しい扉に手をかける者もあらわれるでしょう。

 教会がなおざりにしてきた若者から先に、教会が取りこぼしてきた「いのち」のほうに向かうことができるように。そう祈りながら、悩める若者に手を差し伸べる実行プランを以下に提示します。

Youth for Lifeプロジェクト

①「Youth for Life」ロゴマークの開発と使用マニュアルの作成。「若者といのち」が教区の新しいテーマになることを明確にする。

②教区人口の出生率、若者の人口比、結婚平均年齢等を把握するための信者の動態調査アンケートと若者の信仰をめぐる意識調査アンケートの実施。

③「Youth for Lifeリーダー」を各小教区から選出。アンケート結果などから主任司祭が推薦。複数でも30代も可。リーダーの条件は「YOUCAT」に親しむこと。若者への「YOUCAT」普及も前向きな課題。

④「Youth for Life宣教協力体」の結成。各小教区リーダーたちによる小教区の枠を超えたネットワークの推進。今の若者ならではのネットワーク力で宣教協力体の現状を刷新してくれることも期待。

Human Life International(HLI)リガヤ・アコスタ博士を顧問として招聘。博士による若者向けの「家庭」と「いのち」と「結婚」をめぐるシリーズ講座の実施と、博士に代わってHLIのメソッドを伝えられる司祭、信徒のインストラクターを養成。

「FIRES Encounter」プログラムの実践。<司教団回答>の中で「Marriage Encounterと Engaged Encounterは日本に導入されてしばらくは盛んであったがいつの間にか下火になっている」と他人事のように記されているが、その“復興”をはかり教区の取り組みとして推進。

Natural Family Planning〜自然受胎調節法について専門家による指導のもと、小教区でそれを教えられるインストラクター養成講座を実施。<司教団回答>の中で「ビリングス・メソドのような自然の方法の導入が試みられたがほとんど知られていない。日本の教会では性に関することはあまり話題にしない」と記されているが、ちゃんと知られるように教区がその導入を主導し、積極的に話題にする。

⑧「ワシントンD.C. March for Life参加ツアー」企画。同年代の若者が大群衆となって「いのち」のために祈り声をあげる姿に直に触れることは、どんな巡礼にもまさる霊的な刺激。小教区から推薦を受けた参加者の旅費は、小教区と教区で支援。若者には無料参加という“特典”を。

⑨「Youth for Life」のプログラムを実践しているダラス教区との交流企画(ダラスは教皇庁「信徒・家庭・いのち」の部署長官ファレル枢機卿の出身教区)。信徒家庭にホームステイしながら同プロジェクトに参加するプチ留学の機会を若者に無料で提供。

⑩『からだの神学』教本の日本語版制作。数ある「からだの神学」関連の教材から若者の入門書として適当なものを選び、日本語版を教区で自主制作。

Youth for Life宣教協力体の取り組み目標として、日本のマーチフォーライフの参加協力。ワシントンのMarch for Lifeに参加した経験を生かす機会に。

Youth for Life宣教協力体の取り組み目標として、秋の文化祭時期を目処に「いのちの文化祭(仮)」の企画立案。平和旬間に準じる規模の教区のイベントを若者主導で実施。

 以上、若者を勇気づける、無理なく実施できる具体的な取り組みをあげてみました。それは、大司教様が課題として掲げられた「10の項目」に照らせば、主に「3:継続信仰養成の整備と充実」および「9:教区全体の『愛の奉仕』の見直しと連携の強化」への回答をさせていただいたものと考えます。これが、若者ととともに日本の教会を立て直すための起死回生の生きた指針になることを確信しています。「若者に、いのちを」。新しい宣教司牧指針としてご検討いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

 さいごに、この春、麹町教会でおこなわれたリガヤ博士のセミナーに参加した教区の一人の若者(男性)から寄せられた生の声を紹介します。幼児洗礼のTさんは、昨年のマーチフォーライフにも参加してくれました。はじめて会ったそのときとはまるで別人のように彼が実に晴れ晴れとした表情をみせてくれるようになったのは、まぎれもなく「いのち」との出会いがあったからでしょう。

 私は、マーチフォーライフとの出会いが無ければ、今の<信仰>を持っていないと、ほぼ、断言できる何かがあります。
 「堕胎」という<現実>と向き合わずに、この世の実態を正しく見ることが出来ないと感じるからです。益々、綺麗なイメージで固められ、商売を始めるこの世の中にあっては特に…。

 この一年以内の幾つかの教皇フランシスコの言葉も想い出されます。

  「堕胎は、ナチスの優生思想と変わらない。しかも、白い手袋で。
  「堕胎は、殺し屋を雇うようなものである。」

 私は、「教会」には、3つのタイプがいると思っています。
 官僚、学者、そして、現場に携わる人。(勿論、綺麗に分類できる訳ではなく、皆、これらの3つの要素を持ち、只、形として、表面的にどの要素が強く映っているか否かという問題に過ぎないのかも知れないのですが…。
 Dr. Ligayaは、その意味で、素晴らしいです。この3つを兼ね備え、しかも、とても、説得力のある、「性」・「結婚」観を伝えてくれます。非常に聖霊に満たされているというのが、私の感想です。それは、彼女が、(自身の過去の)「償い」として全てをやっていると節々に仰っていることからも、納得出来ます。非常に、holisticなものの見方をされる、真の「信仰者・学者・市井の女」だと実感しています。
 いつも、旦那様と行動されています。旦那様は、ただ聴いているだけです。彼女は、自分たちの夫婦関係のトラブルや危機をも話します。しかし、それが、不穏な雰囲気を創るどころか、本当に恵みと喜びに満たされるのです。先日、来日された際に、イグナチオ教会で英語で小規模で行われた彼女のセッションでは、(前日に二コラ・バレの集まりに参加した?)若いフィリピン人の若者もたくさん集まり、多くの笑いに包まれました。何よりも、この悲惨で、どう向き合っていいか分からない(実態を知れば知るほどの)現状を前にしても、あの独特の明るさに包まれます…。
 私も、マーチやDr. Ligayaの講演などが、多分、直球の一番のこの社会の矛盾への行動だと思っています。

 若者は決して自身の内面の充足だけを求めているのではありません。真理を求めています。真理をもって矛盾した社会に挑むスリルを求めています。それがカトリックの若者本来の姿であろうと思います。提言として記したプログラムが一つでも実行されれば、Tさんのように刷新を自覚し、行動するエネルギーをともなった若者が続々とあらわれることでしょう。

 教会は若者とともに。若者は「いのち」とともに


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