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自分のために書く

私はもう1年近く「noteを投稿したい。でも書くことがない」と言っていた。けれでも、今日から1ヶ月、数行でも良いので毎日書いてみることにする。それも自分のために。

今日は、その気持ちの変化について書こうと思う。

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自分のためにnoteを投稿するという決意を、なんだそんなことか、と言う人もいるだろう。最近、世の中に「呼吸するように書く人もいる」と知り、そんな天才がいるのかとかなり驚愕したものだ。ただ、私にとっては「自分のために書く」という行為を受け入れることは、自分の価値観を変えるくらい大変な出来事だったんだと伝えたい。

というのも、私はずっと、公表するのであれば役立つ情報を書きたい、読んでもらうからにはちゃんと書かなくてはいけない。そういった見栄や、誰かの視線をずっと意識していた。

いろんな人から「もっと気軽に書いたら?」「好きなことを書けばいいんだよ」とアドバイスされたものの、日記やエッセイのようなものを書く気にはなれなかった。過去のnote2本は、ある特定の人たちに向けた個人的なもので、私としてはかなりのパワーを使ったわけだ。案の定、その後、そんなに大変なことを日々やっていく気にはなれなかった。

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そんなある日、佐渡島さん(通称サディ)のnoteを読んだ。私が大好きだった『働きマン』や『ハッピーマニア』を描いていた安野モヨコ先生の新作『鼻下長紳士回顧録』についてだった。

サディは、『鼻下長紳士回顧録』をこう記している。

この作品は、振り返りとしてではなく、進行形としての闘病記だ。この作品を描きながら、安野モヨコ自身も、救われた。もしも、このような作品を描かなければ、鬱との戦いは、もっと困難で複雑なものになっていただろう。

私は、安野先生は天才だとずっとずっと思っていた。いや、今も思っている。

「なんでこんなに心臓をえぐるような台詞が書けるのか」「なんだこの勢いがあるのに繊細できらびやかな線は」「キャラを引き立てる背景、ファッション、部屋の細部...世界観に酔ってしまいそう」

ワクワク・ドキドキとはまた違う面白さが、そこには常にあった。

だからご病気だとはずっと前に聞いていたけれど、病気のせいで描けなくなったのだから、回復すればその天賦の才能は、すぐにまた想像もできないくらい自由奔放で、少し儚げな花を咲かせると思っていたのだ。


なんてお気楽だったのか。


それくらいに『鼻下長紳士回顧録』は、安野先生の闘いや混乱、愛、そして回復に至るまでの息づかいが聞こえるような作品だった。

この世の大抵のことは そういうプレイだって思えば しのげる


読んでいて、苦しいとか、悲しいとか、そういう言葉だけでは言い表せない。鬱を経験した人や、鬱病の家族を持つ人ならば、わずかな希望に全身全霊ですがり、絶望と希望をくりかえして生きたあの日々を思い出せるのではないだろうか。

作中、コレットとカルメンは、描くことで、描かれることで救われている。救われようともがいている。でも実は、自分を見つめるとすぐに絶望してしまうから、自分と向き合うことからずっと逃げていた。

そんな彼女たちは、自分に深く入り込んだ結果、ようやく狂気の世界から抜け出せたのだ。


才能とは...何か特別なことではなく ただ...ひたすら継続して書いていくことだと 自分を掘り下げ続けても 絶望しない能力だと 気付いたのだ

そんななかでの、サカエの「才能とは」の一言…。

作者の考えが作中にすべて反映されているわけではないかもしれない。けれども、この台詞は、安野先生の声としか思えなかった。

そしてこの言葉に、私は背中を押された。鞭打たれたのだ、前へ進めと。

だから書こう、自分のために。

それが、誰かの救いになるのかは、いまの私にはわからないけれど。

でも、自信を持ってこれだけは言える。

それが私の選んだプレイだ。



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