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人の感情をエンタメ化するな。

陸上競技の100メートル走。
ウサイン・ボルトという圧倒的な強さの選手がいました。今までの最速を塗り替え、今までの最強は忘れられてしまうほどに強かった。
ジャスティン・ガトリンという選手がいます。ボルトと同時期に、またはそれよりもすこし前から100メートルで名の知れた選手でした。

大坂なおみさんの一件を知って、
彼女の今までを知っているわけでもない、全ての試合を見ているわけではない、パーソナリティを詳しく知っているわけでもない私ですが、私もまたスポーツをしていたという、ただそれだけのつながりで今考えていることを。
私は、今回の彼女の行動を記者による人の感情のエンタメ化を拒否した行動だと思っています。

ある100メートル走レースでのことです。
ガトリンはボルトをあと一歩のところまで追い上げました。しかし、叶わなかった。私は、ボルトの速さにも感動しましたが、同時にガトリンの速さにも感動し、興奮していました。
しかし、世のニュースは「2人が速かったです」なんてものを流しません。レース直後のインタビューで記者はガトリンに質問しました。世間一般的には普通の質問だったかも知れません。それでも、私は質問を聞いた瞬間、自分の血が湧くのを感じました。

彼の「悔しさ」をエンタメにするつもりだ。
そう感じました。

たった10秒間。その時間に全てをかけて挑み、終えて、きっと自分の力やライバルの速さや今までのことやこれからのことを考えているであろう選手へかける第一声がそれなのか、と。 

自分の欲しい言葉を、自分の描いた筋書き通りの言葉を選手から搾取するような記者の質問なんて聞きたくない。確かに、プロスポーツとは、スポンサーがつくとは、ある程度その選手自身の行動やパフォーマンスが求められるのだろう。それに価値がつき、お金がうまれるのだから。でもそれは、彼らの悔しさや憤りや悲しみや後悔をエンタメとして消費して楽しむためのものであってはいけない、と強く思いました。

ガトリンがなんと答えたのかは忘れてしまいましたが、それでも彼は、一人のパフォーマーとして真摯に質問に答えたと思います。
スポーツマンとしての彼らの心からの声を聞きたい。スポーツを楽しむということが、彼らの感情を売り物として、彼らの感情をエンタメとして扱うことと同義にならないでほしい。そう思っています。

大坂なおみさんの受けてきた質問がどのようなものかは知らないけれど、想像することはできます。彼女のナショナリティやセクシュアリティやパーソナルなこと、スポーツマンとしての質問だけではなかったでしょう。彼女から出る言葉を売り物としてしか扱わないような下卑た質問もあったでしょう。もちろん、そんな記者ばかりではない。スポーツ選手をリスペクトし、彼らの家族もファンも喜ぶような質問や対応をする記者だっている。それでも、あまりに彼らを商品のように彼らの感情をエンタメの材料のように軽く扱う記者が多すぎる。

人間をなんだと思っているんだ。

毎日毎日血が滲むくらいの努力してもたりないくらいのものを追い求めてみろ。
いつかくる自分の限界に来る日も来る日も怯えてみろ。
(そして自分の限界を知ったときの絶望を)
大きな怪我をしたとき、目の前が真っ暗になる感覚を味わってみろ。
努力しても努力しても敵わない相手を前に強い言葉を吐いてそれでも立ち向わなければならないときの恐怖に呑まれてみろ。

味わったことがないなら、想像してくれよ。

今回の件については、大坂なおみさん個人が思うように行動すればいいし、なにが正解なんてわからない。
ただ、人が人を物のように軽んじて、それを餌に金を稼いだり、笑ったりする構図に慣れていたくないと思います。売り物にする人がいるということは、買う相手がいるということです。自分の求めている情報は、楽しんでいる情報は、一人の人間の人生なのだ、それを心にとめて。

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