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好きなことが見つかる日を目指して。

なんだかとんでもない事実を突きつけられたような気分になった。

いや、薄々気づいてはいたが認めたくなかったことを明快に言われたことに気持ちよく胸を刺されたような感じ。

タイトルからしてついクリックしてしまう感じだが、内容にはタイトル以上のものが詰まっているからまだ読んでない人は読んで欲しい。


僕も救われた人の1人

記事の中には時代を追いながら、「好きなことを仕事に」と言う時代の流れが紹介されている。

私は一般的なサラリーマンであり、「好きなことを仕事に」している人を羨ましいと思いつつ、自分には出来ないことをしている姿はすごくカッコよく尊敬の眼差しを注ぐだけだった。

記事を書いた安達さんと同じように、あなたの好きなことしていればいい、ありのままでいいといった言葉に心を救われていた。

勇気をもらい、自分の小さなコミニティー(会社や遊び)の中で好きに、ありのままに過ごすように心がけてきたのだ。

でもそんな時代は終わりがくるらしい。


好きなことを仕事にしないと豊かになれない

見出しを書いておいてなんだが、この言葉は怖すぎる。自分の本当に好きなことも分からない私にとっては恐怖心を生む言葉以外なんにでもないなと。

「好きなことを仕事に」と言う言葉の意味が変わってきたのは、2016年頃からのよう。論調が極めて限定的に変わったみたいだ。

「好きなことを仕事には必要なこと」「これは最後通告」と著名人が声を揃えて言っているところを見ると時代の流れはそうなのだろう。

だからと言って急に変われるほど器用ではない。

さてさてどうしていこうか。


80点を目指すのを止める

私は自分が80点の努力で80点の評価をもらえる場所を好んで選んできた。

単純にズルく生きようとしていた。120点の努力なんてしたところで疲れちゃうし、リスクあるからと敬遠し、120点の人が多い場所で争うことも勝てないと遠慮。

100点の人がいない場所で80点が高得点である場所をとにかく見つけて、そこで80点を取り続けるのが私の生存戦略だったのだ。

この場所にたどり着くのは簡単では無いが、その後楽に生きるために必死にその場所を探す努力は惜しまなかったつもりだった。

努力の方向性が間違ってたと言われてもそれが生存戦略なのだったから仕方がないのだ。

ただ中途半端なことは止めないといけなくなったんだ。きっと。


自由に生きるのは難しい

記事で安達さんはこんなことを言っている。

もちろん「自由」は軋轢を生む。

とくに「自由」を使いこなせる人々と、使いこなせない人々の断絶は、絶望的なほど広がる可能性がある。

何しろ、「自由」とは「他者から嫌われることだ」と、哲学者のアルフレッド・アドラーが言ったぐらいだ。

何度も感じていたが、自由は嫌われるのだ。その自由が与えられた時、与えられない人からの嫌味は凄いものである。それは小学校や中学校だろうが、社会人だろうがレベルはほぼ同じだ。

「なんであなただけ」「協調性が無いと生きていけない」きっとみんなも1度は言われたことがあるだろう。

そして自由というのは厳しい世界なのだ。

自由というのは基本的に自分で「決断」をしていかなければならないからだ。

不自由さは引き換えにやならきゃいけないことを誰かが決めてくれる。文句を言いながらでも言われたことをやれば一定の評価はされるから心の充実感も多少はある。

自由というのは難しい。


どうしていくのがいいのだろうか

結論は全く分からない。が、歩みを止めて思考停止になるのがよくないのであろう。

私は現在たまたまブログを始めてみたり、こうしてnoteにつらつらと文章を書くようになった。

これが私にとって好きなことであるかどうかは現時点ではっきりとは答えられないが、3カ月弱続けていることを考えると嫌いではないのだろう。

なんとなく続けられていることをフックにして、自分なりに好きなことを見つけるのがいいのではないかと思い始めている。

自分が嫌いでは無く、なんとなくでも続けられていることを継続していく。

これが一旦の生存戦略になりそうだ。


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