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猫を棄てる 父について語るとき

私が、ビートルズを知ったのは、村上春樹さんの「ノルウェイの森」だった。

当時高校生だった私には、ストーリーも登場人物も、とにかく憂鬱だった印象が残っていて、いまでも読み返すには多少の心の準備が必要な本の一冊である。

あれから年月がたち、先日、久しぶりに村上春樹さんの本を買った。

「猫を棄てる 父について語るとき」という小さくて、絵がきれいな本。

 

なぜ買ったのかというと、「猫を棄てる」というタイトルが私には理解しがたかったのに、妙に引っ掛かり、そして惹かれたからである。

「捨てる」ではなく「棄てる」

この言葉が私には、よく言えば印象的、本音を言えば衝撃的だったからである。

せっかくなので、この本の感想を書いてみようと思ったのだが、この本を読んでいる最中から、私の頭の中でごそごそと動き始めたのは私の過去に対する承認欲求と、恐る恐るでも、それを誰かに言ってみたいという願望だった。

 

その1「猫を棄てる」について。

私は、子供のころ、猫を拾ってきたことがある。

そして、その拾ってきた猫を、泣きながら捨てに行ったことがある。

だが、たいていは、拾ってきた猫が、翌日学校から帰ってくると居なくなっていたことが多かったのだ。

ここで「捨てる」を使ったのは、また誰かが拾ってくれるか、自力で生きていってくれるだろうと、責任転嫁をするためだし、拾ってきた猫が翌日いなくなっていたのは、父が捨てに行ったからだということも薄々気づいていたのだ。

もちろん、母に聞いたところで、「気づいたらいなくなっていた」としらを切られ、それ以上は聞いても無駄だと、あきらめたのだが、何となく「母は、見え透いた嘘をつくのだ」という記憶はいまだに残っていて、大人になってから、何かの話の流れで3歳上の姉も同じことを感じていたことを知ったときは、驚いたものだった。

だから、本を読み始めたときには、私はなぜ、父親が少年をつれて猫を棄てに行ったのかが、なんとなく解せなかったのである。

だが、父親の単なる「お寺育ち」だけでは説明できないほどの信心深さ、過酷な戦争体験、これらに触れるにつれ、決して父親が、無責任に息子の鈍感さや無知さを信じていたわけでも、息子に見えない罪悪感をなすりつけるためでもなく、ただ家に猫を連れて帰る理由をつくるためだったのではないかと確信したのだ。

命の重み、そして、命に対する罪悪感。それを抱えながら生きるしんどさ。

父親は誰よりも知っていたはずだ。

それにきっと、本気で棄てるつもりなら、私の父のように一人で棄てに行っていただろう。

だから、棄てたはずの猫が帰ってきたとき、父親は誰よりも安堵し、一度は棄てようとした罪悪感を抱えながら可愛がり続けたに違いないと、私は思ったのである。

その2「戦争について」

第二次世界大戦では、日本人は、市民も含めて約310万人もの方が亡くなっている。

世界全体だと、900万人以上にのぼる。

数字だけを聞いても、歴史の教科書をよんでもピンとこない、戦後生まれの私たちは、戦争の恐ろしさを身をもって知らないのだ。

戦争がはじまり、戦争に行く。そして、戦争が終わる。

その間に、どれほどの葛藤や悲しみ、苦しみがあり、どんな思いで命を絶たれ、どんな思いで生き続けなければならないのか。

とはいえ、少年のように、父親から実体験の話を聞き、想像力を働かせてみても、すべてを知ることも、すべてを感じることもできない。

なぜなら、ずっと抱えてきた辛い体験を、そっくりそのまま引き渡すことの重大さをきっと、父親は誰よりも知っていたと思うからだ。

それでも、少年に話した父親には、戦争を生き延びた者として、様々な人の思いを語り継がねばという責任感に似た強い思いがあったのだろう。

そして、その思いを受け継ぎ、次世代に残すことを決めた大人になった少年。

きっとその思いは、すべての戦争体験者の、その時に生きていたすべての人達の気持ちを吸い込み、さらにその思いを読んだ人たちの思いを巻き込み、どんどん大きくなっていくに違いない。

「最後に」

私は、高い松の木に登って下りられなくなった子猫は、きっと、父親がはしごを使っておろしてあげていたのではないかと想像をする。

と、同時に、子猫の感じていたであろう恐怖に、私も恐怖してみる。

私なら、どちらを選んだだろうか?

分からない。

でも、少年の父親にだったら、鳴いて助けを求めていたかもしれない。

猫はきっと、優しい人は本能的にわかると思うから。

棄てたはずの猫が帰ってきた理由も、きっとそうだと私は信じている。

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