平野国臣、大名行列を止める


文久2年(1862)島津久光が兵を連れ京都へ向かうという噂が流れると、西日本各地から尊皇の志士達がぞくぞくと京都へ集まってきました。

久光上洛の下準備のため、奄美から戻された西郷隆盛と平野国臣は下関の白石正一郎の屋敷で再会します。

さて、この時のそれぞれの思惑ですが。

薩摩の島津久光は倒幕の意志はありませんでした。彼は幕府と朝廷を連携させ、外様大名を含めた雄藩の代表で議会を作るという構想を持っていました。

一方、あくまで倒幕により権力を朝廷に戻そうとする尊皇派の志士達は、公家達と共に朝廷から島津久光に倒幕の勅諚(天皇からの直接命令)を降ろそうと画策していました。

勅諚が降りさえすれば、島津久光が公武合体を考えていようと逆らえないだろうと思っていたのです。

この時の平野国臣、個人の思いはどうだったのかというと。

平野国臣は薩摩入りした時、自ら書いた建白書を大久保に渡しています。

その後、島津久光の上洛が決定。真木和泉と大久保を合わせています。

三名がどのような会話をしたかはわかりませんが、真木和泉が脱藩してまで上京したのを考えると、何かしら手ごたえのある回答をもらったのでしょう。

平野国臣と真木和泉は、島津久光が倒幕の兵を挙げるのだと思いこんでいたと思います。

3月25日、黒田藩藩主、黒田長溥が福岡を出たとの情報を平野は耳にします。

黒田長溥は島津久光を諫めるために出立したのだという噂が流れます。

福岡黒田藩第11代藩主、黒田長溥は島津重豪の11男として生まれており、島津斉彬とは兄弟のように育っています。島津斉彬の藩主相続を幕府に働きかけたのも彼でした。

島津久光にとっても大叔父にあたります。

黒田長溥は蘭癖大名と呼ばれるほど蘭学(西洋学)に熱中しており、島津斉彬と同じく積極的な開国派でした。

ですから彼は、大甥にあたる島津久光が尊皇攘夷を決行してはいけないと思い、彼の後を追ったのではと思われたのです。

平野国臣は薩摩藩士の伊牟田尚平を連れ、備中の大蔵谷(現明石市付近)で薩摩からの使者だと偽って大名行列へ乗り込みます。

そして

「尊皇の志をもった多くの浪士達が、すでに京都へ集結しています。今、長溥様が止める為に向かえば、御命の危険もございます!」

と訴えます。

藩主は平野の言を聞くと、病と偽って大名行列を引き返させます。

この出来事は、大蔵谷回駕と呼ばれ、足軽であった平野国臣が52万国の大名行列を引き返させた痛快事として、筑前の武士の間で語り継がれていきます。

黒田長溥は引き返すさい、大名行列に平野国臣を加え(そうすることで、尊皇派浪士の襲撃を防ごうとした?)帰国すると、改めて脱藩の罪で平野を捕らえ牢へ送りました。(伊牟田尚平も捕らえられ、後に喜界島へ流されています)

平野が捕らわれている間にも、真木和泉を始めとした尊皇の志士達は京都に集結、今か今かと挙兵のタイミングを計っていました。

そして、京都に島津久光が入ります。しかし、彼に出された勅は「倒幕」ではなく「浪士鎮撫」でした。


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