広瀬淡窓は若い頃、引きこもりのニートだった。
江戸時代後期、日本で最大の私塾であった「咸宜園」を経営し、日本の近代教育に大きな影響を与えた広瀬淡窓。彼は20代前半、引きこもりのニートでした。
咸宜園の咸宜とは「みな宜し」という意味で、そこでは個性重視の教育が行われていました。
咸宜園には九州だけでなく、全国から塾生がやってきました。学んだ生徒は四千人を超え、様々な才能が旅だっていきました。
教育者として、聖人君子のように扱われることもある広瀬淡窓ですが、彼の本当の魅力は以前も書きましたが、そのダメっぷりです。
大阪や江戸へ行って学問で身を立てたい、有名になりたいと願っていた淡窓ですが、病で長旅ができないため断念します。
23歳まで働くこともなく、家でただ引きこもっていました。(実家は超金持ちなので働かなくてもよかった)
学問の道が絶たれたから医者にでもなろうか、実家の商家を継ごうか、でも夢は諦められないしと家で悶々としていました。
淡窓は、そんなグダグダとした長い言い訳を手紙に書いて命の恩人であった倉重湊という医者に送ります。
ところが、いつまでたっても返事が返ってきません。
しびれを切らした淡窓が倉重湊を訪ねると、彼は淡窓の目の前でその手紙を破り捨て、一喝します。
「くだらねえことをグタグタ書いてんじゃねえ! こういうのを駄文って言うんだよ! 今さら医者だ? 商人だ? 学問以外てめえに何ができるんだよ!」
と、こんな感じです。倉重湊という男は、医者としての腕は良いのですが、隻眼で昼間っから酒を飲んでいるような風体の悪い男でした。
倉重の言葉にも淡窓は理屈っぽく言い訳かまします。この頃の淡窓は理屈っぽい金持ちのボンボンです。
「学問で身を立てる難しさは、わかっているでしょう。私は病のため、大阪へも江戸にもいけないのです」
それに対して倉重はこう答えました。
「それなら、この日田でやればよかろう」
しかし、淡窓は「このような田舎で、学問で身を立てることなどできません」と自分の故郷をディスります。
大阪や江戸であればまだしも、こんな田舎で学問で身を立てるなどできるはずがないと思っていたのです。
倉重が
「なんば言いよるか。日田は九州の中心ぞ!」
と言っても
「ですが、これまで日田から高名な学者は一人として出ていません」
と過去の事例を引き出して言い訳します。
「それなら、お前が最初の一人になればよかろうもん」
倉重がそう諭しても
「しかし、ここでは学問で生活はできません」
見事に理屈っぽい言い訳ぶりです。
倉重は、そんな淡窓の態度にキレます。
「生活に困れば、潔く飢えて死ね!」
ここまで言われて、淡窓は覚悟を決めるのです。
言い訳してないで死ぬ気でやってみろと淡窓を突き放した倉重ですが、淡窓が塾の経営に乗り出すと、真っ先に自分の子どもを入塾させるなど援助を惜しみませんでした。(結構ツンデレ?)
淡窓の塾経営は最初から上手くいったわけではありません。何度も失敗しながら、それでも諦めずに続けることで、咸宜園は日本最大の私塾となったのです。
咸宜園時代の淡窓に関しては葉室麟さんの「霖雨」という小説に書かれています。
とても良い小説なので、ぜひ読んで欲しいと思います。
葉室さんの小説の題名である「霖雨」ですが、長く続く雨という意味で、淡窓の漢詩の中に出てきます。おそらく葉室さんもこの漢詩から題名を取ったのだと思います。
終わりに、その詩を紹介します。
半世(はんせい)の行蔵(こうぞう) 何れの処にか尋ねん
自分の生き方を どこに尋ねればよいのか?
独り周易の宵(よる)の深さに繙(ひもとく)く
夜更けまで本を読みながら、考える
豈(あ)に朔雁(さくがん)の陽(ひ)に随うの意無からんや
鳥が暖かな陽を求めて南にはばたくように、飛びたちたいのに
尚(な)お呉牛(ごぎゅう)の月に喘ぐの心を抱く
私の心は病を恐れ、月に喘ぐ牛のようだ
疎柳(そりゅう) 残楓(ざんぷう) 秋は暮れんと欲し
柳は枯れ、紅葉は落ち、秋も暮れる頃
関門(かんもん) 窮港(きゅうこう) 雨は霖と成る
誰もいなくなり、雨は降り続いてやまない
思うに堪えんや 往歳 天涯の客
思い出す、遠い地で独り過ごしていた頃を
病に臥して西風に空しく越吟(えつぎん)するを
病にかかり、故郷を思い歌ったことを
この詩は淡窓が日田の地で生きていくことを決めた時に詠ったものだと思います。
日田の地を離れ筑前に遊学していた頃、病に罹り臥せっていた時、自然と口に出たのは故郷を思う歌でした。
そのことを思い出した淡窓は、日田の地で生きることを決めたのだと思います。
次回はシンガーソングライターであった広瀬淡窓の一面を書いていきます。
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