孫文、挙兵を目論む~辛亥革命への道③
興中会という革命組織を作り上げた孫文は、広東を中心に同志を募った。
孫文は名医として有名だったので、役人でも病気になると必ず彼を呼んだ。
そこで、往診しながら革命の必要を説いていた。
最初は革命狂だのと相手にされなかったが、次第に共感してくれる人が増えてくる。
しかし、孫文には一つ悩みがあった。
同士の多くは銃を握ったことのない者だった。
そこで、武力革命を目論んでいる三合会という組織と手を結びたいと思っていたが、その人脈がなかった。
そんな時だ。香港の大学時代から孫文を慕ってついてきていた鄭弼臣という男がいた。
彼は孫文が革命の話をする時、いつも黙ってニコニコと聞いているが自分から発言することはなかった。
そんな彼が
「革命の同士も増えて、軍の中にも手が廻っている。そろそろ行動に起こそうじゃないか」
と言った。
それに対して孫文は
「まだ足りない。革命は書生だけではできない。革命の先鋒となり戦う者がいる。そうしないと立ち上がりで失敗する。どうにかして三合会と通じないと」
すると、鄭弼臣はこう言った。
「それなら問題ない。実は私が三合会の頭目なのだ」
鄭は香港の医学校では授業にも試験にも出ない落ちこぼれだった。
実は自分達には知識も学もない。このままでは革命は上手くいかないからリーダーを探すために大学に通っていたのだった。
その事実を知った孫文は手を叩いて喜ぶと、さっそく革命の実行準備に取りかかった。
孫文は広東という一地方だけでなく、全国一斉の革命運動を目指していたので、北京の革命派と連絡を取るため上海へ向かい、そこから北京に入った。
北京に入ると、ちょうど日清戦争が始まるとこだった。
孫文はこの機会を逃すまいと、ハワイへ行くと兄の孫眉を説得した。
兄も孫文の革命の大義に納得すると、仲間の商人達も説得して軍用金を調達してくれた。
同士も軍用金も揃った。
後は日清戦争に乗じて、武装蜂起するだけだ。
しかし、武器の調達に手間取っている間に、日清戦争は日本の勝利で終わってしまった。
絶好の機会を孫文は逃してしまう。
※
日清戦争が終わると中国人留学生が日本に大挙して押し寄せたという。
戦争に負けたのに、なぜかと不思議に思うかもしれないが、清という王朝は女真族(満州族)が建てた国であり、中国にいた大多数の漢民族はその支配から抜け出そうとしていたのだ。
孫文の革命組織もスローガンの一つに「満州撲滅」とあげている。
日本の勝利は中国人にとっても驚きで、アジアで最初に近代化に成功した日本に政治や軍事技術を学ぼうと留学したのだ。
そんな中国人留学生を積極的に受け入れたのは、柔道家の嘉納治五郎が設立した弘文館だった。
中国の若者の多くは、日本で革命思想に触れたのだった。
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