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平野国臣と恋の歌

一日(ひとひ)だに 妹を恋ふれば 千歳川 つひの逢瀬を 待つぞ久しき

妹と我 ふかき契りは 千歳川 かはる淵瀬に ならはさらなん

これは筑前の維新志士、平野国臣が真木和泉の愛娘である、お棹を思い詠んだ歌と言われています。

妹とはお棹のことを指し、千歳川とは久留米水天宮の横を流れる筑後川の古名です。

平野国臣の歌は古い大和言葉や古語が使われているのと、個人に宛てた歌が多く上手く訳すのが難しいのですが、なんとなくニュアンスはわかってもらえるかなと思います。

二人の出会いは文久元年(1860)の10月、真木和泉が謹慎していた水田村(現在の水田天満宮)に平野国臣が訪ねてきた時でした。

当時、平野は33歳、お棹は20歳、互いにバツイチ同士でした。

平野国臣は真木和泉と共に、幕府を倒すための策を練っていました。

ここには倒幕計画がばれて幕府から追われる身となっていた清河八郎(新選組の母体となった浪士組結成を企画した人物)も足を運んでいました。

そんな中で、二人は恋仲になるのです。

一所懸命な男に惹かれてしまうのは、いつの時代も同じなのでしょう。

彼らは薩摩の軍事力を利用し幕府を倒すことを画策します。実際、平野もそれらの策を「回天菅見策」としてまとめ、それを渡すため薩摩へ入っています。

さらに、文久2年1月には京都から帰る途中の大久保利通を羽犬塚にて真木和泉と会合させています。

そして、島津久光の上洛が3月に決定、西郷隆盛も奄美から戻され上洛の為の準備を命じられます。

平野国臣、真木和泉、清河八郎、その他多くの志士達は、島津久光が倒幕の為に上洛するのだと思います。(ここでは様々な人物の思惑が絡みあいます。そしてこれらの誤解が悲劇をもたらすことになります)

平野国臣は、自らも京に登りと共に倒幕の兵を挙げようと目論見ます。

真木和泉も脱藩を決意します。

旅立つ平野に対して、お棹は歌を詠んでいます。

「梓弓 春は来にけり ますらをの 花のさかりと 世はなりにけり」

この歌に対して、平野は返歌を二つ返しています。

「ますらをの 花咲く世と 成りぬれば この春ばかり 楽しきはなし」

「数ならぬ 深山桜も 九重の 花のさかりに 咲は後れじ」

 お棹は平野の計画の成功を祈り、ますらを(ここでは平野達)の花のさかり(活躍する)世ななりにけり(時代になるでしょう)と歌っています。

平野はそれを受け

「そうなったら、この春ほど楽しいことはないでしょう」

「数も少ない地方武士である私ですが、九重(古語で宮中や皇居を表す)の花のさかり(宮中に倒幕の兵達が集うこと)咲は後れじ(遅れないようにします)」

と返事をして、京都へ向かうのでした。


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