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日田の神童、広瀬淡窓


広瀬淡窓(たんそう)と言えば、大分の日田で日本最大の私塾である咸宜園(かんぎえん)を経営し、日本の近代教育に大きな影響を与えた人です。

これは明治政府になった時、学校の制度を定めた長三州が咸宜園出身であり、そこの教育システムをもとに明治の学制を定めたと言われているからです。

広瀬淡窓は寅之助と呼ばれていた幼少期に、亀井南冥の教えを受けるべく甘棠館の門を叩きます。

ところが亀井南冥はすでに謹慎の命を受けていました。

しかも甘棠館は藩校なので日田の彼は入ることができませんでした。

途方にくれた淡窓でしたが、亀井南冥の助言で知人の養子になることで、入塾を認められます。(けっこういいかげんだったんですかね)

こうして16歳から約3年間を筑前で過ごします。

ところが、広瀬淡窓は生まれつき身体が弱く、病を患うことが多々ありました。

そこで学業半ばで実家の日田に戻り、叔父のもとで療養生活に入ることになります。

淡窓は福岡から帰るさいに一冊の本を買い求めました。

それが和語陰隲録(わごいんしつろく)といって、淡窓の人生を変えるきっかけとなります。

この本には「善い行いを積み重ねれば、余命を伸ばすことができる」と書かれていました。

淡窓はこう詠っています。

人生の夭寿(ようじゅ)定まるは何に因ってぞ

須(すべか)らく識(し)るべし皇天善人に祚(さいわい)するを

案上一編の陰隲録(いんしつろく)

年命を祈って千春を保たんことを願う。


人の命の数は何によって決まるのか

善い行いをすれば、幸せが訪れるという

机の上には一冊の本(和語陰隲録のこと)

千の春を迎えられますようにと病の回復を願う。

こうして淡窓は、自らの寿命を延ばそうと、善い行いをするように努めるのです。

広瀬淡窓の有名なエピソードの1つに「万善簿」というものがあります。

善い行いとしたと思ったら〇をつける。善くないことをしたと思ったら●を書く。〇から●をひいた数が一万になるまで続けたという話です。

これを54歳から初めて67歳で達成しています。

善い行いを継続して行った凄いエピソードとして扱われますが、自分の見解は少し違います。

19才の頃に、自分の寿命を延ばそうと思って自分本位で始めた「善いことをしよう!」という決意を、54歳になってやっと記録しようと思い立ち、67歳まで続けたのです。

若い頃は思い立っても中々継続できないものです。年を取ると一年が短く感じられるのコツをおぼえるので継続しやすくなります。

広瀬淡窓はたくさんの日記を残していますが、そこに書かれているのは多くの人と同じように悩み、苦悩し、後悔しながら、それでも一歩ずつ地道に前に進んでいく姿です。

偉人とか天才だからという言葉で、人を簡単に神格化しまうことは、その人の努力や頑張りを無視してるようで、あまり好みません。

広瀬淡窓という人は、とても泥くさい人生を歩んでいます。だからこそ、そこに共感できるのです。

広瀬淡窓の話は、もう少し続きます。次回は、彼と猫のことを書いていきます。


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