見出し画像

【金曜:本の話⑧】感想~切りとれ、あの祈る手を(2)

こんにちは、アスカです。
梅雨らしい、じめじめとした日が続きますね。
週末はまた大雨になるところもあるとか。被害が出ないことを祈ります。

さて、本日は何と前回が約一か月前になってしまった本「切りとれ、あの祈る手を」の感想の続きです。

本、著者については前回の記事をご覧ください↓

全部で五章あるのにこんなことしてたら、三か月の間に一冊の話しか書けない…なんて無能な…

と言っていても仕方がないので、本編へ参ります。

<本なんて読めるわけがない>

第一夜「文学の勝利」において、私が大きく影響を受けた一文がもう一つある。
「本なんて読めるわけがない」。

筆者は以下のようなことを言う。

本を読むということは、そこに書かれてある作者の世界観と自分の無意識を接続することである。
つまりは他人の頭の中を覗いて追体験するだけでなく、それを自分のものとしてそっくり受け入れてしまうことである。
そんなことが本当にできたら狂ってしまう、だから本なんて本当は読めるわけがない。

往々にして、読書数を誇っている人は、その実同じ内容の本を何度も読まされているに過ぎない。
本の内容を「情報」として繰り返し摂取して、安心しているに過ぎない。

しかし本を情報として読むのは、狂わないための脳の防御なのだと。

<”創り手”としての”解釈”>

この「読めるわけがない」について、
創り手の端くれである私としての受け止めは、
「こちらが面で提示しても、受け手には点でしか伝わらない」である。

創る方の中では一つにつながっているものも、受け手には印象的な場面しか訴えかけないということは往々にしてあるかと思う。

私がこれに気づいたのは、
「受け手としての自分」でいた時、舞台鑑賞をした時のことだった。

創る方が点で創っていては作品が成立しない。少なくとも"長編"の体は成さないと思う。
創り手としては、すべての場面に己の持っている物を込める。
それがコミカルな場面であれ、作品の最も大きなメッセージを表現する場面であれ、
「遊び」はあれど「手抜き」をしていることはない…のではないかと思う。

そうすべての場面に心を載せ、「面」として提示しているつもりでも、受け手はそのすべてをそのまま受け取ることはない。
「あの場面がよかった」くらいならまだしも、創り手の意図に反した解釈をされることもあったりする。
それは誰かの責任になるのだろうか。
創り手も受け手も、自分のそれまでの人生や世界観でその作品と対峙する。
だから、生まれる解釈は違って当然なのである。

これこそが、「本なんて読めるわけがない」ということなのではないか。

私は、心打たれる舞台を観た時こそ、
「役者や演出家が込めたものをどの程度受け取れているのだろうか?」と思ってしまう。

筆者の言う「何が書いてあるか読めたら狂ってしまう」とは、こういうことなのかもしれないと思ったのである。

<書くのと読むのはセットで どっちも怖い>

私は実在の出来事を「消費」することを憎んでいる。
どこかの悲劇をお涙ちょうだいものに脚色して流すようなメディアは大嫌いだし、
それで感動したとか泣いたなどと言って次の日には忘れているような人間も嫌いだ。

しかし、これも情報として処理する(消費する)ことで狂わないようにする防御反応なのかもしれない、と思った。
人間としてはそれが正常なのかもしれないと思うと、やはり創り手の端くれとしては虚しさを覚えるところもある。

私は自分を伝えたくて書いているわけでも、認められたくて書いているというのでもないが、
書く以上はテーマがあり、それを自分の考えた通りに書き表していると思っている。
それがおかしな解釈をされて、万一勝手に大きな話になっていくとなると恐ろしい。

文章とは情報を共有するためのもの、というのが一般の認識ではないだろうか。
だが、実際のところは、
個々の人生や世界観を通して、文章の意味はいかようにも変容する。
ちょうど、法律の解釈が一つではないのと同じように。
私のこの理解が、筆者の意に沿っているものなのかもわからないのと同じように。

私はどうしても、読み手よりも書き手の側に立ってしまいがちなのだが、
読むことと同様に、書くというのも恐ろしい行動なのだなと改めて思った。
とはいえ、書くことの源流には読むことがあるから、
やはり最も恐ろしいのは読むことなのかもしれない。

次回、第二夜「ルター、文学者ゆえに革命家」の感想に続く。

最後までお読みいただきありがとうございました。

3か月連続投稿チャレンジ中です↓

2023年6月30日
アスカ
#asuka_62
#毎週金曜は本の話

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?